今日の午前中は松戸小金原教会の水曜礼拝でした。マルコによる福音書10・32~52を学び、全員で祈りました。出席者14名。さて。「私という人間はどうやらホーリネスというようなものではありえないようだ」。私がかつて確かに語ったこの発言は、私に限っては、ホーリネスの人々やその信仰への《批判》として語ったものではありません。発言した当時もそうでしたし、今はますますそうです。《違和感》という言葉も勢いが強すぎて全く当てはまりません。まして軽視ないし軽蔑などの意図は全くありません。どういうふうに表現したらよいか迷います。表現しにくいものを無理やり表現しようとすると墓穴を掘ると言うのか馬脚を現すと言うのか、要するにろくなことはなさそうで嫌なのですが、それでもこの場面では何か書き留めておきたい気持ちです。いちばん近いかもしれないのは・・・(やはり難しい)・・・強いて言えば・・・(う~ん)・・・「恋愛的な」(?)あるいは「結婚したいと思う」(?)感情を相手に抱きうるか否かという話に近い(違うかな)、そんな感じです。私には妻がいますが、「一人の女性に妻になっていただくこと」(「なっていただく」というこの響きを重んじたい)や「妻を愛すること」が妻以外のすべての女性を「批判」することを意味するか。そのような意味になるわけがありません。教派の問題、エキュメニズムの問題についても私は基本的に同じような感覚を(「感覚を」です)持っています。現在私は日本キリスト改革派教会の教師ですが、他のすべての教派を《批判》ないし《否定》した結果としてここにいるという事情ではありません。「そうではない」ということを、どこでもかしこでも声を大にして言いたいと願っています。私がかつてそこに属するメンバーであり、また教師としても仕えた日本基督教団は、こと最近「我々は教派ではない」という点を、中心的な人々がまさに声を大にして一生懸命語ってくださいますので、私の言葉にはなんら矛盾がないことを証明していただいている次第です。私自身は「教派であること」を選択しただけです。「教派であること」をローラーで強引に押しつぶそうとする危険な圧力を感じたので、「教派であり続けることができる場所」へとそっと移動しただけです。そしてそれは、とりもなおさず改革派教会の信仰告白の内容(特定の一信条文書ということとはいくらか違う意味です)を「愛する」ことを願った結果です。そして牧師である者として、すなわち教会教育の全般に責任を負う者として、「改革派教義学」(dogmatica reformata)の発展と普及にも寄与しうる者になりたいと願った結果です。とにかく付き合い始めてみて、先に行ってうまく行かないことが分かったら、その時点で別れればいい、離婚すればいい、やめればいいとは全く思いません。そのような「あなた任せ」の人生を、「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)に関するかぎり、私は思い描くことすらできません。もし改革派教会の教義内容に間違いがあるならば(もちろん我々は間違いうる存在です)、その内容を徹底的に修正し、改善していく責任が、この私にもある。そのように考えています。(つづく)
2008年1月30日水曜日
どちらが人に優しいか
昨日は松本零士氏的な擬音を用いて言えば「ドテポキグシャ」な体験を書きました。あのときは、正直死ぬかと思いました。22年経った今でも、白いトラックの金属部分(巻き込み防止用バーです)が右脇腹に激突してきたあの瞬間の恐怖を、昨日のことのように覚えています。しかし、「破門」と「事故」との間に直接的な関連性があると、私自身が考えているわけではありません。不幸というものはしばしば、まるで追い討ちをかけられているのではないかと感じられるほどに連続的に起こるものである。それがどうやら我々の体験的現実であると、それくらいのことは一応考えています。しかし、私が考えることはそれ以上のことではないしそれ以下のことでもありません。それとも私は、この場面でこそ「それは神の摂理であった。すべては神の予定であった」というような言葉を発するべきでしょうか。改革派教義学(dogmatica reformata)を土台とする「実践的教義学」はそのような短絡的な結びつけ方をあまり快く思わないところがあります。そのような短絡的な言葉づかいを耳にするたびに、それは第三戒違犯、すなわち「主の名をみだりに唱える罪」ではないのかと思われて仕方がありません。「予定論」(praedestinatio Dei)や「摂理論」(providentia Dei)はなんら万能教義ではありません。それらはモーセの十戒、とりわけ「道徳律法」(lex moralis)によって規制される必要があります。カルヴァンもツヴィングリもブリンガーも、ハイデルベルク信仰問答の作者やウェストミンスター信仰規準の制定者たちも、第二次宗教改革の教義学者たちも、そして近現代の改革派教義学者たちも、「予定論」や「摂理論」は絶対的で不動の教義であるが、「道徳律法」は相対的で可動的な(不都合が生じた場合は撤回可能な)教説にすぎないなどというような(不道徳への逃げ口上を助けるような)悪しき二元論を教えたことはありません。前者も後者も同様に等しく重んじられるべき意義と価値を持っています。そして、「現実の人間との近さ」という観点をもって見るならば、後者(道徳律法)のほうが前者よりも「人間に近い距離にあること」は明らかです。心や体に傷を負った人の前で「破門は神の摂理である」とか「事故は主の予定である」などと(無遠慮に)語ることと、「主の名をみだりに唱える罪」を犯さないように不断の注意を払うこと。そのどちらが「人に優しいか」という問いを真剣に考えてみるべきではないのかと、「実践的教義学」は、私に強く問いかけてくるのです。
