2016年8月16日火曜日

タイムマシンよどこへ行く

楽しい会合でした
昨日は久しぶりに電車に乗った。新御茶ノ水駅から旧御茶ノ水駅(そんな駅名はないです)に乗り換えた。新旧の切り替えは緊張の瞬間だ。車内放送で「ゲームアプリをご利用の際は周りのお客さまのご迷惑にならないようにご注意ください」とアナウンス。私も気を付けなくちゃとガラケーの画面を確認した。

久しぶりに電車に乗ると緊張することがもう一つある。残金を確認せず改札を通ろうとすると通れるときと通れないときがある。通れないときは悲惨だ。頑丈なバーでブロックされ、「チャージしてください」という音声とチャイムが鳴り続け、後ろの人の舌打ち音が追い討ちをかける。昨日は。いや書かない。

久しぶりの電車に乗って出かけ、目的地の最寄り駅に無事到着した。駅ビルは様変わりしていたが、駅前商店街の雰囲気は30年前とあまり変わっていない。変わっていないと言えば今日の私の格好は何だ。喪服。学校も毎日喪服。夏休みも喪服。汎用性高すぎ。いつも同じ服のザッカーバーグと呼んでほしい。

久しぶりの電車で出かけた先での昨夜の会合は、楽しかった。おいしいごちそうをいただきながらいろいろ話し込んでいるうちに、借家の最寄り駅まで帰ってくれる電車に乗り遅れた。7キロ歩いた。この距離を歩くのも久しぶりだった。帰宅後まもなく夜が明けた。やっと本格的に夏休みらしいことができた。

2016年8月15日月曜日

世界の中心で「学問とは何か」をさけぶ(セカチュー)

長い長い暗闇のトンネル
私の夏休み5日目。といっても昨日は教会の礼拝で説教させていただきましたので、原稿作成と演述(私は馴染めない言葉づかいです)に費やした時間は休みなのかどうなのか。それはまあいいや。今日は自分の寝具(毛布など)の洗濯をしています。家事に費やす時間は休みなのかどうか。それもまあいいや。

批判は学問にとって大事だと思うが、あまりにも限られた少人数の集団の中でそれをするとすぐ騒ぎになるし、どれほど匿名性を確保しようとしても各方面の責任者や興味本位の人が特定作業を開始するし、通報義務があるかのように本人や「主だった人たち」に伝える。別件で尋問され生活基盤を剥奪される。

めったに名指しで人を批判しないのは、遠慮しているのでも恐れているのでもない。日本の思想風土がそうだとまで言ってよいかどうか分からないが、人格(persona)とわざ(opera)の区別が十分認識されていないところで批判を行うと、まるで人格攻撃をしているかのように誤解されるからだ。

書かずもがなではあるが、「○○氏の考えは間違っている」は「○○氏批判」ではなく「の考え批判」なのである。この区別を十分にしてもらえない思想風土の中で、批判活動は難しい。早い話、○○氏にその考えを改めてもらいたいと言いたいだけであって、○○氏の存在を否定しているのでもなんでもない。

まあただ全く分からないわけでもない。学問というのは長い長い暗闇のトンネルの中で孤独を味わい、そのトンネルをやっと抜けても待ち受けているのは無理難題ばかりで、自分のあとに残せる新しい認識はわずか。批判なんかされた日には人格否定されたときと同然の激憤を覚えることになるのかもしれない。

でも、なんていうか、それに耐えてこその学問だろ、とも思う。その意味では本当はもっと名指しで、または本人を前にして批判してあげるほうがいいのかもしれない。「この集団をだめにしたのはあなたの思想ですよ」と。そろそろそういう時期が来ているのかもしれない。心して準備しなくちゃ。勉強勉強。

でも今日はまもなくお出かけ。やっと夏休みらしいことを(おいそれ何度言った)。一人を除く全員が歳上なので「旧友」と言ってよいかどうか微妙だが、そういうところ。「懐かしい」かどうかも微妙。すべて微妙。「来るな」と思われていそうだけど行く。家族には「終電までには帰ります」と伝えてある。

2016年8月14日日曜日

友達を作りなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)
ルカによる福音書16章8~9節

「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」

今日の説教のタイトルは、先ほど司会者の方に朗読していただいた聖書の箇所からそのまま引用したものです。イエス・キリストのお言葉です。しかし「友達を作りなさい」という言い方はいかにも居丈高な響きがあるような気がしましたので、タイトルを決めるときに迷いましたが、思い切って付けました。

