これも一つの自虐ネタですが、インターネットの世界で体験する面白い出来事を書きとめておきます。GoogleやYahooなどの検索サイトで「関口康」をサーチすると、本来ならば私のごとき低く小さな存在とは競い合う関係にありえない高く大きな舞台でご活躍中の「関口康」さんと、私とが、どこかしら競い合っているかのように見える格好でヒットすることに気づきます。泣く子も黙る輝かしい経歴と実力をお持ちであることを拝察しうる方です。外見もスマートでイケメン。周囲の人から「王子さま」と呼ばれてこられた方ではないかと勝手な想像をめぐらすばかりです。私よりも17歳も年上でいらっしゃるのに、私のほうがよほど「じいや」に見えるだろうと感じます。かなり高い蓋然性をもつ推測として言いうることは、私のサイトを見に来てくださる方々の中には、かの「関口康」さんのところに行こうとして間違ってこちらに来てしまわれた方も少なからずおられるだろうということです。こういうことをブログに書きますと、これがまた検索サイトに引っかかってどなたかの目にとまることになり、そのうちかの「関口康」さんもこれをお読みになるときがくるかもしれないと思うと、あまり迂闊なことは書けません。もし可能でしたら、ご本人のお近くにおられる方々には、「千葉県松戸市に住んでいる同姓同名の改革派教会の牧師が、関口社長のことを陰ながら尊敬し、応援しております」とお伝えいただきたくお願い申し上げます。
2008年4月20日日曜日
殉教の覚悟
使徒言行録21・1~16
使徒パウロはミレトスでエフェソの長老たちへの別れの言葉を語った後、エルサレムをめざして歩き始めました。パウロのうちにはっきり自覚されていたのは「殉教」の二文字でした。わたしはエルサレムで殉教するという覚悟をパウロは持っていました。しかし、そのような覚悟をパウロが持っているということを、パウロの周囲にいた人々は、とても嫌がったのです。その様子が今日の個所からありありと伝わってきます。
「わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。」
パウロの旅行の経路につきましては、実際に現地に行ったことがない私には正しく説明することができません。新共同訳聖書の巻末付録の地図「8 パウロの宣教旅行2,3」をご覧いただきたいと申し上げる他はありません。この地図を見るかぎり、ミレトスからティルスまでは、ずっと船に乗って地中海を渡っていたようです。
そのことよりも、今日は、これまでにまだ一度も触れていない問題に触れておきたいと思います。それは、使徒言行録において今日の個所を含めて四か所出てくる「わたしたちは」から始まる文章(16・10~17、20・5~15、21・1~18、27・1~28・16)の問題です。「わたしたちは」という文章を書いたのは、誰なのでしょうか。その人はなぜこのように書いたのでしょうか。この問題は、多くの聖書注解者によって取り上げられ、論じられてきたものです。
ともかく一つだけはっきりしていることがあります。それは「わたしたちは」と書いているのはパウロ自身ではないということです。しかし、パウロでないとしたら、誰なのでしょうか。すぐに思い至るのは、パウロと同行した弟子の誰かであるということでしょう。もしそう考えてよいとしたら、16・10~17に「わたしたち」と書いたのは第二回伝道旅行の際のパウロの同行者であるシラスとテモテのどちらかです。しかし、使徒言行録はルカによる福音書を書いたのと同じ著者ルカが書いたと考えられるものです。そちらのほうを立てると、だれが「わたしたち」と書いたかが分からなくなるのです。
十分な時間がありませんので、ただちに結論的なことを申します。現在の聖書注解者が概ね了解している見方を紹介しておきます。それは、使徒言行録における「わたしたち」は、読者を聖書の世界の中に、またパウロの伝道旅行の中に巻き込むために著者が用いた文学的手法であるということです。
こういう見方を紹介する意図は、この問題に良い意味であまり深くかかわる必要はないでしょうということをご理解いただきたいからです。著者ルカがパウロの伝道旅行に同行していたかもしれないという可能性や、シラスかテモテが書き残した日記のようなものを著者が利用したかもしれないという可能性も、完全に否定することはできません。しかし、それよりもはるかに単純で納得できるのが「これは文学的手法である」という可能性です。
読者の中に、もちろんわたしたち自身も含まれています。そうだとすれば、わたしたち読者は、まさにパウロと共に船に乗り込み、彼と共に旅行しているという思いを持つこと、また、殉教を覚悟しているパウロの心の中身を思いめぐらし、かつ共感しながらこの個所を読むことが重要なのです。
「彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。」
パウロたちはティルスに到着しました。しかしそこで出会ったのは、パウロの旅を応援する人々ではありませんでした。正反対です。そこで出会ったのは、パウロのエルサレム行きに反対し、なんとかして行く手を阻もうとする弟子たち(キリスト者たち!)でした。
しかし、ティルスの人々が反対した理由は明らかでした。パウロには死んでもらいたくなかったのです。生きてもらいたかったのです。ですからそれはもちろん全くの善意から言っていることなのであって、決して悪意を持っていたわけではありませんでした。
「彼らは“霊”に動かれていた」とあります。“霊”とは聖霊なる神です。つまり彼らは、聖霊なる神御自身に導かれて、パウロの行く手を阻もうとしたのです。この点は重要です。なぜなら、彼らが“霊”に動かされてパウロに真剣に問うたことは、あなたの殉教は神の御心にかなっているものではないのではないか、ということに違いなかったからです。
