2015年11月9日月曜日

「古書をヤフオクで落札した瞬間」から「商品が手元に届く瞬間」までの心理分析

ハンナ・アーレントの『カント政治哲学の講義』(叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1995年)を落札し、郵便局ATMから古書店のゆうちょ銀行口座(旧ぱるる)に送金しました。古書店から「非常に良い」と評価していただきました。カントとヘーゲルの日本語版全集はいつか手に入れたいです。

カントにも、ハンナ・アーレントにも、もちろん興味があっての落札ではありますが、もっと手前に引いたところで、そもそも大学の講義というのはどのように組み立てられているのかを知りたいという関心が私にはあります。それが大学未満の学校(小中高など)でも、教会でも、応用できると思うからです。

それと「18世紀ビッグネーム氏の○○論」について20世紀ビッグネーム教授が解説している本を21世紀の我々が読む、というこの遠近感が、どう表現したらいいのかうまい言葉を思いつきませんが、とてもいい感じです。万華鏡をのぞいているようなキラキラ感がありますね(全くうまくない言葉です)。

カント、カントと私がずっと言っているのは、バルトもティリッヒもカント、カント言っていたわけで、形而上のことを学問研究の範疇に含めてよいかどうかという結局あの問題を避けて通れる現代の牧師も神学者もいないだろう(そもそもそれを「問題」として認識できない向きは別)と思っているからです。

「カント、カントと言われたら答えてあげるが世の情け」と昔のポケモンのロケット団っぽい言い方でごまかして逃げることにしますが、モルトマンへの関心も基本は同じ。「神とかマジ無理」という一般的言説も、無神論も、結局、形而上の事柄が学問の対象でありうるかという問題と深く結びついています。

「カント、カントと言われたら答えてあげるが世の情け」と昔のポケモンのロケット団の口真似で書いた以上、いちおう解説めいたことを書いておきます。全く厳密な言い方ではありませんが、「形而上」と「形而下」の区別というのは「超自然」と「自然」の区別だと言えば当たらずといえども遠からずです。

敬語表現を割愛して書けば、人の目に見えない神が世界を創造したらしいとか、水をぶどう酒に変化させた人がいるらしいとか、死んだ人が生き返ったらしいとか、天国とやらで人が今でも生きているらしいとか、そういう系のことが「超自然」であり「形而上」です。そのようなことが聖書に書かれています。

そういう「形而上」なり「超自然」なりの事柄は非学問であり、現代人にとっては「お話しにならないアホ話」だと認識することをセオリーとすることを、人類史上初めて主張したとは全く言えないものの、理論的・哲学的に言い切った重要な人物が、18世紀の哲学者インマヌエル・カント氏であるわけです。

そういうカント氏の言い分を、完全に否定するか、一部受け入れるか、全面的に受け入れるかという「問題」が、19世紀にも、20世紀にも、そして現在、21世紀にも、変わらずに、「聖書」を「神さまの言葉だ」と信じている人たちにとって完全には無視できない仕方で、襲いかかってきているわけです。

いやまあ、無視したければ無視しても構わないのですが、その場合は「あなたアホなんですね」と速攻で決めつけてくる人たちがいるわけです。アホアホ言われることに慣れている人たちは本格的に無視してもいいのですが、しつこいヘイトスピーチみたいなものですから、気に障る人は無視できないわけです。

分かりやすいか分かりにくいか分からない説明で申し訳ないのですが、まあとにかくそういうことを、私はアホみたいに考え続けているわけです。アホアホすみません。

「形而上」ないし「超自然」を学問の対象であると主張することでアホアホ言われようと、もしかすると自分自身は全く傷つかないという人の場合でも、アホアホ言われるたびに傷ついている教会員と共に痛み苦しむことが、現代の牧師や神学者に求められている基本姿勢ではないかと、私は考えるほうです。

その意味では、牧師はらくなものです。いざとなれば教会の中にずっと引きこもっていれば済んでしまうようなところがありますので。批判の矢面にいるのは世間のアバンギャルドで仕事している方々です。アホアホ言われるだけならまだしも、即解雇、免許・資格・学位などの剥奪、生活基盤喪失の世界です。

