2011年4月5日火曜日

守るべきものを持った人間は弱くなる

誰が言ったか忘れましたが(テレビドラマのセリフだったかもしれません)「守るべきもの(者・物)を持った人間は弱くなる」という言葉を思い返す毎日です。

今の首相が「放射性物質が漏れている」と言った日に、そのことをある場所に書いたら「そういう情報を流すのはファナティックだ」「牧師のくせに」と批判されてしまったので落胆したのですが、今では私などが言わなくても、もはや周知の事実になっています。今となっては逆に、「安全デマ」を流す政府やマスコミ、「安全詐欺」を働く東電や学者たちのほうがバッシングを受けている状況です。

私がいま心配していることは、私自身のことやオトナたちのことはともかく(どうでもいいとは言いませんが)、東北・関東・甲信越地方にいる今の子どもたちや、これから生まれる子どもたちのことです。たとえ少量でも「被ばく」を余儀なくされている水や食べ物を飲み食いせざるをえない今の子どもたちが、近い将来(西日本の人たちや海外の人たちから?)結婚差別などを受けるようにならないことを、ただひたすら願っています。ま、これこそ過剰反応だと言われれば、それまでですが。

先々週の水曜日(3月23日)の時点で「私は原発反対論者ではない」と書いたことも非難されました。「論者」ではないという点に強調がありましたが、ブログには傍点をふれません。せめて太字にしておけば良かったのかもしれませんが、後の祭りでした。

今となっては見苦しい言い訳かもしれませんが、大震災発生からわずか12日後に書いたことだったわけで、私の意図は「人間、そんなに簡単に頭と生活を切り替えられるものではないよ!」ということだけでした。

ちなみに、この件で私を非難した人は、その人が関わっているらしき団体による原発反対の署名用紙を添付したメールを送りつけてきました。その用紙に署名しない者すべては、今回の原発事故の加害者と同罪であるかのように。私はそういうやり方が好きではありません。

しかし、日増しに放射能汚染が深刻化しているこの状況の中でも、あるいは他の条件も含めてすべてが悪化しているこの現実の中でも、「私は被災地支援に行くべきか行かざるべきか」と、もし迷いがあるのなら、行けばいいと思います。いま行かなくて一生後悔するよりはましだと思う。とくに学生時代はそうすることが許されるとも思うし、逆に学生時代にしか可能でないかもしれない。

すでにネット上では有名になっている、卒業式が中止になった立教新座高校の校長が卒業生たちに宛てて書いたメッセージはもうお読みになりましたか。

「大学に行くとは、『海を見る自由』を得るためなのではないか。」これは「神学生」にも当てはまる話だと思います。