2008年2月2日土曜日

今週のまとめ

今週もPDF版にまとめておきます。(1)が先週分、(2)が今週分です。



「実践的教義学」の構想(ドラフト)



(1) 教義学と実践神学の統合の提案



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001.pdf



(2) 教義学と私の実存の関係



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics002.pdf





なお、(2)の中の「教義学と『痛い経験』」の項に紹介した大学三年の夏の「事故」の後日談が、実を言うと、1月16日(水)に記した内容です。生まれて初めて「夏期伝道実習」なるものを、徳島県の海辺の町の教会で体験しました。事故の直後でしたので「痛い、痛い」とうめきながらでしたが、その町に二ヶ月間滞在し(教会の一室で寝泊まりし)、説教原稿を書き上げ、礼拝や祈祷会、家庭集会、関係保育園などで説教の奉仕をさせていただきました。食事は二回くらいは自炊した記憶が薄っすらと残っていますが、あとは教会員のお宅にお呼ばれするか、そうでない場合はすべて海辺の喫茶店で食事をとりました。その海はサーフィンが盛んで、喫茶店にもサーファーが多く出入りしていました(私の滞在中に一人のサーファーがその海で雷に打たれて亡くなりました。喫茶店で働いていたアルバイトの人と親しい仲間でした)。実習が無事終了し、教会から「謝礼」をいただくことができました。実は、その「謝礼」で、その実習先の教会のすぐ近くにあった中古車店に飾って(放置して?)あった茶色のポンコツ車、ダイハツシャレード(八万円!)を買ったのです。つまり、「それ以来、自分の足で歩くことが極端に少なくなったので・・・体重が極端に増加した」という話には、かなり大げさですが要するに「前史」があったのだということです。私の体重増加が自家用車を購入してそれに乗りはじめたときから始まったという点は間違いなく事実なのですが、問題はなぜ私は自動車に乗りはじめたのかという点です。その答えは、「事故」後の肉体に残った症状に苦しむ余り(「破門」後の精神的ダメージの件は意図的に除外しておく)、いつも自分をかばおうとする少し臆病な人間になってしまったからであると一応説明できるわけです。歩いて行けそうなところでも「自分の足で歩くよりも自動車で」、また「満員電車に鮨詰めにされるくらいなら、ゆったりできる自動車で」というふうに、いつも「楽な方法」を選ぼうとする人間になってしまいました。その結果が2007年1月に到達した体重99kgです。このままでは駄目だと深く反省し、昨年ダイエットして現在は89kg(現在、この数値のまま、数ヶ月止まっています。ヤバいです)。その反省の中身は、見てくれのまずさへの反省だけではなく、常に自分の身を守ることを優先し、「楽な方法」を選ぼうとする、その臆病さそのものへの反省だったというわけです。



2008年2月1日金曜日

「社会と教会」に名称変更しました

「信仰の手引き」と名づけてきたブログのタイトルを、このたび「社会と教会」に変更しました。「教会と社会」ではなく「社会と教会」の順に書くのは、社会的関心を優先したいからです。「信仰の手引き」は一時的に付けた名前であり、その前は「信仰と実践」でした。しかし、どの名称も私の意図ならびに願いを反映しきれていないと感じていました。申し上げたいことは、「社会において果たすべき教会の役割」とか「社会に向かって発信する教会の声」というようなことです。ただし、それを教会の独り言や自己満足にしてしまうのではなく、教会以外の方々に御理解いただけるメッセージにするにはどうしたらよいかという関心を常に持ち続けてきました。そしてそれは、とりもなおさず、社会と教会との真の信頼関係を築いていきたいという強い思いからのものでした。ですから、このブログ「社会と教会」をお読みいただきたいと願っているのは、教会のメンバーの方々だけではなく、むしろ教会のメンバーでない方々、キリスト者でない方々なのです。戦争や暴動、飢餓や貧困、差別や孤独、などなど。社会に大きな問題や混乱が起こるとき、「教会さんは、どんなふうに考えるんだろ?」と思われたら、このブログを開いてみてほしい。そのように願っています。発信できる情報はまだまだ少なく限られたものですが、そのうちパワーアップしていきたいです。



