2011年4月5日火曜日

守るべきものを持った人間は弱くなる

誰が言ったか忘れましたが(テレビドラマのセリフだったかもしれません)「守るべきもの(者・物)を持った人間は弱くなる」という言葉を思い返す毎日です。

今の首相が「放射性物質が漏れている」と言った日に、そのことをある場所に書いたら「そういう情報を流すのはファナティックだ」「牧師のくせに」と批判されてしまったので落胆したのですが、今では私などが言わなくても、もはや周知の事実になっています。今となっては逆に、「安全デマ」を流す政府やマスコミ、「安全詐欺」を働く東電や学者たちのほうがバッシングを受けている状況です。

私がいま心配していることは、私自身のことやオトナたちのことはともかく(どうでもいいとは言いませんが)、東北・関東・甲信越地方にいる今の子どもたちや、これから生まれる子どもたちのことです。たとえ少量でも「被ばく」を余儀なくされている水や食べ物を飲み食いせざるをえない今の子どもたちが、近い将来(西日本の人たちや海外の人たちから?)結婚差別などを受けるようにならないことを、ただひたすら願っています。ま、これこそ過剰反応だと言われれば、それまでですが。

先々週の水曜日(3月23日)の時点で「私は原発反対論者ではない」と書いたことも非難されました。「論者」ではないという点に強調がありましたが、ブログには傍点をふれません。せめて太字にしておけば良かったのかもしれませんが、後の祭りでした。

今となっては見苦しい言い訳かもしれませんが、大震災発生からわずか12日後に書いたことだったわけで、私の意図は「人間、そんなに簡単に頭と生活を切り替えられるものではないよ!」ということだけでした。

ちなみに、この件で私を非難した人は、その人が関わっているらしき団体による原発反対の署名用紙を添付したメールを送りつけてきました。その用紙に署名しない者すべては、今回の原発事故の加害者と同罪であるかのように。私はそういうやり方が好きではありません。

しかし、日増しに放射能汚染が深刻化しているこの状況の中でも、あるいは他の条件も含めてすべてが悪化しているこの現実の中でも、「私は被災地支援に行くべきか行かざるべきか」と、もし迷いがあるのなら、行けばいいと思います。いま行かなくて一生後悔するよりはましだと思う。とくに学生時代はそうすることが許されるとも思うし、逆に学生時代にしか可能でないかもしれない。

すでにネット上では有名になっている、卒業式が中止になった立教新座高校の校長が卒業生たちに宛てて書いたメッセージはもうお読みになりましたか。

「大学に行くとは、『海を見る自由』を得るためなのではないか。」これは「神学生」にも当てはまる話だと思います。

2011年4月3日日曜日

99年後の「タイタニック説教」

よく知られているとおり、神学者カール・バルトは『神の言葉の神学の説教学』(日本基督教団出版局、1988年)の中で、1912年にタイタニック号が沈没した次の日曜日に「タイタニック説教」(Titanicpredigt)を自らしてしまったことを後悔しています(日本語版、158ページ)。

しかし、バルトのような後悔が果たして本当に必要だろうかと、今回ほど考え込まされたことはありません。それでも私は、3月13日の説教の中で「3月11日の出来事」については、ほとんど触れませんでした。あからさまにいえば、私は触れることができなかった。「言葉を失った」のだと思います。

しかし、だからといって、私はバルトの考えが正しいとは考えていません。バルトはこの続きの部分で、1914年に(第一次)世界大戦が始まったときのことを語っています。

「自分のすべての説教においてもこの戦争の脅威を語り続ける義務があると感じてしまっていたが、とうとうひとりの婦人がわたしのところに来て、こう頼んだ。いつもこの恐ろしい戦争の話ばかりでなくて、一度は別のことを話してください。この婦人は正しかったのである。恥ずかしいことだが、テキストに従うことなど、ここでは忘れられてしまっているのである。ひとりの教会員が牧師にきちんとしてほしいと語りかけ、慎重さを保つように戒めたりする程になってはならないのである。現実は十分に尊重されなければならない。しかし、砲兵隊のよい射手と同じように、牧師は、現実の丘の向こうまでの弾を届かせなければならないはずなのである」(日本語版、158ページ)。

