日本キリスト教団立川からしだね教会(東京都立川市高松町3-2-1) |
使徒言行録9章26~31節
関口 康
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」
立川からしだね伝道所のみなさま、こんにちは。関口康(せきぐちやすし)と申します。よろしくお願いいたします。
4月から西東京教区の教会の担任教師になりました。先月発行された『教区だより』の「新着任教師紹介」の中に私の文章もあります。1990年に日本キリスト教団の教師になりましたが、途中19年間は日本キリスト改革派教会に移籍し、2年前の2016年に日本キリスト教団に戻ってきました。
今日は私のほうから道家紀一(どうけのりかず)先生にお願いして説教させていただくことになりました。道家先生は、最初は嫌がっておられましたが、私がしつこくお願いしたので仕方なく受け入れてくださいました。
しつこくお願いしたのは、道家先生の前でどうしても言いたいことがあったからです。ひとことでいえば、道家先生は素晴らしい伝道者であるということです。
お世辞を言いに来たのではありません。道家先生を昔からよく知る者のひとりとして、お人柄の一端をご紹介したいと思いました。初対面のみなさまですし、夕礼拝でもありますので、聖書の言葉を厳密に解釈するような硬い話ではなく、私の個人的な証しをするのをお許しいただきたく願います。
私と道家先生の初めての出会いは1985年4月です。今から33年前です。私が東京神学大学の1年生から2年生に進級したとき、道家先生は茨城大学を卒業されて3年に学士編入されました。年齢は道家先生のほうが私より5歳も年上の大先輩ですが、東京神学大学の学生寮の住民としては私のほうが1年先輩でしたので、何を言われてもいつもタメ口で返していました。
学生寮時代の道家先生との最大の思い出は、私が学部4年のとき中古で買って2年ほど乗った赤いスポーツカー「日産シルビア」を売ることになったときに買ってくださったのが道家先生だったことです。当時の東京神学大学を覚えている人たちは「赤い車の関口」のことばかりを悪く言うのですが、それを言うなら道家先生も赤い車に乗っておられました。
道家先生は1989年3月に大学院を修了されました。そして最初に赴任されたのが徳島県の小松島教会でした。1年後の1990年3月には私も大学院を修了し、高知県の南国教会に赴任しました。つまり道家先生と私は、同じ四国教区の教会で伝道者としての歩みを始めた関係です。
そして、教区や分区での関係だけでなく、いわば有志の集まりとして、高知県、徳島県、愛媛県の牧師と教会をつなぐグループがありました。そして、そのグループ主催の「説教セミナー」があり、そこでも私と道家先生が同席する機会が何度かありました。
そのグループのことも「説教セミナー」のことも話し始めると長くなりますので、割愛します。しかし、私の人生において決定的な意味を持ちました。
ある年の「説教セミナー」の席上、私は当時のリーダー格の先輩牧師たちを、面と向かって非常に強い言葉で批判しました。そして、その翌年、私は南国教会を辞めて九州教区の教会に転任しました。さらにその教会も1年足らずで辞任し、とうとう日本キリスト教団そのものも辞めて、日本キリスト改革派教会に移籍しました。それが1997年です。
なぜ私は教団を辞めたのか、なぜ改革派教会に移籍したのかについても、長くなりますので割愛します。しかし、ひとつだけ申し上げたいのは、私が教団離脱を決断した決定的な瞬間は、その道家先生も参加しておられた、あの「説教セミナー」の最中だったということです。
ところがその後、神さまがいたずらを始めました。そして、私の身に大きな変化が起こるたびに、なぜかいつもそこに道家先生が登場しました。
道家先生との再会の最初は、2009年に宗教改革者カルヴァンの生誕500年を迎えるにあたり、2007年にアジア・カルヴァン学会の日本大会が行われることになり、その前年の2006年にカルヴァン研究者の久米あつみ氏を中心に日本側のスタッフチームを作ることになったときです。
スタッフになってほしいと日本キリスト改革派教会の私にも呼びかけがあり、久米あつみ長老がおられる井草教会に集まることになったとき、当時の井草教会の牧師が道家先生でした。
まさか無視するわけには行かないだろうと道家先生がおられる牧師室をお訪ねしました。そして私が「ご無沙汰しています」と言うなり、道家先生から返ってきたのは「裏切り者め」という言葉でした。いかにも道家先生らしい言葉を聞くことができて安心しました。
そして、その再会の日すぐにではなくカルヴァン学会のスタッフミーティングの何回目かのときでしたが、道家先生がちょっとうれしいことも言ってくれました。ただ一言、「関口くんの言ったとおりになった」とおっしゃいました。しかし、それ以上のことは何もおっしゃいませんでした。
当時の私は日本キリスト改革派教会の教師でしたので、日本キリスト教団の内部のことは分かりませんでした。しかし、そのとき道家先生がおっしゃった「関口くんの言ったとおり」の意味が、あの「説教セミナー」のときに私が強い調子で言った批判の言葉を指していることに、私はすぐに気づきました。その道家先生の一言に深く慰められたのを忘れることができません。
