2018年9月9日日曜日

思い悩むな


マタイによる福音書6章25~34節

関口 康

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

先週立て続けに起こった台風21号と北海道地震で大きな被害を受けた方々のために心からお祈りいたします。

今日の聖書の箇所を私が選んだのは、先週9月2日に発行した週報を作るときでした。それは8月27日です。なぜこのようなことを言うかといえば、先週の大きな災害のことを予想する由もなかったときに選んだ聖書箇所であることをご理解いただきたいからです。今の状況を知ったうえで関連づけてお話しする意図が、あらかじめあったわけではありません。

今年6月末から7月初めにかけて起こった西日本豪雨災害のことは意識にありました。他人事だと思う気持ちはありません。しかし、国内や世界中で起こる災害や事故・事件と被害に対して、具体的にどのように考え、何をなすべきかについての行動原則のようなことは私の頭と心では思いつきません。心苦しく思っております。申し訳ありません。

わたしたちにできるかもしれないのは聖書の御言葉に基づく信仰の言葉で苦しみの中にある方々を慰め、励まし、力づけることだろうという思いは、私の中にもちろん常にあります。その思いがないようなら、何のために教会が現代社会に存在するのか、その意味すら分からなくなります。

しかし、言い逃れか開き直りのように響いてしまうかもしれませんが、実際問題として言わざるをえないのは、教会にできることはあまりに小さい、ということです。

テレビがあり、インターネットもある時代の中で、世界の隅々に起こる災害や事件の情報が瞬時に飛び込んで来るようになりました。理想的には、苦しみ悩むすべての方々のためにまんべんなく公平にお祈りしたいところです。しかし、現実には不可能です。

ごく大雑把な言葉で「すべての人が救われますように」と祈ることはできますが、地上に起こるすべての災害や事件について詳細な状況を把握したうえで祈ることはできません。こういうことを言葉にしてはっきり言うと冷たいことを言っているように思われるかもしれませんが、冷たいことを言っているつもりはありません。

今日の箇所に記されているのはイエス・キリストの言葉です。新共同訳聖書のこの段落の小見出しに「思い悩むな」と書かれています。そのとおりの内容です。前後の文脈が分かるように引用すれば、次のとおりです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。

「思い悩むな」を昔の口語訳聖書などでそう訳されていた「思いわずらうな」という訳のほうで暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。「思い悩む」も「思いわずらう」も意味は同じです。

もっと単純に「心配するな」とか「くよくよするな」などと訳しても全く問題ありません。意味は同じです。「思い悩む」とか「思いわずらう」と言うほうが高尚なことを言っていて、「心配するな」というのは次元の低いことを言っている気がするというような感覚が、もしかしたらわたしたちのうちにあるかもしれませんが、それは考えすぎです。

これで分かるのは、イエス・キリストの御言葉の趣旨は、わたしたちの日常生活に関すること、特に衣食住に関することについて、くよくよ悩むな、心配するな、と言っておられるということです。もう少し踏み込んで言えば、イエスさまが問題にしておられるのは、わたしたちの衣食住の具体的な内容に関することであるということです。

「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」と言われているわけです。食べるか食べないか、飲むか飲まないか、着るか着ないかということは、全く問題になっていません。遠慮なく食べてください、ぜひ飲んでください、ぜひ着てください。何の躊躇も要りません。むしろ、裸で表を歩かないでください。

ですから、イエスさまがおっしゃっていることを別の言葉で言い換えるとしたら、衣食住の具体的な内容に関して、「どれにしようか」という選択(チョイス)の問題であると言えるかもしれません。「食べるか食べないか」ではなく「何を食べるか」ですので。

しかし、ここでぜひ、ご安心いただきたいことがあります。

わたしたちが家でごはんを食べる場合、自分ひとりで自分のために料理して食べることもあれば、家族や知人・友人と食べることもあります。もちろん外食することもあります。食事の場所や状況はなんであれ、来る日も来る日も同じメニューですと、自分も飽きるし、飽きられてしまいます。

それでいろいろ違ったメニューを考えるわけですが、「そんな無駄で愚かなことをする必要はない」とイエスさまがおっしゃっているかといえば、そういうことでは全くないと申し上げておきます。

イエスさまが当時どのようなものを食べておられたかは分かりませんが、毎日同じものを食べておられたでしょうか。そうではないだろうと想像します。

しかし、だからといって今申し上げたことがイエスさまの御言葉の趣旨から完全にかけ離れていることかどうかは、考えどころです。

お肉にしようか魚にしようか野菜にしようかと思い悩むことを禁じられてしまうと、わたしたちは困ってしまいます。「どの」お肉にしようか、「どの」魚にしようか、「どの」野菜にしようかで悩むことも、ある程度は許していただきたいです。

