収穫感謝日礼拝 |
マタイによる福音書19章16~30節
関口 康
「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った。」
先週の説教でかなり強い調子で申し上げたのは、もし今、洗礼を受けることを考えているという方がおられるなら、ぜひ受けていただきたい、ということでした。
実を言いますと、私はこれまで働かせていただいた教会では、そういうことについて強く言うのは意識的に避けてきたところがあります。洗礼というのは自分の意志で受けるものであって、だれかに勧められて受けるものではないという思いのほうが強かったからです。
牧師になってほしいということも、私はいまだかつて誰にも言ったことがありません。この話は以前、教会学校でしたことがあります。もっとも、うちの息子にはちょっとだけ言ったことがありますが、無視されました。私もあまり本気ではありませんでした。
なぜ言わないのかといえば、やはり理由は同じです。牧師になるかどうかは自分の意志で決めることであって、だれかに勧められてなるものではないという思いのほうが強かったからです。
もうひとつ理由があります。これも以前、教会学校でお話ししました。いま申し上げたことと関係していることですが、だれかに勧められて牧師になった人はいつまでも勧められた人に依存し続ける傾向があることを私の経験で知っているからです。「あの先生に、あの人に、勧められたから、しました、なりました」と、いつまでも言い続けるのです。まるでその人に責任があるかのように。
しかし、今の私はこれまでとは違うところが出てきました。責任逃れの言葉のように響いてしまうかもしれませんが、今の私は主任牧師ではありません。主任牧師をお助けする立場です。おそらくはそれが理由です。今は躊躇なく「洗礼を受けてください」「牧師になってください」とお勧めしたい気持ちです。
だれかれ構わずというわけではありません。そして、もちろん、よくよく考えてもらいたいです。しかし、あまり考えすぎないでください。洗礼を受けることについて、受けない理由を言い出せば、きりがないからです。
そちらの理由ならいくらでも思いつくでしょう。特にこの日本で、現代社会で、洗礼を受けていない人のほうが受けている人よりはるかに多い環境で、受けていない側に立って受けない理由を考えれば、いくらでも味方になってくれる人が出てきます。
洗礼式で用いる水そのものに特殊な効果があるわけではありません。水は水です。魔法の水ではありません。普通の水です。その水をかけると特殊な力が湧いて来るということはありません。そこのところは期待しないでください。
しかし何も変わらないわけではありません。洗礼は一生に一回限りであるところがポイントです。二度と繰り返すことができません。「あれはなかったことにしてくれ」とは言えません。
また、先週申し上げたことですが、必ずしも本人の意志でない、親の信仰に基づいて嬰児のうちに授けられた洗礼を「幼児洗礼」と言いますが、その幼児洗礼も洗礼です。偽の洗礼であるとか、仮の洗礼であるとか、半分の洗礼であるとか、そういうことは一切ありません。だから、幼児洗礼をすでに授けられている方は、二度と洗礼を受ける必要はないし、受けることができません。
自分の意志でないことの責任はとれないと思われる方がきっとおられるでしょう。そうなのです。語弊を恐れず言えば、自分に授けられた洗礼について、自分で責任を感じる必要はないのです。
それは、幼児洗礼ではない、大人になってから自分の意志で受けた洗礼も同じです。「自分で願い出て授けてもらった洗礼だから、それを自分で反故にするのは無責任に当たる」というような感覚を持つ必要はありません。
もしそうであるなら義務や責任というような次元でつながっている関係になります。しかし、洗礼を受けることの意味は、そういうものではありません。わたしたちが自由になることです。あらゆる束縛から解放されることです。しかし、ここから先はどう言えばよいか分かりません。実際に洗礼を受けてみなければ分からない次元のことです。
私が2年前に1年間常勤講師として聖書を教えた高校で生徒たちに、年度の最初にアンケートをとりました。「教会や宗教や聖書に対して今抱いているイメージを教えてください」というアンケートです。多くの高校生が「束縛されるイメージ」や「強制されるイメージ」を抱いていました。
そして年度の授業が終わるころに、もう一度同じアンケートをとりました。すると、みんながみんなではありませんが、多くの生徒が「イメージが変わった」と答えてくれました。「自由になった」と答えてくれました。
学校は教会ではありません。しかし、学校でもそういう変化が起こります。教会はもっとそうだと申し上げたいです。
しかし、私はまだ最も大事なことを言っていません。洗礼を受けることは束縛されることではないと言いました。義務や責任というような次元で事柄をとらえる必要はないと言いました。しかし問題は、なぜそのように言えるのかです。