2008年1月29日火曜日
教義学と「痛い経験」
大木教授の教義学講義は、私の教会生活に小さからぬ影響を及ぼすことにもなりました。神学大学に入学した日からちょうど二年三か月通った教会の牧師から「破門」を言い渡される事態に発展しました。その教会は日本基督教団内の「ホーリネスの群」と称するグループに属していました。当時の私は「ホーリネス」が何であるかというようなことを理解していたわけではないし、私自身がそのようなものであるかどうかについての自覚は全く無かったのですが、神学大学入学の際の出身教会の牧師の勧めに応じ、その教会に通っていました。ところが、大木教授の講義が示す方向をめざして歩みはじめた私の心の中に「私という人間はどうやらホーリネスというようなものではありえないようだ」という強い思いが芽生え、そのとおりの言葉を当時の牧師(現在は故人となっている)に率直に伝えましたところ、「じゃあ、君はもう、来週からこの教会に来ないでくれ」と言い渡されました。当時私は20歳。1986年6月末のことでした。「破門」後、杉並区のその教会から三鷹市の神学大学までの帰路(井の頭通りでした。まもなく吉祥寺駅というあたり)、50ccのスクーターを運転していた私は、目の前を走っていた小型トラック(白ナンバー)が急に車線変更をしてきて接触、転倒。スクーターはガードレールに当たって大破。中学・高校時代に柔道を少しかじっていたおかげで頭部を地面に打ちつけることはなかったことと(とっさに受け身をしたようです)、梅雨の時期でその日も雨が降っており、厚めの雨合羽を着ていて体の露出度が少なかったため、流血騒ぎにまではなりませんでした。しかし頚椎を捻挫し(受け身の際に首をひねりすぎたようです)、またトラックの金属部分に接触した右の脇腹が紫色に腫れ上がり、悶絶。通りがかりの人が呼んでくれた救急車に、生まれて初めて乗りました。骨折は無かったものの、首は痛いわ、脇腹は痛いわ。そして何より「破門」の二文字が渦巻く心が痛い。その事故の数日後から二ヶ月間、徳島県と高知県の県境に位置する教会で夏期伝道実習を予定通り行いました。これまた生まれて初めての夏期伝道実習だったので、緊張もあり、慣れない地で病院通いもリハビリもできず、とにかく「痛い痛い夏」を過ごす羽目になりました。頚椎の痛みは、その後10年間、私をさいなむことに。子供の頃からひどく甘ったれで、痛みや苦しみから逃げることばかり考える人間だった私は、そのときやっと「人生とは痛いものだ」と悟るに至りました。
2008年1月28日月曜日
教義学との出会い
昨日は教会の年一回の定期会員総会でした。牧師が議長を務めます。とても穏やかな会議が行えて、ほっとしました。さて。私が「教義学」に初めて出会ったのは、1985年のことです。当時19才でした。現在42才ですので、23年間の付き合いになります。まだそう長くもない人生の半分以上の長さになりました。神学大学二年生のときです。専門科目は原則的には三年次から履修可となりますが、一年生から入学した者には「組織神学 I」と称する教義学の履修が許されました。一学年上の人々のために行われている講義の教室に、19才の二年坊主たちが入らせてもらえました。その年の教義学の担当者は、スイスのバーゼルで『バルト』(講談社「人類の知的遺産」シリーズ)を書き上げて帰国なさったばかりの大木英夫教授(現在は学校法人聖学院理事長・院長)でした。興奮と感動をもって大木先生の講義に聴き入りました(このときの講義内容が後に『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(教文館、2003年)として出版されたときは本当にうれしかったです。私の人生を決定づけた講義なのですから)。ほとんどが生まれて初めて接する内容ばかりでしたが、何も分からないなりに必死でノートをとり、それを何度も読み返しながら、語られていることの意味を考えました。講義の中で引用ないし紹介される書物は見たことも聞いたこともないものばかりでしたので、とにかく入手しなければ何も始まらないと思い、可能なかぎり買いあさり、また古書店を探し回りました。パソコンは「98」と呼ばれるドデカイものが非常に高価な値段で売られていた頃、またインターネットなどは一般人は聞いたこともなかった頃でしたので、ひたすら足を使って動き回るしかありません。学びえた場所が「東京」だったことは、情報入手の観点からいえば非常に好都合であったことだけは間違いありません。