2015年5月15日金曜日

21世紀の一日

ケータイの目覚ましで起床、シャワーを浴び、スーツに着替え、グーグルが逆算した出発時刻に合わせて家を出る。出がけに分別ゴミ出し。ファーストフードのドライブスルーで朝食を済ませる。なんか21世紀だ。
グーグルでルート検索
グーグルのせいにするわけには行かないが、大渋滞に阻まれ、予想到着時刻に大幅に遅刻。申し訳ありませんと委員長にケータイでお詫び。ディズニーランドの町での会議に出席した後、首都高に乗り、ビルの谷間を抜けて、今は代々木公園の近く。どこかで遅めのランチとするか。なんか微妙な21世紀だ。

ディズニーランドの町で会議
21世紀の東京に戻って来た。ランチは後回しにして、井の頭通りから甲州街道へと移動。北沢、代田、松原、高井戸と、懐かしい町名を目にして、なぜか安堵の念を抱く。赤いシルビアでこのあたりをよく走っていたなと、オリビアを聴きながらを口ずさみながら思い出に耽るのは不健全なので止めておこう。
「赤いシルビア」のミニカー
今日はfacebookの使いすぎで、出先でケータイのバッテリーが尽きてしまった。懐かしい場所など写メするつもりだったが、すべて計画だおれ。でも有意義な日になった。思いがけない出会いがあった。最後に撮った写メはこれ。21世紀も変わらず。

すべてはここから始まった

2015年5月13日水曜日

何言ってんだ感アルティメットのことを書きました

「キャベツがない!」と涙した直後に店内別所で見つけて安堵しました
何言ってんだ感マックスのことを書きますが、私は「神と教会の前で誓約したこと」を自分で裏切れないことを自覚しました。6歳で成人洗礼、25歳で結婚、27歳で日本基督教団正教師按手、32歳で日本キリスト改革派教会教師加入。洗礼、結婚、按手、加入。どの誓約も裏切れないことが分かりました。

でもそれは、いかなる意味でも美談になるようなことではありえないと私は考えています。むしろ逆。私は結局、自分のことがいちばん可愛いと思っているようです。だから自分の口で誓約したことを自分で裏切ることができない。もしそういうことをすれば矜持の最後の砦が崩壊してしまうからだと思います。

どなたからかは忘れましたが(南輝小学校の先生かもしれません)、子どもの頃「うそつきは泥棒の始まり」という金言を教えていただきましてね、爾来、うそをつくのが苦手になってしまいました。ダメな教育だったんですかね。うそもつけない人間を育ててしまうだなんてけしからんと言われてしまうのか。

真面目だとかそういう話ではないと思っています。私は真面目な人間ではありません(言い切った)。「神と教会の前で謹んで誓約し(てしまっ)た」ことを自分で裏切ってしまうと自己崩壊の危機に陥るだろうと容易に予測することができるので、廃人化の恐怖に負けている臆病者なだけだと自覚しています。

ですので、何言ってんだ感ウルトラマックスのことを書けば、神さまと日本キリスト改革派教会と妻から「お前要らない」と言われないかぎり、「神と教会の前で謹んで誓約したこと」を自分から反故にするのは無理だと分かりました。神はひとり、教会は一つ、妻は一人です。聖書に書いてませんでしたっけ。

フィリピの信徒への手紙の学び 07


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フィリピの信徒への手紙2・14~18

関口 康

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)。これは直接的にはフィリピの教会の人々に言われていることですが、同時にすべてのキリスト者に言われていることです。確認しておきたいのは「何事も」の内容です。その意味は、イエス・キリストを信じる人々が、教会の中で、または教会を通して行うすべてのことです。明らかに「教会の奉仕」について語られていることです。「教会」を抜きにして言われていることではありません。

わたしたちは、教会の奉仕をするときには「不平や理屈を言わずに行う」ことが大切です。しかし、このように言いますと軍隊式教育を思い起こす方がおられるかもしれません。上司の前で不平や理屈を言えば暴力で制裁される。理不尽なことでも、おかみの命令には無条件で従わなくてはならない。パウロはそのような意味で言っているわけではありません。