社会と教会(旧「信仰の手引き」)



http://faith.reformed.jp/



教会で受けるトラウマの責任は教会の「神学」にもある

トラウマの正体が何であるのかは、まだ分かりません。本当に分かりません。「私はどうやら専門のカウンセラーに一度きちんと話を聞いてもらうほうがよさそうだね」と、つい最近、妻と話したばかりです(まだ一度もそういう先生のところに通ったことがありません)。とはいえ私は、自分の中に巣食うこのトラウマの正体が「狭義の心理学」や「狭義の精神医学」で説明してもらえそうなものであるとは思っていません。このように私が書くのは自分の問題を過大評価する(要するに「自意識過剰」)ゆえではなく、また心理学や精神医学を軽視するゆえでもありません。ある程度の自覚として私に思い当たるものがあり、そこにどうやら原因があるということが、その意味で「分かっている」からです。私の心を傷つけてきた少なくともその一つであり、かつ決定的な要素は「説教」です。「そうである」という自覚が、すっきりとした明確さまではないとしても、それほどぼんやりとでもなく、私の中にあります。そして、その「説教」を裏打ちする「ある種の神学」ないし「ある種の教義学」が、私の心の深い部分にダメージを与えたままです。その傷は、いまだに癒えていない。そのことに時々気づかされる瞬間があります。たいてい涙がこぼれます。教義学と実践神学を統合すべきであること、とくに説教や牧会の問題を教義学的に考え抜かねばならないと考えている理由はこのあたりにあります。説教や牧会における数多くの「失敗」の事例の中には、単なるテクニックの拙さであるとか経験値の低さというようなことで片づけられるべきではない事象も明らかに存在するからです。説教の実践、また牧会の実践を支えている理論的根拠としての「説教学」や「牧会学」そのものが失敗しているケースが明らかにあります。そして、それらすべてを支える「神学」が根本的に失敗しているケースがあるのです。「実践的教義学」は、現代のキリスト教カウンセリングに敬意を表します。その上で、教義学の観点からの積極的レスポンスを意図しています。しかし、現代流行中の説教学の潮流に対して、「実践的教義学」は、最も近い関係にあると感じられるだけに、どうしても手厳しいものになります。「教義学と実践神学の統合の提案」の背後に、具体的な人の動きを期待したい気持ちは、もちろんあるのです。



私が「実践的教義学」を求める本当の(?)理由

「改革派教義学と私の実存との関係」について書いてきました。もちろん両者の間には「関係がある」と言いたいためです。私の日本基督教団からの「離脱」に関する秘話(?)まで字にしてしまいました。今回書いた部分は今まで(まとまった形では)妻以外の誰にも喋ったことがありませんので、その意味では生まれて初めて字にしたものです。ブログの魔法にかかっているのかもしれません。ちょっと頭を冷やす必要がありそうです。しかし、今週は家庭集会や中会教師会などで出かけることが多く、また各方面からのメールもなんだかやたら多く、意識が四方八方へと分散していきます。腰を据えて一つの事柄をじっくり考えて書くということができません。18才の少年と「教義学」との感動的な出会い。「教義学」を学ぶうちに「教派」の問題が見えてきたこと。「痛い目」にも遭ったこと。「改革派であること」、すなわち「教派であり続けること」を求めた結果、「教派的なるもの」に対して弾圧的姿勢を取り始めた日本基督教団を1997年3月末に離脱し、日本キリスト改革派教会に加入するに至ったこと。そして、その一連の軌跡は、私の意識においては、「改革派教義学」(dogmatica reformata)を追い求めることと同一の意味を持つこと(短く言えば、日本基督教団にとどまったままでは「改革派教義学」を維持することができないと思われたのです。「改革派教義学」のほうが日本基督教団の存在よりも重要であると、当時の私には感じられたのです)。このあたりまで書いて、すでにダウン気味です。自分の過去の経験を赤裸々に(笑)書き始めると、忘れることに決めた記憶がフラッシュバックしてきますし、私の心の奥底のパンドラの箱を開けざるをえなくなりますので、精神的に少しキツクなり始めているのかもしれません(はっきりした自覚症状に至っているわけではない)。私にとって「教会生活・信仰生活」は、恵み豊かな体験でもあり続けていますが、全く同時に、深く絶望的なトラウマ(!)の原因でもあり続けているからです。