しかしそれ以上に、この箇所を選ばせていただくこと自体に大いに迷いがありました。なぜ迷ったかはお分かりいただけると思います。たとえたとえ話であるとはいえ、わたしたちの救い主イエス・キリストともあろう方が、犯罪者とまでは言えないかもしれないとしても、明らかに「不正を犯した」人のことを引き合いに出した上で、そういう人をほめるようなことをおっしゃっているからです。

これは大問題です。とんでもないことです。一緒くたにしてよいかどうかは分かりませんが、首相経験者が「ナチスに学べ」と言って大問題になりました。大問題になって当然です。もちろんイエスさまは犯罪や不正そのものを肯定しておられるのではありません。そんなことをすればイエスさまの教えはすべて台無しになってしまいます。しかし、イエスさまは今日の箇所で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というような、ほとんど確実に誤解を招くようなことをおっしゃっています。

私はいま「誤解」と言いました。本当に誤解かどうかはよくよく考える必要があります。よくよく考え、よくよく説明すれば、イエスさまが不正そのものを肯定しているのではないということを理解していただけるだろうと私は確信しています。しかし、お忙しい方々や、イエスさまに敵意や反発を持っている方々にはそういう説明を聴いていただけないので、誤解されたままになってしまいます。

なぜこれでイエスさまが不正そのものを肯定していることにはならないかといえば、イエスさまは富の本質を言っておられるからです。富と不正は切り離すことがきわめて難しい関係にあるということです。不正から完全に切り離された純粋な富などはどこにも存在しないということです。しかし、それは富そのものが犯罪や不正であるという意味ではありません。お金そのものが汚いという意味ではありません。お金が汚いのではなく、お金を扱う人間の心が汚いのです。

流通しないお金に価値はありません。全く使われることのない死蔵金はまさにただの紙切れであり、ただの金属片です。富は流通してこそ価値があります。人の手から人の手へと渡されてこそ、初めて意味を持ちます。そして、そうしている間に罪や不正が紛れ込んできます。紛れ込むのは当然であると言っているのではありません。罪や不正を肯定する意味では全くありません。それがまるで当然のことであるかのように言って、市民権を与えるようなことをしてはいけません。

しかし、断じてそういう意味ではないとしても、だからといって富と不正が完全に無関係になることはないとイエスさまが考えておられることは間違いありません。それが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスさまがおっしゃっていることの前半の「不正にまみれた富で」の意味です。

しかし、この御言葉でイエスさまがおっしゃっていることの主旨は、後半の「友達を作りなさい」のほうです。そして、その「友達を作る」ための手段として「不正にまみれた富」を用いなさいとおっしゃっているわけです。しかしその意味は、友達を作るために用いる富は「不正にまみれた富」だけであって、不正にまみれていない富は友達を作るために用いてはいけませんというような意味ではありません。それは支離滅裂です。まるで冗談です。もちろんそういう意味ではありません。

だからこそ私が先ほど説明させていただいたことが意味を持つと思います。不正にまみれていないような富はこの世には存在しないのです。すべての富が不正にまみれているのです。なので、イエスさまの話を曲解して、不正にまみれた富は友達を作るために使ってよいが、不正にまみれていない富は友達を作るために使ってはいけないというような詭弁を弄することはできないのです。

それはともかくイエスさまのおっしゃっていることの主旨は「友達を作りなさい」ということです。それははっきりしています。しかも「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっています。つまり、友達を作ることと、そのためにお金を使うこととを明確に関連づけておっしゃっています。

このようなことをイエスさまからはっきり言われると、あるいはこのようなことが聖書に書かれているのを読むと驚く人は多いはずです。「イエスさまも結局お金ですか。教会も宗教も結局お金ですか」と言われてしまうでしょう。さまざまな批判や反発を受けることになるでしょう。そのことをイエスさまはご覚悟のうえでおっしゃっています。

しかし私はいま、いくらか大げさな言い方をしています。大雑把に言っているところもあります。お金にかかわる問題はとてもデリケートな問題ですので、できるかぎり丁寧に話す必要があります。私が誤解されるのを最も恐れているのは、イエスさまが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっていることを、言葉の順序を逆にして「友達を作るために不正にまみれた富を使いなさい」と言い直しても同じかどうかという点です。

それはどういうことかといえば、イエスさまがおっしゃっていることを「友達を作るためにお金を使うのは当然だ」と言い直し、「お金を使わないで友達などできるはずがない」と言い直し、「あなたはケチだから友達ができないのだ」と言い直す。イエスさまのおっしゃっていることを、そのような話へと変換することが可能かどうかということです。

