2011年3月20日日曜日

神のために共に働く


コリントの信徒への手紙一3・1~9

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはずいぶん厳しいことだ、と言わざるをえません。「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができなかった」(1節a)と書いています。「できなかった」とありますのは、しようとしたが不可能だったという意味になるでしょう。「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節b)。「キリストとの関係では乳飲み子」とは、言い方を換えれば「まるで赤ちゃんのようなキリスト者」ということです。

このこと自体は批判的な意味であるとは限りません。わたしたちがキリスト教信仰を学び、体得し、自分のものにするために時間がかかります。そのこと自体は責められるべきことではないからです。もしそのこと自体が責められねばならないことであるならば、教会に通い始めたばかり、聖書を学び始めたばかりの人たちは、年がら年中、先輩たちから責められ続けなければならないことになりますが、そのような教会に通いたいと思う人はいないでしょう。

パウロ自身も、責めるつもりで、こういうことを書いているとは限りません。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです」(2節a)とあります。これは明らかに、パウロがかつてコリントの町で初めて伝道したときの様子を描いています。早い話、まだキリスト教信仰について初心者であったあなたがたに初心者向けの話をしたと言っているだけです。赤ちゃんには赤ちゃん向けの食べ物をたべさせたと言っているだけです。それはいわば当然のことです。逆に、もしそうしなかったとしたら、初心者に対して難しい話をするだけだったとしたら、パウロは伝道者として失格です。難しいことを難しく語るのは簡単なことです。難しいことを噛み砕いて易しく語ることが難しいのです。

しかし、ここから先にパウロが書いていることの中には批判的な内容が含まれていると言わざるをえません。「いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです」(2節b~3節)。なぜこれが批判的な内容なのか。あなたがたはちっとも成長していないではないかと言っているのと同じだからです。あなたがたは相変わらず赤ちゃんのままである。年齢や体格の話ではありません。あなたがたの信仰が成長していない。キリスト教信仰を体得するために時間がかかるということなら分かる。しかし、時間はずいぶん経っているではないか。それなのに、なぜあなたがたの信仰は成長していないのか。ここから先は責めているのです。

しかし、たしかにパウロはコリントの教会の人たちを責めてはいますけれども、嫌っているわけでも憎んでいるわけでもありません。むしろ心から愛しています。彼らを心から愛しているからこそ、彼らの信仰がちっとも成長しないことが歯がゆいのです。今まで、あなたがたは何年教会に通ったのですか。あなたがたは教会で何を聞いてきたのですか。何を学んできたのですか。

「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)とパウロは書いています。「肉の人」とは、パウロ自身の言葉で言い換えれば「自然の人」(2・14)です。つまり、それは「世の知恵」(1・20)や「自分の知恵」(1・21)や「人の知恵」(2・13)、あるいは「人の内にある霊」(2・11)で神を知ろうとする人のことです。しかし、そうすることはできないとパウロは考えています。神を知るために必要なのは「神の知恵」(1・21)であり、「宣教という愚かな手段」(1・21)であり、「神からの霊」(2・12)であり、「神の霊」(2・14)です。つまりそれは聖霊のことです。ここで先週私が申し上げたことを思い起こしていただけば、わたしたち人間、しかも信仰をもって生きている信仰者としての人間存在の中には「神の霊」と「人の霊」とが共存しているとパウロは考えています。しかし、共存してはいても、一方の力が他方の力よりも勝っているという状態があると言えます。いわば両者が天秤にかけられた状態です。これでお分かりいただけることは、パウロの言う「肉の人」とは、その人の中に共存している「神の霊」と「人の霊」のうちの後者としての「人の霊」のほうが「神の霊」よりも勝っている状態の人を指しているということです。

それはどういうことでしょうか。理屈っぽく説明すればいま申し上げたようなことになりますが、わたしたち自身の体験に基づいていえば、さほど難しいことではありません。わたしたちは、今日もそうであるように、とにかく毎週日曜日に教会に集まって聖書を学び、キリスト教を学んでいます。しかしこのあと、わたしたちは自分の家に帰っていきます。そして、日曜日の午後から土曜日までは、それぞれの家や職場や地域社会の中で生活します。もちろんわたしたちは教会にいないときも聖書や信仰を学ぶかもしれません。しかし、ある意味でそれ以上に「世の知恵」や「自分の知恵」や「人の知恵」を学んだり、身につけたりします。そのこと自体もわたしたちにとっては当然のことであり、誰かから責められなければならないことではありません。しかし問題は、そのようにしてわたしたちの心の中に、ある意味で共存してはいますが、別の言い方をすればごちゃ混ぜになっている、二つの知恵の関係はどうなっているのかということです。