銀座やお茶の水、また西荻窪や神田にはよく行きました。そこで見るものすべてが感動でした。その頃の記憶は寮と大学と教会と書店をグルグル回っていたこと(図書館には余りいませんでした。読んでも当時は理解できない本ばかりでしたから)。他のことはほとんど忘れてしまいました。19才の少年から見た大木先生の姿は穏やかな中に威厳を感じられ、こちらから近づくことはできませんでした。ところが大木先生のほうは講義中に学生たちに質問して答えをお求めになったり、あるいは定期的に講義レポートを書くようにお命じになり、その中でよく書けているものを選んでみんなの前で発表する機会を与えてくださったりと、学生たちに積極的に近づいてくださいました。私も一度だけ、「久松真一の無神論」をテーマに書いたレポートを大木先生が気に入ってくださり、みんなの前で発表させていただいたことがあります。とてもうれしくて、妙に得意げだったそのときの自分の姿を思い起こすと恥ずかしいです。その後も大木先生には公私にわたって非常にお世話になりました。ともかくはっきりしていることは、私と教義学の最初の出会いは「書物」によるものではなかったということです。温かい血の通った「人格」がそこに介在していました。その日そのときから、私の神学研究のすべてが始まったのです。牧師として立つ根拠を得た、と言ってもよい。これらの経緯ゆえに、私の教義学はいつも、少し会津訛りなのです。
2008年1月27日日曜日
「宣教と社会」
http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-01-27.pdf (印刷用PDF)
使徒言行録17・1~15(連続講解第43回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟たちを町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、「イエスという別の王がいる」と言っています。』これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取った上で彼らを釈放した。」今日の個所に紹介されていますのは、使徒パウロの第二回伝道旅行の途中に立ち寄ったテサロニケとベレアという二つの町で行われた宣教活動の様子です。パウロと共にシラスとテモテが同行しています。この個所を読んですぐに分かることが一つあります。彼らの伝道旅行には、喜びの面もあった。しかし、苦しみの面もあった、ということです。
最初に紹介されているのはテサロニケの町での出来事です。ここで分かることはパウロが採用した宣教活動の方法はいくらか過激なものであったということです。どこが過激なのでしょうか。パウロがしたことは、ユダヤ人の会堂の中で毎安息日に行われている礼拝に出席し、そこに集まっている人々と聖書の内容をめぐって論争することでした。
言い方を換えれば、このやり方がいかに過激であるかをもう少し理解していただけるかもしれません。パウロはユダヤ人であり、元ユダヤ教徒でした。ユダヤ教の会堂に入り、礼拝に出席することに妨げられる理由はないし、彼にはそうする権利もあったと言えます。しかし、明らかに言いうることは、この時点でパウロはすでにユダヤ教の信仰を持っていなかったということです。キリスト教の信仰を持っていました。つまりパウロは、明確なキリスト教信仰をもってユダヤ教の礼拝に出かけ、そこに集まっている人々にキリスト教信仰を宣べ伝えるという方法を用いたのです。ですから、パウロがしたことは、いわゆる「道場破り」のようなことだったのだと説明することができます。
しかし、その方法は「そんなのひどいじゃないか」と責められなければならないようなことではないと思われます。陰に隠れてこそこそと行ったことではなく、みんなの前で正々堂々と行ったことだからです。いずれにせよ、そのとき行われた論争のテーマは、聖書に記されていることは何なのかということでした。あるいはまた、聖書に記されている言葉はどのように解釈されるべきかということでした。そのような議論が公の場で正々堂々と行われたのです。
その場合重要なことは、とにかくそこに聖書があったことです。ユダヤ人たちとパウロたちとの目の前に置かれていたのは聖書でした。今のように各自が一冊ずつ聖書を持っている時代とは異なります。ユダヤ教の会堂には聖書の巻物が置かれていました。しかし、ユダヤ人の聖書とパウロの聖書は、言うまでもなく同じ聖書でした。別々の聖書ではありません。共通の聖書、その意味での“一冊の聖書”をめぐって、論争が行われたのです。
この観点で私は、現在わたしたちが使用している新共同訳聖書には価値があると考えています。翻訳の内容についての不満は、たくさん聞いています。しかし、プロテスタント教会とカトリック教会が同じ聖書を持つことそれ自体が重要なのです。両教会の違いは、もちろんあります。いまだに非常に違います。しかし新共同訳聖書の誕生によって両教会は共通の一冊の聖書をめぐって論争することができるようになりました。それは、共通の土俵の上で論争できるようになったということです。それは感謝すべきことなのです。
