2008年1月24日木曜日

若き教義学者へ 追伸

「補助学」(Hilfswissenschaft)としての教会史研究という点について。私の体験から見た問題点は、とっくの昔に語り尽くされていることかもしれません。ちなみに私は、教会史ないし歴史神学の中に「狭義の聖書学」を含めるべきではないかと考えています。聖書学と教会史とに共通する方法論的基盤としての歴史学は、組織神学や実践神学に比べると、学術的体裁を取りやすいものです(事実、現在の日本の神学大学や神学部や神学校の「紀要」に掲載されている論文の多くが歴史学的体裁をとっています)。しかし、まさに学術的体裁を取りやすい分、研究者自身の「実存」がストレートには問われない面があります。「学問の衣」をまとって、シレッとしていられるところがある。語学が達者である。高度で難解な論理を自在に操ることができる。しかし人格的・倫理的には全く破綻している。教会には通わない。そのような「教会史研究者」にも、実際に出会ったことがあります。教義学と実践神学、あるいは両者を合体させた「実践的教義学」は、間違いなく「実存的学問」であると表現できます。「あなた自身は何を信じ、どのように伝えようとしているのか」がはっきり分かるものです。常に闘いの矢面に立ち、あるいは常に十字架の上に張りつけにされているような「学」です。私が出会ってきた典型的な歴史的相対主義者の何人かは、「あの人はこう言っている、この人はこう言っている」と紹介するだけでした。「分かりました。それでは、先生御自身はどのように信じておられるのですか」と質問しても、愚問をあしらうような目でにらまれるばかりで、答えてもらえない方々でした。しかし、歴史研究を「補助学」と呼ぶのは、それを「不要」とみなすことではなく、むしろ「必要不可欠」であり、「助けになるもの」とみなすことでもありましょう。ただ、気持ちとしては、歴史研究の部分を(バルトと同じように)小さなポイントの字で書き、教義学の部分を大きな字で書いてほしい。私が考えているのはその程度のことであり、ある意味で技術的なことにすぎません。



