2015年11月18日水曜日

世界は罪深いことにおいて初めて本来の世界らしく調和するわけではない

ベルカウワーの予定論(原著1955年)の英語版(1960年)
ツイッターに書いたことを転載します。尊敬する次世代牧師とのやりとりの私のターンの部分を抽出しました。文脈はご想像にお任せします。文意を変更しない範囲で若干字句を修正しました。

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「十字架の神学研究会」報告に反応いただき、感謝です。

長大な議論の中の一点を取り上げて書いていますので、論理の飛躍はあるかもしれませんが、直接青野先生の本をお読みくださることをお勧めします。

必然化と美談化はもちろん別です。しかし、世界は罪深いことにおいて初めて本来の世界らしく調和するわけではありませんよね。ハナから「罪深くなければ世界らしくない」と考えてしまうような立場がもしあるとすれば、それこそグノーシスっぽいです。世界そのものの価値をおとしめることを意味せざるをえませんから。

ひとつ、譲歩(?)としていえば、神さまの意志(セレーマ)の内部の「神的必然性」として受肉や十字架をとらえることは、代々の教会がしてきたことではあると思います。しかし、人は神の側に立つことはできないので、人間の論理としては結局「必然ではない」と言わざるをえないわけです。

いえ、そんなに単純な話ではありません。ファン・ルーラーが「契約神学」をどのように評価していたかについては改革派の人からよく訊かれるのですが、残念ながらまだきちんと調べることができていません。ただ、ファン・ルーラーが「贖いの契約」を認めないことはありえないと、私は考えています。

なぜなら、たとえ受肉や十字架を「緊急対策」(emergency measure)だと言ったとしても、それはファン・ルーラーにとってはすべて神さまの「意志」(セレーマ)の内部の話としてとらえるべき事柄だと考えられていることは明らかだからです。

改革派の伝統的な「贖いの契約の教理」にしても、受肉や十字架を単純に「神的必然性」としてとらえてきたかどうかは、よく考える必要があります。そのように単純に言い切ってしまうと、人間の罪も堕落も「神的必然性」でとらえざるをえなくなり、神さまを罪の作者にしてしまいます。

改革派教会を外から眺めている人々は、改革派(カルヴァン派もほぼ同義)は「予定説」だから神さまのことを当然「罪の作者」だと思っているのだろうと見ています。でもそれは、根も葉も「ある」誤解です。改革派の中に「予定論」をそのように誤解する人がいたことは否定できません。

なにもかも「神の予定」の中で決定されていて、人間の罪も堕落も、キリストの受肉も十字架も、すべては神的必然性の中でとらえるのが改革派の神学的立場だというような説明をすれば、おそらく多くの方は、神さまとはなんてマッチポンプな方なのかという感覚を抱くだろうと思います。

でも、違いますからね。カルヴァンの理解は、もしかしたらマッチポンプっぽい神さまのようだったかもしれませんが、改革派教会の400年はカルヴァンのコピーや焼き直しで成り立っているわけではありません。カルヴァンはなんら「教祖」ではありませんので、内部で批判可能な存在です。

では、ファン・ルーラーはどうかといえば、彼こそは間違いなく「二重予定説」の立場に明確に立った人です。その点では、あらゆる万人救済説(普遍救済説)の人々と相容れません。しかし、だからといって神さまを、マッチポンプを仕掛ける罪の作者のような存在にすることも、ありえない。

ドンピシャで「カルヴァンからバルトへ~改革派プロテスタンティズムにおける選びの教理(予定論)の発展」というタイトルの本があるのですが(残念ながら私は持っていません)、オランダ語です。だいたい我々の関心にドンピシャの本はオランダ語です。

古いといえば古いのですが、ベルカウワーの予定論の英語版(Divine Election)は熟読の価値があると思います。出版とかそういうことはあまり考えずに全部自分で日本語に訳してみるといいと思います。

ベルカウワーの予定論がいいところは、バルトの予定論の後に書かれたもので、バルトの改革派予定論批判に対するレスポンスとして書かれている面があるからです。改革派予定論400年の歴史も踏まえられています。概観するのに便利です。英語版が余っていますので、差し上げます。

あと、ベルカウワーの予定論にはファン・ルーラーもかなり登場します。ベルカウワーのほうがファン・ルーラーより少し年上で、しかも所属教派が異なっていた(ベルカウワーはGKN、ファン・ルーラーはNHK)からでしょうか、かなりの面で批判を意図した引用ではあるのですが。

ベルカウワーの予定論は持っておられるのですね。それなら良かったです。さっきお書きになった全員(カルヴァン、トゥレッティーニ、フーティウス、ホッジ、カイパー、バーフィンク、バルト)の名前が出てきますよ。

2015年11月17日火曜日

「十字架の神学研究会」報告

青野太潮先生の『「十字架の神学」の展開』を読んでいます
本日2015年11月17日(火)午後5時30分から7時まで「十字架の神学研究会」が千葉英和高等学校(千葉県八千代市)で行われました。出席者11名でした。テキストは青野太潮先生の『「十字架の神学」の展開』(新教出版社、2006年)325~352ページでした。とても勉強になりました。

単元のタイトルは「滝沢神学との関連について」。議論の内容を要約して紹介することは難しすぎてできませんが、量義治氏が「青野神学が究極的に依拠しているのは滝沢(克己氏の)神学である」と断定してきたことに対して「それは違うと言わざるを得ない」(337ページ)と反論しておられる個所です。

青野先生の神学を指して「滝沢神学の直接・間接の影響下に、イエスとキリストとの分離の神学が有力になりつつあるのは、憂うべき傾向である。分離神学はキリスト教神学ではなくて、形而上学である。グノーシスである」(347ページ)と批判する量氏への青野先生の反論には説得力があると思いました。

