2018年11月25日日曜日

イエスの弟子になる

収穫感謝日礼拝

マタイによる福音書19章16~30節

関口 康

「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った。」

先週の説教でかなり強い調子で申し上げたのは、もし今、洗礼を受けることを考えているという方がおられるなら、ぜひ受けていただきたい、ということでした。

実を言いますと、私はこれまで働かせていただいた教会では、そういうことについて強く言うのは意識的に避けてきたところがあります。洗礼というのは自分の意志で受けるものであって、だれかに勧められて受けるものではないという思いのほうが強かったからです。

牧師になってほしいということも、私はいまだかつて誰にも言ったことがありません。この話は以前、教会学校でしたことがあります。もっとも、うちの息子にはちょっとだけ言ったことがありますが、無視されました。私もあまり本気ではありませんでした。

なぜ言わないのかといえば、やはり理由は同じです。牧師になるかどうかは自分の意志で決めることであって、だれかに勧められてなるものではないという思いのほうが強かったからです。

もうひとつ理由があります。これも以前、教会学校でお話ししました。いま申し上げたことと関係していることですが、だれかに勧められて牧師になった人はいつまでも勧められた人に依存し続ける傾向があることを私の経験で知っているからです。「あの先生に、あの人に、勧められたから、しました、なりました」と、いつまでも言い続けるのです。まるでその人に責任があるかのように。

しかし、今の私はこれまでとは違うところが出てきました。責任逃れの言葉のように響いてしまうかもしれませんが、今の私は主任牧師ではありません。主任牧師をお助けする立場です。おそらくはそれが理由です。今は躊躇なく「洗礼を受けてください」「牧師になってください」とお勧めしたい気持ちです。

だれかれ構わずというわけではありません。そして、もちろん、よくよく考えてもらいたいです。しかし、あまり考えすぎないでください。洗礼を受けることについて、受けない理由を言い出せば、きりがないからです。

そちらの理由ならいくらでも思いつくでしょう。特にこの日本で、現代社会で、洗礼を受けていない人のほうが受けている人よりはるかに多い環境で、受けていない側に立って受けない理由を考えれば、いくらでも味方になってくれる人が出てきます。

洗礼式で用いる水そのものに特殊な効果があるわけではありません。水は水です。魔法の水ではありません。普通の水です。その水をかけると特殊な力が湧いて来るということはありません。そこのところは期待しないでください。

しかし何も変わらないわけではありません。洗礼は一生に一回限りであるところがポイントです。二度と繰り返すことができません。「あれはなかったことにしてくれ」とは言えません。

また、先週申し上げたことですが、必ずしも本人の意志でない、親の信仰に基づいて嬰児のうちに授けられた洗礼を「幼児洗礼」と言いますが、その幼児洗礼も洗礼です。偽の洗礼であるとか、仮の洗礼であるとか、半分の洗礼であるとか、そういうことは一切ありません。だから、幼児洗礼をすでに授けられている方は、二度と洗礼を受ける必要はないし、受けることができません。

自分の意志でないことの責任はとれないと思われる方がきっとおられるでしょう。そうなのです。語弊を恐れず言えば、自分に授けられた洗礼について、自分で責任を感じる必要はないのです。

それは、幼児洗礼ではない、大人になってから自分の意志で受けた洗礼も同じです。「自分で願い出て授けてもらった洗礼だから、それを自分で反故にするのは無責任に当たる」というような感覚を持つ必要はありません。

もしそうであるなら義務や責任というような次元でつながっている関係になります。しかし、洗礼を受けることの意味は、そういうものではありません。わたしたちが自由になることです。あらゆる束縛から解放されることです。しかし、ここから先はどう言えばよいか分かりません。実際に洗礼を受けてみなければ分からない次元のことです。

私が2年前に1年間常勤講師として聖書を教えた高校で生徒たちに、年度の最初にアンケートをとりました。「教会や宗教や聖書に対して今抱いているイメージを教えてください」というアンケートです。多くの高校生が「束縛されるイメージ」や「強制されるイメージ」を抱いていました。

そして年度の授業が終わるころに、もう一度同じアンケートをとりました。すると、みんながみんなではありませんが、多くの生徒が「イメージが変わった」と答えてくれました。「自由になった」と答えてくれました。

学校は教会ではありません。しかし、学校でもそういう変化が起こります。教会はもっとそうだと申し上げたいです。

しかし、私はまだ最も大事なことを言っていません。洗礼を受けることは束縛されることではないと言いました。義務や責任というような次元で事柄をとらえる必要はないと言いました。しかし問題は、なぜそのように言えるのかです。

これは私なりの考えであることをあらかじめお断りしておきます。それは、もしわたしたちに義務や責任という次元で真剣に考えなければならないことがあるとすれば、それは、わたしたち自身の人生そのものに対してであり、またわたしたちの家族や友人、社会や世界の人々に対してであるということです。

そちらのほうには義務と責任があります。逃げることは許されません。しかし、それはしばしば、わたしたちにとってあまりにも重すぎるものです。逃げられるものなら逃げたくなるようなことです。だからこそ助けが必要です。自分ひとりではとても負いきれないからこそ助けが必要です。その助けになるのが教会だと申し上げたいのです。

洗礼を受けることは教会のメンバーに加わることです。教会というのはある意味で自助グループというのに近いところがあります。厳しい現実から逃げ出すために集まるのではなく、むしろ、厳しい現実の中にとどまり、勇気をもって不条理に立ち向かうために集まるのです。

今日開いていただいた聖書の箇所で、イエスさまが、金持ちの青年に対しても、弟子たちに対しても、非常に厳しいことをおっしゃっています。

金持ちの青年に対しては「もし完全になりたいのなら行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(21節)とおっしゃっています。弟子たちに対しては「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(29節)とおっしゃっています。

これを聞いた金持ちの青年も弟子たちも、驚くやら悲しいやら、激しくショックを受けています。それはそうだと思います。自分がいちばん大切なものだと思ってきたものを「売れ」とか「捨てろ」と言われ、まるでそれがイエスさまの弟子になれる条件であると言われたような気がしたからです。

こういうことを言うこと自体が不謹慎に当たるかもしれませんが、イエスさまもまさか冗談でこのようなことをおっしゃっているわけではありません。本気の本気です。しかしわたしたちが理解しておくべきことは、イエスさまがこれで本当のところ何をおっしゃろうとしているのかです。

それが分かるのが、弟子のひとりのペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(27節)とイエスさまに言っているところです。あるいはその前に、金持ちの青年が、イエスさまのお話の途中で「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(20節)と言っているところです。

共通しているのは、わたしはしている、できている、十分がんばっている、まだ足りないと言われなければならないのか、文句あるのかと気色ばんでいるところです。そして、そう言っている言葉の端に、していない人々、できていない人々、足りていない人々を見下げて軽蔑する思いを隠せないでいることです。

イエスさまは、その厳しいお言葉によって、そのことに自分たち自身で気づくように仕向けられたのではないでしょうか。自分の傲慢に自分で気づき、自分の視野に入っていない人々の存在に気づくように。

もし金持ちの人が財産のすべてを売り払えば、その人自身が貧しい人になります。もし家族を捨てれば、身内からも社会からも非難されます。社会的信頼を完全に失ってしまうでしょう。

自分自身が実際にそうなったときのことを考えてみなさい。その苦しさを。その痛みを。そのとき、あなたは今の自分がいかに幸せな暮らしをし、かついかに傲慢な思いを抱いているかに気づくでしょうと、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。

イエスさまがおっしゃるとおりに実際にやってみるべきかどうかは、私には分かりません。すべての財産を売り払うとか、家族を捨てるというようなことは、試しにやってみればいいと言えるような次元のことではありません。

また、もし仮に実際にそれを試しにやってみたところで、この金持ちの青年や弟子たちがイエスさまに言ったのと同じような傲慢なことを言い出すだけでしょうし、イエスさまから同じように注意されるのが関の山です。

聖書を学ぶことの意味は、自分がそれをしてみる前に、もしそれをしたらどうなるか、そのシミュレーションができることにあります。小説を読むことにある意味で似ています。実際にそんなことはしないけれども殺人犯の気持ちになってみるためにそういう小説を読んでみるというようなことはありえます。

イエスさまの言葉を聴いて自分に当てはめて喜んだり悲しんだりすることが大切です。とても受け入れられないと反発することも許されます。それがイエスさまの弟子になることです。イエスさまと共に生き、対話しながら生きることです。

それが束縛であるはずがありません。自由な生き方です。イエスさまは「あなたがたを弟子とは呼ばない。友と呼ぶ」(ヨハネ15章15節)とおっしゃる方でもあります。

ぜひ決心してください。

(2018年11月25日)

2018年10月28日日曜日

栄光は主にあれ(永眠者記念礼拝)


マタイによる福音書18章21~35節

関口 康

「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」

わたしたちは今日、この教会の永眠会員をおぼえての永眠者記念礼拝をささげています。しかし、狭く考える必要はありません。それぞれの方々のかけがえのないすべての方々をおぼえていただく日でもあります。

私事で恐縮ですが、この教会での永眠者記念礼拝は、私にとって今日が初めてです。私が今この場に立っていること自体がふさわしくないのではないかという気持ちがあります。なぜなら私は、こののち読み上げさせていただく永眠者名簿の方々をひとりも存じ上げないからです。私に何を語ることができるでしょうか。一般的な話をすることにとどめるしかありません。

この教会はプロテスタントの教会です。旧教か新教かという言い方でいえば、新教の教会です。だからといって私はキリスト教の教会を分断したいわけではありません。新教の教会と旧教の教会を区別すること自体は、大雑把なことです。区別したからといって、一方が他方を必ず批判しなければならないわけでもありません。

今なぜこのことを言うのかといえば、さかのぼっていえば葬式と、その後の永眠者記念礼拝についてのわたしたちの教会の立場を申し上げたいからです。それは、今日のこの日の礼拝は何のために、あるいはだれのために行うのかという問いの答えです。

それははっきりしています。新教の教会の葬式も、そして永眠者記念礼拝も、地上に残された人々の慰めと平安を祈るために行います。天に召された永眠者自身のためではありませんと、はっきり言いすぎるとぎょっとされるかもしれません。しかし、この点がとても大切です。

旧教の教会はそうではないと今でも言えるかどうかは、本当のところは内部の人々にしか分かりませんし、外部の者が言う必要がないことです。しかし、この問題こそが新教の教会と旧教の教会が分断されることになった原因そのものです。もう500年も前のことです。

細かい話になっていくのは避けたいと願うばかりですが、ごく大雑把な話として、天に召された方々は地上の世界から天の父なる神のみもとへとまさに召されるのであって、その途中は「ない」というのが、わたしたち新教の教会の共通理解です。しかし、その途中が「ある」と500年前の旧教の教会で教えられていたことで、その点が問題になりました。

途中とは何のことかというと、地上から天国へと向かう道の途中です。「道の駅」のようなものがあるということです。もっとシビアなたとえを持ち出すとすれば、何か悪いことをして警察に逮捕される。しばらく警察の留置所にいて、裁判所の拘置所に移送されて、法廷に引きだされる。裁判が始まり検察側と弁護側がやりあって、最後に裁判長が有罪か無罪の判決を下す。こういった一連のことが、わたしたちが地上の命を終えた日から天国へと迎え入れられるまでの途中で行われるということです。