パウロのやり方は「道場破り」にも似て過激なものでした。しかし、それは責められるようなことではありません。考えてよいことは、そこにいたユダヤ人たちも愚かではないということです。もしパウロの言っていることが間違っていると感じたとしたら、人々がパウロたちに従うこともなかったでしょう。しかし、実際には、パウロたちに従って来る人々がたくさん現れました。パウロたちの聖書の解釈を正しいと認めることができたから、その内容に納得することができたから、従ったのです。
しかしまた、パウロたちに従ったのはそこにいた全員ではなかったという点も明らかにされています。これを私は残念なことだったとか、がっかりすべきことだったというふうには思いません。むしろ偲ばれることは、パウロが実際に行った論争の語り口はどのようなものであったかという点です。「反対すれば地獄に落ちるぞ」的な脅迫を交えて押しつけがましく語るというようなことは、パウロに限ってはありえなかっただろうと思われるのです。
重要なことは、とにかくそこに聖書があったということです。聖書に書いてあるのは、文字であり、言葉です。言葉の解釈をめぐっての論争は、冷静な論理を用いて行うことができます。大きな声で騒ぐ必要がない。パウロたちの語る冷静な論理を受け入れることができた人が、パウロたちに従ったのです。しかし、それに納得できなかった人々もいた。それは、ある意味で人間に与えられている自由の要素に属することです。わたしたち人間は、ロボットや操り人形ではないのです。わたしたちには信じる自由も与えられていますが、同時に信じない自由も与えられているのです。この点が十分に了解されているところにこそ、伝道や論争も成り立つのです。
しかし、それはともかく、聖書の解釈をめぐってパウロたちとユダヤ人たちが論争し、その結果としてキリスト教信仰を受け入れることができた人々が多く起こされたことは、宣教活動にとっての喜びの要素です。わたしたち教会の者たちにとって何がうれしいかと言うと、そこに一人でも新しく信仰を受け入れてくださる人が与えられることがうれしいのです。人の数が増えるということももちろんうれしいことですが、もっと重要なことは、この信仰によって救われる人が起こされるということです。この信仰をもって生きる人が増えることがうれしいのです。ところが、パウロたちの宣教活動には苦しみの要素もありました。そのことが続く個所から分かります。
パウロたちを苦しめたものは、何でしょうか。それを一言でいいますと、パウロたちについての全く出鱈目な宣伝と中傷誹謗です。つまり、人間の言葉です。事実に反する言葉であり、悪意に満ちた言葉です。これが、パウロたちを傷つけ、苦しめたのです。
よく考えてみますと、パウロたちが宣べ伝えているのも言葉です。論争に用いられるのも言葉です。それを口で伝えるか、字に書いて伝えるのか。その字を自分の手で書くか、活字にするのか。手紙にするのか、論文にするのか。書物にするのか、チラシにするのか。人に言葉を伝える方法には、いろんなやり方があると思います。
パウロたちに敵対した人々が用いているのも、言葉です。しかし、この人々にとってはパウロたちが問題にしている聖書の解釈などどうでもよかったのです。どうしたらパウロたちがこの町から居なくなるか、この町にキリスト教の影響が及ばないで済むかということだけが、彼らにとって問題でした。そのために、陰に隠れてこそこそと動き回り、政治的な権力までも利用して、パウロたちの口を封じようとしました。
言葉を用いる人間であるという意味では牧師も同じです。そのため、私が心していることは、言葉を用いる人間であるかぎり、正々堂々と公明正大に語りたいということです。それは言うまでもないことです。
しかし、今申し上げた点と同時に考えさせられたことがある。それは、かの有名な諺が言っているとおり、「人の口には戸が立てられない」ということです。この諺の意味は良い噂より悪い噂のほうが伝わるスピードがはるかに速いということです。噂の内容が事実であるかどうかは問題にならない。とにかく面白ければ、それでよい。人の興味を引くことだけが目的の話のほうこそ持てはやされる社会があるのだ、ということです。
しかしまた、明らかなことは、そのような社会の中に、わたしたち自身も生きているのだということです。社会のすべてがこういう人々たちばかりであると言っているわけではありませんが、社会の中には必ずこういう人々がいるということは、わたしたちの体験的事実です。そうであることをわたしたちはよく知っています。
しかし、です。たとえそのことが事実であっても、この社会がたとえどのようなものであろうとも、わたしたちは、この社会の中から逃げ出すことはできないのです。そして、わたしたちはどんなことがあっても「この社会に向かって」福音を告げ知らせ、神の言葉を語り続けなければなりません。その理由ははっきりしています。神の言葉を受け入れず反発する人々も「社会の中に」必ずいますが、神の言葉に飢え渇き、救いを求めている人々もまた「社会の中に」いるからです。そのような単純な事実の前にわたしたちはしっかり立たねばなりません。そこで怯んではならないのです。