繰り返し書いていますが、私が青野太潮先生に同意できると考えていることの中に、ファン・ルーラーの主張と重なる部分があります。今日のテキストでいえば、「十字架はなくてならぬものではない」(331ページ)という主張や、旧約聖書の予型論的解釈を批判しておられるところ(345ページ)です。

「十字架はなくてならぬものではない」という字面には、たちまちぎょっとされて「それは十字架不要論なのか、とんでもない」という拒絶反応を起こされてしまうことになりかねないのですが、歴史的事実に即して考えれば、十字架刑そのものを不測の事態であったと考えることは不可能とは言い切れません。

ファン・ルーラーはある意味でもっと大胆に、イエス・キリストの受肉(神にもかかわらず人になられたこと)まで「緊急対策」(emergency measure)であるとしたため多方面からひどい反発を招いたことで知られる神学者ですが、彼が言いたかったのは「必然性はない」という論理でした。

青野先生が「十字架」についておっしゃる「なくてならぬものではない」も論理の話だと私はとらえます。「何がなんでもイエスは十字架で死ななければならなかった」というような必然性の論理を許してしまうならば死刑の美談化や殺害そのものの美談化へ道を開いてしまいかねないと考えておられるのです。

ファン・ルーラーが「キリストの受肉」を「緊急対策」であるとした意図は、人間の罪の必然化の論理を禁じることでした。人を罪から救うための「キリストの受肉」に必然性を与えてしまうと、まるで人の罪に必然性があるかのようになるが、罪に市民権を与えてはならないとファン・ルーラーは考えました。

青野先生の主張とファン・ルーラーの主張は、論点や意図の違いがあっても、方向性において共通点があると感じられます。それは私見によれば、人間の罪や殺害や悪に対して、それらをまるで必然的なものであるかのようにみなすことによって美談化することは断じて許さない、という決意のようなものです。

「必要悪」という言葉は聞いたことがありますが、「必要罪」とか「必要殺」という言葉は、もしかしたらどこかで誰かが使っているのかもしれませんが、私は聞いたことがありません。しかし、そういうのはないし、あってはならない。殺人や犯罪に「それも必要だ」などと言って市民権を与えてはならない。

ある見方をすれば、もしかしたら「青臭い」考えかもしれません。しかし殺人や犯罪には必ず加害者と被害者がいます。それらについて必然性の論理を許した瞬間に、加害者に加担する立場に立つことを意味せざるをえません。神学の論理が「神の名」においてそれを許せば、被害者は完全に絶望するでしょう。

旧約聖書の予型論的解釈へのファン・ルーラーの批判については、私は研究ノート(http://ci.nii.ac.jp/naid/40019473313)を書いたことがあります。タイトルは「新約聖書は旧約聖書の「巻末用語小事典」か : 旧約聖書と新約聖書の関係についてのA.A.ファン・ルーラーの理解」です。

というようなことをあれこれ考えながら、今日も私はずっと黙って出席者の活発な議論を聴いていました。上に書いたことは私の勝手な読み込みかもしれませんし、ただの我田引水かもしれません。それでもいろいろ考えるきっかけを与えられるだけで私は満足です。次回の研究会は来年1月19日(火)です。

2015年11月13日金曜日

「通信教育部の学位の価値は高い」に賛成します

本日ついに修了認定試験の受験票が届きました
狭いので小さなヒントでも書くと分かる人にはすぐ分かる話なので、書くこと自体を迷いながら、でも書きますが、某大学の先生が「通信教育部でうちの学位を取得する人をズルいと言う人がいるが、冗談じゃない。通信教育部の学位の価値は高い。自分でやれば大変さが分かる」(大意)とおっしゃいました。

その大学ではありませんが、私もいま目的あって、ある大学のオンデマンド講義を受講中です。それで分かるのは、通信教育はきついということです。教室で講義を聴くのと根本的に何かが違う。その違いをうまく説明できないのですが、最も大きな違いがノンバーバル(非言語)の部分であることは確実です。

キャンパスで「得られる」または「得やすい」要素のうち、自室や外部で「得られない」または「得にくい」のは、場の空気、におい、雑音など。あるいは、通学途中の全プロセス。食べた飲んだ。そしてもちろん友人や教師の存在。すべてを合算したトータルな何かが記憶になる。当たり前のことですけどね。

そのような人間の記憶を構成するかなり重要な要素を全部省いた動画と音声だけで、一つの学位なり資格なり免許を習得できるレベルの知識にたどり着くのは、たしかに至難のわざです。今書いていることは、通信教育の弱点を言いたいのではなく、至難のわざをマスターした方々を心から絶賛したい思いです。

通信教育部がある大学で、そこの卒業生だとなると多くの人から羨ましがられ、通信教育部と分かると「なんだ通信か」のような言われ方をされてしまうところ、くらいまで書くとすぐ分かる方は多いかもしれません。「通信のくせに○大卒を名乗るのはズルい」などと真顔で言い始める人がいたりするという。

そのような国内の風潮に、通信教育部の学生さんたち「も」(「だけ」ではないです)指導しておられるお立場から猛烈に憤慨しておられた友人プロフェッサーの姿を思い浮かべながら書きました。文句あるんだったら自分でやってみろってんだ、まったく、と口角泡を飛ばすレベルの怒り方をされていました。

私は子どもの頃、進研ゼミだったかの通信をほとんど一枚のペーパーも返信できずに挫折した過去を持っています。だけど、というか、だからこそ、ですが、うちの通信教育部の卒業生であるということで見さげられる理由は一切ない、というそのプロフェッサーの言い分は、なるほどと思いながら聞きました。

このたび、某大学のオンデマンド講義を受講するという新しい形ではありますが通信教育を体験してみて、大変さがよく分かりました。まだ終わっていませんので、気を抜いている場合ではありませんが。このような愚痴めいた書き込みは、修了認定試験が2週間後に迫り、焦っている人間の防衛機制です。笑。

