2011年3月26日土曜日

他人のブログを読まない自由もある

思い上がった人間はキリスト教の世界にもいます。ちょっと腹にすえかねることがあったので書きとめておきます。

知る人ぞ知る著名人かもしれないので(どうだか分かりませんが)実名をさらしても構わないところですが、いまは名前を見るのも嫌な気分なので、伏せておきます。その人は牧師で、ある雑誌(日曜学校関係)の編集長です。

私はかつてその人から原稿依頼を受けたことがあります。しかし、忙しい中なんとか書き上げて送りましたところ、あろうことか、その原稿がボツにされました。

私はといえば、自分の原稿をボツにする雑誌には、私の側によほど落ち度がある場合は別ですが、基本的に「二度と書かない」ことにしています。

私がかかわりうる雑誌はキリスト教関係のものに限定されているゆえに、稿料などはほとんど全くもらったことがないわけで、その割に心と体に負担の多い仕事なので、無駄な労力はできるだけ使いたくない。

編集長ないし編集部と方針が違うなどの理由でボツにされるボランティア原稿など、二度と書きたくないんです。その努力を注ぐ価値や意味を見いだせない。

しかし、だからといって、私はその人(たち)を憎んでいるわけではないし、そもそも関心が無い。「憎む」というほどその人(たち)のことを知らないし、どうでもいいんです。

ところが、どうしたことか、その人、つい昨日のことですが、私のブログを読んだと言ってメールをよこし、「読むのが苦痛だ」とか、「この文章を削除しろ」とか、「それがあなたのためだ」とか言いだした。

いつからこの人は私のブログの編集長になったのだろう。そういう勘違い、もう本当にやめてほしいと思う。一度として私は、その人のことを尊敬したことはないし、私より「上」に立つ人間だと思ったことはない。どちらかといえば苦手なタイプ。最初に出会ったときから今まで、その感触は変わらない。

「もう終わりにしましょう」と返事しておきました。言いたいことがあるなら、ご自分の雑誌があるのだから、そこに書けばいい。自分でブログを開けばいいし、教会の週報でも何でも、書ける場所ならいくらでもある。どうぞご自由に。

しかし、お願いだから、他人のブログを読んで「削除しろ」とか言わないでほしい。私は、最初から最後まで、自分の名前はさらしながら書いている。住所や電話番号まで公開している。反論があるのは分かるが、削除要請は反論ではない。私の書いていることが間違っているなら、そうであることを公の場で議論するほうがいいに決まっている。

このたびの「東北関東甲信越大震災」を機に、人間関係が変わって来た、というか、整理できるようになってきたと感じています。

私のブログを読むのが苦痛なら、読まないでほしい。その自由も、その人にあると思う。

ツイッターもフェイスブックも、私の書いたことが嫌なら、フォローをやめるか、ブロックしてほしい。私もそうすることにしています。