「そんな免許なら剥奪されちゃえば~。牧師になれば~」とか、やすやすと言いのける人をたまに見かけますが、大丈夫かと、正直心配になります。「牧師はらく」の意味は、まるで「窓のないモナド」のように体系的に自己完結した思想の中に引きこもっても文句言われない可能性があるということだけです。

かえってそのほうが「純粋な信仰者」に見えて尊敬される可能性さえあるかもしれません。窓をチコッと開けると、そこから死に至る毒ガスがどどっと押し寄せてくることが分かっているだけに。でも、その毒ガスも、即致死量なのか、まあしばらくは死にはせん(長年浴びると死ぬ)レベルなのかによります。

「外に出て浴びろよ」と言いたくなることがあります。他人に対してというより、自分自身に。問題はむしろ、窓をしめきって外部から押し寄せる毒ガスから自分たちを完全に遮断している気でいるその室内が、酸欠で窒息状態であったり、じめじめと湿気て、きのこが生えていたりする、そちら側にあります。

いま書いたような問題群が、ほぼ物心つく頃から今日に至るまで私の心を悩ませ続けている「カント問題」の核心部分です。小中高と公立学校で学んだことと関係あるかどうかは分かりません。ただし、「物心つく頃からカントを私は読んでいた」という意味では全くありません。そんなわけないじゃんね。笑。

話が飛躍するかもしれませんが、私、「ホンマでっかTV」(フジテレビ)というのがわりと好きで、時々観ているのですが、あれに出てくる脳科学者の澤口俊之氏が「あくまでも脳科学的に言えば、ですけどね」という口上でいろいろ言う、あの姿勢はいいなと思っている者です。

お互いを潰し合い、自分の論拠で他者の論拠を打ち消して自分の論拠だけを「上書き保存」するようなやり方ではない。いろんなシステムが共存することを許容する。そのすべてのシステムを統括・支配するより高次のシステムの考案者に自らなろうとしない。

神学は歴史をさかのぼれば、そういう「より高次のシステム」であろうとした時期があることは明白ですよね。「神学は諸学の女王、諸学は神学のはしため」と真顔で言っていた時期がある。その意気やよし、ですが、その後崩壊。

最近ではだれだろう、立花隆さんあたりがユビキタスなんとかみたいなことを言って全体統合のシステムを考える。あるいは、グーグルがすべての情報を支配する位置に立とうという意思を持っているのかな、分かりませんけど。でも、それもまた、全体の中の一パートにすぎない。

そういう単純だけど「謙遜や忍耐」を求められる位置づけをお互いに持ちあえるようになればいいのかな、みたいな。最後は個人の心の倫理のような話なのかもしれません。人の道をはずれていないかどうか、みたいな。

無事に届きました。ハンナ・アーレントの『カント政治哲学の講義』(叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1987年)。古書店さま、ありがとうございます。私のカントコレクション(カンコレ)の29冊目。次は本丸、カント全集行くか(無謀)。


インマヌエル・カントの/についての著作

(左から)

Kritik der reinen Vernunft(純粋理性批判)
Critique of Pure Reason(純粋理性批判)
Critique of Practical Reason(実践理性批判)
Critique of Judgement(判断力批判)
Religion within the Boundaries of Mere Reason
          (単なる理性の限界内の宗教)
講談社学術文庫『純粋理性批判(一)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(二)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(三)』天野貞祐訳
講談社学術文庫『純粋理性批判(四)』天野貞祐訳
岩波文庫『道徳哲学』
岩波文庫『道徳形而上学原論』
岩波文庫『純粋理性批判(上)』篠田秀雄訳
岩波文庫『純粋理性批判(中)』篠田秀雄訳
岩波文庫『純粋理性批判(下)』篠田秀雄訳
岩波文庫『実践理性批判』
岩波文庫『判断力批判(上)』
岩波文庫『判断力批判(下)』
岩波文庫『プロレゴメナ』
岩波文庫『啓蒙とは何か 他四篇』
岩波文庫『永遠平和のために』
岩波文庫『美と崇高との感情性に関する観察』
岩波文庫『人間学』
中公パックス世界の名著『カント』
B. バウフ『インマヌエル・カント 人とその思想』
カウルバッハ『インマヌエル・カント』
量義治『カントと形而上学の検証』
小倉貞秀『カント倫理学の基礎』
熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』
ハンナ・アーレント『カント政治哲学の講義』