2015年11月12日木曜日

信仰と理性のハイブリッドシステムを

某大学のオンデマンド講義を聴講しています
「非学問だからこそそれは信仰なのである」という感覚は、現代の教会に独特の敬虔を生み出してもいます。しかし、私の理想というか目標を言わせていただけば、「信仰と理性の調停しがたい対立」という図式を克服・修正して「信仰と理性のハイブリッドシステム」の道はないかと模索しているところです。

私が神学、とくに組織神学/教義学の観点から「信仰と理性の対立の緩和」によるハイブリッドを求める場合は、教義学のキリスト教的・三位一体論的な内的論理を徹底的に考えぬくことで「そうバカにしたものでもないのだな」と分かってもらう方式ですね。

あとはなんでしょうかね。ぱっと思いつくかぎりでいえば、組織神学/教義学も一夜にしてできたものではありませんので、過去の外国語文献を翻訳して読むという作業を、当然避けて通ることができません。文献収集にも、翻訳にも、解釈にも、国家予算規模の費用を投じても実際には全く足りないほどです。

そしてその組織神学/教義学の過去の営みが、かなりの面で、カントにせよヘーゲルにせよハイデッガーにせよ、日本で著名な哲学者たちの「反面教師」ないし「下敷き」の役割を果たしてきたのは確実であるはずなのですが、そちらの研究がいまだにほとんどなされていないのはアンバランスであるはずです。

日本の大学の哲学科に属したことはありませんので内情は分かりませんが、たとえば、ヘーゲルの精神現象学の「精神」(大文字のガイスト)がキリスト教の「聖霊」(大文字のガイスト)と全くつながりがないということはありえないと私なんかには思えますが、日本でどのように教えられているのかとか。

挑戦的な意図で書くわけではありませんが(ほんとに)、キリスト教の組織神学/教義学の方法論と伝統に基づく「聖霊論」(Pneumatologie)を深く考えることがほとんどないままで、ヘーゲルの「大文字のガイストの現象学」を正しく理解できるとは私には思えないとか。

もう一つあえて書くとしたら、これこそジャーゴンなのですが、キリスト教が言うところの「神」の定義そのものに躊躇なく踏み込む畏れ多い仕事をするのが組織神学/教義学の本来の務めですので、こうなったら神さまご自身に「信仰と理性の対立の緩和」をお願いすることをしていくしかないです。

今書いたことの意味は、宗教者が自分の神に「信仰と理性の対立が緩和されますように」と祈祷するという意味であってももちろん一向に構わないわけですが、そういうことよりも、「神の定義」において「人間」ないし「人間性」との対立概念として「神」をとらえすぎることの危険性を指摘するとかです。

問いの立て方としては、「神である」とはいつでも必ず「人間でない」という意味でなければならないかとか、神と人の関係をいつでも必ず受肉論(神にもかかわらず人になられた論)でとらえなければならないだろうかとか、それは信仰の名を借りたアンスロフォビア(人間嫌い)の可能性はないだろうかとかです。

こういう問いの立て方がありうることを私が考えはじめたのは、モルトマンをインスパイアしたとされるファン・ルーラーの本を読み始めてからです。ほとんど受け売りです。モルトマンの「共苦」はキリスト論の範疇だと思いますが、ファン・ルーラーはキリスト論のみで神人関係をとらえるのを嫌いました。

なぜなら、キリスト論においては(or/ おいてすら)神人関係は「対立概念」でしか捉えられてこなかったからです。神である「にもかかわらず」(notwithstanding)人になられたのがイエス・キリストですから。逆接・逆説が成立するのは神人関係が「対立関係」であるときのみです。

しかし、キリスト教の「神」は「三位一体」であると、大昔から教会は堂々と言い続けてきました。「キリストだけ」が「神」であるとは言ってきませんでした。お父さんも、聖霊も「神さま」だと言い続けてきました。その、とくに「聖霊」は「人になじむ存在」として聖書に描かれていたりします。

だって「聖霊」は、人の中に「宿る」(inhabit)のですから。inhabitatio Spiritus sancti(聖霊の内住)です。しかも、聖霊は人に向かって常にけんか腰ではないです。けんかっぱやい邪霊が人の中に宿られた日には、我々は即入院でしょう。やばすぎますよね。

人の「理性」と、人の中に「宿る」(inhabit)「神」である「聖霊」とは、仲良く「同棲」する関係です。もちろん、可能であれば公に「結婚」すれば気がラクになると思いますが、まあ事実婚というのも許容されると思いますよ。これはまじめな話ですからね。面白い話でもありますけどね。

この「理性」と「聖霊」(「聖霊」は「神さま」ですからね、そこお間違えなく)の「同棲」を認めてもらえるようになれば、「信仰と理性との対立の緩和」は、組織神学/教義学の側から、これまでよりももっと積極的に、かつむしろ率先した形で可能になるだろうと、私は虎視眈々、考えております。

自分で書いた「教義学のキリスト教的・三位一体論的な内的論理を徹底的に考え抜くことで「そうバカにしたものでもないのだな」と分かってもらう方式とは、要するにアンセルムスの「知解を求める信仰」(fides quaerens intellctum)ですね。信じますけど考え続けますよ方式。

「考えるな、感じろ」というブルース・リー(燃えよドラゴン)だかマスター・ヨーダ(スターウォーズ)だかモーフィアス(マトリックス)だかのセリフと同じことをキリスト教の信仰に関して真顔で言う人と出会ったことがあり、耐え難い思いを抱いた日から私の目標がむしろ定まった面があったりします。