ですから、このことを考えるとき、パウロたちの宣教活動には苦しみの要素があったというこの点は、今のわたしたちにとっても何ら変わることがない、言うなれば教会の歴史と共にある、あるいは人類の歴史と共にある、まさに避けがたい現実であったということをご理解いただけると思います。教会と伝道者たちには、福音を受け入れる人も・福音を受け入れない人も共存しているこの社会の前に、勇気をもって立つことが求められているのです。だからこそ、パウロたちの宣教活動にも苦しみの要素があった。その苦しみから逃れる道はなかったのです。
来年(2009年)は、日本にプロテスタント信仰が宣べ伝えられてから150周年に当たります。来年は私ども日本キリスト改革派教会もかかわるいくつかの記念会が行われる予定になっています。最初に来たのは「アメリカ・オランダ改革派教会」(Dutch Reformed Church in America)、今は「アメリカ改革派教会」(Reformed Church in America)と名称を変更している教派から派遣された宣教師でした。
考えてみたいことは、150年前の日本に来た宣教師たちはパウロたちと同じ気持ちだったのではないでしょうかということです。日本に来た彼らの目の前に(隠れキリシタンたちはともかく)キリスト者は一人もいなかったのです!
宣教師たちの側にも、日本で最初に信仰を受け入れた人たちの側にも、さまざま闘いや苦労、悩みや葛藤や失望があったことが知らされています。その苦しみは今のわたしたちに至るまで続いていますし、これからも続いていくでしょう。わたしたちも苦しんでいる。だから彼らの気持ちが分かる。そういう面もあるのです。
しかし、いずれにせよ、はっきりしていることは、もし150年前に宣教師たちが日本に来ていなかったら今のわたしたちはなかったということです。日本のプロテスタント教会は存在しなかったのです。苦しみを味わった人々のおかげで、わたしたちは今、救われているのです。伝道に伴う苦労は、神の恵みなのです。
(2008年1月27日、松戸小金原教会主日礼拝)
今週のまとめ
かれこれ10年以上、私の頭と心の中で渦巻くばかりであった事柄を一気に吐露した一週間でした。もう少し煮詰めてみたいのですが、その時間がありません。せめてPDF文書にしておけば、全体を検討しなおすときに楽かもしれないと思いました。一つにまとめてみて分かったことは、この一週間で書いた内容は、私の読み上げ速度ならば、アドリブを交えながらでも、90分くらいで終わってしまう分量であるということです。つまり、大学の講義でいえば、たった一回分。まだまだ先は長そうだと、「見上げるほど長い上り坂 今僕の目の前に」と、コブクロの「蒼く 優しく」を口ずさみました。「引き返してしまえばまた 後悔だけが僕を待ってる下り坂」(あ~)。
「実践的教義学」の構想(1) 教義学と実践神学の統合の提案(ドラフト)
http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001.pdf
目標は「教義学の改革」である
私の提案の目的は、他者の領域を侵犯することではなく、教義学そのものの改革です(その中には『教義学教本』の全面的改訂という面も当然含まれます)。すなわち、「教義学の実践化」であり「日常生活化」です。それは、20世紀的な「キリスト論的集中の教義学」が温存されたままでは決して実現しえないものであると、私は信じています。固定された同一の視点から繰り出される言葉が九千頁の書物を生み出すことができたとしても、それが人の視野を広げることにはならず、かえって狭める結果をもたらすのです。我々の教義学改革を遂行するためには、「キリスト論」よりももっと広い視野を持っている、「三位一体の神のみわざ」の全体を考察対象とする、そのような根本構造を有する教義学の(古くて新しい)枠組みが再構築されることが必須的な前提条件です。そしてもしそのような枠組みを獲得できるならば、その中に現行の実践神学部門が扱っている考察領域のすべてがすっぽり収まるでしょう。「実践的教義学」が現行の実践神学的課題のすべてを扱い尽くしてしまうとしたら、その後に残っている実践神学プロパーの課題は何でしょうか。説教者のヴォイス・トレーニングとか、人格的コミュニケーションの方法とか、牧会的カウンセリングのテクニックとか、礼を失しない挨拶の仕方などだけかもしれません(いずれも間違いなく重要な課題ではあります!)。しかし、「実践的教義学」のほうがまだ形をなしていない段階ですので、先走って大口を叩くことは控えなければなりません。しかし、そのような広大な視野と考察内容を有する教義学の(もちろんきわめて荒削りでプリミティヴな)前例を過去の歴史の中から探しだすとしたら、「改革派教義学」(dogmatica reformata/ Gereformeerde Dogmatiek/ Reformed Dogmatics)以外には見つからないのです(疑う向きがあるなら、御自分でお探しになったらよいと思います)。過去の荒削りの「改革派教義学」において思索されてきた事柄の核心(ザッヘ)を、我々現代人の「庶民的生活感覚」の奥底に至るまで届かせること。そのために重要な「翻訳」(translation/ vertaling)という手続きにも丁寧かつ熱心に取り組むこと。事柄の核心に触れて人は感動し、喜びと感謝の生活を開始する。そういう展開を期待しているのです。
