2015年11月10日火曜日

「人生をかける」と「生活がかかっている」は表裏一体です

記事とは関係ありません
しかし、私はカントの思想を知ること自体にさほど強い関心を持っているわけではありません。カントがDogmatiker(日本国内の定訳では独断論者ですかね)と呼んでいる中に間違いなく含まれているキリスト教の「教義学」(dogmatiek)ないし「組織神学」の権利を主張したいだけです。

しかもそれは私にとってはきわめて自己中心的なことです。私の実存、いえ私の生活がかかっています。それは私が「組織神学者」だとか「教義学者」だという意味ではなく(事実でないし、ジョークでも名乗ったことがありません)、私が学業を卒えた後に長年取り組んできた仕事の「根拠」にかかわります。

どこでも公開しているとおり、私は高校からストレートで「神学部神学科」に進学し、大学院は「神学研究科組織神学専攻」で、取得した学位は「学士(神学)」と「修士(神学)」です。中学一級、高校専修の「宗教」の教員免許は取得しましたが、他に持っている免許・資格は自動車の運転免許くらいです。

私と同じ経歴を持つ人は他にもおられるので、自分の特殊性を言い張りたいのではありませんが、「神学」の学位と「宗教」の教員免許が、より客観的な観点から見た私の仕事の「根拠」です。しかも、私が卒業した大学の入試偏差値などに興味がある方は、お知りになりたければネット検索ですぐ分かります。

それでも、あまり声を大にしては言いたくないことですが、教会の中だけにずっと引きこもっていられるなら、「神学」の学位と「宗教」の教員免許でこれからも末永く仕事をさせていただけるのかもしれません。しかし教会はそれほど甘くはありません。理由は割愛しますが。多分に内情暴露になりますので。

「神学」の学位と「宗教」の教員免許を持っている者が全く異質の業種の「仕事」に就くことも十分ありえることではありますが、ややもったいないことではあります。しかし、だからといって、教会の中だけにずっと引きこもっていることができず、教会の外で「仕事」をすることになる場合も十分あります。

学位や資格や免許などなくても就きうる「仕事」はあるし、過小評価する思いは皆無です。ただ、そういうもの(学位、資格、免許等)が要求される仕事「も」ある。その要求に対して「神学」の学位と「宗教」の教員免許の権利を主張せざるをえないというのが私の実存、いえ生活がかかっている関心事です。

「神学」だ「宗教」だをハナからアホ呼ばわりする方々の言説を見聞きしても、基本的には余裕の笑いを浮かべながら受け流すことが私にはできるつもりです。しかしそれが死活問題になるのは、「仕事」の根拠を疑われたり、生活基盤を剥奪されたりする場合です。そのときは笑っている場合ではありません。

「神学」と「宗教」だけの学位や免許だけを「仕事」の根拠にするのは危なっかしすぎるので、そんなときの保険のために、もっと世のため人のために役立つ学位や免許や資格を他にも取得しておくべきだという考えが当然すぎるほどあることも、よく分かっています。それは有り難いアドバイスでもあります。

しかし、そこであえて踏みとどまる。「神学」と「宗教」の権利を主張する。文科省が認定しているからどうのと言いたいのではないのですが、「神学」の学位と「宗教」の教員免許はアカデミックな価値があると、猛烈な逆風の中で言わせていただく。この主張が認められたらそれ自体が革命だと思うのです。

まあでも、私は、自分で料理を作った写真をfacebookに載せたり、9割9分ジョークしかネットに書かない、ほとんどずっと教会に引きこもりっぱなしの、世のため人のためには何の役にも立っていない、ただの「ブロガー牧師」ですけどね。はっはっは(ひきつった自虐の笑い)。

まあ私も、今は7割主夫のような感じなので、引きこもりと言っても、炊事、洗濯、掃除、家計管理、支払い、送り迎え、みたいなことでけっこうバタバタしてはいるのですが、「がっぽり稼いでくる」とか、そういうのはできないですね。笑。その分、節約して、支出を抑えているわけですが。笑。

ですし「がっぽり稼いでくる牧師」というのがどうも、私の良心回路(キカイダー搭載)が「それ概念矛盾だろ」という独り言をやや大声で叫びながら、速攻でパンチアウトすべき敵だと自動認識してロックオンするんですが。困ったなあ。私ね、たぶん牧師に向いてないんですね。気づくのが遅すぎるぜ。笑。