「実践的教義学」の構想について、やや得意げな調子で長々と書いてきました。しかし、前例が全くないと思っているわけではありません。私の関知するかぎりのことですが、現代オランダの、主として実践神学の側に、これまで書いてきたことにかなりの点で似ている例があります。すでに言及したオランダプロテスタント神学大学総長でユトレヒト大学教授であるヘリット・フレデリク・イミンク教授(prof. dr. Gerrit Frederik Immink)の主著『信仰論』(原題In God gelovenを直訳すると『神を信じる』)や、長くアムステルダム自由大学神学部で牧会学を教えてこられ、今は引退しておられるヘルベン・ヘイティンク先生(dr. Gerben Heitink)の主著『実践神学』(Praktische Theologie)などのなかに繰り返し出てくるpraktische-theologische wetenschap (英訳すればPractical-Theological Science)という表現が、それです。強いて日本語に訳すとしたら「実践的・神学的学問」でしょうか。旧来の「実践神学」という語の「実践」と「神学」の間に中黒を入れただけです。しかし、そのような解決法では日本語として何のことかさっぱり分からないこと、またイミンク先生やヘイティンク先生がpraktischeとtheologischeの間に小さなハイフンをつけている意図の深いところを日本語として表現しようとする場合、小さな中黒一つ付けて事足れりとすることで許されるとはどうしても思われないことなど、いくつかの点で不満や心配が残ります。また同じハイフン付きのpraktische-theologische wetenschapという表現にしても、イミンク先生とヘイティンク先生の間でその意図が微妙にあるいは明確に異なっているとも感じられるため、事柄がいっそう複雑化します。イミンク先生がおっしゃる場合のpraktische-theologische wetenschap(実践的・神学的学問)は、私の思い描く「実践的教義学」(Practical Dogmatics)のイメージに非常に近いものです。かたや、ヘイティンク先生の場合のそれは、むしろ「神学的行動理論」(Theological Action Theory)というべきものです。この違いは、同じ実践神学者とはいえ、イミンク先生が主に「説教学者」であるのに対して、ヘイティンク先生のほうは主に「牧会学者」ないし「牧会心理学者」であるという差異から生じているものかもしれません。イミンク先生の『信仰論』もヘイティンク先生の『実践神学』もいわゆる「実践神学概論ないし基礎論」の教科書として書かれたものですが、前者(イミンク)の論述のかなりのスペースが聖書的・教義学的裏付けのために割かれているのに対して、後者(ヘイティンク)の論述においては、教会史や神学史や哲学史を含む思想史的裏付けのために割かれています。しかし、以上の例は、前述のとおり実践神学側に見られるものです。それでは教義学側ではどうか。真に「実践的」(praktisch)であることを徹底的に追求している教義学(dogmatiek)の前例があるでしょうか。私はそのような例を寡聞にして知りません。「実践的教義学」とは、いわゆる「信徒向けの実用的で分かりやすい教理入門書」のことではありません。そのような入門的な書物には価値がないと言っているわけではなく(それは全くの誤読です)、「実践的教義学」の意図はそのようなものではないと言っているのです。それではそれは何なのか。ここまで書いたことでお分かりいただけそうなことは、私の「実践的教義学」の構想には、現代オランダの最も代表的な実践神学者たちが続けてこられた血の滲むような努力に対する、教義学側からの真摯なレスポンスとしての意図がある、ということです。
2008年1月26日土曜日
2008年1月25日金曜日
それはまた「実践神学の廃止」でもない
およそ学問とはすべて、突然ポッと天から降ってくるものではなく、いずれにせよ先人の営みを批判的に継承すべきものであるということは広く了解していただけることでしょう。この理由から、私自身もまた、両者とも古く長い伝統を有する教義学と実践神学との二分野を合体させるという道筋を考えざるをえないために、両者を統合したものであるという意味で「実践的教義学」という名称を、とりあえず暫定的に付けてみただけです。この名称自体にこだわりを持っているわけではありません。私の密かな思いは、この「実践的教義学」こそが「改革派教義学」の本旨を受け継いでいるということでもあります。しかし、事柄の趣旨を明確にするために、ある特色をもった名称を付けることは便利で有益なことでもあるでしょう。名称の意図は、今日日本国内の少なからざる大学に「政治経済学部」や「法経学部」といった学部があることを考えていただくことによって必ずご理解いただけることです。政治学と経済学、法学と経済学など、一見すると異なる学問領域どうしが同居している学部です。学校経営上の苦肉の策としての統合という面もあるのかもしれませんが、表向きに語られていることは、たいてい、統合の積極的な側面です。経済問題に無頓着な政治も、反対の政治問題に無頓着な経済も、とても危なっかしいものであるというふうに語られます。