2011年4月3日日曜日

99年後の「タイタニック説教」

よく知られているとおり、神学者カール・バルトは『神の言葉の神学の説教学』(日本基督教団出版局、1988年)の中で、1912年にタイタニック号が沈没した次の日曜日に「タイタニック説教」(Titanicpredigt)を自らしてしまったことを後悔しています(日本語版、158ページ)。

しかし、バルトのような後悔が果たして本当に必要だろうかと、今回ほど考え込まされたことはありません。それでも私は、3月13日の説教の中で「3月11日の出来事」については、ほとんど触れませんでした。あからさまにいえば、私は触れることができなかった。「言葉を失った」のだと思います。

しかし、だからといって、私はバルトの考えが正しいとは考えていません。バルトはこの続きの部分で、1914年に(第一次)世界大戦が始まったときのことを語っています。

「自分のすべての説教においてもこの戦争の脅威を語り続ける義務があると感じてしまっていたが、とうとうひとりの婦人がわたしのところに来て、こう頼んだ。いつもこの恐ろしい戦争の話ばかりでなくて、一度は別のことを話してください。この婦人は正しかったのである。恥ずかしいことだが、テキストに従うことなど、ここでは忘れられてしまっているのである。ひとりの教会員が牧師にきちんとしてほしいと語りかけ、慎重さを保つように戒めたりする程になってはならないのである。現実は十分に尊重されなければならない。しかし、砲兵隊のよい射手と同じように、牧師は、現実の丘の向こうまでの弾を届かせなければならないはずなのである」(日本語版、158ページ)。

良いことを言っているようですが、しかし、大したことは言っていません。厳しい言い方をすれば、バルトは自分が説教者の「義務」(Verpflichtung)だとまで確信して語っていたことを自ら引っこめた理由を「ひとりの婦人(の苦言)」のせいにしてしまっています。

バルトと彼の時代の教会や牧師がどうだったかについては知る由もありませんが、今の時代では「牧師のくせに」に続く言葉は「生意気な」でしょう。もちろんこれはお察しのとおり、ドラえもんに出てくるジャイアンの「のび太のくせに生意気な」のモジリですが、「牧師のくせに」と言われる場合は、大学教授でも専門家でもない素人のくせに(生意気な)、という意味になる。

しかし、それは誰にも言わせてはならない言葉です。むしろ牧師はどんなことにでも首を突っ込むべきであり、どんな言葉を語ることも遠慮すべきではない。「ひとりの教会員が牧師に慎重さを保つように求める」とき、それを無視してはなりませんが、それでももし自分に確信があるなら、牧師は語るべきです。

とはいえ、このように書きながら、私の言葉に励まされる人がいないことを願っています。まさかとは思いますが、毎週毎週、放射能の恐怖を説教している牧師がいるとは思いたくない。終始一貫、政府と東電とマスコミへの怒りと批判で埋めつくした原稿用紙を抱えて説教壇に立つ牧師がいるとは思いたくない。

まあしかし、それでも、「牧師とか聖職者とか呼ばれている、世間知らずを絵に描いたような連中は、こういうときは黙って引っこんでいるべきだ。慰めだけ語っていればいいのだ」と、吐き捨てるように言われることに対しては、抵抗の意思を示しておきます。