聖書の話そっちのけで私の話になって申し訳ありません。しかし、どうしてもお話ししたいのです。私は、当然のことながら、日本キリスト教団に戻ることは二度とありえないという強い決心をもって離脱しました。その決心がないような教団離脱などそもそもありえません。しかし、人間が憎くなったとか、だれかにつまずいたというような理由ではありませんでした。
何が最も根本的な理由だったかといえば、日本キリスト教団において教師に対する「戒規」を行うことは「絶対に不可能」であると当時の私に思えたことでした。1997年に教団に提出した教師退任届に書いたのはそのことでした。私が書いた文面は、教団事務局に今でも保管されているはずです。
私自身も罪深いひとりの人間として生きつつ神の言葉を預かり語る者として、もし自分が罪を犯したときに、この私に免職の戒規を適用する仕組みが機能しえないような教団にとどまることに、当時の私は良心の呵責を覚えました。
逆に言えば、理由はそれだけでした。私にとって問題だったのは「戒規」の問題だけでした。
だからこそ私は、移籍先の日本キリスト改革派教会の中で親しくなった人々に例外なく打ち明けてきたのは、「もし日本キリスト教団でたったの一度でも教師への戒規を行うことができたら、私は日本キリスト教団に戻るであろう」という自分の考えでした。その意味は、日本キリスト教団にそれを行うことは「絶対に不可能」であるということでした。
ところがその後、2010年に日本キリスト教団史上初めて教師に対する免職の戒規が行われたことをキリスト新聞の報道で知り、天地が逆転するほど驚きました。そしてなんと、免職された当該教師への言い渡しの場に道家先生が担当幹事として立ち会っておられたことを最近知り、これまた驚きました。
それで困ったのが私です。その2010年の戒規と共に、私に「日本キリスト教団に戻らない理由」がなくなってしまいました。それで日本キリスト教団に戻ることを決心しました。
一昨年の2016年の春に受けた教団の転入試験の提出論文にも、そのことしか書いていません。教師検定委員会の面接のとき、委員全員が「こんなのは理由にならない」と文句を言いましたが、私は「いけませんか」と気色ばんだだけで、それ以上のことは言いませんでした。それで通してもらいました。
日本キリスト教団で任地を求めていたとき、当時教団の総務幹事だった道家先生にも何度かお会いしましたが、その答えがいちいち冷たい。「戻ってくるな」と言われました。そういう人だということは昔から知っていますので、笑いましたが。
そして今や、道家先生と私は、西東京教区の「隣の隣」の教会の牧師になりました。道家先生は私のこれまでの人生の中で随所随所に突如として姿を現わし、何ごとか決定的なことを告げて去っていく、天使なのか悪魔なのか分からない存在であり続けています。
なぜ今日、このような話をするために先ほど朗読していただいた聖書箇所を選び、このような説教のタイトルをつけたのかということを、そろそろ申し上げます。
この使徒言行録9章は、使徒パウロがまだサウロと呼ばれていたときに体験した回心の出来事と、キリスト教会の伝道者として歩み始める出発の場面が描かれている箇所です。
サウロ(後の使徒パウロ)は、キリスト教会にとっては最近まで自分たちを殺そうとしていた迫害者であり、ユダヤ教側にとってはキリスト教に寝返った裏切り者でした。両サイドのどちらの人々からも信用してもらえない孤立感の中で、伝道者としての歩みを始めました。
そのとおりのことが書かれています。「サウロはエルサレムに行き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」(26節)。当然のことです。しかし、助け舟を出してくれたのがバルナバでした(27節)。
バルナバの仲裁によって、やっと使徒たちがサウロを信用してくれて、話を聞いてくれました。そして、サウロの命を狙う人々もいたので、逃げ道を作って助け出し、伝道の旅へと送り出してもらえました。
このときのサウロの一連の動きの中に、いわゆる奇跡の要素は全くないと私には思えます。天からバリバリと稲妻がとどろき、超自然的で神秘的な奇跡が起こった形跡などは全くありません。
ここに描かれているのは、前途に立ちはだかる壁や障害物をハンマーでぶち壊して無理やり道をこじ開けるのではなく、鍵を探して扉を開けるように、壊れた人間関係を修復するための仲裁の努力を重ねることによって道を切り開いていく、そのようなサウロと支援者の姿です。
「伝道」の話になると「壁をぶっ壊せ」だの「既成概念を打ち破れ」だのと言い出す人がいますが、そのような暴力的な言葉に私が突き動かされることはありません。とことん事務屋に徹し、教憲教規と信仰告白を踏まえ、「教会論的手続き」を積み重ねていく道家先生のような方の言葉に私は全力で耳を傾けます。
手続きを無視してめちゃくちゃに人を集めても、それが「教会」になることはありません。そう思ったからこそ私は、年がら年じゅう会議と事務仕事ばかりしている、温度が低い日本キリスト改革派教会に移籍したわけですが。
たとえていえば(あくまでもたとえです)、道家先生は、太っている人に「太ってるね」、勉強が苦手な人に「勉強が苦手だね」と言ってくれるような人です。とことん冷たいですが、言葉に嘘がありません。事実を事実としてまっすぐに伝えてくれる真の伝道者です。そういう人がいなければ「教会」はできません。
立川からしだね伝道所と西東京教区の諸教会のために、心からお祈りいたします。
(2018年9月21日、日本キリスト教団立川からしだね伝道所 夕礼拝)