2008年1月31日木曜日

教派の「教」は教義学の「教」(3/3)

話を元に戻します。私にとって、教派の「教」は教義学の「教」です。私は「改革派教義学」(dogmatica reformata)を結婚相手として選んだのです。出会った日にひとめぼれし、やがて「結婚したい」と願うようになりました。しかし、それを周囲が許してくれそうもないことを悟ったので、「駆け落ち」したのです。妻以外の誰にも相談せず、日本基督教団の教師を夫婦揃って退任し、日本キリスト改革派教会に教師として加入しました。唯一、日本基督教団時代の最後にわずか10ヶ月間牧師として働かせていただいた教会の方々に対してだけは、牧師家族を温かく受け入れ、手厚い配慮をしてくださっていましたので、多大な御迷惑をかけたことを今でも申し訳なく思っています。今さら何を言ってもお許しいただけないかもしれませんが、この負い目を生涯負い続けることによって償いたいと願っています。しかし私の「駆け落ち」はそうする以外にどうすることもできなかったものです。この点にはいささかの後悔もありません。私にとって「教義学」は真理探究のための一つの道です。それは「飯の種」以上のものであり(実際に「飯の種」になったことは一度もありません)、それなしには魂の平安を得ることができないものです。ただし、「真理探究のための一つの道」の「一つ」は排他的な「唯一」ではなく「多くの中の一つ」です。そういうものとしてまた同時に、教義学は「三位一体の神のみわざ」(opera Dei trinitatis)全体を見通すことを本旨とする、最も広大な考察領域を有する古くて新しい学問です。教義学者が立つアリーナは非常に広い。「コップの中の嵐」で終わらせてよいような、ちんけな学問ではありません。(おわり)



教派の「教」は教義学の「教」(2/3)

「これこれ、そこのお若いの。あんたは元気でよろしいね。だけど、あんまりむきになりなさんな。あんた一人にどんなことがおできになるのかね?大口を叩きたければ、ひとまずカール・バルト先生の九千頁を全部読みなさい。あの中にすべてが言い尽くされていると思うよ。あれ以上のことを、お前さんごときが言えるとでも思っているのかね?」と大先輩たちはアドバイスしてくださるかもしれません。バルトの『教会教義学』でしたら、ドイツ語版と日本語版の全巻を(約10年かけて古書店を探し回ることによって)約10年前までに買い揃え、かいつまんだところ、そして重要なポイントは、だいたい読みました。ただ、全体が余りにも長いので、読み進めているうちに前のほうに何が書いてあったかを忘れてしまったり、また内容的に繰り返しが多いので、退屈で退屈で仕方がない部分が苦痛で飽きてしまったりという事情があるゆえに、パーフェクトな意味で「全巻を通読しました」と言い切ることまではできません。あの本は、内容が高度で難解で大量なので「読むことができない」のではなく、内容が余りにも退屈なので「読む気がしない」。だって同じことの繰り返しなのですから。時代遅れのたとえですが、壊れたレコードのようです。同語反復も大概にしてほしい。同語反復もあそこまで極めると立派であるという見方もできるかもしれませんが、あの種の繰りごとに付き合うほど、我々もひまではありません。バルトの退屈な書物に時間をとられているくらいなら、ファン・ルーラーの書物をオランダ語で読むほうがはるかに楽しいし、刺激的だし、信仰生活と牧師の仕事に益します。「もう少し要旨を簡潔にまとめてほしい」。それがバルト先生に伝えたい私の感想です。この点で、バルトの『教義学要綱』(Dogmatik im Grundriß, 1947)は、短いから好きです。『カール・バルト著作集』(新教出版社)に収録されている版はずいぶん前に読みましたが、最近「新教セミナーブック」の版で読み直しています。井上良雄先生の訳は素晴らしい。「バルト主義者」になることは私にはもはや全く不可能ですが、口幅ったいついでに言わせていただくなら、バルト先生が非常に熱烈に抱いておられたと感じられる「教義学への探究心」に対しては、持ちうるかぎり最大限の敬意を持っております。(さらにつづく)