あるいは、政治や経済には必ずや法的裏打ちというものが不可欠であるというふうに語られます。「実践的教義学」の主張にも、これと似たような理由があります。いずれにせよ、統合の積極的側面を強調したいと願っています。説教、牧会、宣教、礼拝など(旧来の)実践神学的諸課題に対して無頓着ないし無関心であるような「教義学」は、危なっかしいとかいう以前に、存在理由さえ不明です。逆も然り。教義学的基礎づけを失った一般的行動理論としての「実践神学」は、「神学」を自称することを早くやめるべきです。教義学と実践神学との関係は、《統合》という帰結をほとんど必然化していると確信できるほどに密接不可分の関係にある。これが「実践的教義学」という名称の意図です。しかし、教義学と実践神学の《統合》を語るときに予想される反発や反論の多くは、おそらく実践神学の側から出てくるものであろうと思われます。その理由を説明するのは簡単です。両者の歴史を比較すると、教義学のほうがはるかに古く、実践神学はごく最近のもの(と言っても二世紀ほど前)です。そもそも「実践神学」は教義学の中から分かれ出たものです。あるいはもっと根源的な言い方をすれば、そもそも「神学」には「教義学」しか無かったのです。この点から言えば、教義学と実践神学を統合すべきであるという私の提案は、歴史の逆行であり、時計の逆回しであり、実践神学の側から見れば、自分たちが長年かけて築いてきたものの「廃止」を意味するのではないかと感じられるでしょうから、その点からの反発を呼び起こすものになることは必至です。しかし、私の意図はそういうことではありません。この点の断り書きは、繰り返し強調しなければならないことでしょう。何より、今の欧米の現実が私の行く手を阻みます。「実践神学」は魅力的な学としてもてはやされていますが、「教義学」は全く人気がないものになっているということを、私は知っています。専任の「教義学者」は存在しないが「実践神学者」はたくさんいるという神学部や神学校が欧米にはたくさんあるということを知っています。教義学の書物のほうは全く売れませんが、実践神学の書物は飛ぶように売れています。その現実を知らずに言っているわけではないのです。「実践神学の廃止」など言おうものなら、その次の瞬間に何が起こるかを分かっているつもりです。「教義学」というのが今でも存続する「学問」であると認識しているキリスト者は、今の世界の中ではごく僅かになっていることも分かっています。「教義」とかそういうのは、ハリー・ポッターの通うホグワーツ魔法学校の教科書に書いてあるようなことではないかというくらいに思われている。しかし、私自身の願っていることは「実践神学の廃止」ではなく「教義学の実践化」です。そして、この「教義学の実践化」が目指していることは、近年流行している表現でいえば、「教理と生活の一致」であり、「生活化された教理」です。あるいは、現在のオランダプロテスタント神学大学総長であるF. G. イミンク教授の教える「生活として営まれる信仰」(geleefde geloof)です。ただし、イミンク先生は「実践神学者」です。イミンク先生御自身が「教義学の廃止」までお語りになることはありませんし、そのようにお語りになることはありえないことだと思いますが、御自身を教義学者と称されることも、おそらく決してないでしょう。私はイミンク先生を心から尊敬している者ですが、あえてイミンク先生の反対の道を進みたい。「実践神学者になりたい」とはどうしても思えない。教義学(しかも「改革派の」教義学)に魅了され続けています。また私は「教理の実践化」や「教理の生活化」ということを語るだけでは満足できません。「教義学的思索そのもの」の実践化ないし生活化を求めています。その地点に到達するまでは、我々人間の精神や肉体の存在が真の満足や安心を得ることはできそうもないと感じています。加えて言えば、「教義学」は教義学者だけによって営まれるものではありえませんが、しかしまた、少なくとも「教義学者」と呼ばれるこの道の専門家たち自身が人生の楽しみや遊びを十分に満喫しないかぎり、「教義学の実践化ないし生活化」という目標は、達成されることも、完成の日を見ることも、ありえそうにありません。教義学を最大限に実践化すること。まさに文字通りの「庶民的生活感覚」と深く刺激的に絡み合えるほどまでに、教義学を日常生活化すること。人生を楽しむ教義学者が世に立つこと。そして、そのようにして「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)が、このわたしの人生の楽しみになること。この切なる願いが、今や、私の生きる力、人生の希望になっています。
それは「教義学的実践神学」でも「教義学の闘争理論化」でもない
明日の夕方も東京です。アジア・カルヴァン学会の運営委員会です。今年もまた忙しくなるのでしょうか。
さて、「実践的教義学」について書きながら同時に考えていたことは「教義学的実践神学」(dogmatische-praktische theologie)のほうはどうだろうかという問題です。
もちろんそういうのは十分ありうるものでしょう。そういうものを実際に見た記憶があります(そういうことを主張している本を見た記憶があるという意味ではなく、そういう調子の実践神学がどこかの教室で教えられていた場面を見た記憶があるという意味です)。