だからこそ、地上に残された人々は、天に召されつつある人々のために祈らなければならないし、その人々のための支援をしなければならないというのが、少なくとも500年前の旧教の教会で教えられていました。またこれは、今のわたしたちが仏教等の他の宗教の中で似たような考え方に接する機会が多い思想でもあります。

途中があるかどうかだなんてどうでもいいことだと言えば言えなくもありません。しかしそれは、途中は「ない」と信じているわたしたち新教の者たちの感覚かもしれません。途中が「ある」と本気で信じている人々にとっては、天に召されつつあるがまだたどり着いていない方々のための祈りと支援が必要であると本気で信じることになりますので、それはもう必死です。「途中の安全が守られますように」と祈ってあげなくてはならないし、自分がその日を迎えたときも同じように祈ってもらわなくてはなりません。

そのほうが納得できる、自分の考えに合う、心が落ち着くという方々がおられるかもしれませんので、批判する意図で申し上げているのではありません。そうではなく、ただ安心していただきたいだけです。途中は「ない」という新教の教会の教えの趣旨も同じです。わたしたちは安心してよい、ということです。

天に召された方々は、まさにその瞬間に天に召されたのであって、それ以後さらに多くの厳しく苦しい難関が待ち受けていて、試験に合格するかどうか分からないので、必死で祈って支援してあげるようなことは、もう必要ないということです。

だからこそ、わたしたちが行う葬式も、永眠者記念礼拝も、天に召された方々の行く末を地上から応援するために行うのではないという話にもなります。

十分すぎるほどがんばった人に「がんばれ」と言うのは、失礼なことでもあります。今さら何をがんばればいいのかが分からないと叱られるでしょう。「もう十分にがんばったのだから、ゆっくりお休みください」と言うのも、考えてみれば失礼な気がします。そのように言いたくなる気持ちは分かりますが。

天に召された方々は、もう天の父なる神のもとにおられるのです。救いの神が共におられるのです。救いはもう十分に実現しているのです。だから、わたしたちはもう、その方々の心配をする必要は全くないのです。ですからわたしたちは今日この永眠者記念礼拝を、亡くなった方々のために行っているのではありません。このように申し上げるのは冷たい意味では決してありません。

むしろ心配しなければならないのは、地上に残されたわたしたちのことです。罪と病と死の苦しみの只中にいるわたしたちのことです。だからといって、天に召された方々のことを羨ましがるのもどうかとは思いますが、わたしたちには十分にリアルな意味で残された途中の道がまだたくさんあります。道の駅があります。多くの課題に取り組まなくてはなりません。そのために多くの先輩たちの在りし日の姿を思い起こすことには、大きな意味があります。それがわたしたちの力になり、勇気にもなります。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所で、イエス・キリストが弟子のペトロに「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と教えておられます。地上でわたしたちは、加害者になるだけでなく被害者にもなります。被害者になった場合はどうすればよいかというペトロの疑問に対するイエス・キリストの答えが「七の七十倍までも赦しなさい」です。

491回目からは赦す必要はないという意味ではありません。とことん赦しなさい、どこまでも赦し続けなさいという意味です。あとに続くたとえ話は、どうぞそれぞれお読みくださり、その意味を考えてみてください。大事なのは「天の国は次のようにたとえられる」(23節)と言われているとおり、これは天国の話であるという点です。

わたしたちにはまだ、地上でしなければならないこと、心を残していることがたくさんあります。なかでも気になるのは罪の問題です。あの人に悪いことをした。あの人に謝っていない。あの人に借りがある。あの人と和解できていない。本当は今すぐに直接会ってお詫びしたい。しかし、事情が許さない。身動きがとれない。もう二度と立ち上がれないかもしれない。その日が近づいている。そのような思いを、最期の日まで、意識が続くまで、抱えて生きていくのがわたしたちです。

しかし、安心しましょう。安心してください。わたしたちの最期の日に待ち受けているのは、厳しい取立人ではなく、七の七十倍まで赦してくださるイエス・キリストです。神はイエス・キリストにおいてすべての人の罪を赦してくださいます。イエス・キリストはそのことを弟子たちに教えたが、ご自分は誰の罪をも赦さないというような言行不一致のおかたではありません。

私には何も思い残すところはないと言える人はひとりもいないのです。だからこそわたしたちは互いに赦し合う必要があります。天国まで追いかけてくることができる取立人はいませんし、たとえ追いかけてきても、神がその人を追い返してくださるでしょう。神のもとにある平安とは、そのようなものです。

私たちに求められているのは、イエス・キリストにおける神の根源的な赦しの恵みの前に謙遜な思いで立つことです。そして、人から罪を赦されるのも、人の赦すのも、神の助けなしにはなしえないことを認めて、すべての栄光を神にお返しすることです。

神が私の罪を赦してくださったのだから、私もまた、だれかが私に犯した罪を赦さなければならない。そのことを決心し、約束する機会として、毎年の永眠者記念礼拝が行われることを願ってやみません。

(2018年10月28日、永眠者記念礼拝)

2018年9月23日日曜日

鍵を探して扉を開ける(立川からしだね伝道所)

日本キリスト教団立川からしだね教会(東京都立川市高松町3-2-1)

使徒言行録9章26~31節

関口 康

「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」

立川からしだね伝道所のみなさま、こんにちは。関口康(せきぐちやすし)と申します。よろしくお願いいたします。

4月から西東京教区の教会の担任教師になりました。先月発行された『教区だより』の「新着任教師紹介」の中に私の文章もあります。1990年に日本キリスト教団の教師になりましたが、途中19年間は日本キリスト改革派教会に移籍し、2年前の2016年に日本キリスト教団に戻ってきました。

今日は私のほうから道家紀一(どうけのりかず)先生にお願いして説教させていただくことになりました。道家先生は、最初は嫌がっておられましたが、私がしつこくお願いしたので仕方なく受け入れてくださいました。

しつこくお願いしたのは、道家先生の前でどうしても言いたいことがあったからです。ひとことでいえば、道家先生は素晴らしい伝道者であるということです。

お世辞を言いに来たのではありません。道家先生を昔からよく知る者のひとりとして、お人柄の一端をご紹介したいと思いました。初対面のみなさまですし、夕礼拝でもありますので、聖書の言葉を厳密に解釈するような硬い話ではなく、私の個人的な証しをするのをお許しいただきたく願います。

私と道家先生の初めての出会いは1985年4月です。今から33年前です。私が東京神学大学の1年生から2年生に進級したとき、道家先生は茨城大学を卒業されて3年に学士編入されました。年齢は道家先生のほうが私より5歳も年上の大先輩ですが、東京神学大学の学生寮の住民としては私のほうが1年先輩でしたので、何を言われてもいつもタメ口で返していました。

学生寮時代の道家先生との最大の思い出は、私が学部4年のとき中古で買って2年ほど乗った赤いスポーツカー「日産シルビア」を売ることになったときに買ってくださったのが道家先生だったことです。当時の東京神学大学を覚えている人たちは「赤い車の関口」のことばかりを悪く言うのですが、それを言うなら道家先生も赤い車に乗っておられました。

道家先生は1989年3月に大学院を修了されました。そして最初に赴任されたのが徳島県の小松島教会でした。1年後の1990年3月には私も大学院を修了し、高知県の南国教会に赴任しました。つまり道家先生と私は、同じ四国教区の教会で伝道者としての歩みを始めた関係です。

そして、教区や分区での関係だけでなく、いわば有志の集まりとして、高知県、徳島県、愛媛県の牧師と教会をつなぐグループがありました。そして、そのグループ主催の「説教セミナー」があり、そこでも私と道家先生が同席する機会が何度かありました。

そのグループのことも「説教セミナー」のことも話し始めると長くなりますので、割愛します。しかし、私の人生において決定的な意味を持ちました。

ある年の「説教セミナー」の席上、私は当時のリーダー格の先輩牧師たちを、面と向かって非常に強い言葉で批判しました。そして、その翌年、私は南国教会を辞めて九州教区の教会に転任しました。さらにその教会も1年足らずで辞任し、とうとう日本キリスト教団そのものも辞めて、日本キリスト改革派教会に移籍しました。それが1997年です。

なぜ私は教団を辞めたのか、なぜ改革派教会に移籍したのかについても、長くなりますので割愛します。しかし、ひとつだけ申し上げたいのは、私が教団離脱を決断した決定的な瞬間は、その道家先生も参加しておられた、あの「説教セミナー」の最中だったということです。

ところがその後、神さまがいたずらを始めました。そして、私の身に大きな変化が起こるたびに、なぜかいつもそこに道家先生が登場しました。

道家先生との再会の最初は、2009年に宗教改革者カルヴァンの生誕500年を迎えるにあたり、2007年にアジア・カルヴァン学会の日本大会が行われることになり、その前年の2006年にカルヴァン研究者の久米あつみ氏を中心に日本側のスタッフチームを作ることになったときです。

スタッフになってほしいと日本キリスト改革派教会の私にも呼びかけがあり、久米あつみ長老がおられる井草教会に集まることになったとき、当時の井草教会の牧師が道家先生でした。

まさか無視するわけには行かないだろうと道家先生がおられる牧師室をお訪ねしました。そして私が「ご無沙汰しています」と言うなり、道家先生から返ってきたのは「裏切り者め」という言葉でした。いかにも道家先生らしい言葉を聞くことができて安心しました。

そして、その再会の日すぐにではなくカルヴァン学会のスタッフミーティングの何回目かのときでしたが、道家先生がちょっとうれしいことも言ってくれました。ただ一言、「関口くんの言ったとおりになった」とおっしゃいました。しかし、それ以上のことは何もおっしゃいませんでした。

当時の私は日本キリスト改革派教会の教師でしたので、日本キリスト教団の内部のことは分かりませんでした。しかし、そのとき道家先生がおっしゃった「関口くんの言ったとおり」の意味が、あの「説教セミナー」のときに私が強い調子で言った批判の言葉を指していることに、私はすぐに気づきました。その道家先生の一言に深く慰められたのを忘れることができません。

聖書の話そっちのけで私の話になって申し訳ありません。しかし、どうしてもお話ししたいのです。私は、当然のことながら、日本キリスト教団に戻ることは二度とありえないという強い決心をもって離脱しました。その決心がないような教団離脱などそもそもありえません。しかし、人間が憎くなったとか、だれかにつまずいたというような理由ではありませんでした。

何が最も根本的な理由だったかといえば、日本キリスト教団において教師に対する「戒規」を行うことは「絶対に不可能」であると当時の私に思えたことでした。1997年に教団に提出した教師退任届に書いたのはそのことでした。私が書いた文面は、教団事務局に今でも保管されているはずです。

私自身も罪深いひとりの人間として生きつつ神の言葉を預かり語る者として、もし自分が罪を犯したときに、この私に免職の戒規を適用する仕組みが機能しえないような教団にとどまることに、当時の私は良心の呵責を覚えました。

逆に言えば、理由はそれだけでした。私にとって問題だったのは「戒規」の問題だけでした。

だからこそ私は、移籍先の日本キリスト改革派教会の中で親しくなった人々に例外なく打ち明けてきたのは、「もし日本キリスト教団でたったの一度でも教師への戒規を行うことができたら、私は日本キリスト教団に戻るであろう」という自分の考えでした。その意味は、日本キリスト教団にそれを行うことは「絶対に不可能」であるということでした。

ところがその後、2010年に日本キリスト教団史上初めて教師に対する免職の戒規が行われたことをキリスト新聞の報道で知り、天地が逆転するほど驚きました。そしてなんと、免職された当該教師への言い渡しの場に道家先生が担当幹事として立ち会っておられたことを最近知り、これまた驚きました。