ここでわたしたちが考えたい問題は、同じひとりの神が別々の人に対して、相矛盾する別々の言葉をお伝えになるだろうかということです。同じひとりの神がパウロに対しては「エルサレムに行って殉教しておいでなさい」と言われる。他方で、ティルスのキリスト者に対しては「パウロがエルサレムに行くとそこで殉教しかねないので、阻止しなさい」と言われる。もしそれが事実であるならば、そのような神とはいったいどういう神なのかという点に疑問を持つ人々が現われても、おかしくないでしょう。
しかしパウロは先へと進んで行きました。反対する人々の声に耳を貸そうとしませんでした。パウロはやはり強情な人だったのでしょうか。人を人とも思わず、人の善意を理解せず、また聖霊なる神の導きさえも無視して、自分勝手な判断に基づいて、物事を強引に進めて行く人だったのでしょうか。そのような面があったかもしれないということを否定することはできそうにありません。
ところが、そのようなパウロを見て、ティルスの人々がとった行動には、胸を打たれるものがあります。妻子を連れて町外れまで見送りに来てくれた。ひざまずいて祈り、別れの挨拶をしてくれた。いくら止めても止まらないパウロを見限るのではなく、恨みごとを言うのでもなく、すべてを神に委ね、祈りをもって送り出す彼らの姿は、とても立派です。
ところで、ここでも注目していただきたいのは、「わたしたち」です。ティルスの人々がパウロのエルサレム行きに反対したとき、「しかし、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした」と書かれています。ここで分かることは、この時点において「わたしたち」は、ティルスの人々の側ではなく、パウロの側に立っているということです。ところが、次の段落において変化が見られます。この変化に注目することが重要であると思われます。
「わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。『聖霊がこうお告げになっている。「エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。」』わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。」
パウロ一行は、カイサリアに住んでいたフィリポの家に泊まりました。そこにアガボという預言者が来て、パウロがこれから受ける苦難の様子を預言しました。
そうしますとこのとき、先ほど申し上げた変化が起こります。「わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ」とあります。「わたしたち」は、ティルスの人々が反対したときには、パウロの側に立っていました。ところが、その同じ「わたしたち」が、アガボの預言を聞いた途端に、今度はパウロの側に立つことをやめて、パウロのエルサレム行きに反対しはじめたのです!
ここで考えておきたいことは、この変化の意味です。先ほど私は、使徒言行録における「わたしたち」は、読者を聖書の世界の中に、あるいはパウロの旅の中に巻き込むための文学的手法であると申しました。しかし、それは一つの可能性であって、絶対的に確実なことではありません。とはいえ、わたしたちにとって大切なことは、誰が書いたかということよりもむしろ、この変化が起こったことをわざわざ読者に知らせようとしている使徒言行録の著者の意図は何かということです。
はっきり分かることは、この時点においてパウロは完全に孤立するに至ったのだ(!)ということです。ティルスでは、そこに住んでいたキリスト者たちが、パウロに強く反対しました。しかし、その反対を押し切って旅を続けました。ところが、カイサリアに至ると、とうとう「わたしたち」までが、パウロに反対しはじめました。
このことを、次のように整理して申し上げることができます。パウロは、聖霊なる神に導かれたティルスの人々にも逆らい、また預言者アガボの言葉を信じた「わたしたち」にも逆らうことになりました。その結果、パウロに味方してくれる人は、ついに誰もいなくなったのです!
「そのとき、パウロは答えた。『泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。』パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ。」
パウロは、どんな反対があっても、完全に孤立することになっても、エルサレムに行くことをやめませんでした。ここに、彼の生きざま、そして彼の信仰がはっきりと示されています。「主イエスの名のためならば」というただ一つの動機だけがパウロの背中を押してやまなかった様子が伝わってきます。わたしたちは、このようなパウロの生きざまと信仰をどのように理解すればよいのでしょうか。二つの点だけ申し上げておきます。
第一に、私はやはり、ティルスの人々が聖霊なる神の導きによってパウロに反対したという点を重視したいと願っています。殉教すること自体、死ぬこと自体は、神の御心ではないのです。死んでもよい人、殺されてもよい人などは一人もいません。殉教こそが神の御心であると語ることは、わたしたちには不可能です。神の御心は生きることです。なんとしてでも生き延びることです。「どうぞ死になさい」と勧めるような神がいるとしたら、そんなのは神ではないのです。
第二に、しかし、パウロの立場を最大限に尊重するならば、次のように申し上げることができます。パウロには、たとえどんなに反対されても、彼一人が孤立することになっても、エルサレムに行かねばならない理由があったのだということです。同胞であるユダヤ人、神の民イスラエルを、真の救い主イエス・キリストを信じる信仰へと導くためです。エルサレムへ行く道は、彼にとってはどうしても避けて通ることができなかったのです。迂回路(バイパス)はなかったのです!