良いことを言っているようですが、しかし、大したことは言っていません。厳しい言い方をすれば、バルトは自分が説教者の「義務」(Verpflichtung)だとまで確信して語っていたことを自ら引っこめた理由を「ひとりの婦人(の苦言)」のせいにしてしまっています。

バルトと彼の時代の教会や牧師がどうだったかについては知る由もありませんが、今の時代では「牧師のくせに」に続く言葉は「生意気な」でしょう。もちろんこれはお察しのとおり、ドラえもんに出てくるジャイアンの「のび太のくせに生意気な」のモジリですが、「牧師のくせに」と言われる場合は、大学教授でも専門家でもない素人のくせに(生意気な)、という意味になる。

しかし、それは誰にも言わせてはならない言葉です。むしろ牧師はどんなことにでも首を突っ込むべきであり、どんな言葉を語ることも遠慮すべきではない。「ひとりの教会員が牧師に慎重さを保つように求める」とき、それを無視してはなりませんが、それでももし自分に確信があるなら、牧師は語るべきです。

とはいえ、このように書きながら、私の言葉に励まされる人がいないことを願っています。まさかとは思いますが、毎週毎週、放射能の恐怖を説教している牧師がいるとは思いたくない。終始一貫、政府と東電とマスコミへの怒りと批判で埋めつくした原稿用紙を抱えて説教壇に立つ牧師がいるとは思いたくない。

まあしかし、それでも、「牧師とか聖職者とか呼ばれている、世間知らずを絵に描いたような連中は、こういうときは黙って引っこんでいるべきだ。慰めだけ語っていればいいのだ」と、吐き捨てるように言われることに対しては、抵抗の意思を示しておきます。


東関東中会内被災教会の問安報告 (1)筑波みことば伝道所

このたび東関東中会伝道委員会は、東関東中会内の被災教会への問安を開始しました。

第一回目の問安対象は、筑波みことば伝道所、銚子栄光教会としました。

��ひたちなか教会と新浦安教会にも連絡し、計画を立てましたが、都合により、今回は見送ることにしました。)

筑波みことば伝道所にへの問安は、昨日4月1日(金)午前10時半から約一時間、おこないました。

伝道委員会からは関口康、小峯明の二委員が行きました。筑波みことば伝道所の宮﨑彌男先生が応対してくださいました。そこに飛び入りで、元筑波みことば伝道所の会員で現在は仙台カナン教会の執事である伊藤筑志兄が来てくださり、仙台周辺の状況も教えていただきました。

筑波みことば伝道所の被災状況としては、

・会堂内のストーブ(FF式)が故障してしまったこと(修理不可能)、
・天井の貼り紙が少しめくれ、その粉塵が会堂内にパラパラ落ちてきたこと、
・牧師館の書斎の本が落ちてしまったこと、
・震災後の聖日に水が出なくて、トイレなどに支障が出たこと、
・水戸方面の教会員(オルガン奏者)の礼拝出席に、地震直後は支障が出たこと、

などとのことでした。

20110401tsukuba 故障したストーブ(FF式)

しかし、その中でも明るい情報としては、

・震災直後に全教会員(現在来ておられない方も含む)の安否を確認したところ全員の無事を確認できたこと、
・最近、若い青年会員の転入者、受洗者(3月6日洗礼式)があり、2名の新入会員が与えられたこと、
・今年7月の宮﨑先生引退後の代理宣教教師を岡本惠先生が引き受けてくださったこと、
・今年8月には神戸改革派神学校の神学生を迎えて夏期伝道実習が行なわれることになったこと、

などを宮﨑先生から教えていただきました。

宮﨑先生からの状況報告を伺ったのち、関口、小峯、宮崎の順に祈りました。

・筑波みことば伝道所のために、
・東関東中会と日本キリスト改革派教会のために、
・全国の教会とりわけ東北地方や関東地方の被災教会のために、
・いま苦しみの中にあるすべての被災者のために、

共に祈祷をささげました。

その後、宮﨑先生のおくさまの美味しい手料理までごちそういただき、恐縮しました。宮﨑先生、本当にありがとうございました。

2011年4月2日(4月4日修正)