皆さんはいかがでしょうか。もちろん私はいま、みなさん自身はどのようにお考えになりますかと問いたくて、このような挑戦的な言い方をしています。友達を作るために全くお金を使わないような人に友達などできるはずがないと、そのように思われるでしょうか。そして友達作りのために大事なのは結局お金だと。どんなにきれいごとを言おうとも結局この世はお金だと。

そういう価値観、そういう人生観、世界観をイエスさまが教えておられるでしょうか。イエスさまがそのことを肯定しておられるでしょうか。この箇所を読んで、イエスさまはわたしたちの味方だ、わたしたちの現実をよく分かっておられる、親近感がわく、というような話をしてしまってよいのでしょうか。私が問うているのはそのことです。

私の結論を言わせていただけば、それは違います。そんなことをイエスさまはおっしゃっていません。お金など使わなくても友達はできます。かえって「金の切れ目が縁の切れ目」というような関係になってしまっている相手は「友達」ではありません。少なくとも関係が対等ではありません。常にどこか必ず上下の関係であり、支配・非支配の関係なのであって、言葉の健全な意味での「友達」ではありません。

ですから、私はこの箇所に書かれていることをそういう話にしてしまわないほうがよいと考えます。お金を使うかどうかそのこと自体は、実は重要ではありません。重要なのは「友達を作ること」です。そのために手段を選ぶ必要はなく、どんな卑怯な手を使おうと、不正を働こうと一向に構わないので、とにかく「友達」を作りなさい、という意味ではありません。そんなふうにして作った関係の相手は「友達」でも何でもないです。それは話がおかしすぎます。冷静に考えれば分かることです。

たとえ話の中身に入るのが後回しになりました。ある金持ちに一人の管理人がいました。その管理人が主人の財産を無駄使いしていたというわけです。これがすでに「不正」です。そのことを主人に告げ口する人がいました。それで主人は管理人を解雇することにし、もう仕事を任せておけないので会計報告書を提出するようにと、管理人に命じました。

すると管理人は、自分は土を掘る体力もないし、物乞いをするのは恥ずかしくて嫌だと考えました。それで思いついたのが、主人のお金を貸した相手をひとりひとり呼んで、それぞれが借りているお金の金額を書き換えなさいと言い、主人に黙って割り引いてあげたというわけです。それぞれの負担を軽くしてあげたわけです。そのようにして多くの人に恩を売っておけば、主人が自分から仕事を取り上げたとき、その人たちが自分を助けてくれるだろうと考え、実行したというわけです。

お金を借りていた側の人々は、もちろん大喜びです。命乞いをしたいと思っていた人々が、まさに命を助けられた思いだったでしょう。そのようなことをした管理人のやり方を、主人が誰から教えてもらったかは分かりませんが、とにかく知る。内緒だったはずですが、また告げ口する人がいたのでしょう。しかし、そのことを知った主人が、その管理人のやり方をほめたというのです。

その後どうなったかは分かりません。管理人のやり方をほめた。いいぞ、よくやったと。それでもこの主人はこの管理人を解雇したのか、それとも解雇せずにそのまま仕事を続けさせたのか。それは分かりません。

しかし、分かることがあります。それは、この主人がこの管理人のどこをほめたのかです。それははっきりしています。この管理人がお金というものの本質をよく知り、その使い方をよく知っているという点です。この点を主人がほめたのです。

無駄使いはしてしまうタイプです。お金儲けは得意ではありません。お金を減らすことはできても、増やすことができません。どんどん良い商品を生み出して、たくさんお客さんを増やして、がんがんものを売るというようなタイプではありません。その意味では商売にも営業にも向いていません。

収入が増えないのに給料ばかりとります。会社にとっては迷惑な存在です。家にいればひたすら浪費するタイプです。「ごはんできました。お風呂わきました」と呼んでもらうまで何もしません。ずっと自分の部屋に引きこもっているか、テレビを見ながら寝そべっているタイプです。

しかし、そういうことは全くできなくても、できることがあります。人の負担を軽くしてあげることができます。お金だけの話ではないです。だれかに対して自分から貸している、貸しがあるようなところを、許してあげることはできます。「返さなくていいよ」と言ってあげることができます。

それで感謝してもらうことはできます。貸した借りたの緊張関係を解消できます。そういう方法で仲間を増やすことができます。この管理人はそういうことができた人です。もちろんそのことを自分のお金でない主人のお金でしているところは問題ですが、ある意味で最もお金の使い方を知っている人です。

たとえば親子の関係はどうでしょうか。親は子どもの育成と教育のために莫大なお金を使います。それは親子の間の貸し借りの関係でしょうか。そのように考える子どもたちは当然います。さんざん世話になった親なのだから、恩返ししなくてはならないと。