(2008年4月20日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年4月17日木曜日
自分の手で辞書をめくれ!
(「日曜日に救われる(3/3)」にお寄せいただいたコメントへのお返事を本編のほうに書かせていただきます。私の人生に直接関わる大問題なのです!)
コメントありがとうございました。牧師の道をゼロ地点から出発して苦労して歩いてきた者にとっては、牧師家庭に生まれ育って牧師になったような人のことがうらやましく感じることがあります。しかし、牧師の子供の中には「牧師になど死んでもなりたくない」と心に誓っている人が少なくありません。自分も牧師になった人の中には「親の仕事を受け継いだつもりはない」と言い張る人もいます。私の今の考えは、どのような家庭に生まれようと、教育環境にどれほど恵まれていようと、「自分の意思で入れようとして入れたことしか、正確なものは出てこない」ということです。言いたいことは頭の中身の問題です。インプットとアウトプットの関係の問題です。オランダ語の本を読んでいると分かるのです。読んだことのない本の中身を正確に説明できる人はいません。また、外国の知らない単語や熟語に接したとき、辞書を調べなくてもその意味が分かるという人は一人もいないはずです(いたりして)。自分の手で辞書をめくった回数が、その人の書きかつ語る言葉の重厚さに比例するでしょう(「自分の手で辞書をめくる」というかなり時代遅れな表現は、象徴的な意味で書いていることです。電子辞書やウェブ辞書などを否定するものではありません。あれは今、かなり重宝しています)。「親の受け売り」や「耳学問」はいかにも軽すぎます。私はそういうのはプライドが許さない。恥を知れと言いたくなります。ぞっとするような薄氷の上を平気で歩いていける人の神経を疑います。加えて、ネポティズム(縁故主義)で成り立っているような教会・教派・教団は、早晩堕落するでしょう。私が知っている最悪のケースは、その教会の初代牧師であった亡き父親を「先代の御霊」と呼んで神聖不可侵(サクトサンクト)の存在に仕立て上げ、教会支配の事実上の手段にしてしまっている二代目牧師です。ここまで来るともはや異端です。教義学的に言えば、「聖霊論」の理解が根本的に間違っています。キリスト論における異端が教会に及ぼすダメージにも相当甚大かつ決定的なものがありますが、聖霊論における異端には人命を危険にさらす猛毒性があります。まさにゼロから、キリスト教の「キ」の字も神学の「し」の字もないところから出発なさった方の好奇心に満ちた目には、美しくさわやかな輝きがあります。牧師は説教壇から一人一人の目の輝きを見ています。澱んだ目を見てしまうと、萎える。美しい目を見ると、力強く語ることができます。牧師とは、どうやらそういう生き物なのです。
心の声
「この日記を読んでくださっている方々がおられる」ということをできるだけ意識しないように書いて来たつもりですが、全く気にならないと言えば嘘になります。もしよろしければメールください。ysekiguchi@nifty.comです。昨年までと比べると、今年は少しばかり時間のゆとりがあると感じています。先日、中会の副書記の仕事を降ろしていただきましたので、これからはもっとゆとりが増えそうです。その面もあって、アルバイト先を真剣に探しています。できれば非常勤で聖書とキリスト教を教える仕事。「宗教」の教員免許(高校専修・中学一級)を持っています。この数年は「松戸小金原教会への転任」、そして「東関東中会設立」や「アジア・カルヴァン学会日本大会開催(準備と実行)」といった特殊で重い仕事にひたすら追われていました。また、昨年は二本の論文を立て続けに執筆し、神戸改革派神学校紀要『改革派神学』と季刊『教会』誌に掲載していただきました。この種の作文も牧師の仕事の合間を見つけて取り組んだものですので、私にはけっこうな重労働でした。すべて終わって気が抜けて、2月17日に倒れてしまったのかもしれません。これから気合いを入れて立ち上がります。6月に二つ、研究発表(一つは講演)のチャンスをいただくことができました。私の願いは、日本の教会の(再)活性化のために働かせていただき、キリスト者が日本社会に貢献しうるための(神学的・理論的な)土台を築いていくことです。
2008年4月13日日曜日
夜も昼も涙を流して
使徒言行録20・25~38
今日見て行きますのは、使徒パウロがエフェソの長老たちを前にして語った演説の続きの部分です。この演説は、パウロ自身の人生の終わりを意識し覚悟しつつ語られた別れの挨拶です。そのような言葉をわたしたちは遺言(ゆいごん)と呼ぶのです。これはパウロの遺言です。そして、そうであることがはっきり分かるように語られたので、エフェソの長老たちは激しく泣いたのです。
「『そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。』」
この演説を聞いているエフェソの長老たちにとって、パウロが語っている「あなたがたがもう二度とわたしの顔を見ることはない」の意味は、わたしパウロがもう一度この町に帰ってくることはないということだけではないと分かっていました。パウロがエルサレムで待ち受けているであろう事態は、ユダヤ教団当局との対決、逮捕・投獄、そして処刑。そのようにして伝道者パウロの人生が終わりの日を迎えるのです。そのことを、パウロははっきりと自覚し、覚悟していました。
