2013年12月11日水曜日

カルヴァンの「来たるべき永遠の生への瞑想」と「殉教」との関係を考えています(その2)

いま、小宮山裕一先生がチャットで話しかけてくださったので、応答していました。

小宮山先生によると、

「来たるべき永遠の生への瞑想」の議論をカルヴァン自身の病弱や死期の悟りのようなものと結び付けるカルヴァン研究者がおられますよ、とのことでしたので、次のようにお応えしました。

以下、コピペ。

ぼくもそのことを全く考えなかったわけではありませんが、もしそれが事実であれば、カルヴァンという人は、自分の病気や死という彼の個人的なことを普遍的な神学命題にまで引き上げた人だという感じになってしまうと思うのですが、それでいいのでしょうかねと疑問が残ります。

「殉教」は個人の問題ではなく教会の問題であり、共同体の問題です、よね。だけど、「病気」は、個人の問題だと思うのです。

「来たるべき永遠の生への瞑想」についてのカルヴァンの綱要のテキストを何度も繰り返し読んでみていただくと、教会員への、あるいはすべてのキリスト者への呼びかけのような言葉であることが分かると思います。

自分が病気だから、自分がもうすぐ死ぬかもしれないから、教会員に対して「地上の生を軽んじろ」と勧める牧師って、なんだか変だと思いませんか。他人を巻き添えにしないで、じぶんひとりで死んでくださいと、ぼくなら言いたくなりますよ。

だけど「殉教」という理由なら、話は噛み合うような気がするんです。肉体を滅ぼすことができても魂を滅ぼすことができない者たちを恐れるな、という線で理解できるのではないかと。

カルヴァンの「来たるべき永遠の生への瞑想」と「殉教」との関係を考えています

ツィンツェンドルフの本を読むか、

それとも、

1933年から1941年までのオランダとドイツのプロテスタント諸教会の本を読むかで迷い、

結局、カルヴァンの『キリスト教綱要』を読んでいるという

迷走っぷりです。


以下、引用。

「だからこそ信仰者は、この死すべき生を評価する際に、それ自体としては悲惨以外の何ものでもないことを弁え、いよいよ快活に一層よく用意のできた者として、来たるべき永遠の生への瞑想に自己の一切を委ねるという目標を持たなければならない。」

「比較して見ると、現世の生は無視して差し支えないのみならず、来たるべき生と対照的に、徹底的に軽んじまた忌避しなければならないものである。」

「天上の生と比べるならば、地上の生は疑いなく容易に軽んじられ踏み躙らるべきものである。」

「いずれにせよ、我々はこの世を飽き飽きするもの、あるいは憎いものとして関わり、それが終わることを願うのであるが、主の御旨であればここに留まる覚悟を決め、倦怠を覚えることがあっても一切の呟きや短気を断ち切っていなければならない。」

「したがって、生きるのも死ぬのも主のため、ということが我々に似合っているとすれば、己れの生と死の境目を主の意志決定に委ねなければならない。」

「死を求める熱心に燃えて絶えずそれを瞑想し、来たるべき不死の生の故にこの世の生を軽んじ、これが我々を罪の隷属の下に置いていることを思い、主が良しと見たもう時にはいつでも放棄できるように願うべきである。」

以上は、渡辺信夫先生によるカルヴァン著『改訳版 キリスト教綱要』(新教出版社)の第3篇第9章4節から抜粋させていただいたものです。

いわゆる「来たるべき永遠の生への瞑想」(meditatio futurae vitae)についてカルヴァンが論じている部分です。

ぼく流の超訳でまとめれば、

「ぼくたちは生きているのが嫌で嫌でたまらない。一刻も早く死にたいんだけどと願いながら、まだ死なせてもらえないのは主の御心のようなので、それならばと仕方なく生きてはいるが、死ぬと決まったら早く早くと願うべきである。そのようにしてぼくたちは人生と世界を徹底的に無価値なものとみなし、天上の生だけをひたすら夢見るべきである。」

というような話だと思います。(違うって言えますか?)

このカルヴァンの思想が、ぼくにとっては堪えがたいものでした。

つい先週くらいまで。

はっきり言えば、この部分に限ってカルヴァンは、まるでグノーシス主義者然としているとさえ感じていました。

ファン・ルーラーもこのカルヴァンの「地上の生を軽んじろ」という教えをひどく嫌っていました。

ですが、ふと気づかされるものがありました。

カルヴァンが「早く死にたい」理由というか、動機というか。

彼が「この世の生を軽んじろ」と主張する理由というか、動機というか。

今さら何を、と言われそうですが、

カルヴァンのそれは「殉教」の覚悟というか、決意そのものですよね。

カルヴァンのことを良く思わない人たちは、カルヴァンと言えばセルヴェ処刑に加担した、良心の迫害者のように扱いたいのでしょうけれど、

カルヴァンも十分な意味で迫害を受けた人だし、いつでも殉教の可能性はあった人です。またカルヴァンの教え子たちは、非常に過酷な迫害を受けました。

まだ学術的な根拠などはありませんが、

カルヴァンの「来たるべき永遠の生への瞑想」(meditatio futurae vitae)を「殉教」との関係で読み直してみると、ぼくの中の抵抗感が少しは緩和されるものがあるかもしれないなと思い直しているところです。

でも、ぼくは「早く死にたい」とは思わないです。

迫害者側に寝返るくらいなら死んだ方がましだとは思いますが...。

あ、これか!

