2018年9月16日日曜日

門をたたく者には開かれる


マタイによる福音書7章7~12節

関口 康

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

今日の箇所に記されているのもイエス・キリストの言葉です。イエスさまは二千年前に本当にこのようにお話しになりました。そのようにわたしたちは信じてよいのです。しかし、わたしたちの信仰はそれだけで終わるものではありません。

教会の信仰によれば、イエスさまは十字架にかけられて死に、三日目によみがえり、その四十日後に天に昇り、父なる神のみもとで今も生きておられます。そのイエスさまは今もわたしたちに御言葉を語り続けておられます。そのようにも信じてよいのです。

今は昔と状況が全く違うので、今の状況にマッチする言い方に変えて語るということはありうるかもしれません。しかし、視点と方向においてイエスさまのお考えが根本的に変わることはないと思います。たぶん大丈夫です。

「たぶん」とか「と思います」などと余計なことを言う必要はないかもしれません。しかし私がこういう言い方をするのは、勢いで口走っているのではなく、理由があります。意図的な言い方です。その理由をふたつ挙げます。

一つは、私はイエスさまではないということです。当たり前のことです。もう一つは、わたしたちはいまだ完全な仕方で神の御心の実現を見ていない、その意味で不完全な世界の中で生きているということです。もしそうであれば、地上に「こうです」と断言できることは何もありません。実際にどうであるか、どうなるかは「信仰と祈りの事柄」に属することです。

鈴木正三先生が生涯の研究テーマにしておられるディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者の言葉として伝えられているのは「究極以前の事柄」という概念です。その意味は、私がいま申し上げたようなことです。

わたしたちは、天上の御心が完全に実現しているわけではない、不完全な世界の中で生きているということです。神の御心が究極的に実現しているのが「天国」だとすれば、わたしたちが「いまここで」生きている地上の世界のすべては「究極以前の事柄」であるということです。

ボンヘッファーについては、私は斜め読みした程度ですので、詳しいことはぜひ鈴木先生に教えていただきたいです。この神学者が地上の事柄を「究極以前」と呼んだのは、それは究極的な事柄としての天国よりも次元が低いものだから軽んじてよいという意味ではないと私は理解しています。

もっとも私は、ボンヘッファーの言葉を自分の都合のいいように、説教の言葉を断言口調にせずに事柄を曖昧にし続けるための理由にするくらいのことしかしていないのですが、この概念にはもっと深い意味があると思います。私の心に浮かぶのは、地上の世界を「究極以前」としてとらえることは、単なる世界観の問題ではなく、わたしたちの信仰に基づく生き方や行動の問題になっていくだろうということです。

それはどういう意味かという問いの答えを考えるところで、今日の聖書の箇所を見ていただきたいのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。

イエス・キリストの御言葉です。この御言葉については口語訳聖書よりもさらに以前の文語訳聖書の言葉で暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門をたたけ、さらば開かれん」。

これは多くの人に誤解されている言葉であるということが、よく指摘されます。欲しいものは何でも手に入る。そのようにイエスさまが教えてくださったと。しかし、実際にはそのようなことは起こらないわけです。わたしたちは欲しいものだらけ、不満だらけです。あれもない、これもないと、毎日のように愚痴をこぼしています。

求めても与えられないのは、わたしたちのお祈りが足りないからでしょうか。そうかもしれません。よし、これからみんなでお祈りしましょう。そうすれば、明日の朝にはどっさりと、わたしたちの家の玄関に大きな荷物が届くでしょう。そうであればいいのですが、全くそうでない現実をわたしたちは生きています。

そうであれば、イエスさまがおっしゃったことのほうが間違っているのでしょうか。求めても与えられたことがない。探しても見つかったことがない。そちらのほうの記憶と感覚のほうが、願ったものはちゃんと与えられたし、探したものはちゃんと見つかったということよりも、わたしたちの心と体の中にはるかに強く残っているとしたら、イエスさまの教えは虚しく感じられるばかりです。

しかし、もしそうである場合、二つの解決策があると思います。これは私の提案です。ひとつの解決策は、イエスさまの御言葉についてのわたしたちの解釈が間違っていると考え、これはどういう意味なのかを考え直すことです。「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」とはどういう意味なのかを歴史的・文献学的・神学的に研究することです。

そして、その場合の研究の目的は、イエスさまがおっしゃっているのは「欲しいものは何でも手に入る」というような次元の低いことではないのだ、ないのだ、もっと次元の違う高尚な意味があるのだ、あるのだと、自分自身に言い聞かせ、納得を得るためです。それで納得できれば、それはそれで、わたしたちの心に平安が与えられるかもしれません。