しかしそれにもかかわらず、彼はひるむことがありませんでした。神の御計画のすべてを、ひるむことなく、公衆の面前でも・方々の家でも、ユダヤ人にも・ギリシア人にも、宣べ伝えました。言葉を尽くして、一つ残らず、まさにすべてを語ろうとしました。
そして、そのためにこそ、パウロの説教は長々としたものにもなり、それを聴いているうちに居眠りし、三階の窓から落ちて死んでしまったエウティコのような人を生み出してしまったということまで書かれていました。
人が死ぬという話を冗談めかした調子で語ることは、許されないことかもしれません。しかし見方を換えれば、パウロにはそれくらい一生懸命に、長い時間をかけて徹底的に、神の御計画のすべて、つまり、この世界とこの人間とが救われて生きるために神御自身が御計画された定めの全貌を語って来たことの誇りないし矜持(きょうじ)があったのです。
そして、だからこそパウロははっきりと語ることができました。「だれの血についても、わたしには責任がありません」と。これは不思議な言葉です。しかし、意図は分かります。「だれの血」の「血」とは、殉教者の流す血を指しています。神の教えに従って生きかつ死ぬ者の命そのものです。その血ないし命の責任は、パウロにはない。伝道者ないし説教者にその責任はない。これはある見方をすれば、もちろん冷たく突き放すような言葉です。責任はあなたがた自身にある。自分で責任を取りなさいということです。
しかし、その裏側には教育者的な愛情が満ちています。今やあなたがたは責任を自分で取ることができるほどに成長したではないかということです。あなたがたはもはや子供のままではありませんということです。自分で判断し、決断し、自分の進むべき道をきちんと選び取って生きていく大人になりましたということです。
いろんな言い方ができると思います。あなたがたは大人の信仰者となり、成熟した教会人となりました。そのような者として、自己責任において態度決定することができるようになりましたということです。あなたがたはもはや誰かの指図に従って生きる者ではありません。「パウロ先生がこうおっしゃったからこうしました。パウロ先生が何もおっしゃらなかったから何もしませんでした」というような他人任せの甘えた態度を取ることはもう許されませんということです。
もっと積極的に言いなおすこともできるでしょう。あなたは自分が生きたいように生き、やりたいようにやりなさいということです。このように考えること、つまり、自由と自己責任において生きることを、キリスト者たちは恐れるべきではないのです。
しかしまたこれは、別の言葉で語りなおす必要もあるところです。それは何でしょうか。すべてのことを自己責任において判断し、決断して生きていく大人の信仰者として認めていただけるためにこそ、パウロが言葉を尽くして語った“神の御計画の全貌”を徹底的に学び、受け入れることが必要にもなってくるのだということです。
「神の御計画」とは、世界と人間をお造りになり、救われる神の計画のことです。時間にすれば、世界の初めから終わりまであります。もちろんその中に、人類の歴史の全体が含まれます。
そのすべてを完璧に学び尽くすことは、わたしたちには不可能であるというべきです。完璧である必要はありません。教会は完璧主義的な何かを教えることも求めることもありません。わたしたちに求められることは、全生涯をかけて、ひたすら学び続けることです。わたしたちの学びに卒業式はありません。強いて言うならば人生の終わり、ただそれだけが卒業式なのです。
たとえば、パウロはエフェソの長老たちに「すべてを語った」と言ったかもしれません。しかし、パウロがその言葉を発した直後に神の新しい御計画が始まるのです。ですから、パウロが「神の御計画のすべて」を語ることは、厳密に言えば不可能なことです。わたしたちも同じです。「すべてが分かった」と確信できたその直後にさらに新しい歴史が始まるのです。わたしたちが知っていることは、正確に言えば「すべて」ではありえないのです。
「『どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。』」
繰り返し申せば、この演説は、エフェソの長老たちに向かって語られているものです。長老とは教会全体の責任者です。牧師は長老の一人です。我々の言葉で言い直せば“小会”のメンバーです。
牧師と長老に負わされている務めは、パウロが語っているとおり、教会全体への気配りと世話と監督です。この順序も重要だと思います。三番目に言われている監督という要素だけが独り歩きすると、長老と他の教会員との関係が悪い意味の上下関係のようになってしまうでしょう。
しかし、教会の組織は、そのようなものではありません。長老たちの第一義的任務は、監督的に上に立つことではなく、徹底的に奉仕者として、仕える者として、下に立つことです。牧師も長老の一人であり、他のだれよりも仕える者として、下に立つ者でなければなりません。
しかしそれでも、長老には、あるいは“小会”には特別な権限ないし権能が与えられているし、与えられるべきであるということは認められるべきです。長老には強い力が必要です。問題は、その力を長老は何のために用いるのかということです。パウロの演説の中にその答えがあります。それは何でしょうか。