ただちに制度を変えてほしいと願っているわけでもない
私が思い描く「実践的教義学」の構想、すなわち、教義学と実践神学との統合についての提案は、神学大学や神学部や神学校で営まれている「実践神学」の講座を廃止すべきであるとか、教師学科試験の科目から「実践神学」を除去すべきであるというような、現行制度の改変を要求しようとしているものではありません。そのような要求は、前述のとおり、時代の逆行を意味するものでありましょうし、現実のニードに反するものでしょう。しかしまた、この提案は実践神学に対する教義学の側からのチャレンジを意味していないかと問われるなら、「そういう意味もある」と答えねばならないと考えています。私自身は、主に20世紀という一時代において通用してきた実践神学的思索を全く支配してきたと思われる、非常に一面的な仕方でなされてきた「キリスト論的基礎づけ」はもはや不可能であると確信しているのです。この場面では名前を挙げてはっきり言うほうがよいと思っています。カール・バルトやディートリヒ・ボンヘッファーの説教学、あるいはエドゥアルト・トゥルンアイゼンの牧会学などは新しい時代の幕開けを機に終わりのときを迎えるべきであったということです。「実践神学のキリスト論的基礎づけ」のすべてが間違っていると言っているのではありません。それを一つの入口もしくは出発点にすることは大切なことでもあります。しかし今さら確認するまでもないことは、「キリスト論」(leer van Christus/ Christologie)は教義学の一全体の中の一項目にすぎないということです。教義学のすべてが最初から最後まで「キリスト論」一色であるわけではありません。教義学は「キリスト論」よりも広く大きいものであり、それは神学のすべてのみならず、「三位一体の神のみわざ」(opera Dei trinitatis)のすべてを視野におさめることを本旨としているものです。また、こうも言いうる。キリスト教は「キリスト論」よりも広く大きいものです。バルトが主著『教会教義学』などの中で繰り返し「キリストと関係ないような神学はキリスト教ではない」と述べていることは、完全な間違いではありませんが、あまりにも一面的で、狭すぎます。この問題について今ここで詳述することはできませんが、短く書き置くとしたら、そのようなキリスト論への一面的な集中は我々の認識を即事的(ザッハリヒ)なあり方から遠ざけるように機能してきた面もあると私は考えています。要するに、あらゆることをキリストの名に結びつけようとする人々が現れ、またしばしば強引なこじつけが行われてきたこともあるということです。しかしまた、そのようにしてキリストと結びつけられた現実についての解釈は、しばしば絶対的な意味を含ませようと意図されているゆえに、反論不可能なものにもされやすいのです。批判を許さないゆえに、反省も、そして反省に基づく改善も、起こりようがないのです。反対に、キリストとの関係に言及しないような言説のほうはキリスト者の生にとっては何の意味も関係もないものであるかのように判断されることもありえたということです。何か出来事が起こるたびに「これとキリストとの関係は何か。これとキリストとの関係は何か。これとキリストとの関係は何か」と、いつも考え込む。その思索と瞑想の中で得られた「キリスト論的認識」(Christological knowledge)というべきただそれだけが(いわば)絶対的な真理であり、それ以外の認識については(絶対的なものの前では価値を持たない)相対的な真理であると判断されることがありえたということです。バルトやトゥルンアイゼンやボンヘッファーたち自身はもっと広い認識や判断力を持っていたに違いないのですが(彼らの神学思想に心酔するあまりこの神学者たち自身の弁護をしようとするファンクラブ会員のような人々との論争に勝てる自信はありません)、彼らの書物を繰り返し熟読し、それに心酔することによって「視野が狭くなった」人がいると、私には思われてならないのです。しかし、ここまで来ると余計なお世話の域に達してしまっているかもしれません。私の「実践的教義学」の構想が現在の実践神学へのチャレンジを意味していること自体は否定しませんが、何らかのレスポンスをしていただけるのか全く無視なさるのかは実践神学の人々の自由です。彼らの尊厳は何ら毀損されるべきではありません。ただ、彼らの姿をやや遠目に見ておりまして、今の実践神学は基礎づけの根本的な差し替えが必要ではないか、そのようにしないかぎり、彼らの将来はどんどん先細っていくばかりではないかと感じて心配しているだけです。しかし繰り返し申せば、私の主張の意図は実践神学の講座を廃止すべきであるとか教師試験科目から実践神学を外すべきであるということではありません。仮にそのような制度変更の提案ができる日が来るとしても、私の見方では、22世紀頃ではないかと思っています。