そのように要求する親もいます。言葉や態度で要求しなくても、親の心の中に少しでもその要求があれば、子どもたちは必ず拘束されます。身動きがとれません。もし親子の関係が貸し借りの関係であるならば、子どもが親から借りていないものは何一つないからです。

もし「返せ」と言われるなら、返さなければならないわけですが、そこから先は親子の関係というよりも、ほとんど主人としもべの関係、あるいは雇い主と従業員の関係になってしまうと思います。

夫婦の関係はどうでしょうか。難しい要素は、もちろんたくさんあります。もともとは赤の他人でしたので。しかし、夫婦の関係は、貸し借りの関係でしょうか。

親子でも夫婦でもない人々との関係にまで視野を広げていくと、同じように考えるのは難しいかもしれません。しかし、教会はどうでしょうか。牧師と教会員との関係、あるいは教会員同士の関係は、貸し借りの関係でしょうか。そういう要素もたくさんあると思いますが、それだけでしょうか。

神と教会の関係はどうでしょうか。神とわたしたちひとりひとりの関係はどうでしょうか。それは貸し借りの関係でしょうか。「神さまに貸してやった。でも、私の思い通りにならないから返してくれ」というような話になるでしょうか。

もちろんいろんな考え方やいろんな立場があると思いますので、一概には言えません。ただ今日の箇所で重要なことは、イエスさまが教えておられるのは「友達の作り方」である、ということです。その意味をよく考える必要があります。

私にとっても他人事ではありません。今は学校で聖書を教える仕事をさせていただいていますが、有期の採用ですのでいつまで続けさせていただけるかは分かりません。教会の牧師の仕事を探していますが、なかなか見つかりません。しかし、土を掘る力はないし、物乞いするのは恥ずかしい。この不正な管理人は私自身の姿です。「土を掘れよ、物乞いをしろよ」と言われてしまうかもしれません。悠長なことを言っている場合ではありません。

それで私が、不正を働いてでも、と考えているわけではありませんので、どうかご安心ください。そのような不正は決して働いておりませんので、ご信頼してください。

残念ながら、がんがん稼ぐというようなタイプではありません。「がんがん稼ぐ牧師」とか「どんどん儲ける教師」というのは、どこか言葉の矛盾を感じてしまいます。しかし、人の負担を軽くするためのアイデアや方法なら、いろいろ思いつきます。提案し、実行できます。そういう面でお役に立てるようになれればいいなと願っています。

最後は私の話になって申し訳ありません。しかし、これは私だけではなく、私と同じくらいの世代の多くの牧師たちが同じように抱えている悩みでもあります。ぜひお祈りいただきたく願っています。

(2016年8月14日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

2016年8月13日土曜日

「1Q87年」の回想

私も夏休みなので愛車でちょっと出かけてきます。と言いたいところですが空想のみ。中古車店の前を通るたびに、80年代後半の東京で私が乗っていたこのデザインの(エンジンはこれではない)赤のシルビアがないかと、いまだに目が探してしまいます。

1987年(21歳)当時の愛車だった赤のシルビアターボ(のミニカー)
卒論に悩む顔(1987年8月、21歳、北海道の摩周湖をバックに)
何年か前にブログで公開しましたが、今のプロフ画像と同じ1987年、21歳で書いた私の卒論がこれです(脚注は後日)。なのでプロフ画像は「卒論に悩む顔」です。


あれ、不覚にも今まで気付かなかった。1987年(大学4年、21歳)にティリッヒについて書いた卒論に「神律的相互関係」なんてことを私が書いているぞ。これ明らかにファン・ルーラーの概念だよ。何から引用したんだっけ。脚注を後回しにしているうちに手書きの原稿が引越し荷物に紛れてしまった。

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1987年10月1日木曜日

【パウル・ティリッヒにおける霊的現臨と主体性の問題(1987年)】

関口 康(東京神学大学4年)

序論

最近になって、パウル・ティリッヒの思想的発展は人間の主体性の宗教的再構築への関心によって動機づけられていた、ということが解明された。ティリッヒが再構築しようとした主体性とは、自立的主体を超え、それを、またその文化世界を神的な存在の根柢の上に再生させるような人間の主体性である。

そのことはティリッヒが現代における神律的文化の再建を目指して戦っている格闘の一側面にちがいない。ティリッヒは、われわれが継承してきた思想的伝統が唯名論的であることを問題視し、それが、世界観において、自然主義か超自然主義かといういずれにも満足しえない二者択一をせまるものであると考える。