「『わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。』」
長老に与えられている権限ないし権能、そして力とは、残忍な企みを凝らし、あるいは邪説を唱えることによって教会を荒らす人々から、教会の群れと教会の教えとを守ることです。
長老の力とは第一義的に“守る力”です。「守るべきものを持っている」と言える人は、強いのです。なぜなら、そのために本当に文字どおりの命をささげますから。そのために死ぬことを少しも惜しいとは思いませんから。余計なことは言わないほうがよいかもしれませんが、「守るべきものは何もない」と思っている人は弱いです。だれのためにも、何のためにも死ぬことができない。自分が真っ先に逃げるのです。
しかし問題は、長老たちは何を守るのかという点にあります。教会という組織でしょうか。そのこともとても重要なことです。教会の教えや聖書の知識でしょうか。そのことももちろん重要です。しかしそれだけでしょうかと問うておくべきです。
ここで考えるべきことは、教会という組織、また教会の教えや聖書の知識は、それ自体が目的であるという面を持っていると同時に、それは手段でもあるという面も持っているということです。教会とその教えは、この世界と人間をよりよく生かすためにあります。この世界と人間は、教会の中で、教会と共に、教会の教えに基づいて、よりよく生きることが重要なのです。
ですから、長老たちが守るべきものは、教会とその教えだけではないというべきです。教会とその教えと共に生きるすべての人々の生活ないし人生そのものを守る必要があるのです。そしてもちろん、そのすべての人々の中に、長老自身、また長老の一人である牧師自身が含まれています。わたしたちにとって重要なことは、教えや知識の面だけではなく、いわばそれ以上のこととして、生活と実践の面が重要なのです。
しかしまた、その生活と実践の土台は教会とその教えであるという点も、語りうることです。だからこそ、パウロは「三年間、夜も昼も涙を流して」教え続けたのです。そのことを“守る力”を与えられた長老たちに思い起こさせること、それがパウロの遺言として語られたこの演説の趣旨です。
「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」
教会とその教えは「神とその恵みの言葉」を土台にして立っています。神が存在しなければ、教会はむなしいものであり、宣教もむなしいものです。
しかし、神は存在する!生きておられ、働いておられる!
パウロは「神とその恵みの言葉」“に”エフェソの長老たち“を”ゆだねました。
それは、わたしたち自身にも受け継がれています。わたしたちは、神とその恵みの言葉の上に立っているのです!
(2008年4月13日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年4月11日金曜日
日曜日に救われる(3/3)
本題はここから。この落ちこぼれ高校生は、問うても答えを得られない欲求不満でいらいらムシャクシャしているうちに、「不良」と呼ばれる同級生や先輩たちのカッコイイ服装や頭髪を真似してみたくなり、頭髪の色を染めてみようかとか、へんてこな格好をしてみようかと考えました。しかし、そういうことが結局できませんでした。なぜか。「日曜日に教会に通っていたから」です。牧師の説教は終始ちんぷんかんぷんでした。苦痛以外の何ものでもありませんでした。この牧師が説教し続けるかぎりこの苦痛の日々が終わることはないのかと思うと、どうにかなってしまいそうなくらい憂鬱でした。それが生まれてから高校を卒業する18歳までの私の人生でした。しかし、なぜでしょうか、「教会」は私にとって神聖なる場所でした。染めた頭髪やへんてこな格好のままで「礼拝」に出席することが当時の私にはできませんでした。日曜日が「七日ごとに襲いかかってくる」という感覚を得たのはその頃です。「日曜日には普通の姿でいたい。週日に頭髪を染めてしまったら日曜日に教会に行けなくなる(ような気がする)。みっともなくて恥ずかしい。じゃあ、やめておこう」。こんなことを16歳か17歳の頃に考えていたよなあと、妙に懐かしく思い出します。ギムナジウム時代にはバルトやトゥルンアイゼン、カイパーやバーフィンクの神学書、カントやジンメルの哲学書を耽読していたと伝えられるファン・ルーラーとは大違い。アホな高校生でした。
日曜日に救われる(2/3)
調べるすべがない。でも知りたい!しかし「キリスト教とは何なのか」というこの問いに答えてくれる教師は高校にはいませんでした(求めること自体が間違っていたわけですが)。一家で通っていた教会でしたので単独で別の教会に通うわけに行かず(当時の感覚です)、教会でも学校でも書店でも納得できる答えを教えてもらえない問いの前で、高校の学業そっちのけで(!)ひとり悶絶する日々でした。いわばこれこそが思春期最大の悩みでした。そして、正直なところを言えば、「牧師になりたい。そのために神学校なるものに行きたい」と決心した最初の動機は、まさにこの「キリスト教とは何なのか」という問いの答えを得たいという一点でした。「キリスト教とはこれだ!」と確信を得た「ので」神学校に入学し、牧師になろうとしたわけではありません。その反対でした。大いなる謎と問いと悩みを引っさげて、何の知識もないまま、東京神学大学に駆け込んだ(より正確には「逃げ込んだ」)のです。