関口 康

東関東中会伝道委員会 委員長




2011年3月27日日曜日

政府の放射線障害防護の対応について

名古屋教会の原科浩長老(物理学者)が貴重な情報を提供してくださいました。ご本人の許可を得られましたので、謹んで転載させていただきます。

PDF版はここをクリックしてください

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「政府の放射線障害防護の対応について」

 原科 浩 (日本キリスト改革派名古屋教会長老、大同大学教員、物理学者)


福島原発の事故と放射性物質による汚染の拡大に憂慮しています。安全、安全を繰り返す政府やマスコミに登場する学者たちが、旧約聖書の偽預言者と重なって見えるのは私だけでしょうか。

内容が難しいかもしれませんが、参考になるサイトとして

原子力情報資料室 http://cnic.jp/
原子力安全研究グループ http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/index.html

をあげておきます。

また、京都大の今中哲二さんが

「福島県飯舘村のセシウム137による土壌汚染レベルの推定
 チェルノブイリ原発事故の当初の強制移住レベルの2倍以上
 1990年にベラルーシ最高会議が決定した強制移住レベルの約6倍 」

と推定しています。(全文は、美浜の会 http://www.jca.apc.org/mihama/

政府は安全が確認されるまで、住民を避難させるべきではないでしょうか。

私は、原子力発電や放射線医学の専門家ではありませんが、放射線を研究に利用している物理学研究者です。放射線を利用するには必ず教育訓練を受けなければなりませんが、そのとき学ぶ放射線防護の考え方から、政府の対応やそれを支持する専門家の姿勢はおかしいと考えています。

放射線障害防止法やICRP(国際放射線防護委員会)では、放射線の影響を、急性障害(確定的影響)と晩発性の発ガン率の増加(確率的影響)に分けて考えます。

急性障害はある一定量以上の被ばくがなければ生じないとしていますが、発ガン率の増加などは、どんなに少ない量の放射線被ばくでもゼロにはならないと仮定して防護を考えます。放射線の被ばくは可能な限り低く抑えるのが原則です(ALARA原則 As low As Reasonably Achievable)。公衆の年間被ばく限度を1ミリシーベルトと定めていますが、1ミリシーベルトまで被ばくしてもよいという値ではないはずです。

テレビで100ミリシーベルトぐらいなら(直ちに)健康に影響はないと言っている学者さんはおかしいです。少なくとも年間1ミリシーベルト以上は被ばくさせないように、政府は住民避難などを考えるべきだとなぜ言わないのでしょうか。

「直ちに健康に影響はない」は、急性障害は生じないという意味で使っていると思います。暗に、数年後の発ガン率の増加がないとは言っていませんよという表現です。事故が長期化し、汚染が広がってきた状況では、この点についてマスコミも触れずにはすまなくなってきたようです。

自然放射線による発ガンリスクは、10万人に2人程度と推定されています。自然放射線レベルなら安全ということではないことを知ってください。ましてや、レントゲン撮影やCTによる被ばくと比較して問題ないという言い方もとんでもありません。病気やけがでもないのに、レントゲン撮影を受ける人はいません。

飲食などによる内部被ばくについても、同様な意味で深刻に考えるべきと思っています。確かにすぐ病気になることはないでしょうが。摂取を厳しく制限し、安全な飲食物を政府の責任で確保・配給してほしいです。

関東・東北に暮らしておられる方々、兄弟姉妹、特に子供たちの健康と安全を危惧しています。政府の対応は、住民の安全を第一に考えて行っているとは、私には思えないのです。

2011年3月26日土曜日

他人のブログを読まない自由もある

思い上がった人間はキリスト教の世界にもいます。ちょっと腹にすえかねることがあったので書きとめておきます。

知る人ぞ知る著名人かもしれないので(どうだか分かりませんが)実名をさらしても構わないところですが、いまは名前を見るのも嫌な気分なので、伏せておきます。その人は牧師で、ある雑誌(日曜学校関係)の編集長です。

私はかつてその人から原稿依頼を受けたことがあります。しかし、忙しい中なんとか書き上げて送りましたところ、あろうことか、その原稿がボツにされました。

私はといえば、自分の原稿をボツにする雑誌には、私の側によほど落ち度がある場合は別ですが、基本的に「二度と書かない」ことにしています。

私がかかわりうる雑誌はキリスト教関係のものに限定されているゆえに、稿料などはほとんど全くもらったことがないわけで、その割に心と体に負担の多い仕事なので、無駄な労力はできるだけ使いたくない。