2008年1月26日土曜日
前例がないわけでもない
「実践的教義学」の構想について、やや得意げな調子で長々と書いてきました。しかし、前例が全くないと思っているわけではありません。私の関知するかぎりのことですが、現代オランダの、主として実践神学の側に、これまで書いてきたことにかなりの点で似ている例があります。すでに言及したオランダプロテスタント神学大学総長でユトレヒト大学教授であるヘリット・フレデリク・イミンク教授(prof. dr. Gerrit Frederik Immink)の主著『信仰論』(原題In God gelovenを直訳すると『神を信じる』)や、長くアムステルダム自由大学神学部で牧会学を教えてこられ、今は引退しておられるヘルベン・ヘイティンク先生(dr. Gerben Heitink)の主著『実践神学』(Praktische Theologie)などのなかに繰り返し出てくるpraktische-theologische wetenschap (英訳すればPractical-Theological Science)という表現が、それです。強いて日本語に訳すとしたら「実践的・神学的学問」でしょうか。旧来の「実践神学」という語の「実践」と「神学」の間に中黒を入れただけです。しかし、そのような解決法では日本語として何のことかさっぱり分からないこと、またイミンク先生やヘイティンク先生がpraktischeとtheologischeの間に小さなハイフンをつけている意図の深いところを日本語として表現しようとする場合、小さな中黒一つ付けて事足れりとすることで許されるとはどうしても思われないことなど、いくつかの点で不満や心配が残ります。また同じハイフン付きのpraktische-theologische wetenschapという表現にしても、イミンク先生とヘイティンク先生の間でその意図が微妙にあるいは明確に異なっているとも感じられるため、事柄がいっそう複雑化します。イミンク先生がおっしゃる場合のpraktische-theologische wetenschap(実践的・神学的学問)は、私の思い描く「実践的教義学」(Practical Dogmatics)のイメージに非常に近いものです。かたや、ヘイティンク先生の場合のそれは、むしろ「神学的行動理論」(Theological Action Theory)というべきものです。この違いは、同じ実践神学者とはいえ、イミンク先生が主に「説教学者」であるのに対して、ヘイティンク先生のほうは主に「牧会学者」ないし「牧会心理学者」であるという差異から生じているものかもしれません。イミンク先生の『信仰論』もヘイティンク先生の『実践神学』もいわゆる「実践神学概論ないし基礎論」の教科書として書かれたものですが、前者(イミンク)の論述のかなりのスペースが聖書的・教義学的裏付けのために割かれているのに対して、後者(ヘイティンク)の論述においては、教会史や神学史や哲学史を含む思想史的裏付けのために割かれています。しかし、以上の例は、前述のとおり実践神学側に見られるものです。それでは教義学側ではどうか。真に「実践的」(praktisch)であることを徹底的に追求している教義学(dogmatiek)の前例があるでしょうか。私はそのような例を寡聞にして知りません。「実践的教義学」とは、いわゆる「信徒向けの実用的で分かりやすい教理入門書」のことではありません。そのような入門的な書物には価値がないと言っているわけではなく(それは全くの誤読です)、「実践的教義学」の意図はそのようなものではないと言っているのです。それではそれは何なのか。ここまで書いたことでお分かりいただけそうなことは、私の「実践的教義学」の構想には、現代オランダの最も代表的な実践神学者たちが続けてこられた血の滲むような努力に対する、教義学側からの真摯なレスポンスとしての意図がある、ということです。
2008年1月25日金曜日
それはまた「実践神学の廃止」でもない
およそ学問とはすべて、突然ポッと天から降ってくるものではなく、いずれにせよ先人の営みを批判的に継承すべきものであるということは広く了解していただけることでしょう。この理由から、私自身もまた、両者とも古く長い伝統を有する教義学と実践神学との二分野を合体させるという道筋を考えざるをえないために、両者を統合したものであるという意味で「実践的教義学」という名称を、とりあえず暫定的に付けてみただけです。この名称自体にこだわりを持っているわけではありません。私の密かな思いは、この「実践的教義学」こそが「改革派教義学」の本旨を受け継いでいるということでもあります。しかし、事柄の趣旨を明確にするために、ある特色をもった名称を付けることは便利で有益なことでもあるでしょう。名称の意図は、今日日本国内の少なからざる大学に「政治経済学部」や「法経学部」といった学部があることを考えていただくことによって必ずご理解いただけることです。