しかし、もうひとつの解決策があります。それは、求めても与えられない、探しても見つからない、門をたたいても開けてもらえないと、ほとんどいつも不満を感じているわたしたち自身の姿を鏡に映してよく見ることです。鏡に映る自分の姿を見ながら、本当にそれほどそうなのか、本当にわたしたちは求めたものを与えられていないのか、もう十分すぎるほど与えられているのではないかと、考えてみることです。そちらのほうがすぐにできることです。

しかし、自分で提案しておいて何ですが、この第二の解決策で問題が解決する人はあまりいないかもしれません。自分は足りない、自分は足りない、自分は足りないと、ほとんど常に思い込んでいる状態ですから。これはどなたかの話ではなく、私自身の話です。わたしたちの認知がそのようなひとつの視点で固定されてしまっていれば、自分の姿を何度鏡に映しても、足りない自分としか見えない可能性は十分あります。

ただし、やめたほうがいいと思うことがあります。やめましょう。それは他人と比較することです。あの人と比べて足りない、あの人よりは足りている。それは相手にも自分にも失礼なことですし、全く余計なお世話です。しかし、それがもしかしたら最も根本的な問題かもしれません。なぜ自分は不満を感じるのか。それは他人と比較するからではないかということに気づく必要があるかもしれません。

しかし、もしそうだとしても、そのことに気づくだけにしましょう。比較そのものをやめることは、わたしたちには不可能です。やめましょうといくら言ってもやめられません。なぜなら、わたしたちはひとりで生きていないからです。必ず多くの人と共に生きている社会的な存在です。他人との比較を全く考えず、自分のことだけを見つめて生きることのほうが、かえって問題ある行動かもしれません。

しかし、ここでひとつよく考えるほうがよさそうなのは、いったい自分は本当のところ何が欲しいのだろうかということではあります。他人との比較の中で考えれば、欲しいものはすぐ見つかります。あの人のような身長とか見た目とか、家や暮らしが欲しい。そう願うことは全く自由ですが、おそらく実現しません。一時的に実現しても消えていきます。

敬老感謝のお祝いの日に、嫌がらせのようなことを言いたいわけではありませんが、厳しいことも言わなくてはなりません。「究極以前の事柄」は時間の経過と共に変化し、朽ちていきます。かつて若かりし頃に欲しいものがたくさんあった。それをがんばってすべて手に入れた。しかし、見よ、すべてが古くなった。古くなったものをどうやって捨てようかと悩んでいる。捨てるにもお金がかかるではないか、というようなことで悩むのが、わたしたちのあからさまな現実です。

今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、先週お話ししたことと、実は全く同じです。神に頼りなさいということです。それ以上のことはおっしゃっていません。空の鳥や野の花さえ見捨てず養ってくださる天の父が、わたしたち人間のことを見捨てるはずがないでしょう、ということです。わたしたちの神さまは、わたしたちの求めに対して最も良きものを与えてくださるでしょう、ということです。

イエスさまは「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(9~10節)とおっしゃっています。現実の人間の親の中にこういうことをする人がいるという指摘はしておくべきでしょう。います。いてはいけないのですが、います。明確な殺意をもって自分の子どもを殺す親がいます。

イエスさまも人間が「悪い者」であることをご存じです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも」(11節)とおっしゃっています。人間に対して甘い見方をしておられません。厳しく見ておられます。

しかし、そのうえで、イエスさまは「自分の子供には良い物を与える」(同上節)人間の姿をご存じです。そのことをイエスさまは責めておられません。これは大事な点です。イエスさまは「自分の子どもに良きものを与える」のは人間のエゴイズムだ、マイホーム主義だなどとおっしゃいません。

「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」(同上節)というのがイエスさまの結論です。何が「良い物」なのかの内容は記されていません。もしかしたらそれはわたしたちが求めたものとは違うかもしれません。しかし、神はわたしたちに必要な、わたしたちにとって最も良いものを与えてくださいます。

わたしたちは神を、自分の欲望をかなえさせる召し使いにすべきではありません。

ここでちょっと話を落としますが、昔の漫画映画(テレビアニメ)の「ハクション大魔王」を覚えておられる方がいらっしゃるでしょう。呼ばれて飛び出てなんとやら。今の「ドラえもん」のことはきっとご存じでしょう。不思議なポッケでなんでも夢をかなえてくれる。

わたしたちの神はハクション大魔王でもドラえもんでもありません。そのことを最後に申し上げておきます。

(2018年9月16日)