それで困ったのが私です。その2010年の戒規と共に、私に「日本キリスト教団に戻らない理由」がなくなってしまいました。それで日本キリスト教団に戻ることを決心しました。

一昨年の2016年の春に受けた教団の転入試験の提出論文にも、そのことしか書いていません。教師検定委員会の面接のとき、委員全員が「こんなのは理由にならない」と文句を言いましたが、私は「いけませんか」と気色ばんだだけで、それ以上のことは言いませんでした。それで通してもらいました。

日本キリスト教団で任地を求めていたとき、当時教団の総務幹事だった道家先生にも何度かお会いしましたが、その答えがいちいち冷たい。「戻ってくるな」と言われました。そういう人だということは昔から知っていますので、笑いましたが。

そして今や、道家先生と私は、西東京教区の「隣の隣」の教会の牧師になりました。道家先生は私のこれまでの人生の中で随所随所に突如として姿を現わし、何ごとか決定的なことを告げて去っていく、天使なのか悪魔なのか分からない存在であり続けています。

なぜ今日、このような話をするために先ほど朗読していただいた聖書箇所を選び、このような説教のタイトルをつけたのかということを、そろそろ申し上げます。

この使徒言行録9章は、使徒パウロがまだサウロと呼ばれていたときに体験した回心の出来事と、キリスト教会の伝道者として歩み始める出発の場面が描かれている箇所です。

サウロ(後の使徒パウロ)は、キリスト教会にとっては最近まで自分たちを殺そうとしていた迫害者であり、ユダヤ教側にとってはキリスト教に寝返った裏切り者でした。両サイドのどちらの人々からも信用してもらえない孤立感の中で、伝道者としての歩みを始めました。

そのとおりのことが書かれています。「サウロはエルサレムに行き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」(26節)。当然のことです。しかし、助け舟を出してくれたのがバルナバでした(27節)。

バルナバの仲裁によって、やっと使徒たちがサウロを信用してくれて、話を聞いてくれました。そして、サウロの命を狙う人々もいたので、逃げ道を作って助け出し、伝道の旅へと送り出してもらえました。

このときのサウロの一連の動きの中に、いわゆる奇跡の要素は全くないと私には思えます。天からバリバリと稲妻がとどろき、超自然的で神秘的な奇跡が起こった形跡などは全くありません。

ここに描かれているのは、前途に立ちはだかる壁や障害物をハンマーでぶち壊して無理やり道をこじ開けるのではなく、鍵を探して扉を開けるように、壊れた人間関係を修復するための仲裁の努力を重ねることによって道を切り開いていく、そのようなサウロと支援者の姿です。

「伝道」の話になると「壁をぶっ壊せ」だの「既成概念を打ち破れ」だのと言い出す人がいますが、そのような暴力的な言葉に私が突き動かされることはありません。とことん事務屋に徹し、教憲教規と信仰告白を踏まえ、「教会論的手続き」を積み重ねていく道家先生のような方の言葉に私は全力で耳を傾けます。

手続きを無視してめちゃくちゃに人を集めても、それが「教会」になることはありません。そう思ったからこそ私は、年がら年じゅう会議と事務仕事ばかりしている、温度が低い日本キリスト改革派教会に移籍したわけですが。

たとえていえば(あくまでもたとえです)、道家先生は、太っている人に「太ってるね」、勉強が苦手な人に「勉強が苦手だね」と言ってくれるような人です。とことん冷たいですが、言葉に嘘がありません。事実を事実としてまっすぐに伝えてくれる真の伝道者です。そういう人がいなければ「教会」はできません。

立川からしだね伝道所と西東京教区の諸教会のために、心からお祈りいたします。

(2018年9月21日、日本キリスト教団立川からしだね伝道所 夕礼拝)

罪人を招く


マタイによる福音書9章9~13節

関口 康

「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』」

もう皆さんお忘れになったかもしれませんが、4月の初めに皆さんとお約束したことをどうするかについて、いま迷っています。何の約束をしたかを私から言わなければそのままになりそうな雰囲気もあると感じているほどですが、1年間かけてローマの信徒への手紙を最初から最後まで取り上げますと私はたしかに申しました。

しかし、それを途中から変更しました。「たまにはイエスさまの御言葉を聴きたい」というご意見を、ある方からいただいたからです。そういうご意見はすぐに取り入れるのが私のポリシーであるということは、すでに申し上げました。しかし、いま悩んでいるのは、その「たまには」をいつまで続けるかということです。

イエス・キリストの御言葉は新約聖書の中にたくさんあります。しかし、その中のどの御言葉を取り上げるかについては迷いませんでした。なるべく有名な言葉で、心に深くとどまるのは、マタイによる福音書の5章から7章までに記されているいわゆる山上の説教だろうと、すぐに思い当たりました。

しかし、山上の説教すべてを細かく取り上げますと、それはそれでとても長い時間がかかることになり、「たまには」の趣旨に反すると思いましたので、山上の説教の中でも特別に印象的な言葉だけを取り上げることにしました。

それが「心の貧しい人々は、幸いである」(5章3節)であり、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(5章44節)であり、主の祈り(6章9~13節)であり、「思い悩むな」(6章25節)であり、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7章7節)でした。

本当にものすごいことをイエスさまがおっしゃっていると、私自身何度読み返してもそう思います。これらの御言葉のすべてに必ず当てはまると一概に言うことは難しいかもしれません。しかしそれでもはっきり言っておくほうがよいだろうと思うのは、わたしたちはなぜ、イエスさまの山上の説教の中の、特にこれらの御言葉のひとつひとつに心を揺さぶられ、感動するだろうかということです。

その答えははっきりしています。これらすべてはわたしたちにとって難しいことであり、ほとんど不可能なことばかりだからです。なかでも最も難しく、最も不可能だと思えるのは「敵を愛しなさい」というイエスさまの教えでしょう。絶対に愛することができない相手が「敵」なのだから、その相手を愛することは本来不可能なことなのです。しかし、これだけではありません。「思い悩むな」もそうでしょうし、「求めなさい」もそうでしょう。

たとえば、私が「思い悩むな」というイエスさまの御言葉について皆さんにお話ししたのは先々週の9月9日(日)です。二週間経ちましたが、そのあいだ、思い悩まなかった方がおられるでしょうか。皆さんにお尋ねすると、その中に私が入っていないことになってしまいます。私自身はどうだったかを問う必要があります。はっきりいえば、自分で説教しながら説教者自身が毎日思い悩んでいました。説教者失格かもしれません。

しかし、わたしたちは安心してよいのだと思います。イエスさまは、わたしたちにできそうなこと、努力次第で何とかなるようなことをおっしゃっているわけではないのだと思うからです。「こんなことは誰でもできる簡単なことでしょう。どうしてできないのですか、だらしない」とわたしたちを責めるために、イエスさまがこのようなことをおっしゃっているのだろうかということを、よく考える必要があります。

もうひとつの問いとして、イエスさまご自身はおできになったのかという疑問をわたしたちが持つことはありうるかもしれません。もし仮にイエスさまがご自分にもおできにならないことを教えておられるとしても、わたしたちにイエスさまを責める資格はないでしょう。しかし、ここははっきり、イエスさまにはおできになったと言うべきです。だからこそ、お教えになりました。

しかし、問題はここから先です。イエスさまは、御自分にはおできになることはすべての人にも必ずできることだ。できない、できないと言っているのは努力が足りない人だ。全くけしからんとお考えになったうえで、このようなことをおっしゃっているでしょうか。

さらにもう一歩踏み込んで、それではイエスさまは、ご自身がお教えになったこれらのことは、わたしたちにとって、あるいは多くの人にとって、まだできていないが、将来はできるようになる努力目標のような意味でおっしゃっているのだろうか、ということも考えてみる必要があるでしょう。

さて、ここで話を元に戻します。私は何の話をしていたかと言いますと、私はローマの信徒への手紙を1年間かけて取り上げることを約束しながらそれを途中で変更してイエス・キリスト御自身の言葉を取り上げましたが、それをいつまで続けるかで悩んでいるという話でした。結論をいえば、そろそろローマの信徒への手紙のほうに戻りたいと私自身は願っています。具体的にどうするかはまだ決めていません。

ただし、誤解されたくないと思っていることがあります。それは、このたび山上の説教を取り上げたことは、なんら脱線ではないということです。これは神学や聖書学の次元の話にもなります。イエスの教えとパウロの教えは矛盾しているとか対立していると主張する人たちがいますが、それは言い過ぎです。

パウロもイエス・キリストの教えを信じ、受け入れ、その上に立って生き、教えた人です。最近『パウロ』という岩波新書を出版なさった青野太潮(あおのたしお)先生という聖書学者が、イエスの教えとパウロの教えは「無条件の赦し」という点で一致していると主張しておられますので、参考になります。パウロの手紙を学びながら「たまには」イエスさまの御言葉を学ぶのは、なんら脱線ではありません。

ローマの信徒への手紙でパウロは何を言っていたでしょうか。わたしたちは罪人であるということです。例外はありません。例外なく罪人であるわたしたちを罪の中から救い出すために、イエス・キリストが来てくださったということです。十字架のうえでわたしたち罪人の身代わりに死んでくださることによってイエス・キリストはわたしたちを罪の中から贖い出してくださったということです。それゆえ、わたしたちが救われるのは、わたしたちの努力や行いによるのでなく、イエス・キリストを信じる信仰によるということです。

しかも、その場合の信仰は「行いなしの信仰」です。信じることもわたしたち人間の行為のひとつであるとしても、だからといって、その自分がなす行為そのものでわたしたちが救われるのではありません。それだと結局、自分で自分を救うことになります。そうではなく、わたしたちの信心の努力がわたしたちを救うのではなく、わたしたち自身は特に何もせず、いわばただ見ているだけのような「信仰」を、神がわたしたちにプレゼントしてくださり、与えられた信仰によって、イエス・キリストにおいて神がわたしたちを救ってくださるのです。

それと同じことを、わたしたちは、特に新約聖書の中の福音書と呼ばれる書物の中に記されているイエス・キリストの教えとご生涯を学ぶときにも当てはめることができます。そして、その意味では、先ほどいくつか挙げさせていただいた問いの答えが、ある程度見えてきます。

イエスさまはわたしたちにできそうなこと、可能なことをお教えになったわけではおそらくないし、努力目標でもないことをおそらくおっしゃっているということです。そして、もしそうであれば、なぜイエスさまは、わたしたちにできないことを求めておられるのかという問いの答えも見えてきます。

それは、できないことを突き付けられるときにこそ、わたしたちは自分の罪を自覚できるということです。「自分の罪を自覚する」ということは、その聖書的な意味は、「私は救われなければならない存在であること」を自覚するということです。それは「私には救いが必要であり、救い主が必要である」という自覚です。

最後になりましたが、今日朗読していただいた聖書箇所について短く触れます。イエスさまは、当時のユダヤ社会の中で嫌われたり差別されたりしていた人々、その中でも特に「罪人」と呼ばれていた人々と共に、躊躇なく食事をなさいました。それでイエスさまにつまずく弟子がいましたし、誤解する人もいましたが、イエスさまは意に介されませんでした。

それはなぜでしょうか。理由ははっきりしています。イエスさまご自身がはっきりおっしゃっています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