しかし、「教義学的実践神学」とは何かを考えはじめると、ぼんやりとではありますが私には余り興味を持てそうになさそうなものが心に浮かんできます。悪い意味での「独断論的(dogmatische!)実践神学」のようなものが。
そちらの方向に進んでいくならば、実践神学の自治性や固有性を阻害することになってしまうのではないかと危惧を感じます。
また「教義学的実践神学」と聞くとやはり、「教義学」のほうは純粋理論であるとみなされ、その純粋理論の実際的な応用が「実践神学」であるとみなされているかのようです。しかし、私の考える「実践的教義学」は、そのような旧来の固定的な思想の枠組みを打破するものです。
「実践的教義学」は、もちろん教義学です。しかし、その教義学は、現実世界から受ける影響やすべての不純物から浄化され精錬された真空の中にのみ成立しうる「純粋理論」というようなものではありえません。全く正反対です。
それではそれはどういうものか。ファン・ルーラーが好んで用いる表現を借りて言えば「庶民的生活感覚」(gewone levensgevoel)が、思索の奥深くにしっかりと組み込まれているような教義学です。御言葉の奉仕者が語る言葉、抱く気持ちの中にそのような生活感覚ないし感性がしっとり馴染んでいるようなところに生まれ出てくる教義学である、と言っておきます。「生活臭がする教義学」あたりが最も端的なキャッチフレーズかもしれない。
そういう汗臭そうなの、あるいは泥臭そうなのはご勘弁願いたい(そうでなくても抹香臭く、胡散臭いのに)と敬遠する向きがあることは、よく分かっているつもりです。
しかし「実践的教義学」と言っても、私に限っては、「実践」の名のもとにあって、緻密な理論と政略性を有するギラギラした「行動理論」(action theory)をかび臭い教義学の中に組み込むことによって、あるいはそのような「実践的行動理論を教会用語に翻訳すること」によって、社会的闘争の神学の構築をめざすべきであるというような過激なアクチュアリズムを主張したいわけではありません。
そのような作為的で計略的で全く押しつけがましく尊大で狡猾なやり方は、それこそ私の感性には全く合わないものです。そういうのは、どうか、今すぐにでもお引き取りいただきたいとさえ願っています。
私の求めている道は、もうちょっと穏やかで、公明正大で、正々堂々としていそうなものです。穏やかだけど、人の心の中の疑問や悩み、悲しみや嘆きを深く読みとる力を持っている教義学、のようなもの。個人と社会の現実の壁を乗り越える勇気と知恵をもった教義学、のようなもの。ずばり「これである」と表現するのは、とても難しいものです。
2008年1月24日木曜日
「実践的教義学」とは何か
教義学と実践神学の合体形としての「実践的教義学」(praktische dogmatiek)というものを考え始めたのは神戸改革派神学校で学んでいたときです。そこで得た体験は、教義学者による説教学講義でした。それは実に素晴らしいものであり、それまで学んできたいかなる説教学講義よりも優れたものであり、あらゆる面で他者を凌駕していました。そのとき私に判明したことは、全く単純な事実でした。すなわち、説教学は徹底的に教義学的基礎づけを必要としているということでした。あるいは、こうも言いうる。実践神学の一教科としての説教学はむしろ教義学の一項目としての「説教論」(leer van het preek/ doctrine of the preaching)であるべきであり、できれば教義学における「聖霊論」(pneumatologie)という大項目の内部に位置づけられるべきであるということでした。また、その後まもなく私はファン・ルーラーの研究に没頭しはじめるのですが、オランダ・アペルドールン神学大学の引退教授J. J. レベルのユトレヒト大学神学博士号請求論文『聖霊論的視座における牧会学―A. A. ファン・ルーラーの思索に基づく神学的レスポンス』(1981年)を読んで感動を覚えました。それによって、牧会学(牧会論)もまた教義学における「聖霊論」にこそ位置づけられるべきであるということが判明しました。さらに、宣教学(宣教論)についても同様のことがありました。やはりファン・ルーラーを題材にした学位論文であるJ. M. ファント・クルイスの『宣教運動としての聖霊―宣教論の今日的議論における改革派神学の役割と責任についての研究』(1997年)に触発され、宣教論が教義学的(聖霊論的)基礎づけをいかに必要としているかを認識しました。こうして私は、説教学、牧会学、宣教学といった旧来は実践神学部門の主要教科として知られてきたものは、すべて教義学の中に、とりわけ「聖霊論」の中に吸収されるべきものであると考えるに至りました。しかしまた、このように私が考えることで目指していることは、旧来の実践神学部門のすべてを教義学が吸収することによって実践神学的考察領域そのものの固有性や自治性を妨げることにあるのではありません。事態はむしろ逆で、教義学こそが、しばしば陥りやすい抽象性のすべてから解放され、本来有すべき「実践性」を回復することにあります。