しかし、そこから先、だんだんエスカレートして、「いくらくらいの」値段のものにしようかと悩み始めるところまで行くと、そろそろイエスさまの御言葉の趣旨に抵触するかもしれません。

なぜそうかといえば、それは生活そのものの問題というよりも生活レベルの問題になるからです。何が贅沢で何が贅沢でないかは一概には言えませんが、「いくらくらいの」値段のものにするかという悩みを持つことができるのは裕福な人たちだけである、ということは考慮する必要がありそうです。

今申し上げていることはこのあたりでストップします。確認したいと願ったのは、イエス・キリストが「思い悩むな」とおっしゃっているのは、わたしたちの日常生活の、特に衣食住に関する事柄についてである、ということです。

それ以外のすべてのことに当てはめるのは行き過ぎです。自分の人生の進路の問題、あるいは個人や社会や世界の悩みや苦しみの問題について考えるのをやめろ、思考停止せよと言われているわけではありません。そのような冷酷非道なことをイエスさまがおっしゃるわけがありません。

しかし、ここでまたひっくり返して考えてみると、それでは、そういうことは「思い悩むな」というイエスさまの御言葉の趣旨と全く無関係であるかというと、それも言い過ぎです。

災害や事件で被害を受け、苦しい立場を余儀なくされている方々が、これからどう生きていこうかと悩み、ただ漠然と「人生とは何か」と哲学的に問うだけでなく(哲学を軽んじる意図は私にはありません)、より具体的に毎日の生活の細部(ディティール)を微分し、それらをどのように整え、営むかという問題を避けて通ることは絶対にできません。

実際的な飲み食いの問題など次元が低いことなので、そんなことはどうでもよいことで、そんなことよりも高尚な哲学や宗教を重んじなさい、というような話にすべきではありません。

哲学や宗教も大切ですが、飲み食いも大切です。どちらが重く、どちらは軽いということはありません。両方が等しく重要です。私は自分で料理をしたり家事をしたりするところがありますので、文句があるなら自分で料理してみろよと言いたくなります。

そして、今大事なことは、この問題に対するイエスさまのお答えが「思い悩むな」であるということです。くよくよするな、心配するな。それはどういう意味であるかをわたしたちはよく考える必要がありますが、あまり難しいことは私は言いません。この御言葉においてイエスさまが「おっしゃっていない」ことを指摘するだけにとどめます。

イエスさまが「おっしゃっていない」のは、すでにあるもので我慢しろとか、出されたものを文句を言わずに黙って食べろとか、衣食住ごときの次元の低いことで悩むのをただちにやめて、もっと高尚なことで悩み苦しめ、ということです。イエスさまは、そのようなことを全くおっしゃっていません。そのような意味であると言いうる根拠はどこにも見当たりません。

日本のキリスト教、とりわけプロテスタント教会は「武士道」の影響を受けているということが、かなり前から指摘されています。武士道には人斬りの面がありますので、人が死のうが殺そうが、心を動かさず、感情的にならず、冷静でいることを教えるところが必ずあります。その武士道と通じ合うところがあるストイック(ストア哲学的)な思想と教会の教えとが混同される可能性があります。

「武士は食わねど高楊枝、なければないで我慢しろ、衣食住ごときでがたがた文句を言うな、イエスさまもおっしゃっている」などと教会が言い出すことが実際にあります。しかしイエスさまがおっしゃっているのはそういう意味ではありません。全く違います。

イエスさまがおっしゃっているのは、ただ神のみに頼れということだけです。直接的にそのような言葉が今日の聖書箇所の範囲に出てくるわけではありません。しかしそのことがはっきり分かるのが25節の言葉です。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(25節)。

この御言葉に腹が立つ方がおられるかもしれません。実は私もちょっと腹が立ちます。我々人間は鳥よりも価値があるとか言われても、うれしくも楽しくもありません。動物と比較されること自体が失礼な話だと感じます。かえって、なんとなくばかにされた気持ちになります。

しかし、イエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、あなたがたは鳥よりもましだから我慢しろという話ではありません。イエスさまがおっしゃっているのは、あの鳥でさえ神さまがすべて養っておられるということです。野の花も。

あの鳥よりも価値がある人間を神が見捨てるはずがない、ということです。わたしたち人間は、神を見限ることがあるかもしれません。どれほど祈っても、どれほど熱心に奉仕をしても、自分の願いどおりにしてもらえない。そんな役に立たない神など要らないと、わたしたちが神を見限り、見捨てることはあるかもしれません。しかし、神は絶対に人間を見限らないし、見捨てない方です。

だから思い悩むな、心配するなと、イエスさまがおっしゃっています。イエスさまのお勧めの言葉を信頼してみませんか。

(2018年9月9日)