わたしたちがよく知っている言葉に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という中国由来のことわざがあります。イエスさまの教えとそれは、意味することも歴史的背景も全く違います。しかし、共通する要素は「立ち位置はどこか」ということです。

イエスさまがおっしゃっているのは、「ああいう人たちも救われたほうがいいよねえ」と思っているだけで、遠巻きにして見ているだけで、自分自身は決して近づかないし、自分たちの仲間に決して加えようとしないことの反対です。

イエスさまと同じことがわたしたちにもできるでしょうか。私にはとても難しいことだと思えてなりません。なぜなら、宗教というのは人の心の深いところにかかわるものだからです。だからこそ、デリケートな感性の問題に必ずなります。生理的な「肌感覚」の次元が必ず問題になります。

生理的に受け付けないとなると、それ以上はどうすることもできず、からだがすくみ、足が止まり、身動きがとれなくなってしまう性質がわたしたちにあることを無視することができません。「ああいう連中」(こういう言い方自体が大問題ですが)と同じ空気を吸いたくない、同じ場所にいるだけで我慢できない、逃げ出したくなるというような感覚とそれは紙一重です。それを「悪い」と責められても困ってしまう面があります。

しかし、だからといってわたしたちは手をこまねいているわけには行きません。長年聖書を学び、神をよく知っていて、なおかつ共通理解を持ちうる仲間内で小さく固まっているだけでは「伝道」は不可能です。それだけははっきりしています。窓を開けなければ新しい空気は入って来ません。外に出ていかなければ新しい出会いはありません。他流試合が必要です。

わたしたちには難しいことであり、不可能なことであるかもしれませんが、そのわたしたちと共にイエスさまがいてくださいます。

イエスさまと共に大胆に、外に飛び出していきましょう。新しい出会いを求めていきましょう。

(2018年9月23日)

2018年9月16日日曜日

門をたたく者には開かれる


マタイによる福音書7章7~12節

関口 康

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

今日の箇所に記されているのもイエス・キリストの言葉です。イエスさまは二千年前に本当にこのようにお話しになりました。そのようにわたしたちは信じてよいのです。しかし、わたしたちの信仰はそれだけで終わるものではありません。

教会の信仰によれば、イエスさまは十字架にかけられて死に、三日目によみがえり、その四十日後に天に昇り、父なる神のみもとで今も生きておられます。そのイエスさまは今もわたしたちに御言葉を語り続けておられます。そのようにも信じてよいのです。

今は昔と状況が全く違うので、今の状況にマッチする言い方に変えて語るということはありうるかもしれません。しかし、視点と方向においてイエスさまのお考えが根本的に変わることはないと思います。たぶん大丈夫です。

「たぶん」とか「と思います」などと余計なことを言う必要はないかもしれません。しかし私がこういう言い方をするのは、勢いで口走っているのではなく、理由があります。意図的な言い方です。その理由をふたつ挙げます。

一つは、私はイエスさまではないということです。当たり前のことです。もう一つは、わたしたちはいまだ完全な仕方で神の御心の実現を見ていない、その意味で不完全な世界の中で生きているということです。もしそうであれば、地上に「こうです」と断言できることは何もありません。実際にどうであるか、どうなるかは「信仰と祈りの事柄」に属することです。

鈴木正三先生が生涯の研究テーマにしておられるディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者の言葉として伝えられているのは「究極以前の事柄」という概念です。その意味は、私がいま申し上げたようなことです。

わたしたちは、天上の御心が完全に実現しているわけではない、不完全な世界の中で生きているということです。神の御心が究極的に実現しているのが「天国」だとすれば、わたしたちが「いまここで」生きている地上の世界のすべては「究極以前の事柄」であるということです。

ボンヘッファーについては、私は斜め読みした程度ですので、詳しいことはぜひ鈴木先生に教えていただきたいです。この神学者が地上の事柄を「究極以前」と呼んだのは、それは究極的な事柄としての天国よりも次元が低いものだから軽んじてよいという意味ではないと私は理解しています。

もっとも私は、ボンヘッファーの言葉を自分の都合のいいように、説教の言葉を断言口調にせずに事柄を曖昧にし続けるための理由にするくらいのことしかしていないのですが、この概念にはもっと深い意味があると思います。私の心に浮かぶのは、地上の世界を「究極以前」としてとらえることは、単なる世界観の問題ではなく、わたしたちの信仰に基づく生き方や行動の問題になっていくだろうということです。

それはどういう意味かという問いの答えを考えるところで、今日の聖書の箇所を見ていただきたいのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。

イエス・キリストの御言葉です。この御言葉については口語訳聖書よりもさらに以前の文語訳聖書の言葉で暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門をたたけ、さらば開かれん」。

これは多くの人に誤解されている言葉であるということが、よく指摘されます。欲しいものは何でも手に入る。そのようにイエスさまが教えてくださったと。しかし、実際にはそのようなことは起こらないわけです。わたしたちは欲しいものだらけ、不満だらけです。あれもない、これもないと、毎日のように愚痴をこぼしています。

求めても与えられないのは、わたしたちのお祈りが足りないからでしょうか。そうかもしれません。よし、これからみんなでお祈りしましょう。そうすれば、明日の朝にはどっさりと、わたしたちの家の玄関に大きな荷物が届くでしょう。そうであればいいのですが、全くそうでない現実をわたしたちは生きています。

そうであれば、イエスさまがおっしゃったことのほうが間違っているのでしょうか。求めても与えられたことがない。探しても見つかったことがない。そちらのほうの記憶と感覚のほうが、願ったものはちゃんと与えられたし、探したものはちゃんと見つかったということよりも、わたしたちの心と体の中にはるかに強く残っているとしたら、イエスさまの教えは虚しく感じられるばかりです。

しかし、もしそうである場合、二つの解決策があると思います。これは私の提案です。ひとつの解決策は、イエスさまの御言葉についてのわたしたちの解釈が間違っていると考え、これはどういう意味なのかを考え直すことです。「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」とはどういう意味なのかを歴史的・文献学的・神学的に研究することです。

そして、その場合の研究の目的は、イエスさまがおっしゃっているのは「欲しいものは何でも手に入る」というような次元の低いことではないのだ、ないのだ、もっと次元の違う高尚な意味があるのだ、あるのだと、自分自身に言い聞かせ、納得を得るためです。それで納得できれば、それはそれで、わたしたちの心に平安が与えられるかもしれません。

しかし、もうひとつの解決策があります。それは、求めても与えられない、探しても見つからない、門をたたいても開けてもらえないと、ほとんどいつも不満を感じているわたしたち自身の姿を鏡に映してよく見ることです。鏡に映る自分の姿を見ながら、本当にそれほどそうなのか、本当にわたしたちは求めたものを与えられていないのか、もう十分すぎるほど与えられているのではないかと、考えてみることです。そちらのほうがすぐにできることです。

しかし、自分で提案しておいて何ですが、この第二の解決策で問題が解決する人はあまりいないかもしれません。自分は足りない、自分は足りない、自分は足りないと、ほとんど常に思い込んでいる状態ですから。これはどなたかの話ではなく、私自身の話です。わたしたちの認知がそのようなひとつの視点で固定されてしまっていれば、自分の姿を何度鏡に映しても、足りない自分としか見えない可能性は十分あります。

ただし、やめたほうがいいと思うことがあります。やめましょう。それは他人と比較することです。あの人と比べて足りない、あの人よりは足りている。それは相手にも自分にも失礼なことですし、全く余計なお世話です。しかし、それがもしかしたら最も根本的な問題かもしれません。なぜ自分は不満を感じるのか。それは他人と比較するからではないかということに気づく必要があるかもしれません。

しかし、もしそうだとしても、そのことに気づくだけにしましょう。比較そのものをやめることは、わたしたちには不可能です。やめましょうといくら言ってもやめられません。なぜなら、わたしたちはひとりで生きていないからです。必ず多くの人と共に生きている社会的な存在です。他人との比較を全く考えず、自分のことだけを見つめて生きることのほうが、かえって問題ある行動かもしれません。

しかし、ここでひとつよく考えるほうがよさそうなのは、いったい自分は本当のところ何が欲しいのだろうかということではあります。他人との比較の中で考えれば、欲しいものはすぐ見つかります。あの人のような身長とか見た目とか、家や暮らしが欲しい。そう願うことは全く自由ですが、おそらく実現しません。一時的に実現しても消えていきます。

敬老感謝のお祝いの日に、嫌がらせのようなことを言いたいわけではありませんが、厳しいことも言わなくてはなりません。「究極以前の事柄」は時間の経過と共に変化し、朽ちていきます。かつて若かりし頃に欲しいものがたくさんあった。それをがんばってすべて手に入れた。しかし、見よ、すべてが古くなった。古くなったものをどうやって捨てようかと悩んでいる。捨てるにもお金がかかるではないか、というようなことで悩むのが、わたしたちのあからさまな現実です。

今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、先週お話ししたことと、実は全く同じです。神に頼りなさいということです。それ以上のことはおっしゃっていません。空の鳥や野の花さえ見捨てず養ってくださる天の父が、わたしたち人間のことを見捨てるはずがないでしょう、ということです。わたしたちの神さまは、わたしたちの求めに対して最も良きものを与えてくださるでしょう、ということです。

イエスさまは「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(9~10節)とおっしゃっています。現実の人間の親の中にこういうことをする人がいるという指摘はしておくべきでしょう。います。いてはいけないのですが、います。明確な殺意をもって自分の子どもを殺す親がいます。

イエスさまも人間が「悪い者」であることをご存じです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも」(11節)とおっしゃっています。人間に対して甘い見方をしておられません。厳しく見ておられます。

しかし、そのうえで、イエスさまは「自分の子供には良い物を与える」(同上節)人間の姿をご存じです。そのことをイエスさまは責めておられません。これは大事な点です。イエスさまは「自分の子どもに良きものを与える」のは人間のエゴイズムだ、マイホーム主義だなどとおっしゃいません。

「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」(同上節)というのがイエスさまの結論です。何が「良い物」なのかの内容は記されていません。もしかしたらそれはわたしたちが求めたものとは違うかもしれません。しかし、神はわたしたちに必要な、わたしたちにとって最も良いものを与えてくださいます。

わたしたちは神を、自分の欲望をかなえさせる召し使いにすべきではありません。

ここでちょっと話を落としますが、昔の漫画映画(テレビアニメ)の「ハクション大魔王」を覚えておられる方がいらっしゃるでしょう。呼ばれて飛び出てなんとやら。今の「ドラえもん」のことはきっとご存じでしょう。不思議なポッケでなんでも夢をかなえてくれる。

わたしたちの神はハクション大魔王でもドラえもんでもありません。そのことを最後に申し上げておきます。

(2018年9月16日)

2018年9月9日日曜日

思い悩むな


マタイによる福音書6章25~34節

関口 康

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

先週立て続けに起こった台風21号と北海道地震で大きな被害を受けた方々のために心からお祈りいたします。

今日の聖書の箇所を私が選んだのは、先週9月2日に発行した週報を作るときでした。それは8月27日です。なぜこのようなことを言うかといえば、先週の大きな災害のことを予想する由もなかったときに選んだ聖書箇所であることをご理解いただきたいからです。今の状況を知ったうえで関連づけてお話しする意図が、あらかじめあったわけではありません。

今年6月末から7月初めにかけて起こった西日本豪雨災害のことは意識にありました。他人事だと思う気持ちはありません。しかし、国内や世界中で起こる災害や事故・事件と被害に対して、具体的にどのように考え、何をなすべきかについての行動原則のようなことは私の頭と心では思いつきません。心苦しく思っております。申し訳ありません。