私が抱く単純かつ根本的な問いは、「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)が、どうして説教や牧会や宣教といった教会の現場の具体的・実際的・現実的課題から切り離されて論じられてよいだろうかということです。また、実践神学は単なるハウツーに終わるものであってはならないとも思います。「聖霊論」は教会論を当然内包しますが、教会論に尽きるものではありません。「聖霊論」は内在的三位一体論(父・子・聖霊)と経綸的三位一体論(創造・贖い・聖化と完成)とを前提するものであり、とくに「創造」(Creatio)と「贖い」(Redemptio)のジンテーゼとしての「聖化と完成」(Sanctificatio et perfectio)のみわざを「聖霊」が担うという充当論的理解に立ちます。つまり、我々の聖霊論は、「聖霊」とは「贖いによる創造の本来性の回復としての再創造(recreatio)」を生起する三位一体の第三位格であるという理解に立つのです。その場合、聖霊のみわざによって「再創造」が生起する領域は教会の壁の内(intra muros ecclesiae)のみならず、教会の壁の外(extra muros ecclesiae)を含むことは明白です。そして「教会の壁の外」とは、言うまでもなく、「被造的現実」(created reality/ geschapen werkelijkheid)のすべてであり、換言すれば、神が創造された「世界」そのものです。こうして「聖霊論」とは教会論と(いわば)世界論とを併せ持つものであり、広大な視野を我々に提供するものであると説明することができます。その中に位置づけられる説教論、牧会論、宣教論の基本性格とはどのようなものでしょうか。私の考えはここでも単純です。教義学からいくぶん切り離されたところで論じられてきた従来の実践神学的説教学がしばしばその面に偏ってきたと私には思われる「教会の内から外なる世界へ」という(多くの場合《世俗主義批判》を帰結する)視線は、「実践的教義学」における「聖霊論」の思惟過程のなかでいったん反転され、「教会の外なる世界から教会の内へ」という(ある意味での《教会批判》をうながす)視線を正当な神学的考察対象として受け入れることができるようになります。牧会学、宣教学においても然り。このようにして、私の思い描く「実践的教義学」は、教会と世俗主義は常に対立しあい、罵倒しあい、憎み合うべきものなどではありえず、むしろ対話と協力の関係をこそ積極的に構築していくべきであるという(今日においては広く了解されている)事実を、論理的・神学的に示しうるでしょう。
若き教義学者へ 追伸
「補助学」(Hilfswissenschaft)としての教会史研究という点について。私の体験から見た問題点は、とっくの昔に語り尽くされていることかもしれません。ちなみに私は、教会史ないし歴史神学の中に「狭義の聖書学」を含めるべきではないかと考えています。聖書学と教会史とに共通する方法論的基盤としての歴史学は、組織神学や実践神学に比べると、学術的体裁を取りやすいものです(事実、現在の日本の神学大学や神学部や神学校の「紀要」に掲載されている論文の多くが歴史学的体裁をとっています)。しかし、まさに学術的体裁を取りやすい分、研究者自身の「実存」がストレートには問われない面があります。「学問の衣」をまとって、シレッとしていられるところがある。語学が達者である。高度で難解な論理を自在に操ることができる。しかし人格的・倫理的には全く破綻している。教会には通わない。そのような「教会史研究者」にも、実際に出会ったことがあります。教義学と実践神学、あるいは両者を合体させた「実践的教義学」は、間違いなく「実存的学問」であると表現できます。「あなた自身は何を信じ、どのように伝えようとしているのか」がはっきり分かるものです。常に闘いの矢面に立ち、あるいは常に十字架の上に張りつけにされているような「学」です。私が出会ってきた典型的な歴史的相対主義者の何人かは、「あの人はこう言っている、この人はこう言っている」と紹介するだけでした。「分かりました。それでは、先生御自身はどのように信じておられるのですか」と質問しても、愚問をあしらうような目でにらまれるばかりで、答えてもらえない方々でした。しかし、歴史研究を「補助学」と呼ぶのは、それを「不要」とみなすことではなく、むしろ「必要不可欠」であり、「助けになるもの」とみなすことでもありましょう。ただ、気持ちとしては、歴史研究の部分を(バルトと同じように)小さなポイントの字で書き、教義学の部分を大きな字で書いてほしい。私が考えているのはその程度のことであり、ある意味で技術的なことにすぎません。
2008年1月23日水曜日
若き教義学者へ