高校を卒業するまで、神学書など一冊すら読んだことも買ったこともなく、持っていたのは聖書と讃美歌だけでした。その聖書さえほとんど読んだことがありませんでした。また、讃美歌に至っては「待降節」という字の読み方さえ知らない体たらく。東京神学大学の入学試験の結果を言い渡された教授会面接の一部始終を忘れることができません。山内眞先生(当時はたしか助教授。現在は学長)から(私にとってはもちろん初対面の)教授会全員の前で、「まあ他の試験の結果のことはともかくや・・・(しばし間)・・・。そんなことより、聖書(についての知識)の試験のこの結果は、なんじゃいこれ?全く書けてへんやないか!限りなく零点やど。キミどうするつもりや?」と。「は、はい!これから一生懸命勉強します!」とすっとんきょうに裏返る声で答えたところ、教授全員が大爆笑。赤っ恥をかきながらも、内心では「でもなー、この大学は聖書のことを詳しく教えてくれる学校だと思ったから受験する気になったんだけどなあ・・・。公立高校では聖書の『せ』の字もないわけだから、そこを出てこれから大学に入ろうっていう人間が、聖書のことなんか知ってるわけがねーだろうがよー?」と呟いていました。以上は私が「中規模地方都市の公立進学校の落ちこぼれ」だったことの単なる言い訳です。
日曜日に救われる(1/3)
牧師たちに限らずおそらくすべてのキリスト者が「日曜日に救われる」。「日曜日が定期的に襲いかかってくること」が我々の救いとなり助けとなる。このような日曜日の意義ないし機能に最初に気づいた(ような気がした)のは高校生の頃でした。そう言えばそうだったということを、今日ふと思い出しましたので書きとめておきたくなりました。出身高校は岡山市内の公立校の中では「進学校」と呼ばれる伝統校でした(Wikipediaの記事によると「藩校まで遡れば日本で最も古い歴史を有する高校」なのだそうです。在学中にそのような話を教師たちから自慢げに聞かされた記憶はありませんが)。しかしその中で私はいわゆる落ちこぼれでした。落ちこぼれた理由は隠すほどのことではありません。学校で教えられる内容に全く(本当に「全く」!)興味を持つことができなかっただけです。私の頭と心を完全に支配していた問いは、公立学校では決して教えてくれない「キリスト教とは何なのか」(What is the Christianity?)という一点に尽きるものでした。この問いに答えが与えられないことが原因だとはっきり自覚できるフラストレーションがどんどん溜まっていき、居ても立ってもいられないほどストレスを感じ、他の事柄(学校の勉強も含む)に関心を向けることができず、まさに大爆発しそうでした。理由は当時からはっきり知っていました。乳児期から両親に連れて行かれていた教会の牧師の説教が極度に支離滅裂に感じられて、理解も納得もできなかったからです。反論を企てなければならないと思いました。しかし、反論するためにはそれなりの論拠が必要です。ところが、何が正しいキリスト教であるかを調べたいと願っても、岡山市内にキリスト教書店があることを知らず、近所の小さな書店やデパートの本売場の宗教コーナーを探すのですが、そんなところで見つかるのはせいぜいカッパブックス(笑)の『ノストラダムスの大予言』とかそういうのばかりで、まともなものはありませんでした。
2008年4月10日木曜日
人体実験中
最近のことですが体と心から少し力が抜けることがあり、寂しさのような感情にとらわれています。ブログ投稿が週一ペースに落ち込んでしまっていることも無関係とは言えません。家族と教会のみんなが優しいことが助けです。牧師は(×「牧師も」○「牧師は」)人間ですから、当然のことながら一喜一憂の日々です。今週の説教で「キリスト教信仰には感情的な要素があふれています。わたしたちは涙を流してもよいのです。感情的要素を無理に抑え込み、理性的に冷静にふるまうことこそがキリスト教的な態度であるというような考えがあるとしたら、それは間違いなのです」と語ったばかりです。これはファン・ルーラーの受け売りではなく、私自身の(聖書と改革派教義学に基づく)確信です。私はたぶん多くの人の目から見て感情の起伏が少ないというか、平坦(へいたん)というか、冷淡(れいたん)なほうだと見られるような人間であると自覚しています。カモメのジョナサンのような低空飛行人間です。実際に「低血圧、低体温」でもあります。完全に落ちてしまわないが、ほとんど上がらない。「アゲアゲ」とかいう風潮とは正反対。低いところをずーっと水平に長時間どこまでも飛び続けているような感覚があります。幼い頃からスポーツがからっきしダメなのはそのような(平坦・冷淡な)心身の側に原因があるのか、それとも、スポーツをしたことがないからこのような心身になってしまったのかは、調べたことがないので分かりません。しかし、私のような人間が、とくに感情ないし精神の面でいったん不調に陥り(不調というほどの状態まで落ち込んだことはほとんどありませんが!)、感情の起伏が乱高下しはじめると、その後何が起こるかは予想がつかない面があります。上がりも・下がりも急激でないほうがよいと聞かされています。下がっているときは無理に急に上げようとしないで、気持ちが落ち着くのを待つといいのかなと自分の体で人体実験をしてみているところです。しかし、日常的な仕事と生活は上がっていようと・下がっていようと否応なしに襲いかかってきますので、それはそれで安心です。牧師たちは(「牧師たち」だけではないことは分かっているつもりですが!)落ち込んでしまったままで、寝込んでしまったままで、引きこもってしまったままで、7日間以上(水曜日も含めると「3日間以上」)過ごすことができません。陽はまた昇り、日曜日は七日ごとに襲いかかってくるのです。神御自身が牧師たちの尻を叩いてくださり、「こら牧師。引きこもっている場合か。もうすぐ日曜日だ。牧師たちよ、説教に行け!(Dominee, ga uit te preken!)」と叱咤激励してくださるのです。日曜日が「牧師たちを」救ってくれるのです。