わたしたちにできるかもしれないのは聖書の御言葉に基づく信仰の言葉で苦しみの中にある方々を慰め、励まし、力づけることだろうという思いは、私の中にもちろん常にあります。その思いがないようなら、何のために教会が現代社会に存在するのか、その意味すら分からなくなります。

しかし、言い逃れか開き直りのように響いてしまうかもしれませんが、実際問題として言わざるをえないのは、教会にできることはあまりに小さい、ということです。

テレビがあり、インターネットもある時代の中で、世界の隅々に起こる災害や事件の情報が瞬時に飛び込んで来るようになりました。理想的には、苦しみ悩むすべての方々のためにまんべんなく公平にお祈りしたいところです。しかし、現実には不可能です。

ごく大雑把な言葉で「すべての人が救われますように」と祈ることはできますが、地上に起こるすべての災害や事件について詳細な状況を把握したうえで祈ることはできません。こういうことを言葉にしてはっきり言うと冷たいことを言っているように思われるかもしれませんが、冷たいことを言っているつもりはありません。

今日の箇所に記されているのはイエス・キリストの言葉です。新共同訳聖書のこの段落の小見出しに「思い悩むな」と書かれています。そのとおりの内容です。前後の文脈が分かるように引用すれば、次のとおりです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。

「思い悩むな」を昔の口語訳聖書などでそう訳されていた「思いわずらうな」という訳のほうで暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。「思い悩む」も「思いわずらう」も意味は同じです。

もっと単純に「心配するな」とか「くよくよするな」などと訳しても全く問題ありません。意味は同じです。「思い悩む」とか「思いわずらう」と言うほうが高尚なことを言っていて、「心配するな」というのは次元の低いことを言っている気がするというような感覚が、もしかしたらわたしたちのうちにあるかもしれませんが、それは考えすぎです。

これで分かるのは、イエス・キリストの御言葉の趣旨は、わたしたちの日常生活に関すること、特に衣食住に関することについて、くよくよ悩むな、心配するな、と言っておられるということです。もう少し踏み込んで言えば、イエスさまが問題にしておられるのは、わたしたちの衣食住の具体的な内容に関することであるということです。

「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」と言われているわけです。食べるか食べないか、飲むか飲まないか、着るか着ないかということは、全く問題になっていません。遠慮なく食べてください、ぜひ飲んでください、ぜひ着てください。何の躊躇も要りません。むしろ、裸で表を歩かないでください。

ですから、イエスさまがおっしゃっていることを別の言葉で言い換えるとしたら、衣食住の具体的な内容に関して、「どれにしようか」という選択(チョイス)の問題であると言えるかもしれません。「食べるか食べないか」ではなく「何を食べるか」ですので。

しかし、ここでぜひ、ご安心いただきたいことがあります。

わたしたちが家でごはんを食べる場合、自分ひとりで自分のために料理して食べることもあれば、家族や知人・友人と食べることもあります。もちろん外食することもあります。食事の場所や状況はなんであれ、来る日も来る日も同じメニューですと、自分も飽きるし、飽きられてしまいます。

それでいろいろ違ったメニューを考えるわけですが、「そんな無駄で愚かなことをする必要はない」とイエスさまがおっしゃっているかといえば、そういうことでは全くないと申し上げておきます。

イエスさまが当時どのようなものを食べておられたかは分かりませんが、毎日同じものを食べておられたでしょうか。そうではないだろうと想像します。

しかし、だからといって今申し上げたことがイエスさまの御言葉の趣旨から完全にかけ離れていることかどうかは、考えどころです。

お肉にしようか魚にしようか野菜にしようかと思い悩むことを禁じられてしまうと、わたしたちは困ってしまいます。「どの」お肉にしようか、「どの」魚にしようか、「どの」野菜にしようかで悩むことも、ある程度は許していただきたいです。

しかし、そこから先、だんだんエスカレートして、「いくらくらいの」値段のものにしようかと悩み始めるところまで行くと、そろそろイエスさまの御言葉の趣旨に抵触するかもしれません。

なぜそうかといえば、それは生活そのものの問題というよりも生活レベルの問題になるからです。何が贅沢で何が贅沢でないかは一概には言えませんが、「いくらくらいの」値段のものにするかという悩みを持つことができるのは裕福な人たちだけである、ということは考慮する必要がありそうです。

今申し上げていることはこのあたりでストップします。確認したいと願ったのは、イエス・キリストが「思い悩むな」とおっしゃっているのは、わたしたちの日常生活の、特に衣食住に関する事柄についてである、ということです。

それ以外のすべてのことに当てはめるのは行き過ぎです。自分の人生の進路の問題、あるいは個人や社会や世界の悩みや苦しみの問題について考えるのをやめろ、思考停止せよと言われているわけではありません。そのような冷酷非道なことをイエスさまがおっしゃるわけがありません。

しかし、ここでまたひっくり返して考えてみると、それでは、そういうことは「思い悩むな」というイエスさまの御言葉の趣旨と全く無関係であるかというと、それも言い過ぎです。

災害や事件で被害を受け、苦しい立場を余儀なくされている方々が、これからどう生きていこうかと悩み、ただ漠然と「人生とは何か」と哲学的に問うだけでなく(哲学を軽んじる意図は私にはありません)、より具体的に毎日の生活の細部(ディティール)を微分し、それらをどのように整え、営むかという問題を避けて通ることは絶対にできません。

実際的な飲み食いの問題など次元が低いことなので、そんなことはどうでもよいことで、そんなことよりも高尚な哲学や宗教を重んじなさい、というような話にすべきではありません。

哲学や宗教も大切ですが、飲み食いも大切です。どちらが重く、どちらは軽いということはありません。両方が等しく重要です。私は自分で料理をしたり家事をしたりするところがありますので、文句があるなら自分で料理してみろよと言いたくなります。

そして、今大事なことは、この問題に対するイエスさまのお答えが「思い悩むな」であるということです。くよくよするな、心配するな。それはどういう意味であるかをわたしたちはよく考える必要がありますが、あまり難しいことは私は言いません。この御言葉においてイエスさまが「おっしゃっていない」ことを指摘するだけにとどめます。

イエスさまが「おっしゃっていない」のは、すでにあるもので我慢しろとか、出されたものを文句を言わずに黙って食べろとか、衣食住ごときの次元の低いことで悩むのをただちにやめて、もっと高尚なことで悩み苦しめ、ということです。イエスさまは、そのようなことを全くおっしゃっていません。そのような意味であると言いうる根拠はどこにも見当たりません。

日本のキリスト教、とりわけプロテスタント教会は「武士道」の影響を受けているということが、かなり前から指摘されています。武士道には人斬りの面がありますので、人が死のうが殺そうが、心を動かさず、感情的にならず、冷静でいることを教えるところが必ずあります。その武士道と通じ合うところがあるストイック(ストア哲学的)な思想と教会の教えとが混同される可能性があります。

「武士は食わねど高楊枝、なければないで我慢しろ、衣食住ごときでがたがた文句を言うな、イエスさまもおっしゃっている」などと教会が言い出すことが実際にあります。しかしイエスさまがおっしゃっているのはそういう意味ではありません。全く違います。

イエスさまがおっしゃっているのは、ただ神のみに頼れということだけです。直接的にそのような言葉が今日の聖書箇所の範囲に出てくるわけではありません。しかしそのことがはっきり分かるのが25節の言葉です。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(25節)。

この御言葉に腹が立つ方がおられるかもしれません。実は私もちょっと腹が立ちます。我々人間は鳥よりも価値があるとか言われても、うれしくも楽しくもありません。動物と比較されること自体が失礼な話だと感じます。かえって、なんとなくばかにされた気持ちになります。

しかし、イエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、あなたがたは鳥よりもましだから我慢しろという話ではありません。イエスさまがおっしゃっているのは、あの鳥でさえ神さまがすべて養っておられるということです。野の花も。

あの鳥よりも価値がある人間を神が見捨てるはずがない、ということです。わたしたち人間は、神を見限ることがあるかもしれません。どれほど祈っても、どれほど熱心に奉仕をしても、自分の願いどおりにしてもらえない。そんな役に立たない神など要らないと、わたしたちが神を見限り、見捨てることはあるかもしれません。しかし、神は絶対に人間を見限らないし、見捨てない方です。

だから思い悩むな、心配するなと、イエスさまがおっしゃっています。イエスさまのお勧めの言葉を信頼してみませんか。

(2018年9月9日)

2018年8月26日日曜日

主の祈り


マタイによる福音書6・9~13

関口 康

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』」

私も夏休みをとらせていただきました。木曜日の「聖書に学び祈る会」を2週続けて休会しました。「説教要旨」を作るのを2週分サボりました。旅行に出かけることはできませんでしたが、映画を2本観ました。ドクターヘリの活躍を描いた「コード・ブルー」と、昔のテレビドラマ「スパイ大作戦」の現代版「ミッション:インポッシブル」です。のんびりしすぎたことをお詫びします。来月から気合いを入れます。

今日取り上げるのは「主の祈り」です。このテーマについてこの教会でお話しするのは初めてですが、過去に牧師をしていた教会で繰り返しお話ししてきました。過去の説教原稿はすべて保管しています。それを引っ張り出して読み直しました。同じことを申し上げる部分もあるのをお許しください。

この祈りは新約聖書の2箇所に出てきます。マタイによる福音書6章9~13節と、ルカによる福音書11章2~4節です。両者を比較すると分かることが2つあります。

第1に、文脈が異なります。マタイでイエスさまがこの祈りを教えられた相手は複数の「弟子たち」(5章1節)です。ルカでは「弟子の一人」(11章1節)に教えておられます。その弟子が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とイエスさまにお願いし、それにお応えになる形で、この祈りを教えられました。

第2は、ルカの主の祈りはマタイのそれよりも短いです。どこに違いがあるかを具体的に言うのは長くなるのでやめます。好ましいと思うのは両者を無理やり一致させようとしていないところです。しかし、強調点に違いがあると考えるのは可能です。私にとって興味深いのは、ルカの主の祈りには「天」も「地」も出てこないし、「悪い者」も出てこないことです。

この違いが何を意味するのかについて思い当たることがあります。「天」と「地」、また「悪い者」がいるとすれば反対側に「善い者」もいることになりますが、そういう世界観の基本構造は「上下関係」に近いということです。

そのような「天」と「地」との差や、「善い者」と「悪い者」を対比させるような垂直的な世界観がマタイの主の祈りに見え隠れしています。しかし、ルカの主の祈りには上下関係を示唆する垂直的な世界観を表わす言葉が出てきません。水平的な世界観に立っているように見えます。

しかし私は、どちらのほうがよいかという話をしたいわけではありません。代々の教会が重んじてきたのは、マタイの主の祈りです。私が教えたミッションスクールでは、1年生の最初の聖書の授業でマタイの主の祈りを学ぶことになっていました。学校礼拝の中でそれを唱えるからです。

私がこれまでいろんなところで主の祈りについてお話ししてきた中で強調してきたのは、主の祈りの「目標」は何かという問題です。主の祈りを唱えて生きるわたしたちがめざすべき先はどこかという問題です。そしてその結論は、主の祈りの目標は「地上」であるということです。

その「目標」が最もはっきり示されているのが、第3の願いです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。