そういう意味ではないことの根拠があります。ここでパウロが用いている「不平」という言葉には旧約聖書的背景があります。出エジプト記の出来事です。イスラエルの民が奴隷状態に置かれていたエジプトの地からモーセと共に脱出し、カナンを目指して砂漠の旅を始めました。エジプトから脱出することは、彼ら自身が願っていたことでした。ところが旅の途中、彼らは繰り返し「不平」を言いました。まともな食べ物がない、水がない、つらい思いをするくらいならエジプトにとどまっていたほうがましだった。このような不平を彼らはモーセに言いました。しかし、彼らが不平を吐きだしたかった本当の相手は、神御自身でした。

この意味での「不平」をあなたがたは言うべきではないとパウロはフィリピの教会の人々に言っていると考えることができます。パウロが用いている「不平」を意味するギリシア語は、出エジプト記に用いられている「不平」を意味するヘブライ語の翻訳です。教会の奉仕において問題になる「不平」は本質的に言えばこの意味です。すなわち、神に対する不平です。

神はわたしたちを罪と悪の支配の中から救い出してくださいました。神はわたしたちの救い主です。わたしたちは、神に救われた者として教会に集められています。救われた者たちは、その救いの事実を喜ぶべきであり、感謝すべきです。しかし、肯定的な思いを抱くことができるのは、おそらく最初だけです。そのうち不平を言います。教会もまた人間の集まりであった。ここにも人間の醜さや過ちがあふれている。神に救われたことを喜びたい、感謝したいと願ってはいる。しかし、教会の現実を知れば知るほど、ちっとも喜ぶことができず、感謝することができない。「神さま、私はあなたの救いを求めて教会に来ましたが、教会がわたしを躓かせます。どうして私はこんな嫌な目に遭わねばならないのですか」。これこそが、パウロが言うところの「不平」の内容です。

パウロは、教会の中のそのような問題を知らずに、あるいは知っていても目をふさいで、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と書いているのではありません。彼はそのようなことは百も承知です。すべての事情を知り抜いています。

それどころかパウロの目から見ると、教会の現実は、不平を言いたくなるようなことばかりでした。あれこれ理屈をつけて教会から逃げ出したがっている人々がいることも分かっていました。しかし、だからこそ、パウロが勧めていることは、そのような教会の現実を、勇気をもって引き受けなさいということです。不平や理屈は、言いだせばきりがありません。その言葉をあなたのその口の中に飲み込んでしまいなさい。教会の中の人間に対する不平や理屈ではなく、このわたしを救ってくださった神への感謝と喜びを語りなさい。そのようにして教会の奉仕に熱心に取り組みなさい。

「そうすれば」と続く次の文章に「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15~16節a)。これも個人的な事柄としてとらえてしまうと、パウロの意図が分からなくなります。「とがめられるところのない清い者」になることが求められているのは教会です。「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保つ」ことを求められているのも教会です。一人一人の心の中に不平や理屈があることはある意味で仕方がないことです。しかし、そのような思いが心の中にあることと、それを口に出して言うことは別のことです。

「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ことを求められているのは、教会です。教会の輝きは建物の輝きではありません。人間の輝きであり、一人一人の笑顔の輝きです。罪の暗黒から救い出され、絶望の淵から救い出され、神への感謝と喜びに満たされた、このわたしの輝きです。パウロの願いは、フィリピの教会がそのような輝きを放つ教会として立ち続け、保たれ続けることに他なりません。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」(16節b)。フィリピ教会がそのような教会であり続けることができるとき、パウロの人生に「誇り」が与えられるというのです。

教会に不穏な空気があるとき、それを一掃する秘訣ないし鍵は、礼拝です。教会活動の中心は礼拝です。そして礼拝の中心は神の御言葉です。聖書朗読であり、説教であり、神への賛美です。わたしたちが教会の中であるいは教会を通して行うすべての奉仕は礼拝という軸、そして礼拝の中心である聖書朗読と説教と神賛美という軸の周りを回っているのです。

それが意味することは明らかです。もし教会の雰囲気がたとえどんなにおかしくなったとしても、すべての教会の奉仕の中心である礼拝へと、礼拝の中心である神の御言葉へと、教会のみんなが集中することができるならば、良い雰囲気を再び取り戻すことができ、明るく輝く教会を取り戻すことができるのです。教会の中で争いや対立が起こるときには、教会のど真ん中に聖書をどんと開くのです。そして聖書の周りにみんなで集まり、神の御言葉に聞くという仕方で、問題解決の道を探っていくのです。そういうことができるのが教会なのです。

