2018年10月28日日曜日

栄光は主にあれ(永眠者記念礼拝)


マタイによる福音書18章21~35節

関口 康

「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」

わたしたちは今日、この教会の永眠会員をおぼえての永眠者記念礼拝をささげています。しかし、狭く考える必要はありません。それぞれの方々のかけがえのないすべての方々をおぼえていただく日でもあります。

私事で恐縮ですが、この教会での永眠者記念礼拝は、私にとって今日が初めてです。私が今この場に立っていること自体がふさわしくないのではないかという気持ちがあります。なぜなら私は、こののち読み上げさせていただく永眠者名簿の方々をひとりも存じ上げないからです。私に何を語ることができるでしょうか。一般的な話をすることにとどめるしかありません。

この教会はプロテスタントの教会です。旧教か新教かという言い方でいえば、新教の教会です。だからといって私はキリスト教の教会を分断したいわけではありません。新教の教会と旧教の教会を区別すること自体は、大雑把なことです。区別したからといって、一方が他方を必ず批判しなければならないわけでもありません。

今なぜこのことを言うのかといえば、さかのぼっていえば葬式と、その後の永眠者記念礼拝についてのわたしたちの教会の立場を申し上げたいからです。それは、今日のこの日の礼拝は何のために、あるいはだれのために行うのかという問いの答えです。

それははっきりしています。新教の教会の葬式も、そして永眠者記念礼拝も、地上に残された人々の慰めと平安を祈るために行います。天に召された永眠者自身のためではありませんと、はっきり言いすぎるとぎょっとされるかもしれません。しかし、この点がとても大切です。

旧教の教会はそうではないと今でも言えるかどうかは、本当のところは内部の人々にしか分かりませんし、外部の者が言う必要がないことです。しかし、この問題こそが新教の教会と旧教の教会が分断されることになった原因そのものです。もう500年も前のことです。

細かい話になっていくのは避けたいと願うばかりですが、ごく大雑把な話として、天に召された方々は地上の世界から天の父なる神のみもとへとまさに召されるのであって、その途中は「ない」というのが、わたしたち新教の教会の共通理解です。しかし、その途中が「ある」と500年前の旧教の教会で教えられていたことで、その点が問題になりました。

途中とは何のことかというと、地上から天国へと向かう道の途中です。「道の駅」のようなものがあるということです。もっとシビアなたとえを持ち出すとすれば、何か悪いことをして警察に逮捕される。しばらく警察の留置所にいて、裁判所の拘置所に移送されて、法廷に引きだされる。裁判が始まり検察側と弁護側がやりあって、最後に裁判長が有罪か無罪の判決を下す。こういった一連のことが、わたしたちが地上の命を終えた日から天国へと迎え入れられるまでの途中で行われるということです。

だからこそ、地上に残された人々は、天に召されつつある人々のために祈らなければならないし、その人々のための支援をしなければならないというのが、少なくとも500年前の旧教の教会で教えられていました。またこれは、今のわたしたちが仏教等の他の宗教の中で似たような考え方に接する機会が多い思想でもあります。

途中があるかどうかだなんてどうでもいいことだと言えば言えなくもありません。しかしそれは、途中は「ない」と信じているわたしたち新教の者たちの感覚かもしれません。途中が「ある」と本気で信じている人々にとっては、天に召されつつあるがまだたどり着いていない方々のための祈りと支援が必要であると本気で信じることになりますので、それはもう必死です。「途中の安全が守られますように」と祈ってあげなくてはならないし、自分がその日を迎えたときも同じように祈ってもらわなくてはなりません。

そのほうが納得できる、自分の考えに合う、心が落ち着くという方々がおられるかもしれませんので、批判する意図で申し上げているのではありません。そうではなく、ただ安心していただきたいだけです。途中は「ない」という新教の教会の教えの趣旨も同じです。わたしたちは安心してよい、ということです。