教派の「教」は教義学の「教」(1/3)

今日の午前中は松戸小金原教会の水曜礼拝でした。マルコによる福音書10・32~52を学び、全員で祈りました。出席者14名。さて。「私という人間はどうやらホーリネスというようなものではありえないようだ」。私がかつて確かに語ったこの発言は、私に限っては、ホーリネスの人々やその信仰への《批判》として語ったものではありません。発言した当時もそうでしたし、今はますますそうです。《違和感》という言葉も勢いが強すぎて全く当てはまりません。まして軽視ないし軽蔑などの意図は全くありません。どういうふうに表現したらよいか迷います。表現しにくいものを無理やり表現しようとすると墓穴を掘ると言うのか馬脚を現すと言うのか、要するにろくなことはなさそうで嫌なのですが、それでもこの場面では何か書き留めておきたい気持ちです。いちばん近いかもしれないのは・・・(やはり難しい)・・・強いて言えば・・・(う~ん)・・・「恋愛的な」(?)あるいは「結婚したいと思う」(?)感情を相手に抱きうるか否かという話に近い(違うかな)、そんな感じです。私には妻がいますが、「一人の女性に妻になっていただくこと」(「なっていただく」というこの響きを重んじたい)や「妻を愛すること」が妻以外のすべての女性を「批判」することを意味するか。そのような意味になるわけがありません。教派の問題、エキュメニズムの問題についても私は基本的に同じような感覚を(「感覚を」です)持っています。現在私は日本キリスト改革派教会の教師ですが、他のすべての教派を《批判》ないし《否定》した結果としてここにいるという事情ではありません。「そうではない」ということを、どこでもかしこでも声を大にして言いたいと願っています。私がかつてそこに属するメンバーであり、また教師としても仕えた日本基督教団は、こと最近「我々は教派ではない」という点を、中心的な人々がまさに声を大にして一生懸命語ってくださいますので、私の言葉にはなんら矛盾がないことを証明していただいている次第です。私自身は「教派であること」を選択しただけです。「教派であること」をローラーで強引に押しつぶそうとする危険な圧力を感じたので、「教派であり続けることができる場所」へとそっと移動しただけです。そしてそれは、とりもなおさず改革派教会の信仰告白の内容(特定の一信条文書ということとはいくらか違う意味です)を「愛する」ことを願った結果です。そして牧師である者として、すなわち教会教育の全般に責任を負う者として、「改革派教義学」(dogmatica reformata)の発展と普及にも寄与しうる者になりたいと願った結果です。とにかく付き合い始めてみて、先に行ってうまく行かないことが分かったら、その時点で別れればいい、離婚すればいい、やめればいいとは全く思いません。そのような「あなた任せ」の人生を、「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)に関するかぎり、私は思い描くことすらできません。もし改革派教会の教義内容に間違いがあるならば(もちろん我々は間違いうる存在です)、その内容を徹底的に修正し、改善していく責任が、この私にもある。そのように考えています。(つづく)