17節にパウロが書いていることは一つの重大な決意です。ただし、用いられている表現には、明らかに象徴的な意味が込められています。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」(17節)。「あなたがた」とは教会です。教会が「信仰に基づいていけにえを献げる」とは、ユダヤ教的な意味での動物犠牲を献げることではありません。わたしたちの場合は「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」(ローマ12・1)が神礼拝の本質です。ユダヤ教の場合、彼らの安息日である土曜日に神殿または会堂に動物犠牲を携えていきます。わたしたちの場合は、キリスト教安息日である日曜日に、わたしたち自身が自分の体をたずさえて出席するのです。

その礼拝にパウロの「血」が注がれるとは、もう少し肯定的に言いなおすことができるでしょう。その意味は、パウロは神を礼拝するために生きているということです。わたしの命は、わたしの流す血は、礼拝において神の前に注がれるためにあるということです。それがわたしの人生の目標であり、その目標が達成できるのだから、神の前に自分の命がいけにえとして献げられることをわたしは喜ぶと、パウロは語っているのです。彼の人生は礼拝のために、礼拝は彼の人生のためにありました。

(2015年5月13日、松戸小金原教会祈祷会)

2015年5月12日火曜日

「信頼」は法的概念なのではないかとふと気づく

いつにも増して難産だった日曜日未明の状況

私が「ああこの方は信頼できる」と心底から思えて長年の協力関係をいただいてきた方々の中に法学部出身者が多いことにふと気づく。法学部出身者のすべてが信頼できるという意味ではないし、法学部出身者以外のだれも信頼しないという意味でもないが、「信頼」とは法的概念なのではないかとふと気づく。

聞きかじりで私が知っているのは「法は倫理の最低限なり」というゲオルク・イェリネックの言葉くらいだ。この言葉を本当にイェリネックが言ったかどうかをクリティカルに検証したこともない。他はなんにも知らない。法学の知識ゼロ。でもリーガルマインドは改革派教会で鍛えられているとは思っている。

しかし、だれが言ったにせよ「法は倫理の最低限なり」は最高の金言であると学生時代から考えてきた。無意識レベルの私の判断基準になっている。グレーゾーンでなければ成り立たない仕事があるのだ、そういう現実をお前は分かっていないと言われるかもしれないが、それを「倫理的」とはとても呼べない。

法学の知識は本当にゼロなので恥ずかしいが、完全なシロウトとして開き直って言わせていただけば、「法」を厳しくしさえすれば「倫理」の向上につながるとは思えない。「法」は「最低限」でいい。我々は人間以上になる必要はない。自由度が高いほうが「倫理」は向上する。強制と倫理はベツモノである。

2015年5月9日土曜日

「80×2=160」の話

『ユトレヒト大学神学部400年史』(2001年)※拙文とは無関係です
厳密な話ではないので「だいたい」とか「約」とか「くらい」とかいちいち言うのが煩わしいほどだが、6年くらい前に大がかりな行事が行われた日本プロテスタント宣教150周年という区切り目は意味があったと思うが、日本教会史的に考えれば、160周年のほうが大きな意味があるのではないかと思う。

なぜそう思うのかといえば、やはり何と言っても「日本基督教団」の存在との関係だ。創立1941年(あえて元号を使えばS16)に日本基督教団が生まれた。つまり今年で創立74周年。教団創立の経緯は多くの人がさまざまな角度から論じておられるので、今は問わない。私が言いたいこととは無関係だ。

私が言いたいことは、それほど先でもない頃に日本基督教団が創立80周年(2021年)を迎えようとしていることと関係がある。ポイントは「80」という数字だ。「80かける2」が「160」。日本基督教団の創立「80」周年と、日本プロテスタント宣教「160」周年。これが意味することは何か。

数字合わせの占いのような話をしたいのではない。日本プロテスタント宣教「160」周年は、日本基督教団創立以前の約「80」年間の旧教派によって設立された教会と、教団「創立以後」の約「80」年間に教団内部に設立された教会が、ある意味でやっと「対等」の関係になる時ではないかと思えるのだ。