アンセルムスだって、理性による「知解」を続けていけばやがて「信仰」に至りうるとは言わなかったわけですよね。それは無理だ。だけど、「信じること」と「考えるのをやめること」とはイコールではないですよ。「考えたってどうせ分かんないんだから」と「だから考えるのをやめる」は別のことですよ。

しかも「信じますが考え続けますよ方式」だという場合の「考える」は、その考えていることの経路を字に書いて残していくことを当然含んでいるし、「思考のプロセスを書き残すこと」にこそ意味があると思います。結論よりプロセスに意味がある。正解なんかなくていいんですよ。どうせ分かんないんだし。

権威と伝統ある「命題」を無批判で受領して、その意味する内容や「論理」について考えることをやめ、ないし禁止され、ただ定期的にその「命題」をリズミカルに反復するような宗教や生活のあり方をおそらく「黙従」というのだと思いますが、そのほうがある意味でラクですが、私はその道には進みません。

私がけっこう長年、自分の目標としてきたつもりの「信じますが考え続けますよ方式」がアンセルムスの言うcredo ut intelligam(これの定訳は「知解するために信じる」でいいのでしょうか)と内容的に同じかどうかは正確には分かりませんが、方向性はたぶん共通していると思います。

考えるのをやめないでいれば、脳の老化対策になりますよね。いつまでも若々しさを保つことができますよ。結論出さなくていいんだってば。というか、出ないでしょ結論。自分が死んだらどこに行くのかとか、どこにも行かないのかとか。いや死なんでも、最も心和む人生とは何かとか。出ないですよ結論は。

若干きついことを加えるとすれば、キリスト教が反知性主義(アンチインテレクチュアリズム)に加担する場面があるとすれば、私が今書いている意味で「信じますが考え続けます」と言えなくなるときではないかと思います。信仰のすべてが理性の犠牲の上に生きているわけではない。両立しますよ、必ずね。

2015年11月10日火曜日

「人生をかける」と「生活がかかっている」は表裏一体です

記事とは関係ありません
しかし、私はカントの思想を知ること自体にさほど強い関心を持っているわけではありません。カントがDogmatiker(日本国内の定訳では独断論者ですかね)と呼んでいる中に間違いなく含まれているキリスト教の「教義学」(dogmatiek)ないし「組織神学」の権利を主張したいだけです。

しかもそれは私にとってはきわめて自己中心的なことです。私の実存、いえ私の生活がかかっています。それは私が「組織神学者」だとか「教義学者」だという意味ではなく(事実でないし、ジョークでも名乗ったことがありません)、私が学業を卒えた後に長年取り組んできた仕事の「根拠」にかかわります。

どこでも公開しているとおり、私は高校からストレートで「神学部神学科」に進学し、大学院は「神学研究科組織神学専攻」で、取得した学位は「学士(神学)」と「修士(神学)」です。中学一級、高校専修の「宗教」の教員免許は取得しましたが、他に持っている免許・資格は自動車の運転免許くらいです。

私と同じ経歴を持つ人は他にもおられるので、自分の特殊性を言い張りたいのではありませんが、「神学」の学位と「宗教」の教員免許が、より客観的な観点から見た私の仕事の「根拠」です。しかも、私が卒業した大学の入試偏差値などに興味がある方は、お知りになりたければネット検索ですぐ分かります。

それでも、あまり声を大にしては言いたくないことですが、教会の中だけにずっと引きこもっていられるなら、「神学」の学位と「宗教」の教員免許でこれからも末永く仕事をさせていただけるのかもしれません。しかし教会はそれほど甘くはありません。理由は割愛しますが。多分に内情暴露になりますので。

「神学」の学位と「宗教」の教員免許を持っている者が全く異質の業種の「仕事」に就くことも十分ありえることではありますが、ややもったいないことではあります。しかし、だからといって、教会の中だけにずっと引きこもっていることができず、教会の外で「仕事」をすることになる場合も十分あります。

学位や資格や免許などなくても就きうる「仕事」はあるし、過小評価する思いは皆無です。ただ、そういうもの(学位、資格、免許等)が要求される仕事「も」ある。その要求に対して「神学」の学位と「宗教」の教員免許の権利を主張せざるをえないというのが私の実存、いえ生活がかかっている関心事です。

「神学」だ「宗教」だをハナからアホ呼ばわりする方々の言説を見聞きしても、基本的には余裕の笑いを浮かべながら受け流すことが私にはできるつもりです。しかしそれが死活問題になるのは、「仕事」の根拠を疑われたり、生活基盤を剥奪されたりする場合です。そのときは笑っている場合ではありません。

「神学」と「宗教」だけの学位や免許だけを「仕事」の根拠にするのは危なっかしすぎるので、そんなときの保険のために、もっと世のため人のために役立つ学位や免許や資格を他にも取得しておくべきだという考えが当然すぎるほどあることも、よく分かっています。それは有り難いアドバイスでもあります。

しかし、そこであえて踏みとどまる。「神学」と「宗教」の権利を主張する。文科省が認定しているからどうのと言いたいのではないのですが、「神学」の学位と「宗教」の教員免許はアカデミックな価値があると、猛烈な逆風の中で言わせていただく。この主張が認められたらそれ自体が革命だと思うのです。

まあでも、私は、自分で料理を作った写真をfacebookに載せたり、9割9分ジョークしかネットに書かない、ほとんどずっと教会に引きこもりっぱなしの、世のため人のためには何の役にも立っていない、ただの「ブロガー牧師」ですけどね。はっはっは(ひきつった自虐の笑い)。

まあ私も、今は7割主夫のような感じなので、引きこもりと言っても、炊事、洗濯、掃除、家計管理、支払い、送り迎え、みたいなことでけっこうバタバタしてはいるのですが、「がっぽり稼いでくる」とか、そういうのはできないですね。笑。その分、節約して、支出を抑えているわけですが。笑。