編集長ないし編集部と方針が違うなどの理由でボツにされるボランティア原稿など、二度と書きたくないんです。その努力を注ぐ価値や意味を見いだせない。

しかし、だからといって、私はその人(たち)を憎んでいるわけではないし、そもそも関心が無い。「憎む」というほどその人(たち)のことを知らないし、どうでもいいんです。

ところが、どうしたことか、その人、つい昨日のことですが、私のブログを読んだと言ってメールをよこし、「読むのが苦痛だ」とか、「この文章を削除しろ」とか、「それがあなたのためだ」とか言いだした。

いつからこの人は私のブログの編集長になったのだろう。そういう勘違い、もう本当にやめてほしいと思う。一度として私は、その人のことを尊敬したことはないし、私より「上」に立つ人間だと思ったことはない。どちらかといえば苦手なタイプ。最初に出会ったときから今まで、その感触は変わらない。

「もう終わりにしましょう」と返事しておきました。言いたいことがあるなら、ご自分の雑誌があるのだから、そこに書けばいい。自分でブログを開けばいいし、教会の週報でも何でも、書ける場所ならいくらでもある。どうぞご自由に。

しかし、お願いだから、他人のブログを読んで「削除しろ」とか言わないでほしい。私は、最初から最後まで、自分の名前はさらしながら書いている。住所や電話番号まで公開している。反論があるのは分かるが、削除要請は反論ではない。私の書いていることが間違っているなら、そうであることを公の場で議論するほうがいいに決まっている。

このたびの「東北関東甲信越大震災」を機に、人間関係が変わって来た、というか、整理できるようになってきたと感じています。

私のブログを読むのが苦痛なら、読まないでほしい。その自由も、その人にあると思う。

ツイッターもフェイスブックも、私の書いたことが嫌なら、フォローをやめるか、ブロックしてほしい。私もそうすることにしています。

2011年3月24日木曜日

敬虔の衣を着た無責任体質では困る

アメリカや韓国から来日している宣教師たちには軍隊や徴兵を経験した人が多いこともあるからでしょう、震災後の支援活動を真っ先に始めた人たちの中に彼らを数えることは間違っていないと思います。「原発から放射能物質が漏れている」という報道があろうと、「ハイハイ平気平気」ってな調子です。

しかし、そういう彼らが「防護服」をまとって現地に乗り込むわけではない。彼らだって実際の放射能を体験したことがあるわけではない。そういう彼らの勇敢さ(その裏側にある「無謀さ」)が、同行する信徒(とくに青年や神学生)を危険区域に近づけ過ぎているとは言えないでしょうか。

彼らの行動が後発の者たちに与える心理的影響は、あまりにも大きすぎます。現地に行かないやつらは臆病で不信仰、と責められているような気持ちにならないでしょうか。

漏れている放射能物質について官房長官は「ただちに」人体に影響が出るレベルではないと、巧みな文法を使って喋っていますが、「影響が無い」と言っているわけではない。今の放射能汚染の状態は、本当に「ハイハイ平気平気」と言えるレベルなのでしょうか。何かあったとき誰が責任をとるのでしょうか。

「イエスさまが責任をとってくださいます。すべてを主に委ねましょう」で済むのが教会でしょうか。私45歳は45年教会に通っていますが、教会のそういうところが心底嫌いです。無責任体質が敬虔の衣をかぶっているだけ。宣教師に退去命令を出す教会のほうが信頼に足る教会だと感じられてなりません。

退避しろと言われても、おいそれと動けるわけがないというのは私も同じです。しかし、本当に深刻なレベルになったら我々だって逃げなければなりますまい。「一緒に西に逃げましょう」と教会員を説得して連れて行く(少なくとも「連れて行こうと試みる」)責任が牧師はあるんじゃないかと思います。

宣教師たちの好意は好意として感謝しています。また、ボランティアの方々の足を引っ張る意図は皆無です。問題はそこから先です。自分自身の強さ(マッチョさ)が血気盛んな青年たちの義侠心を利用しすぎていないか。そういうことへの警戒心が、ボランティアリーダーたち自身の中にあるかどうか、です。