「何が対等なものか。旧教派時代から続く教会のほうが歴史が長いわけだから、教団創立後に設立されたような若い教会とは比較にならない」という意見があるかもしれない。しかし、《若い教会》と呼ばれ続けた「純粋に日本基督教団生まれの教会」の中に創立80周年をまもなく迎える教会がそろそろある。

「時間」というのは万人に対等に与えられた実に公平な神の賜物だ。「旧教派生まれの教団教会であること」と「純粋に日本基督教団生まれの教団教会であること」とで差を主張できなくなるのは、時間の長さにおいて対等になるときではないかと私は思う。「80×2=160」。そのときがまもなく訪れる。

教団という仕組みをやめて旧教派に戻るなら、話は全く別になる。しかし、そういう展開はもうないだろうと私には見える。旧教派生まれであるというアイデンティティよりも日本基督教団に所属し続けているというアイデンティティのほうが意義深いことであるという認識がほぼ確立されているように見える。

今は日本基督教団のメンバーですらない者が突然何を言い出したのかと訝しがられるかもしれないが、今しているのはダイレクトな意味で日本基督教団そのものの話ではなく、日本プロテスタント宣教史の話である。その中に日本基督教団の存在に言及する必然性があるだけなので、どうかお許しいただきたい。

しかし、とくに結論があって書き始めたことではないので、この話題を書き続けることはできそうにない。言いたかったことは本当に単純。日本プロテスタント宣教史の新しいエポックは、数年前に迎えた「150周年」よりも、まもなく迎える「160周年」からこそ始まるのではないだろうかということだ。

2015年5月7日木曜日

喜びこそが人生の目的です(ファン・ルーラー)

金週最終日は、深井智朗先生からプレゼントしていただいたブルトマン著『ブルトマンとナチズム―「創造の秩序」と国家社会主義―』(深井智朗[訳・解説]、新教出版社、2014年)の読書。深井先生の実力が遺憾なく発揮されている解説に魅了され中。

『ブルトマンとナチズム』
読んでいる本の内容は面白いのに目を開けていられないほど眠くて仕方がないときはどうしたらいいのか。目をつぶって本を読めるようになればいいわけだ。もうダメっぽい。毛布が欲しい。気づくと朝だな。ねむいねむい。本を読みたい。ねむいねむい。読みたい読みたい。ねむいねむい。読みたい読みたい。

(直後に寝落ち、一夜明けて)

【今日の一皿】ひるごはんは「五目チャーハン」を作りました。「鶏もも肉のスイートチリソース炒め」と「パプリカとレタスととうもろこしのサラダの胡麻と香味野菜ドレッシングがけ」を添えました。メニューを詳しく書くだけで不思議な気分になれます。

五目チャーハン
連休中は家の大掃除もしましたし、今日も買い物、炊事、洗濯、皿洗い三昧の贅沢さ。気持ちいいし、美味しいし、楽しくてしょうがない。あとはメールとか電話とかですけど、めだまと指先くらいしか動いてないんだから。カチカチカチ~だって。音しょぼいし。家事の音は豪快ですよ。ボーとかジャーとか。

でも、家事三昧の反面、勉強のモチベは減退しまくりだし、ほぼ空っぽ状態。何言っても何書いても何しても無駄。頽廃的な気分にすっかり支配されています。15年半続けたファン・ルーラー研究会も昨年解散しました。神学やる気なし。皆さんが書いてくださる本を読んで余生を過ごそうかと思っています。

悔しさはありますよ。私がブログやSNSに書くのをやめれば喜ぶ人がいそうだし。書いているときは辞書も引くし、難しい文献を読む努力もする。お支払いしたことも面識もない著名な学者が無料で「査読」してくれたりするのもネット。書くのをやめればそれもなくなる。課金界に行かねば何も得られない。

どうしてでしょうか、こういう悪い気分のときは80年代の洋楽をつい聴いてしまう。「おやじ説教するなよ」(Papa Don't Preach)というマドンナさんの曲とか、「お祈りとかやめろよ」(Save A Prayer)というデュラン・デュランの曲に引きこまれてしまう。深刻すぎる。