2008年4月6日日曜日
試練に遭いながら
使徒言行録20・17~24
使徒言行録の今日の個所に紹介されていますのは、使徒パウロが行った演説です。これを「パウロの説教」と呼ぶことは難しいと思います。性格としてはきわめて個人的なものです。個人的な挨拶です。
事実、これはパウロから教会の人々に対する別れの挨拶でした。牧師たちは、ある教会から他の教会へと転任するとき、また自分の辞職や引退などの際に別れの挨拶をします。しかし、この演説は、ただ単なる転任や辞職や引退の挨拶ではありません。語られていることは、まさにお別れです。自分の死を予見し・自覚し・覚悟した、地上に生きるすべてのキリスト者に対する別れの挨拶。それがこの演説の趣旨です。
自分の死を覚悟している人の言葉は、とても重いものです。パウロも重い言葉を語っています。この演説は使徒言行録の中ではきわめて重要な意味を持つものであり、有名でもあり、多くの人々に愛されてきたものでもあります。そのため私はこれを、今日と来週の二回に分けて解説していくことにします。
「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。」
この別れの挨拶をパウロは、エフェソの教会の長老たちに向かって語りました。パウロがエフェソで体験した出来事の概略は、使徒言行録19章に記されています。内容を詳しく繰り返すことはやめておきます。一つだけ申し上げておきたいことは、エフェソにおいてパウロは大胆に御言葉を語ることができ、それによって多くの人々が信仰の道に入ったことです。エフェソの多くの人々は、パウロの語る言葉に対して聞く耳を持たない人々ではなく、聞く耳を持った人々だったのです。
「『アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。』」
エフェソのキリスト者たちは、パウロの言葉に対して聞く耳を持った人々であっただけではありませんでした。言葉だけではなくパウロの生きざまをよく知っていました。それを彼らは関心をもって見守って来ました。19節には三つの点がそれぞれ短い言葉で述べられています。
事実、伝道者たちに問われることは、彼らの語る言葉だけではありません。生きざまも必ず問われるのです。強いて言うならば、言葉と行いの一致、あるいは信仰と生活の一致という点が問われるのです。
この演説の最初に、パウロの伝道者としての生きざまがどのようなものであったかを、彼自身が語っています。
第一は「自分を取るに足りない者と思い」です。ただしこれは原典から説明される必要があるところです。「取るに足りない者」と訳されている言葉は、より原意に即して訳せば「温厚な者」とか「柔和な者」となります。しかし、わたしたちは通常、日本語で自分を指して「私は温厚な者です」とか「柔和な者です」とは言わないと思います。だから翻訳するのが難しいわけです。
ここで温厚ないし柔和という場合に問題になっていることは、神と人間との前での姿勢ないし態度です。それが温厚ないし柔和であるとは、ちょうど羊が飼い主に対して従順であるのと同じことです。つまり、重要な問題は神と人間に対する従順な態度です。そして従順であるとは、相手を自分よりも上に立つ者とみなし、かつ自分は相手の下に立つ者とみなすということです。
ですから、現在の訳を生かしながら言葉を補って訳すとしたら、「神と人間の前で自分を取るに足りない者と思い」です。そしてその意味は「神と人間の前で、自分を最も小さな者とみなし、相手に対して従順に生きるべき者と思い」ということです。
第二は「涙を流しながら」です。これは文字どおりの涙です。わたしたちの目から出てくるものです。涙とは、いずれにせよ感情的なものです。キリスト教信仰には、感情的な要素があふれています。わたしたちは涙を流してもよいのです。感情的要素を無理に抑え込み、理性的に冷静にふるまうことこそがキリスト教的な態度であるというような考えがあるとしたら、それは間違いなのです。
「パウロ先生はすぐ怒る」と、私はこれまで繰り返し語ってきました。パウロは感情の起伏が激しい人であったと思われてなりません。瞬間湯沸かし器のように腹をたて、感情をむき出しにして闘うようなところがありました。涙には、悔し涙もあれば嬉し涙もあります。心や体の痛みに耐えられなくて流す涙もあれば、この世の不条理や悪の暴力的支配に憤る涙もあります。救いの喜びをあらわす涙もあります。パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12・15)と教えています。パウロ自身がまさにそのような生きざまを示していたからに違いありません。