放射能不安さえなければ、被災地復興のために今すぐ立ちあがり、全力を尽くすべきだと思っています。不幸な出来事を美談にするのは苦手です。しかし今思うことは、震災を境に、「就職が無い」だ「生きる目的が分からない」だ言って家に引きこもる理由は誰ひとり無くなったのではないかということです。

日本を「復旧」するために、否、前よりもっと良いものへと高めていくために、しなければならないことは、たくさんあるのではないでしょうか。給料は少々安くても仕事は山ほどあるはずです。みんなが安けりゃ公平です。

最悪のシナリオは字にする必要はないかもしれないが、万が一私を含む東日本の者の息の根が止められたときは西日本の方々によろしく頼んます。しかしだからこそ返す返すも放射能汚染は困る。最悪、その町を何世紀も住めなくする。「狭い」日本の国土をさらにダウンサイジングし、「復旧」できなくする。

ちなみに私は、この期に及んでも反原発論者ではありません。いいかげんあきらめろと言われそうですが、バブル世代だからでしょうか、いまだに大震災前の「豊かさ」が愛おしい。レインボーブリッジから見る東京の夜景が懐かしい。「暗い東京」が悔しくてたまらない。私も万死に値するかもしれませんね。

2011年3月22日火曜日

苛立つ日々です

仙台や福島への物資の輸送に奔走してくださっているアメリカ人宣教師たちの腰の軽さにはもちろん感謝もしていますが、本国教会から退避命令が出たため帰国せざるをえなかった宣教師もいます。ただちに現地に駆けつけた人たちは勇敢で、行かない者たちは臆病、という図式が描かれることを私は恐れています。

民放各局が「東日本大震災」と括って事実上もっぱら東北地方に視聴者の目を向けようとしている中で、ひとりNHKだけは「東北関東大震災」と括ることで「関東」も十分な意味で被災地であることを訴え続けてくれているのは有難いことです。

関心や実際の支援に優先順位が生じることは致し方ないとしても、そもそも関心そのものが向けられないとか、「あの大変な方々と比べたらお前らは大したことないだろ」的に扱われたりするのは、とても寂しいことです。

泉谷しげる氏が「報道は映像災害コンテストをやるな!」と吠えたことを知りました。毒ありすぎとは思いましたが、この方の炯眼にちょっと感動しました。

実際、関東全域はいつ停電になるか分からないし、東京湾岸地区は液状化や地盤沈下がひどいし、茨城は断水が続いているし、松戸あたりまでガソリンは無いし、交通機関は麻痺し、日用品や日常食(パン、牛乳など)さえ入手困難です。弱音など吐きたくありませんが、動きたくてもまともに動けないんです。

うちの場合、教会と牧師館が別々で(向かい合っていますが)、教会のほうにはテレビが無いので、余震と原発事故と放射線量の情報を得るために、ほとんど牧師館に引きこもり、テレビとパソコンを睨んでいるしかない状況で、ひたすら歯がゆいかぎりです。イライライライライライラ(激怒)。

ちばテレビで連日のように新浦安や稲毛周辺の「銭湯情報」が流れている状況なんですよ、今まさに。ACの「ポポポポーン」も発狂しそうなくらい聞いたので(集中豪雨と呼ばれているそうですね)、ここ数日はなるべくNHKかちばテレビを見ることにしています。

というわけで、ここ数日ほど愛する妻子から冷たい目で見られたことは、いまだかつてないと思うくらいの悲惨な状況です。「牧師って、こういうときに、家に引きこもってテレビとパソコン見る仕事なの?」とか言われ。「ち、ちがうんだよー!」と叫べば叫ぶほど泥沼にはまり。

原発の心配があったので後ろ向きのことばかり書いてしまったことを、お許しください。東北地方の教会と地域社会が一日も早く復興しますように、そのためにボランティアの方々の働きが祝福されますように、お祈りしています。

状況がなかなか整わず自分の持ち場を離れることができないゆえに現地に行けずにいることを苦にしている人は(私を含めて)たくさんいると思いますが、それぞれが「今、自分にできることは何か」を考えていますので、その気持ちは分かってほしいと願っています。

2011年3月21日月曜日

自称「専門家」の耐えがたい軽さ

福島原発の情報の中に、自分は専門的研究をし、専門的仕事に就いていたという観点から「素人による憶測」を揶揄する思い上がった文章を見かけます。見れば、たかだか16年の経験知。牧師の中にもたまにいますが、神学校に6年在学し牧師を10年したくらいで「専門家」を名乗れば失笑を買うだけです。