私の頭と心を支配している一つの事柄は、今が日本における改革派神学の「再興期」なのか、それとも「衰退期」なのかの判断は甚だ微妙であるということです。だれか一個人の責任であると言っているわけではありません。国際的にも似たような現象があると感じられます。一言でいえば、現在の改革派神学は「世俗化」(Secularization/ ontkerkelijking)の問題に対して余りにも無策すぎるのではないかと思われてならないのです。バルトやモルトマンのように(「WCCやWARCのように」と言い換えてもよいかもしれません)なっていけばよいとは思っていません。「世における教会」・「世と共にある教会」・「世のための教会」を語ることによって事実上の教会解体論を訴える人々を、私は痛いほど見てきました。しかし他方、だからといって我々が「教会への引きこもり」を是としてよいわけでもない。教会や神学校を「マサダの要塞」にしてしまってはならない。むしろ我々はキリスト者と自分自身に向かって、ファン・ルーラーのように「世を前にして立つ勇気を持て!」(Heb moed voor de wereld!)と呼びかけねばならない。「世の問題から目を背ける罪」について語らなければならない。しかも、私が「世の問題」という場合には、言うまでもなく政治や社会の問題を含めて述べようとしているのですが、「世における教会」・「世と共にある教会」・「世のための教会」というものが常に「世に抵抗する教会」・「世を罵倒する教会」・「世を憎む教会」という様相を呈するだけのものであってはならないと思っているのです。極度の世俗化受容に基づく「教会解体論」は暴力です。しかしまた、かたや「教会の(一方的な)世俗主義批判」のほうも、私に言わせていただけば、れっきとした暴力の一種なのです。具体的に言えば、世と教会との板挟みの位置で苦しんでいるキリスト者たちの精神と肉体を、我々の語る「説教」が不断に・継続的に・連続的に攻撃し続けた結果、最悪の場合は破滅の道に人を追いやることがありうるのです。現在最も気になっていることは、今の多くの改革派神学者が取り組んでいる「(改革派的)霊性の神学」の行方です。二点、率直に申し上げます。私が気になっている第一の点は、それを探究していく手法として「源泉複初」(ad fontes)の道を進むことは妥当かという問題です。ある人々は「カルヴァン」へと複初する。他の人々は「第二次宗教改革」に。あるいは「カルヴァン」と「第二次宗教改革」の両方に、といった具合に。歴史的源流に遡ることが学問において不可欠であることは、当然です。しかし、私はここで急にバルト主義者になります。教会史ないし歴史神学の研究は、教義学にとっての「補助学」(Hilfswissenschaft)です!「教義学」と「歴史神学」はもはや別の分野であるとみなされるべきです。「教義学」は、むしろ「実践神学」のほうにより近く立つべきです。しかしまた、「(改革派的)霊性の神学」の教義学的・実践神学的取り組みにおいて私が期待していることは、内面性の問題にとどまらないこと。(あえていえば)外面性の問題を考え抜くこと。さらに、内面性と外面性との相互関係や交換運動を把握することです。すなわち、“内から外へと出ていく運動”、あるいは“内と外との間で不断に繰り返される往復運動”、さらに“「内から外を見る視点」と「外から内を見る視点」との交換運動”などを、精密かつ広範にとらえつくすことです。それは、概念的にはファン・ルーラーの主張する「アポストラートの神学」や「聖霊論」の中にすべて含まれてしまうものかもしれません。しかし、私が期待していることは、(日本語に訳されるところの)「伝道」とか「教会形成」というような次元をもう少し超えたところです。「伝道」にせよ「教会形成」にせよ、それらの概念において支配的な視点は「教会の視点」であり「牧師の視点」です。悪く言えば「教会経営者の視点」です。この視点を逆転させてみる。ごく卑近な例で言えば、「教会に行ってみたいが何となく敷居が高いと感じている人々の視点」とか、「教会に通い始めてみたが古参の人々が教会のまんなかにどっかり座っていて新入りには冷たいと感じたので通うのを止めた人々の視点」とか、「チラシをもらって恐る恐る礼拝に行ってみたが、説教が専門用語の羅列でチンプンカンプンだったので馬鹿にされていると感じられて腹が立った。あんなところに二度と行くものかと心に誓った人々の視点」など(他にもたくさんあると思います)。これらの視点から見えるものを「教義学的・実践神学的に」評価していく。そして、もちろん大いに反省材料とする。一方のキリスト者と教会の存在を「外から」見ている人々が持っている真理と他方の純粋神学的ないし教義学的真理との両者は、カントの言葉を借りれば「アンチノミー」(二律背反)であると私には思われます。私が気になっている第二の点は、「(改革派的)霊性の神学」は社会倫理を生み出すことができるでしょうかという点です。ある意味で熊野義孝的な問いかもしれません。これは私が以前から申し上げてきた「現代の改革派神学には一種独特のセンチメンタリズムがある」という意見の裏側にある問いでもあります。改革派センチメンタリズムは、「内面性への引きこもり」をますます助長する道ではないでしょうか。「慰め」も「喜び」も、まことに結構なことではあります。ファン・ルーラーに「喜びの神学」があるという点は、私も声を大にして語りたいことです。しかし、その面ばかりを極度に押し進めるだけならば「自慰的である」との非難を必ず受けるでしょう。純粋神学の砦に立てこもり、自分自身と自説の理解者たちのみを慰め、励まし、喜びを分かち合う。その種の(悪い意味での)「ゲットー化」とはちょうど正反対の道を進んでいくことが我々の課題ではないかと私は考えています。しかも、それを私はあくまでも「改革派教義学」の枠組みの中で考えていくべきであると信じています。
静かなる、僅かなる前進