自然主義か超自然主義かという二者択一は、彼にとって、啓示および自然的諸法則の侵害としての奇蹟についての超自然主義的観点への抵抗の道か、それとも自己充足的限定性としての自然主義的世界観への抵抗の道かという二者択一を意味し、両者ともティリッヒの神律概念にとって不適合である。トンプソンによると、ティリッヒの確信は「自然主義と超自然主義とのこの二分法は、唯名論的伝統固有のアンティノミーから生じるところの誤謬である」ということである。このアンティノミーを乗り越えることがティリッヒの神学的課題である。

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夏休みだからこそできること

拙ブログの右サイドバーに「プロフィール」を設けました
Facebookでお友達になってくださっている方々おひとりおひとりをお祈りに覚えるために、不定期ながらお友達リストをめくって見ることにしていますが、私のお友達のほぼ半数の方が「牧師」で、たいへん失礼ながら男女比は概数で「男性:女性=4:1」です。独特の雰囲気ありがとうございます。

拙ブログの右サイドバーにノークリックでご覧いただける「プロフィール」を設けました。どなたがおっしゃったか「ブログは名刺代わり、SNSは名刺交換の場」だそうで。そのとおりだと思います。というわけで皆さまどうかよろしくお願いいたします。

今の私がネット(ブログ、SNS)でしていることはダビデのあれだなと、何年も前から自覚しつつ、その箇所を開いて確認することなく、過去の記憶に頼るままでいましたが、いま新共同訳聖書で確認したら「狂態」(サムエル記上21章16節)と訳されていました。なかなかの名訳だと思いました。

明日(2016年8月14日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)で説教させていただきます。8月21日(日)は日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区)、8月28日(日)日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)で説教です。お招きいただきありがとうございます!


2016年8月12日金曜日

夏休みの「優雅な」過ごし方

うわ、まずい。たわんでいる。初めて気づいた。ついに時間との勝負という局面へと移行した。人類の知的遺産を将来に受け渡すための闘いだな。そのために必要なのは、強靭な意志と、頑丈な本棚と、本と一緒に寝ても大丈夫なだけの広さの書斎のようだ。

「知の重さ」で本棚がたわんでいることに気づき
やっと夏休みらしいことを。久々に家族で外食。JR南柏駅すぐの「横浜家系ラーメン 二代目肉そば屋」。この店は私は初めて。基本形の肉そば(並)を細麺で注文。並盛りでこのボリューム。暑い夏の夜にがっつり系。元気になりました。ありがとう。

「肉そば」で元気になり
夏休みらしいことといえば、朝起きて夜休むまで、書斎(寝室兼用)にいるときはずっとガーネット・クロウさんをユーチューブ(公式チャンネル)で視聴している件を挙げることができる。涼しい風が吹き込んでくれるので、昨日も今日もエアコン要らず。

ガーネット・クロウさんにいやされる
それにしても、電子メールという発明は人類の生のあり方を根本から変えたのではないかと、改めてなんとなく(明確な根拠がないまま)考えさせられる。はがきであれ手紙であれ、あれほど書くのが苦手だったのに、年に千の単位のやりとりを始めるとは。

電子メールは人類の生をどう変えたか



ネットつながりの皆さんへの感謝とお願い

テーカンネ社のアップルティをホットでいただきました(8月11日)
すみません、岡山弁ツイートはとりあえず終了します。岡山弁や方言そのものが悪いという意味ではありませんが、極力誤解を招かないように論理的に考えて書くことには向かないようだと、実際に試してみて分かるものがありました。私の夏休みは昨日から始まったばかりですが、もう真顔です。平常モード。

私はふだんは岡山弁は全く出てきません。ゼロ歳から18歳まで岡山の外にほとんど出ませんでしたが、その後は逆に岡山に帰らず(均せば年に3日位)33年目。それに、岡山を離れてから東京、高知、福岡、神戸、山梨、千葉と移動しましたので、どこの方言にも馴染むまでに至らず、今日を迎えています。

それで結局ずっと、「汎用性が高い」というか「無難な」というか「教科書どおりっぽい」というかの東京系の言葉を使ってきました(「標準語」と言うと怒り出す人たちへの配慮からまわりくどい言い方になっています)。岡山弁になるのは実家に帰ったときだけです。家の戸をくぐるとスイッチが入ります。

「使うことはありえない」と思いながら26年前に取得した教員免許と、「戻ることはありえない」と思いながら19年前に離脱した教団の教師資格とに(前者の更新、後者の再取得を経て)今の私は助けられています。どちらの免状も大量の未整理書類の中に長年埋もれていました。お恥ずかしいかぎりです。