それに、往々にして、自称「専門家」こそ、あるいは「メーカー(のメンバーだった人)」こそが、同業者庇い合いをしますし、事実の隠ぺいや火消しに躍起になるものです。自称「専門家」だからこそ信用できない、という見方はできませんか。

マスコミの言うことを鵜呑みにするのは間違いだくらい素人でも知っていることです。しかし、マスコミが突っ込まなければ逃げ切りを図ろうとする東電幹部や政治家もいるでしょう。マスコミを小馬鹿にする人にはマスコミの追及を恐れている人も多い。べつにマスコミの肩を持ちたいわけではありませんが。

今の福島原発を怖ろしいと感じている人の中には、マスコミが煽っているから、ではなく、何が起こっているかが分からないから気色悪いと感じている人は多い。どういう研究をなさった方か知らないが、専門家でない連中は常にマスコミに踊らされているだけだと言いたげな上から目線が恐ろしく耐えがたい。

それに、なんだかこの人が書いていることを読むと、今の福島原発はオートマティックに大丈夫だと言っているかのようですが、ふざけるなと言いたい。まさに今、死の覚悟をして復旧作業や放水作業に当たっている人たちの努力なしにも、大丈夫なんですか。

こういう人の書いていることをそれこそ鵜呑みにして、「ほら、もうすっかり大丈夫だ。放射能など恐くない。こんなに大丈夫なのに、どうしてクリスチャンのボランティアはどんどん福島や仙台に入らないのか。我々はとっくに入ったよ。臆病だなあ」と言いたげな人の怖ろしいほどの軽さが耐えがたいです。

ボランティアの足を引っ張りたいわけではありませんので、念のため。復興を願う思いは多くの人と同じです。私の言葉を冷静に読んでいただけば、真意を理解していただけると信じています。

2011年3月20日日曜日

神のために共に働く


コリントの信徒への手紙一3・1~9

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはずいぶん厳しいことだ、と言わざるをえません。「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができなかった」(1節a)と書いています。「できなかった」とありますのは、しようとしたが不可能だったという意味になるでしょう。「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節b)。「キリストとの関係では乳飲み子」とは、言い方を換えれば「まるで赤ちゃんのようなキリスト者」ということです。

このこと自体は批判的な意味であるとは限りません。わたしたちがキリスト教信仰を学び、体得し、自分のものにするために時間がかかります。そのこと自体は責められるべきことではないからです。もしそのこと自体が責められねばならないことであるならば、教会に通い始めたばかり、聖書を学び始めたばかりの人たちは、年がら年中、先輩たちから責められ続けなければならないことになりますが、そのような教会に通いたいと思う人はいないでしょう。

パウロ自身も、責めるつもりで、こういうことを書いているとは限りません。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです」(2節a)とあります。これは明らかに、パウロがかつてコリントの町で初めて伝道したときの様子を描いています。早い話、まだキリスト教信仰について初心者であったあなたがたに初心者向けの話をしたと言っているだけです。赤ちゃんには赤ちゃん向けの食べ物をたべさせたと言っているだけです。それはいわば当然のことです。逆に、もしそうしなかったとしたら、初心者に対して難しい話をするだけだったとしたら、パウロは伝道者として失格です。難しいことを難しく語るのは簡単なことです。難しいことを噛み砕いて易しく語ることが難しいのです。

しかし、ここから先にパウロが書いていることの中には批判的な内容が含まれていると言わざるをえません。「いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです」(2節b~3節)。なぜこれが批判的な内容なのか。あなたがたはちっとも成長していないではないかと言っているのと同じだからです。あなたがたは相変わらず赤ちゃんのままである。年齢や体格の話ではありません。あなたがたの信仰が成長していない。キリスト教信仰を体得するために時間がかかるということなら分かる。しかし、時間はずいぶん経っているではないか。それなのに、なぜあなたがたの信仰は成長していないのか。ここから先は責めているのです。