今日は、私が最も尊敬している日本の若き教義学者に宛てて、非常に長いメールを書きました。ありとあらゆることを思いめぐらしながら一生懸命に書いたので、ちょっとくたびれました。今日も部屋の中に響いている音は、私の打つキーボードの音だけです。まさに近づきつつある新しい時代の足音がズシンズシン鳴り響いているのは、私の心の中だけです。道は開けるでしょうか。このところ、カントを読むことができません。伊東美咲さんも米倉涼子さんも見ることができません。テレビそのものを見ていないわけでもなく、昨日と今日と続けて見たのは「恋ノチカラ」(主演 深津絵里さん)の再放送だったりする。数年前、夢中になって見たドラマです。今年もこんな感じで、集中力のない、ありとあらゆる方向へ意識が拡散していく生活を送ることになるのでしょう。ある先生から「牧師をするか勉強するかは、あれかこれかだよ」と教えられたことがあります。「牧師をしたことがない神学者」も「神学を学ぼうとしない牧師」も私にとっては全く受け入れることができない存在ですが、「意識の無際限の拡散」と「意識を集中して書物を書くこと(論文執筆や翻訳などを含む)」はたぶん決して両立しえない二極であることも体験的かつ実証的な事実ではあります。私の性格の問題もあるでしょう。毎年一冊ずつといったペースで次々と著書や訳書を物していく「神学的牧師」の存在は、私の目から見ると、奇跡以外の何ものにも見えません。
2008年1月22日火曜日
日記を書かないほうが良さそうな日
日曜日はやはり日記を書くことができませんでした。書けない理由にも気づきました。礼拝説教と結婚準備会と受洗準備会を行いました。結婚準備会は、結婚式そのものの準備もさることながら、若い二人の一生の問題を聖書の教えに照らして考えることの大切さをしっかり語っていますので、まさに求道者会さながらです。ご本人たちもそのような学びのときを喜んでおられます。受洗準備会は、これをしているとき「牧師をしていてよかった」と最も実感できる喜びの瞬間です。私にとってその実感は、礼拝説教のときに感じるもの以上です。イースター礼拝での洗礼式をめざしています。礼拝説教は、毎週5500~6000字程度の原稿を書きおろし、すべてをブログにアップし、希望者にメールマガジンで配信しています。どのみち、二度と同じ原稿を同じ講壇の上で読み上げることは、私の場合はありません。そういうことはしない主義です。どれほど時間をかけて書いてもわずか30分足らずで読み終わる、一生に一度かぎり用いるだけの原稿です。そういうものは、牧師室の書棚にファイルして眠らせておくよりも、いつでもだれかに読んでいただけるようにウェブ上にさらしておくほうが意味があるのではないかと考えた末の公開です。そもそも説教とは公開されるべきものです。説教とは「パブリック・スピーキング」なのです(石丸新先生の『パブリック・スピーキングとしての説教』(聖恵授産所出版部、1990年)は優れた書物です)。「公開できない説教」は言葉の矛盾です。しかも説教は本来「無料で」提供されるべきものです。説教者がいただく謝儀は「講演料」ではありません。有料で書店に並べられている「説教集」には、言葉の矛盾があるような気がしてなりません。いつでもだれでも無料で読むことができる「インターネット説教集」は現時点においては最良の提示方法ではないかと思っています。しかし、です。結婚準備会と受洗準備会は「公開できないもの」あるいは「公開してはならないもの」です。それは個人情報であり、守秘事項です。日曜日の仕事において牧師たちが扱っているものは、「地の果てまで公開されるべき事柄」(説教)だけではありません。ちょうど正反対の「決して公開されてはならない事柄」(牧会)をも扱っているのです。日曜日に日記を書くことができない理由は、私の場合、どうやらこのあたりにありそうだと気づきました。三日以上続けるために、その時その時の関心を率直に書くことにした日記です。「公開すべき事柄」と「公開してはならない事柄」が私の頭と心の中いっぱいに詰まっている日曜日には、この日記を書くべきではない。うっかりポロリしてしまうかもしれません。
2008年1月20日日曜日
「宣教と家庭」
http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-01-20.pdf (印刷用PDF)
使徒言行録16・25~40(連続講解第42回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
今日の個所のパウロとシラスがいる場所は、フィリピの町の牢の中です。その中に閉じ込められています。彼らはなぜ、このような場所にいるのでしょうか。経緯は先週学んだとおりです。占いの霊(ピュトンの霊)に取りつかれていた女性がパウロたちとの出会いによって占いの仕事をやめるという出来事が起こりました。すると彼女の占いによる収入の道が途絶えたため、それを当てにして生活してきた主人たちが、パウロたちを逆恨みしました。パウロたちは捕まえられ、役人たちのところに連れて行かれ、牢の中に閉じ込められてしまったのです。
ところが、です。今日の個所に描かれているパウロとシラスの姿はあまり苦しんでいるようには見えません。うれしそうとか楽しそうというのは、当たらないかもしれません。しかし、彼らは牢の中で賛美歌をうたい、また神に祈っていたというのです!