テーマが定まらなくて苦しんでいます。ジンメルが「哲学の根本問題」で展開している(「歴史的方法」(Historische Methode)と対比される意味での)「即事的方法」(Sachliche Methode)に感銘を受けて、我が意を得たりと確信を深めつつ、ますます悩んでいます。

その意味は、プラトンやヘーゲルが言ったから正しいというような論法ではなく、プラトンやヘーゲルが取り組んだ問題そのものを自分で考えていく中で、プラトンやヘーゲルが波頭に見え隠れことがありうるという方法です。言い換えれば、自分がプラトンやヘーゲル自身になって問題に取り組むやり方です。

そのようなことを組織神学で私なりに求めていきたいと願っています。それはトレルチやティリッヒやバルトやファン・ルーラー「の」研究ではなく、彼らが取り組んだ問題を自分で考え、取り組む中で、彼らの存在の大きさや重さに出会うことがありうるというやり方です。しかしそのテーマが定まりません。

テーマが定まらない理由は、ひとえに「座」(Sitz)の問題です。異教団間移動前後の関連事象の中で私の心理系や神経系にどれくらいの負担やダメージがあった(ある)のかは自分ではあまりよく自覚できないのですが、血圧上昇や体重増加(後者は自己責任大)といった客観面に出ているとは言えます。

ネットでもリアルでも「なぜ転向したのか?」と言われながら(「転向」などしていないです)、新しい職場に身を投じてやっと5か月目です。毎日緊張しています。それでも今のところ壊滅的なまでの心理崩壊を免れているのは、ネットでつながっている方々の「生温かい」お言葉に支えられているからです。

なので、どうかもうしばらく私にネットをやらせてください。せめてあと1年半、猶予をください。その頃までには、どんなに時間を費やしても「しょせんウラ社会」と揶揄されるだけのネットごときに時間を奪われたりしないで、ひたすらリアルに仕事と勉強に没頭する人間に変貌しているだろうと思います。

2016年8月11日木曜日

夏休みモードで岡山弁ツイート中

夏休みの自宅学習(教科研究)のため勤務校から持ち帰った荷物
私も今日から夏休み。宿題や受験勉強に取り組んでいる生徒たちを見習って(そういうわけですので皆さまどうぞよろしく)、私も自宅学習の構えで荷物を持ち帰り。足元のアースノーマットもスイッチオフ確認。生徒の健康と安全のためお祈りしています。

でも毎日が奇蹟みてーなもんじゃわ、毎朝5時に起きれて、休まんで通勤やこして、途中ちょぼっと風邪引いたり、血圧上がったり、胃が痛てかったりしたけど、立ち直れたし。車の中じゃとかでストレッチやるから首や肩もあんまり凝らん。ぜんぜん痩せんけど太りゃーせんよ。ちゃんと働いとるけーな。大丈夫じゃ。

わしは今日から夏休みじゃけー、実家に帰ったつもりで岡山弁でツイートするけーな。ウケ狙いじゃねーけーな。わしなりのリラックスの方法じゃから、勘弁してください。ほんまは実家に帰れりゃ―ええけど、千葉でやることいろいろあるけー、帰れんのじゃ。申し訳ないと思おとるわ。

普通の、ゆーか普通科の高校で聖書の授業やるゆーのは、やりがいあるゆーか、単純におもしれーよ。生徒はわしの授業はおもしろーねーゆーと思うけどな。ごめんなさいね。岡山にもキリスト教の高校あると思うけど、たしか女子校じゃったよね。女子校が悪りーゆー意味じゃないけどね。こっちは共学じゃ。

岡山にもキリスト教の高校がもう一つぐらいあればえーのにな。それか女子校さんを共学に変えてもらうか。難しいじゃろーけどな。厚い壁が行く手を阻む気がするわ。少子化じゃしなあ。学校増やすやこあほじゃと言われるじゃろーし。でもなんとか風穴あけたいところじゃな。わしにはなんもできんけどな。

普通科の高校で聖書教えるのは、古文漢文と似たようなことよ。あれは大学受験のための勉強じゃと言やあそれまでじゃけど、今はどうか知らんけど、わしらのころは、言葉とか文法とか形式的なことだけじゃのーて、もっと内容があった。古事記日本書紀を読ませられたが。あの感じで学校で聖書を読むんよ。

