2015年11月12日木曜日

信仰と理性のハイブリッドシステムを

某大学のオンデマンド講義を聴講しています
「非学問だからこそそれは信仰なのである」という感覚は、現代の教会に独特の敬虔を生み出してもいます。しかし、私の理想というか目標を言わせていただけば、「信仰と理性の調停しがたい対立」という図式を克服・修正して「信仰と理性のハイブリッドシステム」の道はないかと模索しているところです。

私が神学、とくに組織神学/教義学の観点から「信仰と理性の対立の緩和」によるハイブリッドを求める場合は、教義学のキリスト教的・三位一体論的な内的論理を徹底的に考えぬくことで「そうバカにしたものでもないのだな」と分かってもらう方式ですね。

あとはなんでしょうかね。ぱっと思いつくかぎりでいえば、組織神学/教義学も一夜にしてできたものではありませんので、過去の外国語文献を翻訳して読むという作業を、当然避けて通ることができません。文献収集にも、翻訳にも、解釈にも、国家予算規模の費用を投じても実際には全く足りないほどです。

そしてその組織神学/教義学の過去の営みが、かなりの面で、カントにせよヘーゲルにせよハイデッガーにせよ、日本で著名な哲学者たちの「反面教師」ないし「下敷き」の役割を果たしてきたのは確実であるはずなのですが、そちらの研究がいまだにほとんどなされていないのはアンバランスであるはずです。

日本の大学の哲学科に属したことはありませんので内情は分かりませんが、たとえば、ヘーゲルの精神現象学の「精神」(大文字のガイスト)がキリスト教の「聖霊」(大文字のガイスト)と全くつながりがないということはありえないと私なんかには思えますが、日本でどのように教えられているのかとか。

挑戦的な意図で書くわけではありませんが(ほんとに)、キリスト教の組織神学/教義学の方法論と伝統に基づく「聖霊論」(Pneumatologie)を深く考えることがほとんどないままで、ヘーゲルの「大文字のガイストの現象学」を正しく理解できるとは私には思えないとか。

もう一つあえて書くとしたら、これこそジャーゴンなのですが、キリスト教が言うところの「神」の定義そのものに躊躇なく踏み込む畏れ多い仕事をするのが組織神学/教義学の本来の務めですので、こうなったら神さまご自身に「信仰と理性の対立の緩和」をお願いすることをしていくしかないです。

今書いたことの意味は、宗教者が自分の神に「信仰と理性の対立が緩和されますように」と祈祷するという意味であってももちろん一向に構わないわけですが、そういうことよりも、「神の定義」において「人間」ないし「人間性」との対立概念として「神」をとらえすぎることの危険性を指摘するとかです。

問いの立て方としては、「神である」とはいつでも必ず「人間でない」という意味でなければならないかとか、神と人の関係をいつでも必ず受肉論(神にもかかわらず人になられた論)でとらえなければならないだろうかとか、それは信仰の名を借りたアンスロフォビア(人間嫌い)の可能性はないだろうかとかです。

こういう問いの立て方がありうることを私が考えはじめたのは、モルトマンをインスパイアしたとされるファン・ルーラーの本を読み始めてからです。ほとんど受け売りです。モルトマンの「共苦」はキリスト論の範疇だと思いますが、ファン・ルーラーはキリスト論のみで神人関係をとらえるのを嫌いました。

なぜなら、キリスト論においては(or/ おいてすら)神人関係は「対立概念」でしか捉えられてこなかったからです。神である「にもかかわらず」(notwithstanding)人になられたのがイエス・キリストですから。逆接・逆説が成立するのは神人関係が「対立関係」であるときのみです。

しかし、キリスト教の「神」は「三位一体」であると、大昔から教会は堂々と言い続けてきました。「キリストだけ」が「神」であるとは言ってきませんでした。お父さんも、聖霊も「神さま」だと言い続けてきました。その、とくに「聖霊」は「人になじむ存在」として聖書に描かれていたりします。

だって「聖霊」は、人の中に「宿る」(inhabit)のですから。inhabitatio Spiritus sancti(聖霊の内住)です。しかも、聖霊は人に向かって常にけんか腰ではないです。けんかっぱやい邪霊が人の中に宿られた日には、我々は即入院でしょう。やばすぎますよね。

人の「理性」と、人の中に「宿る」(inhabit)「神」である「聖霊」とは、仲良く「同棲」する関係です。もちろん、可能であれば公に「結婚」すれば気がラクになると思いますが、まあ事実婚というのも許容されると思いますよ。これはまじめな話ですからね。面白い話でもありますけどね。

この「理性」と「聖霊」(「聖霊」は「神さま」ですからね、そこお間違えなく)の「同棲」を認めてもらえるようになれば、「信仰と理性との対立の緩和」は、組織神学/教義学の側から、これまでよりももっと積極的に、かつむしろ率先した形で可能になるだろうと、私は虎視眈々、考えております。

自分で書いた「教義学のキリスト教的・三位一体論的な内的論理を徹底的に考え抜くことで「そうバカにしたものでもないのだな」と分かってもらう方式とは、要するにアンセルムスの「知解を求める信仰」(fides quaerens intellctum)ですね。信じますけど考え続けますよ方式。

「考えるな、感じろ」というブルース・リー(燃えよドラゴン)だかマスター・ヨーダ(スターウォーズ)だかモーフィアス(マトリックス)だかのセリフと同じことをキリスト教の信仰に関して真顔で言う人と出会ったことがあり、耐え難い思いを抱いた日から私の目標がむしろ定まった面があったりします。

アンセルムスだって、理性による「知解」を続けていけばやがて「信仰」に至りうるとは言わなかったわけですよね。それは無理だ。だけど、「信じること」と「考えるのをやめること」とはイコールではないですよ。「考えたってどうせ分かんないんだから」と「だから考えるのをやめる」は別のことですよ。

しかも「信じますが考え続けますよ方式」だという場合の「考える」は、その考えていることの経路を字に書いて残していくことを当然含んでいるし、「思考のプロセスを書き残すこと」にこそ意味があると思います。結論よりプロセスに意味がある。正解なんかなくていいんですよ。どうせ分かんないんだし。

権威と伝統ある「命題」を無批判で受領して、その意味する内容や「論理」について考えることをやめ、ないし禁止され、ただ定期的にその「命題」をリズミカルに反復するような宗教や生活のあり方をおそらく「黙従」というのだと思いますが、そのほうがある意味でラクですが、私はその道には進みません。

私がけっこう長年、自分の目標としてきたつもりの「信じますが考え続けますよ方式」がアンセルムスの言うcredo ut intelligam(これの定訳は「知解するために信じる」でいいのでしょうか)と内容的に同じかどうかは正確には分かりませんが、方向性はたぶん共通していると思います。

考えるのをやめないでいれば、脳の老化対策になりますよね。いつまでも若々しさを保つことができますよ。結論出さなくていいんだってば。というか、出ないでしょ結論。自分が死んだらどこに行くのかとか、どこにも行かないのかとか。いや死なんでも、最も心和む人生とは何かとか。出ないですよ結論は。

若干きついことを加えるとすれば、キリスト教が反知性主義(アンチインテレクチュアリズム)に加担する場面があるとすれば、私が今書いている意味で「信じますが考え続けます」と言えなくなるときではないかと思います。信仰のすべてが理性の犠牲の上に生きているわけではない。両立しますよ、必ずね。