「天で御心が行われる」のは当然のことです。「天」は神のおられるところを指すからです。神のおられるところで神の御心が行われるのは当たり前です。極端に言えば、天国で御心が行われることについて、わたしたちがあえて祈る必要はありません。人が祈ろうと祈らなかろうと、神は天で御自身の力を遺憾なく発揮なさるでしょう。

しかし、「地上」は別です。地上では神の御心は人の目と心から隠されています。よく分かりません。よく分かるのは、我々が生きている現実世界には神がどこにもおられないかのようだということです。神の恵みであると言われる信仰も希望も愛も喜びも、まるで現実世界とは全く無関係であるかのようだということです。

だからこそ、わたしたちは「地の上にも御心が行われますように」と祈る必要があります。主の祈りの「目標」が「地上」であると申し上げたのはその意味です。

主の祈りには全部で6つの祈りがあります。第3の願いの趣旨は「我々が生きている地上の世界が天国さながらになりますように」という祈りです。それは地上の世界は全くそうではないということの表明でもあります。地上には悲しみと嘆きが満ちています。だからこそ、わたしたちは「神の御心が地上で実現しますように」と祈るのです。それは「この地上の現実が変革されますように」という意味になります。

しかし、逆の言い方をすれば、すでに天国にいるかのように完全に変革された新しい世界となったそれは今の我々の悲惨な現実とは全くかけ離れたものかと言うと、そうではありません。今の現実から「罪が取り除かれる」だけです。それ以外の変化はありません。地上の世界から罪が取り除かれたら、そこは天国です。面白くもおかしくもないかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。

たとえば、多くの人が違和感を覚えるヨハネの黙示録という書物があります。あの書物が描き出す天国を異様だと感じる人は多いかもしれません。天国があまりにも色彩鮮やかにカラフルに描かれているからです。天国は無色透明ではありません。金、銀、財宝でギラギラ輝いています。まるで世俗的な天国です。聖書の世界は意外なほどそういうところがあります。わたしたちの「常識」を再点検する必要がありそうです。

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の「地にも」の「も」は、ついでに、という意味ではありません。全く違います。御心が天で実現するのは当たり前のことなのですから、主の祈りの趣旨としては「地」のほうが「天」よりもはるかに大事です。主の祈りの「目標」は「地上」にあります。

第2の祈りの主旨も同じです。「御国が来ますように」。「御国」と「天国」は同じです。多くの人は「天国」はどうしても「行くところ」であると考えてしまいます。ゴー・トゥー・ヘブンと。しかし、イエスさまが弟子たちに教えた祈りは「天国」が「来ますように」(キングダム・カム)です。イエスさまが教えてくださった天国は「行く」(ゴー)ところではなく「来る」(カム)ところです。

これは「天国が地上へと近づいてくる」という思想です。空中に浮かぶ巨大な大陸のようなものが落ちてきて地上の世界をめちゃくちゃに破壊してしまうような情景を思い浮かべることができるかもしれません。

つまりそれは、地上の現実が天国さながらになることを求める祈りです。地上の現実の変革を求める祈りです。地上の現実には罪と悪に満ちている。この罪を取り除いてください。この地上を天国にしてくださいという祈りです。

第1の願いの趣旨も同じです。「御名が崇められますように」と祈ります。「主の御名を崇める」のは人です。第一の願いの主語は人です。「崇める」の原意は「大きくする」であると言われます。転じて、重んじること、尊重すること、礼拝することを意味します。

ですからそれは、地上の世界に神を礼拝する民がもっと多く引き起こされますようにという祈り、あるいは「教会」が多く生み出されますようにという祈りと矛盾しません。

第1から第3までの願いは、いわば理念です。主の祈りの思想の枠組みです。そのすべての視線は「地上」へと向いています。そしてその第1から第3までの願いにおける理念が、第4から第6までの願いにおいて具体的に展開されます。

第4の祈りは、毎日の食事の確保の問題です。子どもたちは毎日の食事が当たり前に出てくると思っているかもしれませんが、大人と親にとってそれは当たり前のことではありません。どうすればそれが可能になるかを大人たちは知っています。第四の祈りの趣旨は、ただ食事だけの問題ではなく、生活全体が整いますようにという祈りです。

第5の祈りは、対人関係における罪のとがの赦しの問題です。第6の祈りは、罪を犯すことへの誘惑からの救出の問題です。これらはすべて「地上の事柄」です。地上で解決されるべき問題です。

しかし、私がこの話をしますと必ず返ってくる反応があります。「がっかりしました」と言われます。「この嫌で嫌でたまらない世界を我慢して生きてきて、やっと天国に行けると思っていたら、天国も地上も大差ないと言われる。そんな天国なら私は行きたくありません」と実際に言われました。

高校生たちの反応は違いました。かなり面白がって聞いてくれました。「宗教じみていない」とか言ってくれました。「天国に逃げ込む」考えが私にないからです。すべての解決は死後の世界にある、という思想が私にはありません。

なぜ私が「天国と地上が大差ないこと」を強調して申し上げるかには理由があります。私は牧師として、教会の方々から個人的に伺ったお話を外部に漏らしたりはしません。しかし、もう20年以上前のことで、しかも私はこれまでいくつかの教会で牧師をしましたので、どこの教会の話であるかを特定できないと思いますので、実例をご紹介します。

熱心なキリスト者のご夫婦でいらした方のご主人が病気で亡くなられた直後に、ご夫人が重い精神の病にかかられ、希死念慮にとらわれました。その方が「早く天国に行きたい。早く死にたい。死ねば主人に会えるんでしょ。私も早く天国に行きたい」と私に何度も訴えられました。

そのときです、「天国と地上は大差ない」ということを全力で語る世俗的な牧師になってやろうと心に誓うものがあったのは。「この地上から罪が取り除かれたら、そこはもう天国なのだから、わたしたちは一刻も早く死にたいなどと言わないで、一刻も早く地上から罪が取り除かれるために神さまに全力で働いてもらえるように祈りましょう」ということを一生懸命に語り始めたのは。

早く天国に行きたいという願いを持つ方と、変身願望を持っておられる方は必ず私につまずきます。ごめんなさいと謝るしかありません。

しかし、よいではありませんか。「そこにはもはや罪がない」という以外の何も変わらない、そんなつまらない天国には行きたくないと思われるなら、生きていこうではありませんか。しつこく、粘り強く、しがみついてでも。「御心が地上で実現しますように」と祈り続けていこうではありませんか。

(2018年8月26日)

2018年8月19日日曜日

敵を愛しなさい


マタイによる福音書5章43~48節

関口 康

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

4月から続けて学んで来ました使徒パウロのローマの信徒への手紙の学びを先週から中断して、マタイによる福音書に基づくイエス・キリストご自身の御言葉に目を向けています。今日の箇所に記されているのは、イエスさまがおっしゃった言葉の中で最も有名な言葉です。

どの御言葉が最も有名で、他はそうでないという言い方は一概にできないことは分かっているつもりです。多くの人の心にとどまり、忘れることができない、まさに衝撃的な言葉として有名であると申し上げておきます。

それは、先ほど朗読していただきました箇所の中にある「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)という言葉です。この中でも特に有名なのは、前半の「敵を愛しなさい」という言葉です。

これがなぜ多くの人の心にとどまり、忘れることができない言葉であるかといえば、このようなことは、わたしたちには絶対にできないことだからです。

東京都三鷹市にある東京神学大学に私が入学したのは、今から34年前の1984年です。当時はご存命だった北森嘉造先生から学部1年の最初に受けた講義の中で、この「敵を愛しなさい」というイエスさまの御言葉について北森先生がおっしゃったことを、私は忘れることができません。

北森先生はこうおっしゃいました。「敵とは、絶対に愛することができない相手のことである。絶対に愛することができない相手のことを『愛しなさい』と言われているのは、だれにも絶対にできないことを『しなさい』と言われているのだ」と北森先生は説明されました。34年前の記憶ですので、完全に正確ではないかもしれませんが、間違ってはいないと思います。

北森先生のおっしゃるとおりであると私は受け容れてきました。北森先生がおっしゃったから正しいと受け容れてきたのではありません。イエスさまがおっしゃったのはわたしたちにできる範囲のことではないということを、北森先生の説明で気づかされ、納得したという意味です。

だれにも絶対にできないことを「しなさい」と言われるのは、たしかに無茶苦茶なことです。支離滅裂だと感じる方がおられるかもしれません。しかし、もしこれが、努力すればできる範囲内のことを「しなさい」と言われているのだとすれば、努力してできるようになった人と、努力しないからいつまでもできない人に分かれるでしょう。

そして、努力してできるようになった人は、努力しないからいつまでもできない人に優越感を抱き、見くだすようになるかもしれません。いつまでもできない人は、できるようになった人に劣等感を抱き、卑屈になるかもしれません。

しかし、もしこれが、だれにも絶対にできないことであるとすれば、だれひとり優越感を抱くことはできないし、だれひとり劣等感を抱く必要はありません。「あなたは、まだできないのか。早くできるようになりなさい」などと、だれひとり指導的な立場に立つことができません。それでいいのだと思います。

しかし、ここで絶対に(という言葉をあえて使います)間違えてはならないことがあります。それは、イエスさまがおっしゃった「敵を愛しなさい」という教えがだれにも絶対にできないことであるとしても、だからといって「しなくてもよい」ということにはならないということです。できないことはしないというのは、失敗して恥をかき、屈辱を感じるのが嫌だからです。初めからしない、手を出さない。それで守れるのは自分のプライドだけです。自分の優越感だけです。

牧師も教師です。学校の教員と全く同じではないかもしれませんが、教える立場にあるという点では同じです。自分にできないこと、自分ができていないことを人に教えるとどうなるかを、よく知っています。「まずあなた自身が手本を見せてください。あなた自身ができるようになってから言ってください」と必ず言われます。

そう言われたときに教師がとってはならない最も悪い態度は、自分はできているふりをすることです。できていないのに。うそをつくことです。それは詐欺です。二番目に悪い態度は、自分ができないことについては「これはしなくてもよいことだ」と教えはじめることです。もしかしたら、こちらのほうがもっと悪いかもしれません。

このあたりでそろそろ、イエスさまはなぜこのようなことをおっしゃったのかという点に話を移していきます。今日の箇所に目を落としていただきますと、イエスさまは「敵を愛しなさい」とおっしゃる前に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」(43節)とおっしゃっていることが分かります。

しかし、いわゆる「引証付き」の聖書をお持ちの方はすぐにお分かりになるのは、イエスさまが引用しておられるのは旧約聖書のレビ記19章18節ですが、そこには「敵を憎め」という言葉は見当たらないということです。それどころか、レビ記19章18節に記されているのは「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」という御言葉です。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というのは、ご承知の通り、イエスさまが強調してお語りになった教えです。日本最古のプロテスタントのミッションスクールである明治学院(の高等学校)の校訓がこの教えです。英語でLove your neighbor as yourselfです。これは、旧約聖書の教えでもあり、イエス・キリストを通して新約聖書に受け継がれ、キリスト教会がとても大事にしてきた教えです。

しかし、ここでわたしたちが考えなければならないのは、「隣人とはだれのことか」という問題です。「隣人とはだれのことか」という問いかけを聴くだけで教会生活が長い方々は、ルカによる福音書10章25節以下に記されているイエスさまがおっしゃった「善きサマリア人のたとえ」をすぐに思い起こされるに違いありませんが、今日はそこまで話を広げないでおきます。しかし、内容は共通しています。そのことだけ申し上げておきます。