しかし、たしかにパウロはコリントの教会の人たちを責めてはいますけれども、嫌っているわけでも憎んでいるわけでもありません。むしろ心から愛しています。彼らを心から愛しているからこそ、彼らの信仰がちっとも成長しないことが歯がゆいのです。今まで、あなたがたは何年教会に通ったのですか。あなたがたは教会で何を聞いてきたのですか。何を学んできたのですか。

「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)とパウロは書いています。「肉の人」とは、パウロ自身の言葉で言い換えれば「自然の人」(2・14)です。つまり、それは「世の知恵」(1・20)や「自分の知恵」(1・21)や「人の知恵」(2・13)、あるいは「人の内にある霊」(2・11)で神を知ろうとする人のことです。しかし、そうすることはできないとパウロは考えています。神を知るために必要なのは「神の知恵」(1・21)であり、「宣教という愚かな手段」(1・21)であり、「神からの霊」(2・12)であり、「神の霊」(2・14)です。つまりそれは聖霊のことです。ここで先週私が申し上げたことを思い起こしていただけば、わたしたち人間、しかも信仰をもって生きている信仰者としての人間存在の中には「神の霊」と「人の霊」とが共存しているとパウロは考えています。しかし、共存してはいても、一方の力が他方の力よりも勝っているという状態があると言えます。いわば両者が天秤にかけられた状態です。これでお分かりいただけることは、パウロの言う「肉の人」とは、その人の中に共存している「神の霊」と「人の霊」のうちの後者としての「人の霊」のほうが「神の霊」よりも勝っている状態の人を指しているということです。

それはどういうことでしょうか。理屈っぽく説明すればいま申し上げたようなことになりますが、わたしたち自身の体験に基づいていえば、さほど難しいことではありません。わたしたちは、今日もそうであるように、とにかく毎週日曜日に教会に集まって聖書を学び、キリスト教を学んでいます。しかしこのあと、わたしたちは自分の家に帰っていきます。そして、日曜日の午後から土曜日までは、それぞれの家や職場や地域社会の中で生活します。もちろんわたしたちは教会にいないときも聖書や信仰を学ぶかもしれません。しかし、ある意味でそれ以上に「世の知恵」や「自分の知恵」や「人の知恵」を学んだり、身につけたりします。そのこと自体もわたしたちにとっては当然のことであり、誰かから責められなければならないことではありません。しかし問題は、そのようにしてわたしたちの心の中に、ある意味で共存してはいますが、別の言い方をすればごちゃ混ぜになっている、二つの知恵の関係はどうなっているのかということです。

たとえば、わたしたちの多くは毎日、新聞を読み、テレビを見るでしょう。とくに先週あたりは、夜遅くまでテレビを見ていたという人は少なくないでしょう。とくにテレビの場合は、何度も何度も同じ場面を映し、何度も何度も同じことを語ります。いつの間にかわたしたちは、テレビに映される場面やテレビの人が言っていることが真実そのもの、事実そのもののように教え込まれていくものがあります。しかし、これはあえて言わなくてもいいことかもしれませんが、テレビの人がわたしたちに聖書の教えとは何か、キリスト教信仰とは何かを教えてくれるわけではありません。しかし、そのようなことをわたしたちはほとんど気にすることもなく、特にそういうことを期待もせず、テレビを見続け、新聞を読み続けるでしょう。

それで、わたしたちは日曜日を迎え、このように教会に集まってきます。そして、はっと思い出すように聖書を開き、その中に書いてあることを読む。しかし、いま聖書を読んでいるわたしたちの心の中には、先週見たテレビの場面や人の声、新聞記事や読んだ本の内容がはっきりと残っています。おそらくこのような状態を、パウロならば「神の霊」と「人の霊」がわたしたちの中に共存している状態だと呼ぶでしょう。しかしそれは、ごちゃ混ぜの状態でもあるのです。

ですから問題は、わたしたち自身の、このごちゃ混ぜ状態の心の中で、「神の霊」が勝っているか、それとも「人の霊」が勝っているか、どちらなのだ、ということになるのです。ここで皆さんにぜひ安心していただきたいことは、ごちゃ混ぜ状態であること自体は問題ではないということです。もし今、皆さんが私の話を聞いてくださりながら別のことを考えておられるとしても、それは当然のことであり、仕方がないことです。わたしたちは絶えず、気が散った状態なのです。