これは私なりの考えであることをあらかじめお断りしておきます。それは、もしわたしたちに義務や責任という次元で真剣に考えなければならないことがあるとすれば、それは、わたしたち自身の人生そのものに対してであり、またわたしたちの家族や友人、社会や世界の人々に対してであるということです。
そちらのほうには義務と責任があります。逃げることは許されません。しかし、それはしばしば、わたしたちにとってあまりにも重すぎるものです。逃げられるものなら逃げたくなるようなことです。だからこそ助けが必要です。自分ひとりではとても負いきれないからこそ助けが必要です。その助けになるのが教会だと申し上げたいのです。
洗礼を受けることは教会のメンバーに加わることです。教会というのはある意味で自助グループというのに近いところがあります。厳しい現実から逃げ出すために集まるのではなく、むしろ、厳しい現実の中にとどまり、勇気をもって不条理に立ち向かうために集まるのです。
今日開いていただいた聖書の箇所で、イエスさまが、金持ちの青年に対しても、弟子たちに対しても、非常に厳しいことをおっしゃっています。
金持ちの青年に対しては「もし完全になりたいのなら行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(21節)とおっしゃっています。弟子たちに対しては「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(29節)とおっしゃっています。
これを聞いた金持ちの青年も弟子たちも、驚くやら悲しいやら、激しくショックを受けています。それはそうだと思います。自分がいちばん大切なものだと思ってきたものを「売れ」とか「捨てろ」と言われ、まるでそれがイエスさまの弟子になれる条件であると言われたような気がしたからです。
こういうことを言うこと自体が不謹慎に当たるかもしれませんが、イエスさまもまさか冗談でこのようなことをおっしゃっているわけではありません。本気の本気です。しかしわたしたちが理解しておくべきことは、イエスさまがこれで本当のところ何をおっしゃろうとしているのかです。
それが分かるのが、弟子のひとりのペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(27節)とイエスさまに言っているところです。あるいはその前に、金持ちの青年が、イエスさまのお話の途中で「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(20節)と言っているところです。
共通しているのは、わたしはしている、できている、十分がんばっている、まだ足りないと言われなければならないのか、文句あるのかと気色ばんでいるところです。そして、そう言っている言葉の端に、していない人々、できていない人々、足りていない人々を見下げて軽蔑する思いを隠せないでいることです。
イエスさまは、その厳しいお言葉によって、そのことに自分たち自身で気づくように仕向けられたのではないでしょうか。自分の傲慢に自分で気づき、自分の視野に入っていない人々の存在に気づくように。
もし金持ちの人が財産のすべてを売り払えば、その人自身が貧しい人になります。もし家族を捨てれば、身内からも社会からも非難されます。社会的信頼を完全に失ってしまうでしょう。
自分自身が実際にそうなったときのことを考えてみなさい。その苦しさを。その痛みを。そのとき、あなたは今の自分がいかに幸せな暮らしをし、かついかに傲慢な思いを抱いているかに気づくでしょうと、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。
イエスさまがおっしゃるとおりに実際にやってみるべきかどうかは、私には分かりません。すべての財産を売り払うとか、家族を捨てるというようなことは、試しにやってみればいいと言えるような次元のことではありません。
また、もし仮に実際にそれを試しにやってみたところで、この金持ちの青年や弟子たちがイエスさまに言ったのと同じような傲慢なことを言い出すだけでしょうし、イエスさまから同じように注意されるのが関の山です。
聖書を学ぶことの意味は、自分がそれをしてみる前に、もしそれをしたらどうなるか、そのシミュレーションができることにあります。小説を読むことにある意味で似ています。実際にそんなことはしないけれども殺人犯の気持ちになってみるためにそういう小説を読んでみるというようなことはありえます。
イエスさまの言葉を聴いて自分に当てはめて喜んだり悲しんだりすることが大切です。とても受け入れられないと反発することも許されます。それがイエスさまの弟子になることです。イエスさまと共に生き、対話しながら生きることです。
それが束縛であるはずがありません。自由な生き方です。イエスさまは「あなたがたを弟子とは呼ばない。友と呼ぶ」(ヨハネ15章15節)とおっしゃる方でもあります。
ぜひ決心してください。
(2018年11月25日)