たとえば、わたしたちの多くは毎日、新聞を読み、テレビを見るでしょう。とくに先週あたりは、夜遅くまでテレビを見ていたという人は少なくないでしょう。とくにテレビの場合は、何度も何度も同じ場面を映し、何度も何度も同じことを語ります。いつの間にかわたしたちは、テレビに映される場面やテレビの人が言っていることが真実そのもの、事実そのもののように教え込まれていくものがあります。しかし、これはあえて言わなくてもいいことかもしれませんが、テレビの人がわたしたちに聖書の教えとは何か、キリスト教信仰とは何かを教えてくれるわけではありません。しかし、そのようなことをわたしたちはほとんど気にすることもなく、特にそういうことを期待もせず、テレビを見続け、新聞を読み続けるでしょう。

それで、わたしたちは日曜日を迎え、このように教会に集まってきます。そして、はっと思い出すように聖書を開き、その中に書いてあることを読む。しかし、いま聖書を読んでいるわたしたちの心の中には、先週見たテレビの場面や人の声、新聞記事や読んだ本の内容がはっきりと残っています。おそらくこのような状態を、パウロならば「神の霊」と「人の霊」がわたしたちの中に共存している状態だと呼ぶでしょう。しかしそれは、ごちゃ混ぜの状態でもあるのです。

ですから問題は、わたしたち自身の、このごちゃ混ぜ状態の心の中で、「神の霊」が勝っているか、それとも「人の霊」が勝っているか、どちらなのだ、ということになるのです。ここで皆さんにぜひ安心していただきたいことは、ごちゃ混ぜ状態であること自体は問題ではないということです。もし今、皆さんが私の話を聞いてくださりながら別のことを考えておられるとしても、それは当然のことであり、仕方がないことです。わたしたちは絶えず、気が散った状態なのです。

昨日もこの説教を準備している最中に地震が起こりました。ぐらぐらっと揺れるたびに、気が散ります。あるいはまた、聖書をじっくり読まなければと机の前に座っている間に、何通メールが届き、何度携帯電話が鳴ったことでしょう。数えきれないほどでした。こういうときは開き直るしかないのです。わたしたちの心の中は、聖書のみことばと信仰の教えだけで埋め尽くされているわけではありません。ありとあらゆることが、ごちゃ混ぜになっています。そのことをわたしたちは、自分自身で受け入れ、認めるしかないのです。

しかし、そのことを受け入れ、認めたうえで、なおかつわたしたちが目指さなければならないことがあるとしたら、パウロから「キリストとの関係では乳飲み子」と言われなければならない状態から一歩でも二歩でも前進することです。キリスト者として成熟することです。「神の霊」と「神の知恵」が、わたしたちの心の中で、百パーセントにはならなくても大きな位置を占めるようになることです。

コリントの教会は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と言っては、内部で分裂していました。パウロはコリント教会の初代牧師、アポロは二代目の牧師でした。松戸小金原教会の澤谷牧師と私との関係だと言えば、もっとはっきり分かるでしょう。幸いなことに、「わたしは澤谷先生に」「わたしは関口に」という話を私は一度も聞いたことがありません。どちらもつくべき人間ではないからですが、それは、この教会が信仰的に成熟している証拠でもあるのです。そのようなことを言う教会は、パウロから「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)と責められなければなりません。そのような人が一人もおられないことを、私は主に感謝しています。

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6~7節)とパウロは書いています。これはもう、ほとんど説明の必要がないほど分かりやすい言葉でしょう。それでもあえて付け加えるとしたら、教師たちにも得意分野と不得意分野があるということです。植えるのが得意な人と、水を注ぐのが得意な人がいます。これは特に宣教師たちからよく聞く話です。宣教師の中には、人集めは得意だが、教会の組織や制度を整えていくのは苦手だと言う人がいます。そちらは日本人の牧師に任せます、と。それぞれの得意分野を生かして役割分担するしかないでしょう。そうすることこそが、「神のために力を合わせて働くこと」(9節)です。

しかし、教会では、誰が集めたとか、誰が育てたとか、誰が組織や制度を整えたかは問題ではないのです。だれの手柄だとか、そういう話はうんざりなのです。すべては神御自身のみわざなのです。そのことがはっきり分かるようになるために、信仰の成熟が必要なのです。

(2011年3月20日、松戸小金原教会主日礼拝)