追い詰められているときは追い詰められなくてはならないんですよね本当は。それは分かっているつもりです。バランス取りとかしないほうがいいのかもしれない。でも、一向に凹まないんです、わがたましいが。挑戦の気力はないです。ガードはおろしてます。スウェーも下手。だけど、まだ立っていられる。

最後は真面目に。

「聖書は、私たちが最期の息を引き取る日まで私たちを長く喜ばせるために、命をもたらしてくれます。喜びこそが人生の目的です。事実、喜びはその中で魂が命を得る唯一の要素でもあります。これ以上喜ぶべき何もない。そのときは、すでに死に至っているのです」(ファン・ルーラー)。

2015年4月21日火曜日

メカやロボでもできることを自分でやるから価値があるんじゃないか

特定秘密保護法案の採決に抗議しに行った日(2013年12月3日)
うう、最近パターンが同じ。朝風呂入って、洗濯機回して、前夜の残りを朝食べて、食器洗って、洗濯もの干して、パソコンいじって、キットカット食べて、日が暮れて、大学生と高校生が帰ってきて、妻を職場に迎えに行って、帰りにスーパーで買い物して、夕食後あとちょっとだけパソコンいじってねるだ。

まあでも、ここでやたら道徳くさいっぽいことを書いてしまえば、「今から40年前的まんが世界」の中では、炊事も洗濯も皿洗いもぜんぶやってくれるロボかメカが欲しい、くださいという話のパターンがあったけど、ほんとにメカとロボが手に入った今は「ヒマすぎて死にそう」と言い出す人がいるという。

「もちろん」とかは言わなくてもいいと思いますが、まあでも「もちろん」面倒くさいですよ、毎日毎日、炊事、洗濯、食器洗い、買い物。だけど最近はロボにもメカにも負けない自信、とかはないですけど(ないない)、月並みにいえば慣れますよ的ではありますし、そもそもそれ自分のことでしょーにと。

自分の下着くらい自分で洗えよ、自分の茶碗くらい自分で洗えよ、そりゃそうですよねと気づいたのがかなり遅かったので、エラそうなこととかは全く言えないレベルですけどね。でも、まあなんかね、ある時期に悟りました。これも月並み系ですが、自分のことくらい自分でしましょうねの喜びを悟りました。

あとの問題は、それが「価値ある行為」だと自分で本気で思えるかどうかですよね。その問いはたしかに最後まで残り続けるでしょう。「そんなこと」はメカやロボでもできる。だから「価値がない」のか、それとも、だから「価値がある」のか。私は「価値ある」と思えるので、続けることができています。

ですし、おしなべてあらゆることに当てはめることは無理でしょうし、かなりの部分で想像の域を超えられないことではありますが、世で「脚光」を浴びている方々のしていることを多少の比喩をまじえて要約すれば、要するに、炊事、洗濯、皿洗い、買い物、掃除「のようなこと」をしているんじゃないかと。

イエスさまのお言葉で「小事に忠実な者は大事にも忠実である」というのがありましてね。いえべつに、お説教しようと思って書いていたわけではないのですが、ふと思い出しました。毎日の家事に忠実な者は世を動かすデカイ仕事にも忠実であるということですよね。自分のパンツくらい自分で洗いましょう。

2015年4月17日金曜日

いわゆる放蕩息子のたとえをめぐる一私見

持って行きどころがない父は甘いモノに逃避
今日ブログに書いたこと(聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります)のfacebook版のほうに、貴重なコメントをたくさんいただきました。ほんとのほんとの、ただの思い付きで、忘れないうちにメモっておこうと思っただけでした。でも、反応していただけて、うれしいです。ありがとうございます。

私が思い至った「謎」は、「放蕩息子のたとえ」をイエスが話したとルカが、この文書が流布され読まれた時期・時代の教会(?)と社会のニードとの関連で、(他の福音書に見当たらない)このたとえを、「イエスが言った」という形式で福音書に書き込んだ《動機》は何かというあたりから出発しています。

ですから、山口里子先生のご解説(『イエスの譬え話1』2014年、新教出版社、139頁、注46)は、なるほどこういうことを考えることができる可能性は十分あるなと思いました。ですから、トンデモ解釈というようなことは全く感じませんでしたし、面白いなあと思いながら読ませていただきました。