「隣人」とはだれのことでしょうか。旧約聖書のレビ記19章18節に、その定義はありません。しかし、「復讐してはならない」とは記されています。この復讐の問題が、理解の鍵になります。

復讐といえば、個人的な仇討ちから国と国との戦争までの範囲のことを考えなければならない問題ですが、旧約聖書の教えは両方を含んでいます。そして、古代社会の状況を考えれば、「隣人」の意味として、自分と同じ民族、自分と同じ国の人々すなわち同胞の範囲を超えた人々のことを指すことはまずありえないと考えられます。

つまり、少なくとも旧約聖書においては「隣人を愛しなさい」という教えは、守るべき家族、愛するべき同胞を愛することを指していたと思われます。

そしてその場合、だからといって、対立する敵国と戦争することによって復讐を果たしなさいというようなことを旧約聖書が教えたわけではないということも、先ほど指摘したレビ記19章18節を見ると分かります。

しかし、ここから先は難しい問題に立ち入ることになります。実際に復讐を果たすことをしてはならないと禁じられることと、それを果たすことをしなくとも心の中で感情的に相手に対して激しい怒りを覚え、憎しみを抱くことまで禁じられることとは別問題であるということです。

旧約時代に実際にどうであったかは私には分かりません。しかし、今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの中に「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていることから考えると、旧約時代において自分自身の同胞を愛することは、たとえ復讐を果たすことを実際にはしなくても、心の中で感情的に同胞以外の人々や敵国の人々を嫌い、憎しむこととがセットになっていたかもしれません。

急に話を飛躍させますが、野球でもサッカーでも、自分が心から愛するチームを持っている人の中に、そのチーム以外のチームを憎むことがセットになってしまう人がいます。人間の心理の中にそのような要素や現象があるように私には思えます。心理学を勉強なさった方は、その現象を学術的に何と呼ぶかをご存じかもしれません。

イエスさまが禁じておられるのは、それです。自分の愛すべき同胞、守るべき家族を愛することの裏側に姿を現わす、まさに自分の愛すべき同胞、守るべき家族の命を脅かす「敵」に対する「怒り」や「憎しみ」が禁じられています。

全くの素人考えですが、愛の感情と憎しみの感情は似ているところがあるような気がします。両方とも、強ければ強いほど心臓がドキドキします。血圧が上がります。興奮します。心臓にも脳にも負担がかかります。冗談のような言い方をしていますが、実際にはふらふらの状態です。重くなればまっすぐ立っていられません。身体も心も病んでしまいます。

「敵を愛すること」は北森先生が教えてくださったとおり、絶対に不可能なことかもしれません。「自分を迫害する者のために祈ること」も非常に難しいことであるのは間違いありません。

しかし、とにかく「祈ること」だけならば、かろうじてできるはずです。怒りと憎しみの感情が抑えられないほど湧いてきて、興奮して相手につかみかかり、大声で怒鳴りつけ、刃物を取り出して相手を切りつけたくなったとき、その衝動を抑えるために、自室に引きこもり、目を閉じ、腕を組み、神に祈る。そこまでならば、かろうじて、なんとかして、できるはずです。

そういうのは事なかれ主義の臆病者のすることかもしれません。「自分の家族や同胞の命を脅かす存在に対して激しい怒りと憎しみを抱き、勇敢に立ち向かうことこそ正義ではないか」という考えもあるでしょう。

しかし、とにかく落ち着く。冷静になる。「興奮しているこの私を、とにかく何とかしてください」と神に祈る。自分のために祈る。自分の助けを求める。「自分を迫害する者」のために祈るよりも前に。

乱暴なまとめ方かもしれませんが、今日の説教の結論は、とにかく落ち着け、ということです。興奮するな、ということです。冷静になれ、ということです。自分を落ち着かせるために自分のために祈れ。

そのことまでならば、なんとかなるでしょう。そこまでできたなら、これから私はどうすればよいかということが、興奮しているときよりも、はっきり分かるようになるでしょう。

(2018年8月19日)

2018年7月29日日曜日

感謝の生活

ローマの信徒への手紙6章15~23節

関口 康

「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

今日は7月最後の日曜日です。「私事で恐縮ですが」という言い方は当てはまらないかもしれませんが、私を担任教師にしていただいて4か月になります。1年の3分の1が経過しました。残り3分の2です。

4月の最初に私がお約束したのは「主日礼拝で1年間かけてローマの信徒への手紙を取り上げます」ということでした。しかしそれは、私がまだ皆さんのことを何も存じ上げない段階でのお約束でした。つまり、私から皆さんへの一方的なお約束でした。

しかし、「お約束」と申し上げていますが、「約束」というのは一方的なものであってはいけません。お互いに納得することが大切です。一方的に言うだけなら脅迫です。

なぜこのようなことを申し上げているか。お名前は伏せますし、今日ここにおられる方かどうかも伏せますが、ある方からご意見をいただきました。それは「たまにはイエスさまのお話を伺いたい」というご意見です。

それもそうだと思い直すところがありました。ここは猛然とアピールしますが、私は教会の皆さんからそういうご意見をいただくと、すぐ動きます。何のこだわりもありません。自分が立てた計画とか目標だとかいくら言っても、もしそれが一方的なものなら何の意味もないと思っています。ご意見をいただけたことに感謝しています。

来月から計画を変更いたします。具体的にどうするかは考えさせてください。1年間の説教予定表を自分で作りましたが、それを皆さんにお配りしているわけではありませんので、「どうぞご自由に」と思われるかもしれませんが。

こういうところも私の自己紹介の一面であると受けとめていただけますと助かります。私には何のこだわりもありません。そういう人間だと思っていただきたいです。

私がかつて働きを得た教会で、自分の立場や自分の考えで教会を変えてやろうなどと考えたことは一度もありません。それで叱られることが何度もあったほどです。あなたは優柔不断であるとか、自分のポリシーがないのかとか、さんざんです。

しかし、お叱りを受けるたびに私が思うのは、私よりもはるかに前から教会はあるということです。大げさではなく事実として2千年前から教会はあります。自分のやり方や考えで教会をどうにかしてやろうと考えること自体が傲慢の極みです。

強いて言えばそれが私のポリシーです。「自分のポリシーで教会をどうにかしてやろうという考えを一切持たない」というポリシーです。

だんだん何を言っているか分からない感じになってきましたので、このあたりでストップします。しかし、今日までは先週の週報で予告したとおりにさせていただきます。ローマの信徒への手紙の6章15節から23節までの箇所を、司会者の方に朗読していただきました。

この箇所にパウロが書いていることは何か。彼自身が書いているとおり「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(19節)ところであると言えそうです。しかしそれはあくまでも当時の人々にとっての「分かりやすさ」ですので、今のわたしたちにとって分かりやすいかどうかは別問題であると言う他はありません。

この段落でパウロが言おうとしていることを私なりに要約してみます。パウロが最も言いたがっているのは、いわゆる信仰義認の教理についての疑問に答えることです。

わたしたちが義とされる(すなわち「救われる」)のは、自分の行いや業績、功績、功徳を積むことによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるというのが、いわゆる信仰義認の教理です。

そして、その場合の「信仰」が「働きなし」(4章5節)であるということをパウロが強調しています。要するにわたしたちは「何もしなくても救われる」のです。

その意味は、何か良いことをし、良い仕事をした人だけに報酬もしくは給料として「救い」が与えられるわけではないということです。「救い」とはそういうものではなく神の恵みなのだということです。乱暴な言い方をしてしまえば、神の恵みとしての「救い」は、何もしていない人にもばらまかれるものです。

しかしこのようなことを言いますと、おそらく多くの人が疑問を抱き始めます。もしパウロの言うとおりだとすれば、何もしないどころか、「積極的に悪いことをしようではないか」とか「どんどん罪を犯そうではないか」などと言い出す人が出てくるに違いないし、実際に出てくるではないかという疑問です。

もしそうだとすれば、真面目に生きること、正直に生きることがまるで愚かなことであるかのようになってしまいます。真面目な生き方は窮屈でつまらないものかもしれません。悪事を働き、罪を犯すほうが、よほど面白い生き方かもしれません。

しかし、各個人がそのような考えで行動しはじめると社会はどうなるでしょうか。神を信じることが犯罪の抑止力になるどころか、推進力になってしまうでしょう。宗教が道徳の土台になるどころか、破壊力になってしまうでしょう。まるで教会こそが犯罪の温床であるかのように。それで社会的信頼を得られるでしょうか。

そんなことになるわけがない、というのがパウロの結論です。その結論をめざしていろんなことを言っていますが、そのためにパウロが用いているたとえそのものが、わたしたちにとって納得できるものかどうかは別問題です。これで納得できるなら、それはそれで問題はありませんが、何を言いたいのかさっぱり分からないと思う方がおられるかもしれません。その気持ちも私には少し分かります。

パウロが用いているのは、奴隷のたとえです。わたしたちは罪の奴隷になるか、神の奴隷になるか、そのどちらかであると言っています。わたしたちが救われるとは、わたしたちを奴隷にしてきた罪のもとから解放されて、神の奴隷になることだというのです。

「救い」とは「罪から救い出される」ことです。わざわざ「罪から」と記されていなくても、「救い」という字を見るたびに「罪からの」という字をいちいち補って読むことが大切です。

しかし、わたしたちは「世の中から救い出される」のではありません。それは誤解です。てこの原理(支点、力点、作用点)で「世の中から」取り外されてしまうことが救いだというなら、救われた者はどこに行くのでしょうか。まるで救いとは世の外で生きることであるかのようになってしまいます。それは死ぬことを意味するでしょう。救いは「世の中で罪から救われること」でなければ意味がないでしょう。

そして「神の奴隷になる」とは、神の義の奴隷になることを意味しています。それは、わたしたちは正しい神に服従することによって正しい生活ができるようになる、ということです。そうである以上、信仰義認の教理が教会を犯罪の温床にすることになるなどありえないのだと、かなり噛み砕いていえば、要するにパウロはそういうことを言っています。

しかし、どうでしょうか。この説明でわたしたちが納得できるでしょうか。昔のことは分かりませんが、現代社会においては「どちらも嫌だ」と思う人のほうが多いのではないかと私には感じられます。「罪の奴隷」であるのも嫌なことだが、「神の奴隷」になるのはもっと嫌だ。そういう抑圧的なことを言い出すから宗教は苦手なのだと反発する人が圧倒的に多いのではないでしょうか。

よりによって、なぜ「奴隷」なのか。神の奴隷になることが救いであるなどと言われれば言われるほど絶望的な気持ちになる。神は我々を自由にしてくれるのではないのか。なぜ絶対服従を求めるのか。窮屈で仕方がない。

いま申し上げているのは、私がそうだと思っているという意味ではないです。宗教が嫌いだ、教会が嫌いだとおっしゃる方々の心の中にあるかもしれないことを想像しているだけです。外れているかもしれません。

しかし、私の考えを言わせていただけば、パウロの言い分を弁護したい気持ちです。パウロはなぜ「罪の奴隷」のほうだけでなく「神の奴隷」のほうまで言っているのでしょうか、真意が何であるかはパウロ本人に聞いてみるしかありません。ですからここから先は私の想像です。しかし、パウロが用いている奴隷のたとえは私には納得できるものです。

それは、わたしたちは「神の奴隷」にしてもらわなければならないほどまでに「罪」がわたしたちを支配し、拘束する力は強いということです。両方に二股をかけて、神にも罪にも自由に行き来しようとするのは甘いということです。「罪」という会社でどれだけこき使われても、もらえるボーナスは「死」しかないよと。