ですし「がっぽり稼いでくる牧師」というのがどうも、私の良心回路(キカイダー搭載)が「それ概念矛盾だろ」という独り言をやや大声で叫びながら、速攻でパンチアウトすべき敵だと自動認識してロックオンするんですが。困ったなあ。私ね、たぶん牧師に向いてないんですね。気づくのが遅すぎるぜ。笑。

2015年11月9日月曜日

「古書をヤフオクで落札した瞬間」から「商品が手元に届く瞬間」までの心理分析

ハンナ・アーレントの『カント政治哲学の講義』(叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1995年)を落札し、郵便局ATMから古書店のゆうちょ銀行口座(旧ぱるる)に送金しました。古書店から「非常に良い」と評価していただきました。カントとヘーゲルの日本語版全集はいつか手に入れたいです。

カントにも、ハンナ・アーレントにも、もちろん興味があっての落札ではありますが、もっと手前に引いたところで、そもそも大学の講義というのはどのように組み立てられているのかを知りたいという関心が私にはあります。それが大学未満の学校(小中高など)でも、教会でも、応用できると思うからです。

それと「18世紀ビッグネーム氏の○○論」について20世紀ビッグネーム教授が解説している本を21世紀の我々が読む、というこの遠近感が、どう表現したらいいのかうまい言葉を思いつきませんが、とてもいい感じです。万華鏡をのぞいているようなキラキラ感がありますね(全くうまくない言葉です)。

カント、カントと私がずっと言っているのは、バルトもティリッヒもカント、カント言っていたわけで、形而上のことを学問研究の範疇に含めてよいかどうかという結局あの問題を避けて通れる現代の牧師も神学者もいないだろう(そもそもそれを「問題」として認識できない向きは別)と思っているからです。

「カント、カントと言われたら答えてあげるが世の情け」と昔のポケモンのロケット団っぽい言い方でごまかして逃げることにしますが、モルトマンへの関心も基本は同じ。「神とかマジ無理」という一般的言説も、無神論も、結局、形而上の事柄が学問の対象でありうるかという問題と深く結びついています。

「カント、カントと言われたら答えてあげるが世の情け」と昔のポケモンのロケット団の口真似で書いた以上、いちおう解説めいたことを書いておきます。全く厳密な言い方ではありませんが、「形而上」と「形而下」の区別というのは「超自然」と「自然」の区別だと言えば当たらずといえども遠からずです。

敬語表現を割愛して書けば、人の目に見えない神が世界を創造したらしいとか、水をぶどう酒に変化させた人がいるらしいとか、死んだ人が生き返ったらしいとか、天国とやらで人が今でも生きているらしいとか、そういう系のことが「超自然」であり「形而上」です。そのようなことが聖書に書かれています。

そういう「形而上」なり「超自然」なりの事柄は非学問であり、現代人にとっては「お話しにならないアホ話」だと認識することをセオリーとすることを、人類史上初めて主張したとは全く言えないものの、理論的・哲学的に言い切った重要な人物が、18世紀の哲学者インマヌエル・カント氏であるわけです。

そういうカント氏の言い分を、完全に否定するか、一部受け入れるか、全面的に受け入れるかという「問題」が、19世紀にも、20世紀にも、そして現在、21世紀にも、変わらずに、「聖書」を「神さまの言葉だ」と信じている人たちにとって完全には無視できない仕方で、襲いかかってきているわけです。

いやまあ、無視したければ無視しても構わないのですが、その場合は「あなたアホなんですね」と速攻で決めつけてくる人たちがいるわけです。アホアホ言われることに慣れている人たちは本格的に無視してもいいのですが、しつこいヘイトスピーチみたいなものですから、気に障る人は無視できないわけです。

分かりやすいか分かりにくいか分からない説明で申し訳ないのですが、まあとにかくそういうことを、私はアホみたいに考え続けているわけです。アホアホすみません。

「形而上」ないし「超自然」を学問の対象であると主張することでアホアホ言われようと、もしかすると自分自身は全く傷つかないという人の場合でも、アホアホ言われるたびに傷ついている教会員と共に痛み苦しむことが、現代の牧師や神学者に求められている基本姿勢ではないかと、私は考えるほうです。

その意味では、牧師はらくなものです。いざとなれば教会の中にずっと引きこもっていれば済んでしまうようなところがありますので。批判の矢面にいるのは世間のアバンギャルドで仕事している方々です。アホアホ言われるだけならまだしも、即解雇、免許・資格・学位などの剥奪、生活基盤喪失の世界です。

「そんな免許なら剥奪されちゃえば~。牧師になれば~」とか、やすやすと言いのける人をたまに見かけますが、大丈夫かと、正直心配になります。「牧師はらく」の意味は、まるで「窓のないモナド」のように体系的に自己完結した思想の中に引きこもっても文句言われない可能性があるということだけです。

かえってそのほうが「純粋な信仰者」に見えて尊敬される可能性さえあるかもしれません。窓をチコッと開けると、そこから死に至る毒ガスがどどっと押し寄せてくることが分かっているだけに。でも、その毒ガスも、即致死量なのか、まあしばらくは死にはせん(長年浴びると死ぬ)レベルなのかによります。

「外に出て浴びろよ」と言いたくなることがあります。他人に対してというより、自分自身に。問題はむしろ、窓をしめきって外部から押し寄せる毒ガスから自分たちを完全に遮断している気でいるその室内が、酸欠で窒息状態であったり、じめじめと湿気て、きのこが生えていたりする、そちら側にあります。

いま書いたような問題群が、ほぼ物心つく頃から今日に至るまで私の心を悩ませ続けている「カント問題」の核心部分です。小中高と公立学校で学んだことと関係あるかどうかは分かりません。ただし、「物心つく頃からカントを私は読んでいた」という意味では全くありません。そんなわけないじゃんね。笑。