政治学と経済学、法学と経済学など、一見すると異なる学問領域どうしが同居している学部です。学校経営上の苦肉の策としての統合という面もあるのかもしれませんが、表向きに語られていることは、たいてい、統合の積極的な側面です。経済問題に無頓着な政治も、反対の政治問題に無頓着な経済も、とても危なっかしいものであるというふうに語られます。あるいは、政治や経済には必ずや法的裏打ちというものが不可欠であるというふうに語られます。「実践的教義学」の主張にも、これと似たような理由があります。いずれにせよ、統合の積極的側面を強調したいと願っています。説教、牧会、宣教、礼拝など(旧来の)実践神学的諸課題に対して無頓着ないし無関心であるような「教義学」は、危なっかしいとかいう以前に、存在理由さえ不明です。逆も然り。教義学的基礎づけを失った一般的行動理論としての「実践神学」は、「神学」を自称することを早くやめるべきです。教義学と実践神学との関係は、《統合》という帰結をほとんど必然化していると確信できるほどに密接不可分の関係にある。これが「実践的教義学」という名称の意図です。しかし、教義学と実践神学の《統合》を語るときに予想される反発や反論の多くは、おそらく実践神学の側から出てくるものであろうと思われます。その理由を説明するのは簡単です。両者の歴史を比較すると、教義学のほうがはるかに古く、実践神学はごく最近のもの(と言っても二世紀ほど前)です。そもそも「実践神学」は教義学の中から分かれ出たものです。あるいはもっと根源的な言い方をすれば、そもそも「神学」には「教義学」しか無かったのです。この点から言えば、教義学と実践神学を統合すべきであるという私の提案は、歴史の逆行であり、時計の逆回しであり、実践神学の側から見れば、自分たちが長年かけて築いてきたものの「廃止」を意味するのではないかと感じられるでしょうから、その点からの反発を呼び起こすものになることは必至です。しかし、私の意図はそういうことではありません。この点の断り書きは、繰り返し強調しなければならないことでしょう。何より、今の欧米の現実が私の行く手を阻みます。「実践神学」は魅力的な学としてもてはやされていますが、「教義学」は全く人気がないものになっているということを、私は知っています。専任の「教義学者」は存在しないが「実践神学者」はたくさんいるという神学部や神学校が欧米にはたくさんあるということを知っています。教義学の書物のほうは全く売れませんが、実践神学の書物は飛ぶように売れています。その現実を知らずに言っているわけではないのです。「実践神学の廃止」など言おうものなら、その次の瞬間に何が起こるかを分かっているつもりです。「教義学」というのが今でも存続する「学問」であると認識しているキリスト者は、今の世界の中ではごく僅かになっていることも分かっています。「教義」とかそういうのは、ハリー・ポッターの通うホグワーツ魔法学校の教科書に書いてあるようなことではないかというくらいに思われている。しかし、私自身の願っていることは「実践神学の廃止」ではなく「教義学の実践化」です。そして、この「教義学の実践化」が目指していることは、近年流行している表現でいえば、「教理と生活の一致」であり、「生活化された教理」です。あるいは、現在のオランダプロテスタント神学大学総長であるF. G. イミンク教授の教える「生活として営まれる信仰」(geleefde geloof)です。ただし、イミンク先生は「実践神学者」です。イミンク先生御自身が「教義学の廃止」までお語りになることはありませんし、そのようにお語りになることはありえないことだと思いますが、御自身を教義学者と称されることも、おそらく決してないでしょう。私はイミンク先生を心から尊敬している者ですが、あえてイミンク先生の反対の道を進みたい。「実践神学者になりたい」とはどうしても思えない。教義学(しかも「改革派の」教義学)に魅了され続けています。また私は「教理の実践化」や「教理の生活化」ということを語るだけでは満足できません。「教義学的思索そのもの」の実践化ないし生活化を求めています。その地点に到達するまでは、我々人間の精神や肉体の存在が真の満足や安心を得ることはできそうもないと感じています。加えて言えば、「教義学」は教義学者だけによって営まれるものではありえませんが、しかしまた、少なくとも「教義学者」と呼ばれるこの道の専門家たち自身が人生の楽しみや遊びを十分に満喫しないかぎり、「教義学の実践化ないし生活化」という目標は、達成されることも、完成の日を見ることも、ありえそうにありません。教義学を最大限に実践化すること。まさに文字通りの「庶民的生活感覚」と深く刺激的に絡み合えるほどまでに、教義学を日常生活化すること。人生を楽しむ教義学者が世に立つこと。そして、そのようにして「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)が、このわたしの人生の楽しみになること。この切なる願いが、今や、私の生きる力、人生の希望になっています。