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。『自害してはならない。わたしたちは皆ここにいる。』」
パウロたちはなぜ、牢に閉じ込められてもそういうことができたのでしょうか。やはり普通の人とはちょっと違う感覚や能力を持っていたからでしょうか。そうだと認めざるをえない面があると思います。それではそれは何なのでしょうか。この謎を解くヒントは、使徒言行録の次の言葉にあります。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5・41)。そうです、キリストの弟子たちは、キリストの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを「喜ぶ」人々だったのです。
そういうのはどうかしている。おかしな人々だ。そのように見る人々もいると思います。しかし、イエス・キリストの弟子たちにとっては、それはどうもしていないし、おかしなことでもありませんでした。理由ははっきりしています。イエス・キリストというこの方こそが御自身の弟子たちのために辱めを受けることを喜んでくださった方であったということです。イエスさまは弟子たちに裏切られても、イエスさまのほうが弟子たちを裏切られることは一度もありませんでした。そのことを弟子たちは、イエス・キリストの十字架上の苦しみと復活の出来事の後に深く知ったのです。
もう二度とイエスさまを裏切るまい。そのように彼らは決心し、約束し、新しい歩みを始めたのです。パウロとシラスも、まさにキリストの弟子です。彼らはイエス・キリストを信じる「信仰者」であることを、またイエス・キリストの名を宣べ伝える「伝道者」であることを、やめることができませんでした。それをやめることは、イエス・キリストに対する裏切り行為である。イエスさまを裏切るくらいならば、イエスさまのために苦しむ者になる道を選ぶ。それが彼らの信仰告白だったのです。
そしてパウロたちは、牢の中で賛美歌をうたいました。「うるさい」だの「黙れ」だのと罵る人は、そこにはいませんでした。むしろ「聞き入っていた」。賛美歌には、人の心の中の凍りついた部分を溶かす力がある。そのように信じてよいのです。
しかし、そのとき、大きな、また不思議な出来事が起こりました。大地震が起こって、牢の戸がみな開いたにもかかわらず、パウロたちと共に牢に入れられていた囚人たちが、誰一人逃げようとしなかったという出来事です。なぜ囚人たちは逃げなかったのでしょうか。明らかに関連付けられていることは、彼らがパウロたちの賛美歌だけではなく、祈りの言葉をも聞いていたということです。そこでパウロたちが何を祈っていたかは記されていません。しかし、当然考えてよいことは、神に助けを求める祈りであっただろうということです。その祈りの言葉が、すなわち、神に対する信頼と確信に満ちた祈りの言葉が、囚人たちの心に届いた。だから、誰も逃げなかったのです。
ところが、です。それら一連の出来事の中で、激しく動揺した人がいました。牢の番をしていた看守です。
「看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。」
看守は自害しようとしました。しかし、囚人たちは誰も逃げなかった。おそらく看守の耳にもパウロたちの祈りと賛美の声が聞こえていました。囚人たちが逃げなかった理由がそれであると、看守には分かったのです。そして、看守に分かったもう一つのことがありました。それは、まさにそのパウロたちの祈りと賛美が、自害しようとした自分自身の命を救ったのだということでした。そうであるという事情をはっきり理解できたのです。
だから看守は激しく動揺しました。そしてその動揺がまもなく求道心へと変わりました。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。それに対する答えが「主イエスを信じなさい」ということであり、「そうすれば、あなたも家族も救われます」ということだったのです。
ここで少し立ちどまりたいと思います。今日の個所を読みながら考えさせられた一つの点についてお話しします。それは、パウロたちがこのフィリピで苦しみに会い、牢にまで閉じ込められたことの意味です。苦しみそのものに意味などあるわけがないと考えるべきかもしれません。しかし、です。パウロたちが、まさにキリストの弟子として、「イエス・キリストの名のゆえに辱めを受けるほどの者になったこと」から逃げることなく、むしろそれを「喜び」として引き受けた結果として実際に起こったことは、分析すると少なくとも五つあると、私には思われます。
第一は、パウロたちが牢の中にとにかく“入ることができた”ということです。これがどういう意味かは、後ほど説明いたします。
第二は、パウロたちが牢の中に入ることができたことによって、そこに閉じ込められていた人々に、正しい祈りと賛美の声を届けることができたということです。
第三は、パウロたちが牢の中に入り、囚人たちに祈りと賛美を届けることができたことによって、看守の命が守られたということです。
第四は、そのようにして看守の命が守られたことによって、看守のうちに救いを求める心が与えられ、洗礼を受ける決心にまで至ったということです。
第五は、この一人の看守の救いは、その人一人に終わるものではなく、この人の家族や友人たちの救いにつながるものになったということです。
これら少なくとも五つの出来事が、ひとつながりの出来事、一筆書きの出来事のように起こったと見ることができます。しかし、この中で、第一に挙げました「牢に入ることができた」という点は、とても奇妙な言い方であると思われるのは当然のことです。しかし、私が申し上げたいことは、はっきりしています。そのような場所は、普通の人にとっては滅多なことでは入ることさえできないところであるという意味です。
以前もお話ししたことがあると思います。実を言いますと、私も刑務所に入ったことがあります。このように言いますとびっくりなさる方が必ずおられるのですが、私の場合は刑務所教誨師をしておられた先輩牧師の補佐役を務めたことがあるという意味です。妻も当時は牧師でした。生まれたばかりの長男も連れて行ったことがありました。一家揃って刑務所に出入りしました(こう言うとまた誤解されそうです)。クリスマス集会のお手伝いなどをさせていただきました。