話が飛躍するかもしれませんが、私、「ホンマでっかTV」(フジテレビ)というのがわりと好きで、時々観ているのですが、あれに出てくる脳科学者の澤口俊之氏が「あくまでも脳科学的に言えば、ですけどね」という口上でいろいろ言う、あの姿勢はいいなと思っている者です。

お互いを潰し合い、自分の論拠で他者の論拠を打ち消して自分の論拠だけを「上書き保存」するようなやり方ではない。いろんなシステムが共存することを許容する。そのすべてのシステムを統括・支配するより高次のシステムの考案者に自らなろうとしない。

神学は歴史をさかのぼれば、そういう「より高次のシステム」であろうとした時期があることは明白ですよね。「神学は諸学の女王、諸学は神学のはしため」と真顔で言っていた時期がある。その意気やよし、ですが、その後崩壊。

最近ではだれだろう、立花隆さんあたりがユビキタスなんとかみたいなことを言って全体統合のシステムを考える。あるいは、グーグルがすべての情報を支配する位置に立とうという意思を持っているのかな、分かりませんけど。でも、それもまた、全体の中の一パートにすぎない。

そういう単純だけど「謙遜や忍耐」を求められる位置づけをお互いに持ちあえるようになればいいのかな、みたいな。最後は個人の心の倫理のような話なのかもしれません。人の道をはずれていないかどうか、みたいな。

無事に届きました。ハンナ・アーレントの『カント政治哲学の講義』(叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1987年)。古書店さま、ありがとうございます。私のカントコレクション(カンコレ)の29冊目。次は本丸、カント全集行くか(無謀)。


インマヌエル・カントの/についての著作

(左から)

Kritik der reinen Vernunft(純粋理性批判)
Critique of Pure Reason(純粋理性批判)
Critique of Practical Reason(実践理性批判)
Critique of Judgement(判断力批判)
Religion within the Boundaries of Mere Reason
          (単なる理性の限界内の宗教)
講談社学術文庫『純粋理性批判(一)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(二)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(三)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(四)』天野貞祐訳
岩波文庫『道徳哲学』
岩波文庫『道徳形而上学原論』
岩波文庫『純粋理性批判(上)』篠田秀雄訳
岩波文庫『純粋理性批判(中)』篠田秀雄訳
岩波文庫『純粋理性批判(下)』篠田秀雄訳
岩波文庫『実践理性批判』
岩波文庫『判断力批判(上)』
岩波文庫『判断力批判(下)』
岩波文庫『プロレゴメナ』
岩波文庫『啓蒙とは何か 他四篇』
岩波文庫『永遠平和のために』
岩波文庫『美と崇高との感情性に関する観察』
岩波文庫『人間学』
中公パックス世界の名著『カント』
B. バウフ『インマヌエル・カント 人とその思想』
カウルバッハ『インマヌエル・カント』
量義治『カントと形而上学の検証』
小倉貞秀『カント倫理学の基礎』
熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』
ハンナ・アーレント『カント政治哲学の講義』

2015年11月7日土曜日

息を止めてモルトマンへジャンプする心境というか

モルトマンを読むのを我慢している状態なので、コメントするのも控えますが、説教集や講演集とかは「超訳」のほうが合うと思います。「最近の教会の牧師たちの説教、はっきり言っておもしろくないんですよね。私も若い頃は牧師をやりましたし、今でも日曜日の礼拝には出てますけどね」みたいな訳し方。

今の国内の政治情勢の中で、教会に通っているクリスチャンや牧師さんが、

「どう考えてもさすがにヤバイ。政治こわれすぎ。なにかしなくちゃ」

と重い腰を上げてみたものの、どの政党も右すぎるか、他宗教か、左すぎるように見えて見えて仕方なく、とてもじゃないが応援する気になれない。

まして「神とかマジ無理」とか「宗教こわい」とか「キリスト教こそ諸悪の根源」とか言っている人たちと組んだら、何を言われるか分からない。

「あんたかりにもクリスチャンなんでしょ。政治力学の数合わせのためなら無神論者とでも組めるわけ?」

とか口汚く罵られるんだろうなあ。

でも、けっこう当たってるんだよな、あの人たちの言い分。「もっと言ってもっと言って」と言いたくなるくらいに。政治のスタンスだけいえば、ほぼドンピシャだし。でも「無神論」ていうのが、どうもなあ。困ったなあ。

みたいなことでお悩みの方に「モルトマン」が効くかもしれません。

(副作用が出た場合は服用を中止してください。)

ああ読みたい。けど我慢我慢。いま手が離せないことがありまして。

ぜひブックレポート書いてください。シェアさせていただきます。人任せ。

日本の教会でより大きな運動を起こすためにはすでに広く出回っているテキストに基づく議論でなければならないと思います。カール・バルトでもいいのですが、いかんせん世代が違いすぎる。バルトが知らないインターネットをモルトマンは知っている。モルトマンの感性は我々とほとんど同じだと思います。

ダメだ、モルトマンを読んでいる。『十字架と革命』(新教出版社、1974年)。それと訳者・大庭健氏の解説に「うわあ」という言葉にならない思いを抱きながらも魅了されてしまっている。まあでも、今日予定していたことは無事完了。なんとか道が開けそうだ。Taking a New Step.

