2011年3月24日木曜日

敬虔の衣を着た無責任体質では困る

アメリカや韓国から来日している宣教師たちには軍隊や徴兵を経験した人が多いこともあるからでしょう、震災後の支援活動を真っ先に始めた人たちの中に彼らを数えることは間違っていないと思います。「原発から放射能物質が漏れている」という報道があろうと、「ハイハイ平気平気」ってな調子です。

しかし、そういう彼らが「防護服」をまとって現地に乗り込むわけではない。彼らだって実際の放射能を体験したことがあるわけではない。そういう彼らの勇敢さ(その裏側にある「無謀さ」)が、同行する信徒(とくに青年や神学生)を危険区域に近づけ過ぎているとは言えないでしょうか。

彼らの行動が後発の者たちに与える心理的影響は、あまりにも大きすぎます。現地に行かないやつらは臆病で不信仰、と責められているような気持ちにならないでしょうか。

漏れている放射能物質について官房長官は「ただちに」人体に影響が出るレベルではないと、巧みな文法を使って喋っていますが、「影響が無い」と言っているわけではない。今の放射能汚染の状態は、本当に「ハイハイ平気平気」と言えるレベルなのでしょうか。何かあったとき誰が責任をとるのでしょうか。

「イエスさまが責任をとってくださいます。すべてを主に委ねましょう」で済むのが教会でしょうか。私45歳は45年教会に通っていますが、教会のそういうところが心底嫌いです。無責任体質が敬虔の衣をかぶっているだけ。宣教師に退去命令を出す教会のほうが信頼に足る教会だと感じられてなりません。

退避しろと言われても、おいそれと動けるわけがないというのは私も同じです。しかし、本当に深刻なレベルになったら我々だって逃げなければなりますまい。「一緒に西に逃げましょう」と教会員を説得して連れて行く(少なくとも「連れて行こうと試みる」)責任が牧師はあるんじゃないかと思います。

宣教師たちの好意は好意として感謝しています。また、ボランティアの方々の足を引っ張る意図は皆無です。問題はそこから先です。自分自身の強さ(マッチョさ)が血気盛んな青年たちの義侠心を利用しすぎていないか。そういうことへの警戒心が、ボランティアリーダーたち自身の中にあるかどうか、です。

放射能不安さえなければ、被災地復興のために今すぐ立ちあがり、全力を尽くすべきだと思っています。不幸な出来事を美談にするのは苦手です。しかし今思うことは、震災を境に、「就職が無い」だ「生きる目的が分からない」だ言って家に引きこもる理由は誰ひとり無くなったのではないかということです。

日本を「復旧」するために、否、前よりもっと良いものへと高めていくために、しなければならないことは、たくさんあるのではないでしょうか。給料は少々安くても仕事は山ほどあるはずです。みんなが安けりゃ公平です。

最悪のシナリオは字にする必要はないかもしれないが、万が一私を含む東日本の者の息の根が止められたときは西日本の方々によろしく頼んます。しかしだからこそ返す返すも放射能汚染は困る。最悪、その町を何世紀も住めなくする。「狭い」日本の国土をさらにダウンサイジングし、「復旧」できなくする。

ちなみに私は、この期に及んでも反原発論者ではありません。いいかげんあきらめろと言われそうですが、バブル世代だからでしょうか、いまだに大震災前の「豊かさ」が愛おしい。レインボーブリッジから見る東京の夜景が懐かしい。「暗い東京」が悔しくてたまらない。私も万死に値するかもしれませんね。