天に召された方々は、まさにその瞬間に天に召されたのであって、それ以後さらに多くの厳しく苦しい難関が待ち受けていて、試験に合格するかどうか分からないので、必死で祈って支援してあげるようなことは、もう必要ないということです。

だからこそ、わたしたちが行う葬式も、永眠者記念礼拝も、天に召された方々の行く末を地上から応援するために行うのではないという話にもなります。

十分すぎるほどがんばった人に「がんばれ」と言うのは、失礼なことでもあります。今さら何をがんばればいいのかが分からないと叱られるでしょう。「もう十分にがんばったのだから、ゆっくりお休みください」と言うのも、考えてみれば失礼な気がします。そのように言いたくなる気持ちは分かりますが。

天に召された方々は、もう天の父なる神のもとにおられるのです。救いの神が共におられるのです。救いはもう十分に実現しているのです。だから、わたしたちはもう、その方々の心配をする必要は全くないのです。ですからわたしたちは今日この永眠者記念礼拝を、亡くなった方々のために行っているのではありません。このように申し上げるのは冷たい意味では決してありません。

むしろ心配しなければならないのは、地上に残されたわたしたちのことです。罪と病と死の苦しみの只中にいるわたしたちのことです。だからといって、天に召された方々のことを羨ましがるのもどうかとは思いますが、わたしたちには十分にリアルな意味で残された途中の道がまだたくさんあります。道の駅があります。多くの課題に取り組まなくてはなりません。そのために多くの先輩たちの在りし日の姿を思い起こすことには、大きな意味があります。それがわたしたちの力になり、勇気にもなります。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所で、イエス・キリストが弟子のペトロに「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と教えておられます。地上でわたしたちは、加害者になるだけでなく被害者にもなります。被害者になった場合はどうすればよいかというペトロの疑問に対するイエス・キリストの答えが「七の七十倍までも赦しなさい」です。

491回目からは赦す必要はないという意味ではありません。とことん赦しなさい、どこまでも赦し続けなさいという意味です。あとに続くたとえ話は、どうぞそれぞれお読みくださり、その意味を考えてみてください。大事なのは「天の国は次のようにたとえられる」(23節)と言われているとおり、これは天国の話であるという点です。

わたしたちにはまだ、地上でしなければならないこと、心を残していることがたくさんあります。なかでも気になるのは罪の問題です。あの人に悪いことをした。あの人に謝っていない。あの人に借りがある。あの人と和解できていない。本当は今すぐに直接会ってお詫びしたい。しかし、事情が許さない。身動きがとれない。もう二度と立ち上がれないかもしれない。その日が近づいている。そのような思いを、最期の日まで、意識が続くまで、抱えて生きていくのがわたしたちです。

しかし、安心しましょう。安心してください。わたしたちの最期の日に待ち受けているのは、厳しい取立人ではなく、七の七十倍まで赦してくださるイエス・キリストです。神はイエス・キリストにおいてすべての人の罪を赦してくださいます。イエス・キリストはそのことを弟子たちに教えたが、ご自分は誰の罪をも赦さないというような言行不一致のおかたではありません。

私には何も思い残すところはないと言える人はひとりもいないのです。だからこそわたしたちは互いに赦し合う必要があります。天国まで追いかけてくることができる取立人はいませんし、たとえ追いかけてきても、神がその人を追い返してくださるでしょう。神のもとにある平安とは、そのようなものです。

私たちに求められているのは、イエス・キリストにおける神の根源的な赦しの恵みの前に謙遜な思いで立つことです。そして、人から罪を赦されるのも、人の赦すのも、神の助けなしにはなしえないことを認めて、すべての栄光を神にお返しすることです。

神が私の罪を赦してくださったのだから、私もまた、だれかが私に犯した罪を赦さなければならない。そのことを決心し、約束する機会として、毎年の永眠者記念礼拝が行われることを願ってやみません。

(2018年10月28日、永眠者記念礼拝)