これしかないので、長いお付き合いの方には「またか」と飽きられるほどしつこい感じになりますが、私とユルゲン・モルトマン先生の一緒に写らせていただいた写真は、これです。



詳しい状況は、以下のとおり。

2008年12月10日(水)オランダ・アムステルダム自由大学(Vrije Universiteit te Amsterdam)で「ファン・ルーラー生誕100年記念」(ファン・ルーラーは1908年12月10日生まれです)で開催された「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler congres)の主催者から私の個人名宛てに招待状が届きましたので(事実)、これは「来い」ということだなと自分で思い込み、人生初の単独(ひとり)オランダ旅行を敢行した次第。

そんな光栄な国際学会に、せっかく日本から(多額の旅費を投じて)行くのだから、挨拶ぐらいせなあかんやろと、事前に主催者にメールを送り、スピーチさせてほしいと、私から頼み込んだ次第。

そして、英文のスピーチ原稿をアメリカ人宣教師にネイティヴチェックをしていただいたうえで、事前に主催者にメールで送り、オッケーをいただいた次第。(国際ファン・ルーラー学会でのスピーチ全文

そしたら、12月10日(水)当日、国際ファン・ルーラー学会のすべてのプログラムが終わる最後の最後に、プロテスタント神学大学総長ヘリット・イミンク先生が私をオランダ語で200人(後日主催者発表)の神学者(学会出席者)に紹介してくださったうえで、私の登壇となった次第。

国際学会の会場には、ファン・ルーラーの子どもさんたちもおられたし、国際学会のメイン講師としてドイツから招待されていたユルゲン・モルトマン先生もおられる前で、ウルトラ下手な英語で私が5分ほどのスピーチをさせていただいた次第。

そして、国際学会閉幕後、アムステルダム自由大学の別室で、オランダ、ドイツ、アメリカ、南アフリカ、日本(!)などの出席者200人によるレセプション(ビール、ワイン、ウィスキーなど)があり。

すっかり気持ちよくなったあと、「さて帰りましょうか」と、私と一緒に出席した石原知弘先生(改革派教会)と青木義紀先生(同盟基督教団)とでアムステルダム自由大学の玄関広間でウダウダしていたら、その玄関広間のベンチで、「ユルゲン・モルトマン先生」が、おそらく「次のレセプション」(二次会)に行くタクシーを待っておられた次第。

その姿を見た私、関口康が、石原先生と青木先生に耳打ちし、「ぎゃー、あれモルトマン先生だよね。ツーショット撮らせてもらおうよ。たぶんもう二度と会えないし。ゼッタイチャンスだよ。ぼくドイツ語できないから、先生たち交渉してよ」とけしかけた次第。

石原・青木両先生は、しぶしぶモルトマン先生のところに行ってくださり、交渉成立。それで実現したツーショット(フォーショット)写真です。

ですが、私は最初、4人の中の向かって(めっちゃ遠慮して)左端に立とうとしました。そしたら、写真左端のブリンクマン教授(アムステルダム自由大学神学部組織神学正教授)が、私の体をがっとつかみ、ご自分と入れ替えて、「きみはここだ」とモルトマン先生の隣りに押し込んでくださって実現した「写真」です。

なお「ファン・ルーラー研究会」は、昨年(2014年)10月27日に正式に解散しました。「ファン・ルーラー研究会」は、今は一人一人の心の中で活動しています。



誤解がありませぬように。モルトマンを私は初めて読もうとしているというわけではないのです。30年以上前から買って読んでいるし、ある人々からすれば過去の人扱いではないかと思います。私もどちらかというとずっと反発を感じてきたほうです。この人とは与すまいと決意していた時期があるほどです。

しかし最近、次第次第にですが心境の変化が起こってきました。モルトマンを読もうという気持ちとそれは深い次元で連結しています。モルトマンは私にとって、ある「一つ」の目的意識をもって読めばやっと意味が分かるという感じです。それは「一つ」だけです。その代わりその点は頑固なまでに明確です。

その「一つ」でモルトマンと合わない人は、彼の思想世界にたぶん一歩も入れないし、入る必要はないとずっと感じてきました。やっと読む気になったのは、「機が熟した」というか、彼を支持すべきかもという思いが生じているというか、他に道が残されていないようだと追い詰められているというか、です。

まあ、今はまだ、何を書いても暗号文を書いているような感覚があるので、「たとえを用いないで」話せる日が来るのが待ち遠しいです。待っていてくださいね、モルトマン先生、もう一度お会いしたいです。地上で。ドイツに行ったことないので、お金貯めて遊びに行きたいです。よろしくお願いいたします。

2015年11月4日水曜日

「今こそモルトマンを読むべきだ」と焦りながら手をつけられないでいる

やっと届きました、ユルゲン・モルトマンの説教集。古書店さま、ありがとうございます。

私が所蔵しているモルトマン先生の本はこれで15冊目です。まだまだ少ないです。ちょっとマニアックに原著出版年順に並べました。

ユルゲン・モルトマンの著作
(左から)
Theologie der Hoffnung(希望の神学), 1965.
『希望の神学』1968年(原著1965年)
『現代に生きる使徒信条』(共著)、1975年(原著1967年)
『神学の展望』1971年(原著1968年)
『十字架と革命』1974年(原著1970年)
Theology and Joy(神学と喜び), 1973 (Original German Version, 1971)
『人間』1973年(原著1971年)(※上の写真にはありません)
『キリストの未来と世界の終わり』1973年(原著1972年)
『聖霊の力における教会』1981年(原著1975年)
『神が来られるなら』1988年(原著1975年など)
『三位一体と神の国』1990年(原著1980年)
『二十世紀神学の展望』1989年(原著1984年など)
『創造における神』1991年(原著1985年)
『今日キリストは私たちにとって何者か』1996年(原著1994年)
『いのちの泉』1999年(原著1997年)

「今こそモルトマンを読むべきだ」と焦りながら手をつけられないでいる。モルトマン44歳の作品『十字架と革命』(原著1970年、日本語版1974年)の中の「無神論者との出会い」と「キリスト者とマルクス主義者の批判的連帯のために」という2つの章の趣旨をよく考える必要があると思っている。