そして、山口先生のご解説を読ませていただいて思いましたことは、私の考えたことと矛盾しないようだということです。山口先生がおそらくフェミニズムのお立場から指摘なさっているのと同じ「現象」を、自己弁護なしに「父親」の側から見ると、私が考えたようなことになるのではないかということです。

それが「自分に似ている子どもを親は裁けない」ということです。あの父親はなぜ弟息子にも兄息子にも甘いのか。自分に似ていると感じているからではないかということです。そうです、まさに。あのたとえ話は、山口先生のご表現を一部お借りして言えば「崩壊家庭の父親のたとえ」なのだと私も思います。

そして、あのルカ福音書に描かれている「崩壊家庭」を生み出した第一原因者としての(もしかしたらなるほどDV的な)「父親」としての「神」の話であると言われれば、なるほど確かにそのように言えなくもないようだと、気づかされるものがあります。それがトンデモ解釈だなんて、とんでもないです。

これは私が、山口先生のお言葉を読ませていただいた後で、後出しじゃんけんのように取って付けた話ではないことをご理解いただきたいので書きますが、前稿の最初の段落の「一神教うんぬん」のくだりは、そういうことをイメージしながらも明快な言葉が見つからなくて困っていたことの痕跡です、じつは。

しかし、山口里子先生のおかげで、私のイメージしたことにやっと言葉が与えられました。それは、「教会」も含めた人類社会という崩壊家庭を生み出した第一原因者としての神のイメージです。「一神教」は、それを否定することはできないはずです。どんな問題も「ほかの神」のせいにできないのですから。

父が子を虐待、夫が妻を虐待。家庭崩壊の一切の原因者は男性にある。その事実は枚挙にいとまがないでしょう。しかしまた、一切の混乱と崩壊の原因者たる男性は、事実を指摘されるがままで持って行きどころがない。家庭と社会(と教会)から「なんとかしろ」「なんとかしろ」と連日連夜突き上げられる。

そういう状況になれば、ひたすら黙って耐えるしかない。自分の子どもの頃にそっくりの子どもたちの傍若無人さに付き合いながら。「一神教」の神は、そういう神さまかもしれないなと思い至ったというのが、とくに最初の段落のフラグメントの趣旨です。皆さま、なんらかのお答えになりましたでしょうか。

聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります

世界の歴史が無数の書物を生みました
一神教というまとめに馴染めたことはありませんが、なるほど我々は一神教。それで行けば「創造の源泉」は単線化します。不条理や犯罪を含む世と宇宙のすべての事象を「ほかの神」のせいにすることはできない。自分の親のような神に「なんとかしろ」と腹を立てながら訴える宗教だということになります。

子どもたちの要求をどこかしら弱腰で聞き、だいたい子どもたち側の願いどおりを実現してあげてしまう微妙な父親の姿で「神」をたとえているのは、新約聖書のルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」です。何度も説教してきた箇所ですが、私が今まで考えたことがなかった問いがあることに気づきました。

「放蕩息子のたとえ」に「母親」は登場しませんが、あのたとえ話の解釈にジェンダーの問題がどうかかわるかはよく分かりません。私が気づいたのは、あの弱腰の微妙な父親が、やたら要求がましい自分の二人の子どもたちに見ていたのは、もしかしたらかつての自分の姿だったのではないかということです。

親子とはそういうものです。親はかつて子どもでした。自分の子どもは自分が子どもだった頃にそっくり。同じ顔して、同じことを言い、同じことしていたりします。「放蕩息子のたとえ」を遺伝や血縁の話に還元する意図は皆無ですが、親子が単純に似ているという話は、ある程度お許しいただけるでしょう。

親の生前に遺産の半分の受け取りを要求し、すべてを遊びで使い果たす。ふところが寒くなったので、あったかい父親のもとに帰ればなんとかなると思い込んでいる弟息子と、「なんなんだあいつは。残りは全部おれのもんだろうが。おれの分が減っては困るから、いまさら戻ってくるな」と思っている兄息子。

そんな二人の息子のどちらに対しても、どこかしら譲歩的で、おどおどしているとまで言うのは言い過ぎかもしれませんが、平たく言えば甘い態度しか取れない父親。この父はなんなんだ、「子どもに対する親の愛の深さ」ということだけでは説明できないものがあるよなと、ずっと前から実は感じていました。