昨日もこの説教を準備している最中に地震が起こりました。ぐらぐらっと揺れるたびに、気が散ります。あるいはまた、聖書をじっくり読まなければと机の前に座っている間に、何通メールが届き、何度携帯電話が鳴ったことでしょう。数えきれないほどでした。こういうときは開き直るしかないのです。わたしたちの心の中は、聖書のみことばと信仰の教えだけで埋め尽くされているわけではありません。ありとあらゆることが、ごちゃ混ぜになっています。そのことをわたしたちは、自分自身で受け入れ、認めるしかないのです。

しかし、そのことを受け入れ、認めたうえで、なおかつわたしたちが目指さなければならないことがあるとしたら、パウロから「キリストとの関係では乳飲み子」と言われなければならない状態から一歩でも二歩でも前進することです。キリスト者として成熟することです。「神の霊」と「神の知恵」が、わたしたちの心の中で、百パーセントにはならなくても大きな位置を占めるようになることです。

コリントの教会は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と言っては、内部で分裂していました。パウロはコリント教会の初代牧師、アポロは二代目の牧師でした。松戸小金原教会の澤谷牧師と私との関係だと言えば、もっとはっきり分かるでしょう。幸いなことに、「わたしは澤谷先生に」「わたしは関口に」という話を私は一度も聞いたことがありません。どちらもつくべき人間ではないからですが、それは、この教会が信仰的に成熟している証拠でもあるのです。そのようなことを言う教会は、パウロから「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)と責められなければなりません。そのような人が一人もおられないことを、私は主に感謝しています。

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6~7節)とパウロは書いています。これはもう、ほとんど説明の必要がないほど分かりやすい言葉でしょう。それでもあえて付け加えるとしたら、教師たちにも得意分野と不得意分野があるということです。植えるのが得意な人と、水を注ぐのが得意な人がいます。これは特に宣教師たちからよく聞く話です。宣教師の中には、人集めは得意だが、教会の組織や制度を整えていくのは苦手だと言う人がいます。そちらは日本人の牧師に任せます、と。それぞれの得意分野を生かして役割分担するしかないでしょう。そうすることこそが、「神のために力を合わせて働くこと」(9節)です。

しかし、教会では、誰が集めたとか、誰が育てたとか、誰が組織や制度を整えたかは問題ではないのです。だれの手柄だとか、そういう話はうんざりなのです。すべては神御自身のみわざなのです。そのことがはっきり分かるようになるために、信仰の成熟が必要なのです。

(2011年3月20日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年3月17日木曜日

心よりお見舞い申し上げます

ファン・ルーラー研究会各位

先週金曜日から始まった東北関東大震災、津波被害、原子力発電所事故という最悪の連鎖に直面し、大きな被害を受けた東北地方と関東地方の方々のために主にある慰めをお祈りすると共に、現在皆さまが安全なところで元気にしておられることを願っております。

震災発生後から各方面への安否確認や連絡を取る仕事が増え、みなさまへの連絡が遅くなってしまいました。そのことを、心からお詫びいたします。

本研究会の方々のなかで、あるいは関係者の方々のなかで、東北関東大震災で被害を受けられた方はおられませんでしょうか。研究会として何かできそうなことがあるようでしたら、お知らせいただけますとうれしいです。

私の教会や家族は無事でしたが、東京湾岸地区にある日本キリスト改革派教会の諸教会(新浦安教会、稲毛海岸教会)の周辺は、液状化現象で酷いことになっています。皆さまのお祈りに加えていただけますとうれしいです。

もう二日前になりますが、アメリカのファン・ルーラー研究者ポール・フリーズ先生(dr. Paul Roy Fries)から私宛に、安否を気遣ってくださるメールが届きました(以下引用)。

2011/3/14 :
> I have been concerned for you. If you are able please send a brief message
> concerning your wellbeing. Paul R. Fries

これは私信として頂きましたが、ファン・ルーラー研究会代表としての私に送っていただいたものですので(それ以外の可能性はありません)、研究会の皆さまに謹んでご紹介いたします。

まだ余震が続いています。震源の違う地震も多発しています。原子力発電所事故の状況も緊迫しています。そのような中ですので、皆さまどうかくれぐれもご自愛くださいますようお願いいたします。

研究会の皆さまのうえに、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが豊かにありますように。

2011年3月16日

関口 康