2008年1月30日水曜日

どちらが人に優しいか

昨日は松本零士氏的な擬音を用いて言えば「ドテポキグシャ」な体験を書きました。あのときは、正直死ぬかと思いました。22年経った今でも、白いトラックの金属部分(巻き込み防止用バーです)が右脇腹に激突してきたあの瞬間の恐怖を、昨日のことのように覚えています。しかし、「破門」と「事故」との間に直接的な関連性があると、私自身が考えているわけではありません。不幸というものはしばしば、まるで追い討ちをかけられているのではないかと感じられるほどに連続的に起こるものである。それがどうやら我々の体験的現実であると、それくらいのことは一応考えています。しかし、私が考えることはそれ以上のことではないしそれ以下のことでもありません。それとも私は、この場面でこそ「それは神の摂理であった。すべては神の予定であった」というような言葉を発するべきでしょうか。改革派教義学(dogmatica reformata)を土台とする「実践的教義学」はそのような短絡的な結びつけ方をあまり快く思わないところがあります。そのような短絡的な言葉づかいを耳にするたびに、それは第三戒違犯、すなわち「主の名をみだりに唱える罪」ではないのかと思われて仕方がありません。「予定論」(praedestinatio Dei)や「摂理論」(providentia Dei)はなんら万能教義ではありません。それらはモーセの十戒、とりわけ「道徳律法」(lex moralis)によって規制される必要があります。カルヴァンもツヴィングリもブリンガーも、ハイデルベルク信仰問答の作者やウェストミンスター信仰規準の制定者たちも、第二次宗教改革の教義学者たちも、そして近現代の改革派教義学者たちも、「予定論」や「摂理論」は絶対的で不動の教義であるが、「道徳律法」は相対的で可動的な(不都合が生じた場合は撤回可能な)教説にすぎないなどというような(不道徳への逃げ口上を助けるような)悪しき二元論を教えたことはありません。前者も後者も同様に等しく重んじられるべき意義と価値を持っています。そして、「現実の人間との近さ」という観点をもって見るならば、後者(道徳律法)のほうが前者よりも「人間に近い距離にあること」は明らかです。心や体に傷を負った人の前で「破門は神の摂理である」とか「事故は主の予定である」などと(無遠慮に)語ることと、「主の名をみだりに唱える罪」を犯さないように不断の注意を払うこと。そのどちらが「人に優しいか」という問いを真剣に考えてみるべきではないのかと、「実践的教義学」は、私に強く問いかけてくるのです。



2008年1月29日火曜日

教義学と「痛い経験」

大木教授の教義学講義は、私の教会生活に小さからぬ影響を及ぼすことにもなりました。神学大学に入学した日からちょうど二年三か月通った教会の牧師から「破門」を言い渡される事態に発展しました。その教会は日本基督教団内の「ホーリネスの群」と称するグループに属していました。当時の私は「ホーリネス」が何であるかというようなことを理解していたわけではないし、私自身がそのようなものであるかどうかについての自覚は全く無かったのですが、神学大学入学の際の出身教会の牧師の勧めに応じ、その教会に通っていました。ところが、大木教授の講義が示す方向をめざして歩みはじめた私の心の中に「私という人間はどうやらホーリネスというようなものではありえないようだ」という強い思いが芽生え、そのとおりの言葉を当時の牧師(現在は故人となっている)に率直に伝えましたところ、「じゃあ、君はもう、来週からこの教会に来ないでくれ」と言い渡されました。当時私は20歳。1986年6月末のことでした。「破門」後、杉並区のその教会から三鷹市の神学大学までの帰路(井の頭通りでした。まもなく吉祥寺駅というあたり)、50ccのスクーターを運転していた私は、目の前を走っていた小型トラック(白ナンバー)が急に車線変更をしてきて接触、転倒。スクーターはガードレールに当たって大破。中学・高校時代に柔道を少しかじっていたおかげで頭部を地面に打ちつけることはなかったことと(とっさに受け身をしたようです)、梅雨の時期でその日も雨が降っており、厚めの雨合羽を着ていて体の露出度が少なかったため、流血騒ぎにまではなりませんでした。しかし頚椎を捻挫し(受け身の際に首をひねりすぎたようです)、またトラックの金属部分に接触した右の脇腹が紫色に腫れ上がり、悶絶。通りがかりの人が呼んでくれた救急車に、生まれて初めて乗りました。骨折は無かったものの、首は痛いわ、脇腹は痛いわ。そして何より「破門」の二文字が渦巻く心が痛い。その事故の数日後から二ヶ月間、徳島県と高知県の県境に位置する教会で夏期伝道実習を予定通り行いました。これまた生まれて初めての夏期伝道実習だったので、緊張もあり、慣れない地で病院通いもリハビリもできず、とにかく「痛い痛い夏」を過ごす羽目になりました。頚椎の痛みは、その後10年間、私をさいなむことに。子供の頃からひどく甘ったれで、痛みや苦しみから逃げることばかり考える人間だった私は、そのときやっと「人生とは痛いものだ」と悟るに至りました。