普通の人は入ることができない場所です。願って入れてもらうようなところではないかもしれません。しかし、です。もし我々がその中にあえて入っていこうとしないならば、イエス・キリストの救いを知ることも信じることもなく、自分の犯した罪を悔い改めることもないままに一生を終えなければならない人々がいるということについて、教会が何の手立ても祈りも持たないことになってしまうのです。その最初の一歩をパウロたちは踏み出すことができたのだということです。それは、祈っても願っても得ることができない、その意味で貴重な機会でもあるのだということです。
そして、いずれにせよはっきり語りうることは、パウロたちにとってこれらの出来事は全く意図も計画もしていなかったことであるということです。それだけは間違いなく言えます。そもそも、第二回伝道旅行の目的は、第一回伝道旅行のときに洗礼を受けた人々が、その後どのような信仰生活を送っているかを見届けることだけでした(15・36以下参照)。牢に入ることも、看守と家族を救うことも、あらかじめの計画がパウロたちの側にあって起こったことであると語ることは絶対に不可能です。パウロの側から言えば、文字どおりズルズルと巻き込まれるような仕方で牢の中まで引きずり込まれたのです。行きたくないところに連れて行かれたのです。
しかし、ここで考えておくべきことがあります。それは、それではすべては“偶然”に起こったことなのだろうかということです。パウロたちは“運が悪かった”のでしょうか。そういう面もあることは認めなければならないかもしれません。しかしまた、わたしたちの人生には“偶然に起こった”とか“運が悪かった”ということだけでは納得できない面のほうが多いのではないだろうかと私には思われます。
何がどうなっているのかさっぱり分からないようなゴタゴタの連続の中で、パウロたちの側から言えばただのいい迷惑だけだったような出来事の中で、しかし、とにかく一人の命が守られた。この人がとにかく死なずに済んだ。生きる望みが残されたのです。
そして、ここでこそ重んじられるべきだと私が考えるのは、要するに、この看守の視点です。つまり、「わたしは救われた」とはっきり自覚することができた人自身の視点です。一連の出来事は、少し後ろに引いたところで傍観者的に見ている他の人々の目から見ると、「すべては偶然であり、パウロたちは運が悪かったのである」ということになるかもしれません。しかし、自分の命が救われたと自覚できたこの看守の目から見ると、自分と家族の救いが起こるまでのすべての出来事のことを「偶然」の一言で片づけることはできないことではないだろうかと思われるのです。
この看守の目から見ると、このわたしの救いのためにすべてを神が計画してくださったのだと分かる。もちろん、パウロたちと女奴隷との出会いのところから神のご計画です。そして彼らが牢に入れられたことさえも、看守とその家族を救うというその目的のために、主なる神御自身が計画してくださったことである。そのように見ることが、この看守には、そしてわたしたちには、許されると思うのです。
皆さんに、ぜひ信じていただきたいことがあります。「このわたしが神のご計画によって救われたのだから、わたしの家族も神のご計画によって救われるのだ」と信じていただきたいのです。それは迷信でもきれいごとでもありません。申し上げていることの意味は、このわたしの存在が神のご計画のために「用いられるのだ」ということです。わたしたちは、「どうか神よ、このわたしを主の御用のために用いてください。このわたしを通して、わたしの家族に救いを与えてください」と祈らなければならないのです。
(2008年1月20日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年1月19日土曜日
「蕾」と「桜」
昨日の日中は葬儀、夜はある地域ボランティア団体の新年研修と新年会でした。ハードでしたが、心は平安で満たされています。地域ボランティアの活動には約四年前から加わっています。委嘱された経緯などから、正体を特に明かさないで来ました。しかし、昨夜は司会者から「若い世代を代表してスピーチを」と指名されましたので(最年少だったようです)、これも好い機会かと初めて「牧師」であることを明かしました。案の定驚かれ、私のテーブルが宗教の話題で持ちきりになってしまいました。「私も子供の頃、日曜学校に通ってたことがあるのよ。まあ三年くらいでやめちゃったけどね。でも主の祈りとかは覚えてるし〔その場で主の祈りを諳んじてくださいました〕、日曜学校で教えられた奉仕の精神は、今でも自分の中に生きていると思っているわよ」とか、「実家は仏教だけど、私は無宗教だね」とか、「宗教なんて、まああれだ、要するに集団の規律を守るために作られたものだと思っているよ。そういう意味では大切なものだと認めてはいるけどね」とか、「日本人は、葬式は仏教でやるけど結婚式はキリスト教でやったりして、いいかげんなもんだ。でも、そういうのがいかにも日本人らしくていいんじゃないかね」など。だいたい予想通りの反応をいただきました。席を白けさせてしまったかなと反省もあり、カラオケに参加することにしました(そういう席で歌うのは十数年ぶりのことです)。歌ったのは、いつも車の中で聞いているコブクロの「蕾」(つぼみ)と「桜」(さくら)でした。「蕾」は昨年の日本レコード大賞曲、「桜」はコブクロ結成のきっかけとなった名曲です。牧師が当代の流行曲を(意外に上手に?)熱唱している姿に再び驚かれ、またけっこう喜んでもらえました。とりあえず顔と名前だけはお歴々に覚えてもらえたのではないかと。その意味では収穫あったよねと、自分に(都合よく)言い聞かせています。帰り際、イケメンの男性店員が「蕾、いい歌ですよね」と、耳元でささやいてくださいました。そんなこんなで、せっかく再開を決意したウォーキングに行く時間と気力がありません。カントの『純粋理性批判』の読書も中断したままです。人間関係を広げていくことと物事に集中することは、反比例の関係にあるようです。ただの言い訳ですが。