前者の趣旨は「キリスト者は無神論者を敵視することはできないし、してはならない」ということであり、後者の趣旨はタイトルどおり、キリスト者とマルクス主義者の「批判的」連帯への模索である。今こそホットなテーマではないか。しかし、一筋縄では行かない問題であることは、依然として間違いない。

今こそモルトマンを読まなければと焦りながら手をつけられずにいるのは、読み始めると止まらなくなるほど面白すぎるからである。文句を言いたくなる部分もたくさんあるが、それは違う、モルトマンが我々にものすごく激しく文句を言っているのだ。現代の教会と牧師に対して、厳正な抗議をしているのだ。

2015年11月2日月曜日

作文の書き方(不定期)

本文とは関係ありません
私はネットだけに書いているわけではないが、比率としてはネットが多い。リアルで/に口下手で、子どもの頃の吃音の後遺症がまだあり、電話をかける前に原稿を書いていた時期が過去にあるほどで、字で思いを伝えるほうが対面よりもはるかにらくだ。ネットでリアルなしゃべり方ができるし、してしまう。

でも、字は字なので、対面でしゃべるのとは違う。それは当然そうだと思っている。ただ、字で思いを伝えることを何年も続けていると(ネット20年目)、文体は変わるし、変えたくなる。語順や語尾や感嘆文などでいろいろ細工したくなる。その影響がリアルの作文、説教や論文の文体のほうにも出てくる。

最近、ひとりで面白がって試してみているのは、facebookのコメントのやりとりのようなところで、相手のお名前を文章の途中に入れてみることだ。「たしかにそうなんですよね、○○さん、それよく分かります。教えてくださり、ありがとうございます。」のような書き方。ちょっぴり欧米風かなと。

主語と述語を逆さまに書いてみるのも悪くない。初めての相手にそういう文体はよしたほうがいいだろうが、ネットで長い付き合いのある相手であれば内容や意図が伝わらないことはないと思う。「面白くないんだよね、そういうのは」とか。「美味しかったです、今日のラーメンは」とか。さてどうだろうか。

私は自分でもかなり間違うくせに、他人の話のテニヲハや熟語や慣用句の言い間違いが逐一気になるほうだ。でも滅多なことではその人に訂正を求めたりはしない。もしかしてその相手の言い方のほうが、たとえセオリーどおりでなくても内容的に考えると正しいかもしれないと考えこんでしまうほどルーズだ。

だけど、自分は他人の言葉づかいを逐一チェックして訂正させるようなことを滅多にしないほどルーズでも、すべての人が私と同じでないことも分かっているつもりなので、私は他の方々にチェックの手間をお取らせしないよう可能なかぎりセオリーどおりの日本語でしゃべりたいし、書きたいと考えてはいる。

ただの当てずっぽうだが、自分がしゃべるときに、テニヲハや熟語や慣用句でどれほど言い間違いがあっても全く気にならない人は、たぶん吃音にはならないと思う。一瞬の脳内エラーのようなものかも。バグ。もしかしてセオリーの言い方や文法と違うかもと、迷いがよぎるたびに、つっかえてしまうのでは。

私の吃音の話になってしまったが、こういうことを書くと「よい治し方がありますよ」とか「あの病院に通ってみられたら」とか、ご丁寧に指南してくださる方がまれにおられるが、そういうのは勘弁してもらいたい。「うるさいよ」とかすぐキレるので取り扱い注意。笑。言いたいのは、そこではないわけで。

しゃべるように書き、書くようにしゃべる。それがたぶん、作文力が伸びる最短コースではないかと私は考える。吃音の人は、自分の吃音どおりに書けばいいかもしれない。「えーと、あのー、そ、そうですよね。んま、まあ、なんとなく分かりますよ」とか。その原稿を読めばいい。もっとひどくなるのかな。

教会と学業の両立

小学生が書いてくれました
いま教会で通常の日曜学校とは別に中学生向けの入門クラスを私が担当しているが、「分かる」とか「面白い」と言ってくれる。詳しいことは書けないが、公立中学に通い、公立高校を目指している子たちだ。私の基本スタンスは、公立学校の教育内容を全否定するような「神学」に立って話さ「ない」ことだ。

厳密な話をしているのではない。たとえば、文科省の学習指導要領に忠実にそった「神学」(もしそんなのがあるとすれば)に立って話「す」というような意味では全くない。そもそも学習指導要領を見たことがない。もう30年以上前だが、私も小中高は公立学校だった。その頃の感覚を忘れていないだけだ。

なぜ私が公立学校の教育内容を全否定するような「神学」に立って話さ「ない」で中学生たちの入門クラスをするのかといえば、理由は単純。その子たちが学校に行くのが嫌にならないようにすべきだと思うからだ。少し大げさに言えば、教会の使命は人を神のもとから世へと「派遣」することだと思うからだ。

中学生向けの入門クラスのことを先に書いたが、日曜学校の小学生たち向けの説教も月3ペースで私がしているが、基本スタンスは同じにしている。その子たちが学校に通うのが嫌になるような教え方はしない。「世との妥協」を教えているつもりはないが、歯車の噛み合わせのようなことを常に意識している。

別言すれば「世との妥協」ではないが「世離れ」しないように教える。そのような意識で、子どもたちにも大人たちにも話すように私はしている。このような私の基本スタンスは、ある見方をすれば、おそらく「リベラル」と評される。面と向かって私に「リベラル」というラベルを貼った人は、まだいないが。

どんなラベルを貼られようと私は構わない。教会と学業の両立ができるようになってもらいたいという願いが間違っているとは思わない。子どもたちにはある意味で過酷かもしれないが、プロテスタントらしく「世俗内的禁欲」の線で教える。勇気をもって大胆に世へと突入してほしい。それは不信仰ではない。