2008年1月28日月曜日

教義学との出会い

昨日は教会の年一回の定期会員総会でした。牧師が議長を務めます。とても穏やかな会議が行えて、ほっとしました。さて。私が「教義学」に初めて出会ったのは、1985年のことです。当時19才でした。現在42才ですので、23年間の付き合いになります。まだそう長くもない人生の半分以上の長さになりました。神学大学二年生のときです。専門科目は原則的には三年次から履修可となりますが、一年生から入学した者には「組織神学 I」と称する教義学の履修が許されました。一学年上の人々のために行われている講義の教室に、19才の二年坊主たちが入らせてもらえました。その年の教義学の担当者は、スイスのバーゼルで『バルト』(講談社「人類の知的遺産」シリーズ)を書き上げて帰国なさったばかりの大木英夫教授(現在は学校法人聖学院理事長・院長)でした。興奮と感動をもって大木先生の講義に聴き入りました(このときの講義内容が後に『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(教文館、2003年)として出版されたときは本当にうれしかったです。私の人生を決定づけた講義なのですから)。ほとんどが生まれて初めて接する内容ばかりでしたが、何も分からないなりに必死でノートをとり、それを何度も読み返しながら、語られていることの意味を考えました。講義の中で引用ないし紹介される書物は見たことも聞いたこともないものばかりでしたので、とにかく入手しなければ何も始まらないと思い、可能なかぎり買いあさり、また古書店を探し回りました。パソコンは「98」と呼ばれるドデカイものが非常に高価な値段で売られていた頃、またインターネットなどは一般人は聞いたこともなかった頃でしたので、ひたすら足を使って動き回るしかありません。学びえた場所が「東京」だったことは、情報入手の観点からいえば非常に好都合であったことだけは間違いありません。銀座やお茶の水、また西荻窪や神田にはよく行きました。そこで見るものすべてが感動でした。その頃の記憶は寮と大学と教会と書店をグルグル回っていたこと(図書館には余りいませんでした。読んでも当時は理解できない本ばかりでしたから)。他のことはほとんど忘れてしまいました。19才の少年から見た大木先生の姿は穏やかな中に威厳を感じられ、こちらから近づくことはできませんでした。ところが大木先生のほうは講義中に学生たちに質問して答えをお求めになったり、あるいは定期的に講義レポートを書くようにお命じになり、その中でよく書けているものを選んでみんなの前で発表する機会を与えてくださったりと、学生たちに積極的に近づいてくださいました。私も一度だけ、「久松真一の無神論」をテーマに書いたレポートを大木先生が気に入ってくださり、みんなの前で発表させていただいたことがあります。とてもうれしくて、妙に得意げだったそのときの自分の姿を思い起こすと恥ずかしいです。その後も大木先生には公私にわたって非常にお世話になりました。ともかくはっきりしていることは、私と教義学の最初の出会いは「書物」によるものではなかったということです。温かい血の通った「人格」がそこに介在していました。その日そのときから、私の神学研究のすべてが始まったのです。牧師として立つ根拠を得た、と言ってもよい。これらの経緯ゆえに、私の教義学はいつも、少し会津訛りなのです。