古文漢文がいやでね。先生の人柄はよかったけどな。でも「わしは仏教徒じゃ」言いながら仏教の話が詳しくてキリスト教の悪口ばっかり言っとった倫社の先生は人柄はいいけど苦手じゃった。そんな高校行かなきゃよかったがと。でも、岡山の男子にキリスト教の高校に行く選択肢ないんじゃけー仕方ないが。

べつに母校の悪口言いたいんじゃないからな。今でも心から愛しとるよ。わしの高校時代の成績が悪かったことの言い訳しとるだけじゃが笑。倫社だけは先生に反発して勉強する気になったけど、文系のくせに古文漢文もついでに現国もだめで、英語もからしきだめじゃったから、できることもう残ってないが。

もしわしの高校に聖書の授業があったら、そこだけ成績よかったと思うわ。政教分離じゃけー公立じゃ無理じゃ言われるかもしれんけど、ナニけっこう先生たち自分の宗教の宣伝しとられたよ。クリスチャンの先生も二人おられたけどな。二人とも理系で化学の先生じゃった。授業中、聖書の話してくれました。

ありゃ、せっかく夏休みモードでリラックスのために岡山弁ツイート始めたけど、真面目な話になってしもうたな。すまんすまん。また言い訳じゃけど、わし学校の先生の仕事始めてやっと5ヶ月目じゃからな。牧師の仕事とどこが違うのとか聞かれても答えられませんけど、今は学校に慣れるので精一杯じゃ。

2016年8月8日月曜日

アタナシオスは世界を敵に回す(athanasius contra mundum)

ゲオルク・ジンメル『哲学の根本問題』
午前中ゲオルク・ジンメル『哲学の根本問題』を読む。趣味ではなく、教科研究として。「体系的形式という固定的完結性は、しばしば学説の内部生命に立ち入ることを妨げるものであり、また生命のほんの束の間の外皮として...見捨てられてしまう」に感動。

「哲学体系の抽象的で硬直した概念は、長いこと哲学体系に心を砕き、その深部での興奮を求めて努力した者の眼にのみ、概念内部の激しい動き、そこに息づいている世界感情の広がりを開いて見せてくれる」と、ジンメルが『哲学の根本問題』の「序」に書いている。説教も同じ。時間かけなくちゃ。

「教義学」(theologia dogmatica=教義神学)という言葉をタイトルとして初めて使用した本は、1659年にルーカス・フリードリッヒ・ラインハルト(Lucas Friedrich Reinhart [1623-1686])が出版したSynopsis theologiae christianae dogmaticae(キリスト教教義学概論)である(ファン・ルーラー全集(オランダ語版)第1巻、248頁の編注)。

教会の牧師だった25年(いつまたその続きがあるかはGod only knows)で得たある意味最大の経験値は「孤独忍耐力」だったかもと今日ふと思う。書斎で何時間でも何日でもひとりでいること多々。クリスマス等の大型イベントでも、すべて終わって最後片付けて教会の鍵を閉める仕事は牧師。

なので、牧師が「孤独」で悩んでいるという話がもしあっても理解できない。アタナシオスがクリスマス行事のあと教会の鍵を閉めたかどうかは知らないが、「孤軍奮闘」を意味するらしい「アタナシオスは世界を敵に回す」(athanasius contra mundum)という格言は納得しまくる。

教会の現実をご存じない方々はもしかして「群れているだけだ」と思っておられるかもしれないが、「群れている」わけではないからね。こと牧師は孤独に耐えてナンボ。強がっているわけでも粋がっているわけでもなくて本質的にそういう存在なのが牧師。そのこと知らずに牧師にならないほうがいいと思う。

生徒は夏休みでも、先生は学期再開の準備のために毎日勤務。キリスト教学校なので、職員室で毎朝お祈りをする。今日は私がお祈りの当番をした。夏休み中の生徒の健康と安全のためにお祈りした。いばってないよ、当然でしょ。夏休みが終わったら全員元気に学校に戻ってきてほしいと、マジで祈っている。

【追記】

上の書き込みに誤解される要素があったようですので、以下の点を追記します。

私が書いた「孤独」に悪い意味はありません。「会員との関係を築けない牧師」という意味の「孤立」ではありません。

イエスさまのオリブ山の「ひとりの祈り」や、十字架上の「孤独」を《追体験》(nacherleben)できなければ、どうして聖書の福音を宣べ伝えることができるでしょう。

ボンヘッファーの「ひとりになれない人は交わりに入ることに注意せよ。交わりに入れない人はひとりになることに注意せよ」(『共に生きる生活』)という言葉をきっとご存じだと思いますが、まさにその意味です。