やや本筋から外れることを申しますが、この箇所にパウロが「悪の奴隷」ないし「悪魔(サタン)の奴隷」と書いていないのは、私にとっては興味深いことです。そのほうが話としては分かりやすいかもしれません。しかし、パウロはそのように書いていません。書いていないことが重要だと思います。

なぜそう思うかといえば、そもそも「悪魔(サタン)」とは何者かという根本的な謎があるからです。聖書に登場します。神でも人間でもない超自然的な存在であると長いあいだ、教会で信じられてきた存在です。そうではなく「悪魔」は人間であると理解するようになった人々もいると思います。あるいは、ただの比喩で、実際には存在しないと考える人もいると思います。

私はそのあたりはどちらでもいいと思っています。ここでも私の優柔不断ぶりをいかんなく発揮します。しかし、悪魔はわたしたちにとって信仰の対象ではありませんので「悪魔(サタン)の存在を信じる」必要はありません。

それよりも罪の問題のほうが重大です。罪の存在を信じるか信じないかなどと愚かな議論をする人はいないと思います。これほどまでに罪があふれている世界に生きているわたしたちの中に。

聖書が語る「罪」と一般的な「罪」の意味内容が異なることは私も分かっていますが、両者は無関係ではないし、完全に別のことを言っているのでもありません。わたしたちは、神にしっかりつかまえてもらわないかぎり罪の奴隷のままです。神だけがわたしたちを罪の強い拘束力から解放してくれます。

これがパウロなりの「分かりやすい説明」です。神への感謝の生活が、神のもとで始まります。

(2018年7月29日)

2018年7月22日日曜日

ツルになりたかった牧師

日本基督教団王子北教会(東京都北区豊島)

コリントの信徒への手紙一1章18~25節

関口 康

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

みなさま、おはようございます。関口康と申します。今日は王子北教会の「特別礼拝」の説教者としてお招きいただき、ありがとうございます。

ごめんなさい。今申し上げたのは、うそです。私は王子北教会から招かれていません。私のほうから沼田和也先生に頼み込んで「王子北教会で説教させてください」とお願いしました。「謝礼は要りません」ともお伝えしています。うそをついたことをお詫びします。うそつき牧師と呼んでください。申し訳ありません。

説教を申し出た理由は、沼田先生が悩んでおられることが分かったからです。インターネットを神と教会のために役立てたいという沼田先生の願いが、必ずしもその願いどおりになっていないことが分かったからです。行く手が阻まれているようだと感じたからです。

私も沼田先生と同じように、インターネットを神と教会のためになんとか役立てたいと願っています。しかし、私もうまくいきません。特別礼拝のために配布してくださいましたチラシに私の肩書として「インターネット歴20年」と書いていただきました。そう書いてくださいと、これも私がお願いしました。



長さ自慢をしたいのではありません。「なんとか歴何年」と名乗るとすぐさま競争が始まるのが世の常です。「私のほうがもっと長い」とか言い出されます。しかし、競うつもりはありません。そんなのはどうでもいいことです。私はただ事実を述べているだけです。

とはいえ、全く意味もなく書いたのでもありません。私は1965年11月生まれの現在52歳。高校からストレートで東京神学大学に入学し、大学院まで6年間を過ごし、日本キリスト教団の教師になったのが1990年です。それ以来、牧師の仕事しかしたことがありません。牧師歴28年目です。

しかしその間、まるで他のことは何もしていなかったかのようにインターネットとのかかわりの部分だけが突出していると、はたから見ると見えたかもしれないほど、力を注いできたことを否定しないでおきます。

その私もインターネットの活用に関しては全くうまく行っていません。行く手を阻まれていると感じています。しかし、だからと言って私はインターネットから退却するつもりはありません。その理由については後でも申し上げますが、最初に短く言えば、私が過去20年インターネットでしてきたのは、字を書くことだけだったということです。それ以上でもそれ以下でもありません。

それが悪いと、私にはどうしても思えないのです。やめたほうがいいだの言われなければならないようなことだとは。それで沼田先生とスクラムを組むことにしました。同盟を組んで難局を突破することにしました。

私は昔から万年筆が身についたためしのない人間です。手書きで何かを書くときはシャーペンかボールペンで書きます。しかし、私が東京神学大学の学部4年を卒業したのは1988年ですが、卒業論文はかなり無理して万年筆で書きました。学校指定の400字詰め原稿用紙に。その2年後の1990年に提出した修士論文はワープロで書きました。その切り替えが始まった頃でした。

修士論文の主査に大木英夫先生がなってくださいました。評価は「C」。ギリギリ及第。それでも大木先生は私の修士論文をほめてくださいました。「ワープロがきれいだ」と、そこだけほめてくださいました。冗談ではなく事実です。

その翌年の1990年、私は日本キリスト教団の補教師試験を受け、高知県南国市の日本キリスト教団南国教会とその伝道所である南国教会大津伝道所の両方で伝道師として働きを始めました。そして翌年1991年に結婚しました。

結婚前の1年間は、妻は大学4年生として東京にいました。私は高知。高知に行く前に婚約式をしましたが、高知と東京の距離はあまりに遠く、会うことができないどころか、電話すらままならない状態でした。

当時の教会の雰囲気を覚えている方がおられるはずです。携帯電話が普及していなかったころ、教会の公用電話とは別に私用の電話回線を持っている牧師はほとんどいませんでした。牧師が教会の電話を使うのは当たり前でした。

しかし高知から東京に電話すると、月に5万円を超える請求書が届く。自分で使った分は自分で払えば済むことですが、なぜこんなに使ったかと言われたりするので、最愛の婚約者に電話することもできない状態でした。

いまお話ししているのはインターネット普及前夜の物語です。そして、私がなぜインターネットを使いはじめたのか、その理由の時代的背景を申し上げています。第一の理由は、最愛の婚約者に電話することに支障をきたす経験をしたからです。東京と地方の連絡にかかる経費負担をどうすれば軽くできるのか。

しかし、それだけではありません。似ていることの別の側面の問題がありました。高知にいたころに痛感したことが、東京と地方のあまりにも大きすぎる情報格差でした。当時流行していたテレビドラマに「東京ラブストーリー」などありましたが、高知の民放は2局(当時)、NHK2局でしたので、曜日も時間もかなり遅れているのを観たりして、話題についていけなかったりして。その情報格差の問題をなんとかして解決したかった。それが私がインターネットを利用することにした第二の理由です。

そのような経緯を経て、私はまず「パソコン通信」を1996年に始めました。福岡県北九州市の教会にいたころです。そして、正確な意味の「インターネット」を始めたのが1998年です。その年、山梨県の教会の牧師になりました。そこで新たな動機が加わりました。

その山梨県の教会は、日本キリスト教団の教会ではありませんでした。私は日本キリスト教団立の東京神学大学を卒業し、日本キリスト教団の教師になり、日本キリスト教団の教会の牧師になりましたが、1997年から2015年までの19年間は、日本キリスト改革派教会の教師でした。しかし、その私が日本キリスト教団に戻ってきてしまいました。なぜ出て行ったのか、なぜ戻ってきたのかについては、話すと長くなりますので、今は割愛します。

そのことよりも、今はっきり申し上げたいのは、1997年に日本キリスト教団を離脱したとき、日本キリスト教団に対する敵意はなかったということです。恨みも憎しみも敵意もありませんでした。しかし、そのことを伝える手段がありませんでした、インターネット以外には。

私の思いをどうすれば日本キリスト教団のせめて元同僚に伝えることができるかで悶々としていたころ、暑中見舞いだったか年賀状だったかを忘れましたが、東京神学大学の同級生(年齢は5つほど私よりも上です)の清弘剛生牧師が送ってくださり、その中に一言「お元気ですか?」と手書きで書いてくれていました。それを見て「そうだ、清弘先生にメールを書こう。私は日本キリスト教団を離脱したが、教団への敵意がないことをメールで伝えよう」と思いました。

清弘先生は天才級の理系の方で、当時からインターネットを駆使しておられました。1990年代に「ウェブチャペルウィークリー」なるウェブサイトを立ち上げ、毎週の説教を公開し、メールマガジンで数百人の読者に配信しておられました。清弘先生がインターネットの私の師匠です。

その後、清弘先生と私とで1999年2月にオランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラーの翻訳と研究をする「ファン・ルーラー研究会」なるメーリングリストを立ち上げました。1年後には100人を超え、その後もメンバーが増え続けました。そのせいで、関口康といえばインターネットで悪さをしている人間だと批判的な目を向ける人が増えました。

しかし、私はインターネットで何をしてきたかといえば、ただ字を書いてきただけです。それ以外の何もしていません。そして、強いて言えば、それ以前よりも広い範囲の人々と情報共有ができるようになったので、それを実行に移しただけです。それ以上でもそれ以下でもありません。

しかし、いまだにインターネット害悪論が教会の中に聞こえるのは、どういうわけでしょうか。インターネットには明るく健全な情報だけでなく、暗くて不健全な情報もあるからでしょうか。そういうのと教会の「聖なる」情報が一緒くたにされるのは困るというような理由でしょうか。

その感覚は私も全く理解できないと思っているわけではありません。インターネットの情報が「玉石混交」であるのは当たり前です。しかし、それを言うなら大げさなハードカバーのついた本だって同じです。そこにあるのは、ただの字です。たとえ仮にインターネットが「悪い字」で満ち満ちているとしても、そうだと思う人が「良い字」をインターネットに増やしていけば済むことです。事は意外に単純です。

今日開いていただいた聖書の箇所に「宣教」は「愚かな手段」であるとパウロが書いています。この場合の「宣教」の意味は、言葉で伝えること、広めること、事実を事実として告知すること、情報共有の範囲を広げることです。なぜそれが「愚か」なのか。思い当たる理由は、事実を事実として告知すること自体には取り立てて意味も価値もないことです。

私はよく、ツイッターやフェイスブックで「今日の自作料理」の写真を撮って公開しています。「だから何?」と言われるようなことを。第三者にとってはどうでもいいことを。

同じ次元で言うと叱られそうですが、福音書が描くイエス・キリストの十字架刑も、「イエスは十字架につけられた」と、事実を事実として淡々と告知するだけのところがあります。今の小説家ならきっと細かい心理描写や情景描写をしそうなところで、うるさい解釈抜きで事実だけを記述しています。

読者の側に「だから何?」という反応が起こるのは当然です。しかし、だからこそ、解釈は読者に任されます。そのほうがかえって想像力が刺激されます。「何の意味があるのだろう」と考え続ける人を生みます。

もう一度言います。高級な万年筆で書こうと、達筆の人が毛筆で書こうと、安いシャーペンやボールペンで書こうと、美しいワープロの字で書こうと、字は字です。本質的には何の違いもありません。大げさな装丁の本として出版しようと、ブログに書こうとツイッターに書こうと、字であることに変わりありません。

「字をバカにするな」とも言わせていただきます。それは言葉です。言葉は現実に人を救う力を持つことができます。言葉で激しく傷つけられることもあるし、あったでしょう。しかしまた、言葉でこそわたしたちは慰められ、癒されます。

「字に書いた言葉を広めること」が、究極的な意味での教会の使命であるなら、教会とその牧師がインターネットを利用することに躊躇する理由は、全くありません。

(2018年7月22日、日本キリスト教団王子北教会特別礼拝)