正解は分かりませんし、ハズレかもしれません。ですが、さっき気づいたのは、「放蕩息子のたとえ」のツボは「子どもに対する親の愛の深さ」が神と人間との関係に当てはまるということだけではなく(この点を否定する意図はないです)「自分に似ている子どもを親は裁けない」ということもあるのかなと。

聖書のことばも、視点や入射角を換えて読み直してみると、新しい問いや謎が生まれ、興味がわいてくるということは十分ありうると思います。どの問題についても最終的な結論はまだ出ていないわけですから(世の終わりまで謎は続く)、新規参入は常時可能です。聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります。

「いわゆる『放蕩息子のたとえ』をめぐる一私見」に続く

2015年4月16日木曜日

「現場」にいるだけでは全く分からないので仕方なく「書斎」に引きこもらざるをえないことがあります

神学デフレ底値なし
本日、私の『ウェスレー著作集』(新教出版社)が3冊増えました。第1巻(新約聖書註解上)、第4巻(説教中)、第7巻(神学論文下)です。まだ全部は揃いませんが、一番のお目当ての「神学論文」の上下を入手できましたので、かなり満足しています。

立て続けに『ボンヘッファー選集』全9巻、『標準ウェスレイ日記』全4巻、そして『ウェスレー著作集』を4巻買いました。ひどく派手に散財していると思われるかもしれませんが、これだけ買ってやっと2万円くらいですからね。神学デフレ底値なし。長年願っても手が届かなかった者としては福音ですが。

著作集などの連番ものをどういうふうに本棚に並べるかは人によると思うのですが、私は番号が若い順に左から右に並べていくのがいちばん心が落ち着きます。逆の人いますよね。右から左の人。まあべつに全く個人の自由ですけど。でも私は落ち着かないです。そういう本棚見ると全部並べ替えたくなります。

それと、完璧に実行するのは無理だと思っていますが、大雑把にであれば、著者の年齢というか活動年代の古い順に、上から下に、そして左から右に並べていくようなことも実はしています。ウェスレーは18世紀の人で、ボンヘッファーは20世紀の人ですから、ウェスレーが左で、ボンヘッファーは右です。

ジャンルの区別も、できるだけしています。特に「神学」の場合、その中の4つの部門である「聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学」は「過去・現在・未来」の順、つまり時系列順であると考えられますので、古いほうから左から右に並べています。聖書神学はいちばん左で、実践神学はいちばん右です。

神学以外のジャンルの区別方法については、私には精密な知識がありませんので、私の本棚を専門家の方々がご覧になると笑われてしまうかもしれませんが、著者の年齢や活動年代が分かる本は、とにかく古い順に左から右に並べています。哲学、社会学、政治学などの本を、そんなふうな感じに並べています。

私の書斎の本棚はそんなふうになっていますので、書斎の中にいるかぎり必要な本を見つけるのはわりと簡単です。正確に覚えていなくても、「あの本はあのあたりにある」と予測できます。連番ものは番号の若い順に、またそれ以外は著者の年齢か活動年代の古い順に、それぞれ左から右に並んでいますので。

その分、書斎を一歩出るとダメです。何も分からなくなります。私が読む本や論文に引用されている他の本や論文を置いている図書館はほとんどないし、本屋もないです。スマホやタブレットで電子書籍を読むのが嫌いなので、読むなら紙の本になります。なので、本を読み始めると、引きこもってしまいます。

まして、自分の論文を書くことになれば自分の書斎以外のところで書くことはありえない状態です。脚注も引用文も全く付けることができません。もちろんそれは私だけの話ではないと思いながら書いています。多くの方々がそれぞれの「自分の書斎」を作って自分の文章を書いておられるのだと思っています。

もうなんだか古典の部類になった感さえある「事件は会議室で起きているのではなく、現場で起きている」という意見には私も基本的に賛成なのですが、「現場」にいるだけでは全く分からないので仕方なく「書斎」に引きこもらざるをえないことがありますので、そのときはご容赦いただきたく願っています。

書斎の本棚について自分で決めているもう一つのルールを書き忘れました。単純な話です。著者別で並べている本に関しては、左から右に(1)その著者の著作集・全集がある場合はそれ、(2)その著者「の」(of)単著ないし共著、(3)その著者「についての」(on)単著ないし共著を並べています。