もっとも、その場合の「孤独」は、イエスさまの十字架上の「孤独」の《追体験》(nacherleben)であるほどの「完全な孤独」の意味でなければならないことも事実です。「半分孤独、半分交わり」というようなバランス感覚ではなく、逆説的な弁証法関係です。

ボンヘッファーは「マコトニ神、マコトニ人」との類比で「孤独」と「交わり」の関係を考えていると思いますが、私は違います。教会の関係性は、他の団体(学校や政党や会社など)にたとえることができない独特の関係性なので、どう言ってもどのみち誤解されてしまうところがあります。

教会の関係性は学校や政党や会社等とは異なる独特の関係性であると、いま書いたばかりですが、学校の教師の「孤独」や、政治家や首相の「孤独」や、会社の社長や役員の「孤独」などと、牧師の「孤独」は、ある意味で似ていなくもありません。リーダー論のような話でもないのですが。

ちょうど10年前に出たようですが、吉本隆明さんの『ひきこもれ』という本の趣旨は、完全に合致はしませんが、私の言いたいことにある意味で最も近いです。ひとりの時間を苦にするな、ということです。

ファン・ルーラーだけでなく、読みはじめて何年目かになる青野太潮先生の「十字架の神学」の影響が、私に加わってきています。書きはじめると長くなるのでやめますが、「十字架の逆説」の問題です。「孤独こそが交わりである」というような言い方になります。

私は博士論文を書いたことがないので、自分の体験として語ることができる立場にはいませんが、あれを書くためには「完全な孤独」と言えるほど長期にわたって引きこもらなければならないようです。途中でチャラチャラしているようだと完成しないし、失敗する。それと似ています。

そういえば「どうでもいいですよ」という歌がありましたね

6月28日に購入したが読んでいない(実はあまり興味がない)
要らぬ釈明ではあるが、都知事選についても、8月6日についても、リオ五輪についても全く触れようとせず、自分のどうでもいいことばかり書いているのは、社会や政治に無関心だからではなく、慎重になっているからでもなくて、ネットの皆さんのたくさんの情報を読ませていただくことで精一杯だからだ。

うっかり忘れていたが、ファン・ルーラーの文章に「神学」の落とし穴を鋭く指摘する言葉がある。たとえば「絶対的なものを追い求め続ける人は非常に惨めな結末に至る。自分の人生を指と指の間にはさんでいるような感覚、あるいはまた、本来の自分の姿をいつも忘れているというような感覚に襲われる。」 

あるいは、「我々は自分ひとりだけで何かの責任を負うのだろうか。あるいは、もっと性急に我々はあらゆることの責任を負うのだろうか。そうなると我々はまるで全世界をひとりで背負うアトラスのようになる。まるで自分が巨人か英雄でもあるかのような感情を抱きながら毎日を過ごすようになる」など。

両者ともファン・ルーラーのエッセイの一節である。各エッセイのタイトルは、前者が「相対的なことを真剣に」(1956年)で、後者が「我々は神なしでありうるか」(1966年)。あいだが10年開いているが、基本のパースペクティヴが変わっていない。いずれも「神学」の落とし穴を指摘している。

「自分の人生を指と指の間にはさんでいるような感覚」と「まるで自分が全世界をひとりで背負うアトラスであるかのような、巨人か英雄のような感情を抱きながら過ごすようになる」は、一見正反対のことを言っているようだが、趣旨は同じだ。自分の人生を指先ではさむ巨人に自分がなっているということだ。 

絶対的な存在こそが何よりも大事なのであって、それと比べれば相対的なものは大したことがない。自分自身の存在も、世界の存在も、絶対的な「神」と比べれば大したことがない、という論理と感情にとらわれているときの我々は非常に危険な状態にある、ということをファン・ルーラーは鋭く指摘している。 

そういう論理と感覚のとりこになってしまわないで、もっと遊ぼうぜ、楽しもうぜ、相対的なことに真剣に取り組もうぜ、どうでもいいことに関心を持とうぜとファン・ルーラーは言っている。こういう話は、高校生は嫌がるかもね。根が真面目だもんな。「その場しのぎで軽薄だ」とか言われてしまいそうだ。

私のキャパが小さいだけなのに、まるでみんなが同じ結論でなければならないかのような書き方をしていると、これはこれで叱られてしまうだろうが、全世界をひとりで論じ尽くせる人は存在しないという断言口調の言葉に慰められる人はいると思うので、私のキャパの問題は度外視して書いておくことにする。

ファン・ルーラーのエッセイ(いずれも拙訳):

「相対的なことを真剣に」(1956年)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2013/03/1956_22.html

「我々は神なしでありうるか」(1966年)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2013/03/1966.html