やるべきことはまだたくさんある

毎週水曜日は、教会の祈祷会です。

今はハイデルベルク信仰問答を学んでいます。

今日のテーマは「善きわざについて」(問62~64、91)でした。

聖書個所は新約聖書・ヤコブの手紙2章14節以下、とくに24節の

「これであなたがたも分かるように、

人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」

でした。良い学びができたと思います。

午後は祈祷会出席者有志で会堂清掃をしました。

そうしているうちに、先週アマゾンで注文したばかりの本(右)を

配送業者が届けてくださいました。


伊藤利男著
『ツィンツェンドルフ
 ヘルンフート同胞教団を創った夫妻の物語』
(鳥影社、2005年、1800円+税)

先週のカール・バルト研究会のとき、藤崎裕之先生からお薦めいただいたので

読んでみたいと思いました。藤崎先生、ありがとうございます。

ただ、今日の午後読もうとしていたのは、別の本でした。

それは写真左側にある本でした。

G. ファン・ローン著
『1933年から1941年までの
 オランダとドイツのプロテスタント諸教会』
(ヘット・スペクトラム出版社、1973年)

「1933年から1941年まで」、

つまりナチス台頭から第二次世界大戦開戦までのオランダとドイツのプロテスタント諸教会が、

どのように神学的・政治的に戦ったのか、あるいは、戦わなかったのかについて書かれた本です。

どちらを読もうかなと迷っています。

うーん。

不愉快な「伝道」の制度、はじまりはじまり、だそうで

ぼくにはもう関係ない話なのですが、

「人を見くだすことにおいて人後に落ちない」と言っているかのような

不愉快な制度がスタートしたらしいと、風の便りで知りました。

「著名人(かどうかは微妙)を講師として派遣します。費用は出します」

というのが「伝道」だそうで。

そんな方法で、仮にそのとき一度きり人が集まったからといって

(そのとき人が集まるかどうかすら相当微妙)

それでどうにかなるものであるわけないことくらい

分かり切っているでしょうに。

「著名人(かどうかは激しく微妙)を手本にしてこれから伝道がんばれ」

とでも言いたいのか。バカにしてると思う。

総理にバカにされ、教会でもバカにされると、行き場無くなりますね。

あ、ぼくにはもう関係ない話なのですけどね。

2013年12月10日火曜日

1945年に結党されたドイツのキリスト教民主同盟(CDU)は今では与党です

「日本キリスト党 武藤富男」
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/6529/tomio.html

ぼくも最近まで詳しくは知りませんでしたので、

おそらく若い世代の方々は全く知らないと思う。

こういう「党」と、こういう「人」が、日本に実在しました。

1977年のことなので、激しい過去でもありません。

当時の雰囲気はぼくには分かりませんが(1977年にぼくは12才でした)

世間にも教会にも嘲笑され無視された存在だったに違いありません。

泡沫党の泡沫候補(最近ではインディーズと言うらしい)のまま、

一瞬で消えたようです。

1945年に結党されたドイツのキリスト教民主同盟(CDU)は、

今では首相(アンゲラ・メルケルさん)を党首とする与党です。

違いがあるのは当たり前です。日本の教会が弱すぎるからです。

だから、こういうことを書くと、

「あんたが立候補すれば~?」とか「政治家になりたいの~?」とか

しょうもないことを言われるお約束になっているのがイヤなのですが、

ぼくが言いたいことは、

教会の伝道の使命は、それが着実に遂行されていくときには、

その国の現実政治において、必ず影響を及ぼすようになる、

ということです。

言わずもがなのことだと思うのですけどね。

「世」と「教会」がうまく連結していないと、

こんな当たり前の話でさえ理解してもらえないときがあります。

2013年12月9日月曜日

「歴史は繰り返さない」の続きです

以下、前稿「歴史は繰り返さない」の続きです。

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そして、もし許されるなら言わせていただきたいことは、88年前の日本と今の日本の決定的な違いは、「日本の教会」のかつてと今の違いです。