第三は「試練に遭いながらも主にお仕えしてきました」です。「試練」とはテストです。試されることです。何を試されるのでしょうか。パウロの場合はおもに、伝道者としての資格と自覚が試されたのだと思われます。果してわたしは本当に伝道者としてふさわしい者なのだろうかという点が試されたのだと思われます。
パウロは「試練」を「ユダヤ人の数々の陰謀」と結びつけています。激しいまでの抵抗勢力がパウロの行く手を執拗に阻んできたのです。こちらで築いた山をあちらで崩される。この正しい信仰をまさに命がけで宣べ伝え、それを受け入れた人々が信仰生活を始めることができた。ところがその信仰を奪い去り、信仰生活をやめさせようとする力が働いている。その中で実際に信仰を棄てる人々もあらわれる。
伝道とは、いたちごっこの一種です。その中で伝道者たちは、空しさや失望を必ず体験します。そして、もしかしたらわたしは伝道者にふさわしくないかもしれない、この仕事を今すぐ辞めなければならないのかもしれないという思いにさらされることがあるのです。
それこそがまさに「試練」です。試練の主語は「神」御自身です。そのテストは神御自身が企画され、計画されたものなのです。そして伝道者たちは、そのテストを受け、合格しなければなりません。また、狭い意味での伝道者だけではなく、すべての信仰者たちが、そのテストを受けなければならないのです。
「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。」
20節において語られていることは一つのことです。パウロは「役に立つこと」を多くの人々に教えてきました。この場合の「役に立つこと」の意味は、わたしたちの“救い”にとって、あるいは、わたしたちの“信仰生活”にとって役に立つことです。そしてそれは同時に、わたしたちの“人生”にとって役に立つことでもあります。救いと信仰は、人生そのものと切り離すことができないものだからです。
その内容をパウロは二つに分けています。第一は「神に対する悔い改め」、そして第二は「わたしたちの主イエス(・キリスト)に対する信仰です。悔い改めと信仰の二つです。この順序も重要であると思います。
悔い改めとは“罪の”悔い改めです。悔い改めとは、このわたしは神の御前で罪深い人間であると自覚し、告白しつつ、その罪を二度と犯すまいと決心し、約束することです。しかし、実際の人間は、何度悔い改めてもまた罪を犯してしまいます。「しなければならないことをせず、してはならないことをする」、これこそがわたしたちの姿です。
このことを認めることは、開き直ることではありません。悔い改めによって「わたしはイエス・キリストにおける神の救いが必要な人間である」と強く自覚しつつ、真の信仰に至ることが重要なのです。救い主イエス・キリストを信じるとき、わたしたちのすべての罪は赦されます。キリスト者の人生は、神によって罪赦されて生きる人生なのです。
このことをパウロは「一つ残らず」教えました。この点は先週お話ししました「パウロの説教は長々としたものであった」という点と関連づけて理解できることかもしれません。キリスト教は10分や20分ですべてを語りつくせるようなものではないということです。24時間語り続けても、すべてを語りつくせるわけではありえません。神学校で学んでも、そこで教えることができるほどの知識を得ても、知っていることはほんのわずかです。
キリスト教信仰を「一つ残らず」学びつくすには、まさに文字どおりの“一生”かかるのです。本を2、3冊読んで「キリスト教が分かりました」と言える人はいないのです。
そしてパウロはこれを「公衆の面前でも方々の家でも」、また「ユダヤ人にもギリシア人にも」教えました。「公衆の面前でも」という点は誤解を生みやすい表現かもしれません。パウロが述べている意味は“街頭”ないし“路傍”で説教することではありません。当時でいえばユダヤ教の“会堂”で説教することが「公衆の面前で」教えることを意味していました。
この点は、今日のわたしたちにも本来当てはまることであり、また当てはめるべきことです。わたしたちの教会の“会堂”は、特定の人々が占有してもよいプライベートな空間ではありません。「ユダヤ人」であろうと「ギリシア人」であろうと、だれでも気兼ねなく立ち入ることができる、まさにすべての人が神の言葉を聞くことができる、その意味での公の(パブリックな)空間であり、かつそうあるべきなのです。
そして、それに対して、むしろできるだけプライベートな空間であるべき場所は「方々の家」のほうです。公(パブリック)にも私(プライベート)にも、すなわち、会堂でも各家庭でも、パウロは神の御言葉を大胆に宣べ伝えたのです。
「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。』」
パウロは、これからエルサレムに行きます。エルサレムはパウロがかつて熱心なユダヤ教徒として勉学に励んだ町であり、熱心なキリスト教迫害者として力をふるった町でした。しかしまた、イエス・キリストへの信仰を与えられてからはすべてが逆転し、ユダヤ教を棄てたパウロを執拗に追いかける迫害者たちの本拠地となった町です。
そこへとパウロは向かいます。「霊」すなわち聖霊なる神御自身が促すままに。神の御心を行うために。伝道者としての使命を全うするために。そしてそのために惜しみなく自分の命をささげるために。パウロの決意と覚悟は、重くて固いものです。
(2008年4月6日、松戸小金原教会主日礼拝)