キリシタンは一度日本で(地下に潜った方々以外は)消し去られました。そのトラウマが日本でキリスト教信仰を持とうとする者の心に、いまだに刻みつけられています。

しかし、それでも、150年前にまがりなりにも日本の教会史が「再開」されました。しかし、88年前(治安維持法制定時)は、(再開後の)日本宣教(わずか)60年。今は150年。かつてと今の「教会」は同じでしょうか。

日本の「異物」である教会の信仰は「人を恐れない」。

国民の1%「しか」クリスチャンはいない、クリスチャンは日本では少数だ、少数だと繰り返し言われますけど、100万人も「人を恐れない」人が住んでいる国を、はたしてこれから現今の「ファシズム政権」は”鎮圧”できるでしょうか。

希望的観測すぎることは認めますが、過去80年間もカール・バルト、カール・バルトと「反ナチ神学者」を後追いし続けた日本の教会のことは、そう簡単には”鎮圧”できないと思いますけど。

そういえば、今の政府のほぼど真ん中にいる人もクリスチャンなはずだけど。

まあそれはともかく、歴史は繰り返していませんよ。

もし繰り返すのだとしたら、日本の教会は過去88年間、ただ惰眠をむさぼり続けただけだと謗られても仕方ありません。

ひたちなか教会で小宮山裕一牧師の就職式でした


今日はひたちなか教会で小宮山裕一牧師(中央)の就職式でした。

ひたちなか教会の皆さま、おめでとうございます!

小宮山先生、これからも共に!

小林先生、勧告のお言葉、ありがとうございます!

2013年12月8日日曜日

歴史は繰り返さない

えっとですね、一応申し上げておきますと、

ぼくは「歴史」は「繰り返さない」という立場なんです。

1925年と2013年が同じなわけないです。

ぼくの考えは、「繰り返される」のは「犯罪行為」であって、

それを「繰り返している」やつらにレッドカードを突きつけて

「権力の座」から退場させなくてはならないというものです。

しかし、それは「権力の座」からの退場であって、

地上の世界からの追放ではありませんし、あってはなりません。

つまり、「歴史は繰り返す」のではなくて

「歴史そのものは犯罪者を絶滅させる役割を必ずしも持っていない」

ということだと、ぼくは思っています。

歴史から犯罪者がいなくなればすっきりする、という考えもあるでしょうけど、

それこそファシズムの一種です。

犯罪者を締め出し、絶滅させる役割を「歴史」そのものは持っていない。

「歴史は繰り返される」ではなく「犯罪は繰り返される」。

そのたびに我々は何を考え、何をなすべきか。それが重要だと思います。

屁理屈っぽくてすみません。

犯罪者の「手口」は昔も今も同じ。

ですが、まんまと逃げおおせることが、かつてはできたかもしれませんが、

今はもうできません。

その意味では、「歴史」は「繰り返さない」と思います。

逃げられるものなら逃げてみろ。

たまには牧師らしく、聖書の御言葉を引用します。

「人々を恐れてはならない。

 覆われているもので現されないものはなく、

 隠されているもので知られずに済むものはないからである。」

(新約聖書・マタイによる福音書10章26節)

2013年12月7日土曜日

「この私が何者であるか知らないふりをなさるならば」


今週火曜日(12月3日)

北小金駅から国会議事堂駅までの電車の中で読んでいた本の中で、

最も感動した言葉を引用させていただきます。

ひとりで涙が止まらなくなり、隣の男子高校生に二度見されました。

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総督は、なおも執拗に、「カェサルの守護霊にかけて誓え」と迫ったが、

ポリュカルポスは答えた。

「私が、あなたの言うとおりにカェサルの守護霊にかけて誓うだろう

 などという空しい考えを持ち、

 この私が何者であるか知らないふりをなさるならば、

 心を広くしてお聞き下さい。

 私はキリスト教徒です。

 キリスト教の教えの内容を学びたいならば、

 一日の猶予をお与え下さい。

 そうすればお話し致します。」

「聖なるポリュカルポスの殉教」(土岐正策・土岐健治訳)より引用。

『キリスト教教父著作集22 殉教者行伝』教文館、1990年、11頁。

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みなさま、それではおやすみなさい。

ゆっくり休むことが明日の力になります。

「第20回 カール・バルト研究会」報告


(日付が変わってしまったので)昨日、

2013年12月6日(金)

午後9時から7日(土)午前0時すぎまで

「第20回 カール・バルト研究会」を

グーグルプラス・ハングアウトで行いました。

テキストはカール・バルト『教義学要綱』

(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の

「11 救い主にして神の僕」の前半部分でした。

日付が変わるくらい盛り上がりました。面白かったです。

神学の学びをしているときも

国会前のデモ参加者と祈りで連帯しています。

今が「信仰告白的事態」(status confessionis)でなくて、

いつがそうなのでしょうか。

ぼくらはべつに、神学ごっこしてるわけじゃないんだ。

そのへんはね、なんとかお伝えしたいところです。