2008年1月23日水曜日

若き教義学者へ

私の頭と心を支配している一つの事柄は、今が日本における改革派神学の「再興期」なのか、それとも「衰退期」なのかの判断は甚だ微妙であるということです。だれか一個人の責任であると言っているわけではありません。国際的にも似たような現象があると感じられます。一言でいえば、現在の改革派神学は「世俗化」(Secularization/ ontkerkelijking)の問題に対して余りにも無策すぎるのではないかと思われてならないのです。バルトやモルトマンのように(「WCCやWARCのように」と言い換えてもよいかもしれません)なっていけばよいとは思っていません。「世における教会」・「世と共にある教会」・「世のための教会」を語ることによって事実上の教会解体論を訴える人々を、私は痛いほど見てきました。しかし他方、だからといって我々が「教会への引きこもり」を是としてよいわけでもない。教会や神学校を「マサダの要塞」にしてしまってはならない。むしろ我々はキリスト者と自分自身に向かって、ファン・ルーラーのように「世を前にして立つ勇気を持て!」(Heb moed voor de wereld!)と呼びかけねばならない。「世の問題から目を背ける罪」について語らなければならない。しかも、私が「世の問題」という場合には、言うまでもなく政治や社会の問題を含めて述べようとしているのですが、「世における教会」・「世と共にある教会」・「世のための教会」というものが常に「世に抵抗する教会」・「世を罵倒する教会」・「世を憎む教会」という様相を呈するだけのものであってはならないと思っているのです。極度の世俗化受容に基づく「教会解体論」は暴力です。しかしまた、かたや「教会の(一方的な)世俗主義批判」のほうも、私に言わせていただけば、れっきとした暴力の一種なのです。具体的に言えば、世と教会との板挟みの位置で苦しんでいるキリスト者たちの精神と肉体を、我々の語る「説教」が不断に・継続的に・連続的に攻撃し続けた結果、最悪の場合は破滅の道に人を追いやることがありうるのです。現在最も気になっていることは、今の多くの改革派神学者が取り組んでいる「(改革派的)霊性の神学」の行方です。二点、率直に申し上げます。私が気になっている第一の点は、それを探究していく手法として「源泉複初」(ad fontes)の道を進むことは妥当かという問題です。ある人々は「カルヴァン」へと複初する。他の人々は「第二次宗教改革」に。あるいは「カルヴァン」と「第二次宗教改革」の両方に、といった具合に。歴史的源流に遡ることが学問において不可欠であることは、当然です。しかし、私はここで急にバルト主義者になります。教会史ないし歴史神学の研究は、教義学にとっての「補助学」(Hilfswissenschaft)です!「教義学」と「歴史神学」はもはや別の分野であるとみなされるべきです。「教義学」は、むしろ「実践神学」のほうにより近く立つべきです。しかしまた、「(改革派的)霊性の神学」の教義学的・実践神学的取り組みにおいて私が期待していることは、内面性の問題にとどまらないこと。(あえていえば)外面性の問題を考え抜くこと。さらに、内面性と外面性との相互関係や交換運動を把握することです。すなわち、“内から外へと出ていく運動”、あるいは“内と外との間で不断に繰り返される往復運動”、さらに“「内から外を見る視点」と「外から内を見る視点」との交換運動”などを、精密かつ広範にとらえつくすことです。それは、概念的にはファン・ルーラーの主張する「アポストラートの神学」や「聖霊論」の中にすべて含まれてしまうものかもしれません。しかし、私が期待していることは、(日本語に訳されるところの)「伝道」とか「教会形成」というような次元をもう少し超えたところです。「伝道」にせよ「教会形成」にせよ、それらの概念において支配的な視点は「教会の視点」であり「牧師の視点」です。悪く言えば「教会経営者の視点」です。この視点を逆転させてみる。ごく卑近な例で言えば、「教会に行ってみたいが何となく敷居が高いと感じている人々の視点」とか、「教会に通い始めてみたが古参の人々が教会のまんなかにどっかり座っていて新入りには冷たいと感じたので通うのを止めた人々の視点」とか、「チラシをもらって恐る恐る礼拝に行ってみたが、説教が専門用語の羅列でチンプンカンプンだったので馬鹿にされていると感じられて腹が立った。あんなところに二度と行くものかと心に誓った人々の視点」など(他にもたくさんあると思います)。これらの視点から見えるものを「教義学的・実践神学的に」評価していく。そして、もちろん大いに反省材料とする。一方のキリスト者と教会の存在を「外から」見ている人々が持っている真理と他方の純粋神学的ないし教義学的真理との両者は、カントの言葉を借りれば「アンチノミー」(二律背反)であると私には思われます。私が気になっている第二の点は、「(改革派的)霊性の神学」は社会倫理を生み出すことができるでしょうかという点です。ある意味で熊野義孝的な問いかもしれません。これは私が以前から申し上げてきた「現代の改革派神学には一種独特のセンチメンタリズムがある」という意見の裏側にある問いでもあります。改革派センチメンタリズムは、「内面性への引きこもり」をますます助長する道ではないでしょうか。「慰め」も「喜び」も、まことに結構なことではあります。ファン・ルーラーに「喜びの神学」があるという点は、私も声を大にして語りたいことです。しかし、その面ばかりを極度に押し進めるだけならば「自慰的である」との非難を必ず受けるでしょう。純粋神学の砦に立てこもり、自分自身と自説の理解者たちのみを慰め、励まし、喜びを分かち合う。その種の(悪い意味での)「ゲットー化」とはちょうど正反対の道を進んでいくことが我々の課題ではないかと私は考えています。しかも、それを私はあくまでも「改革派教義学」の枠組みの中で考えていくべきであると信じています。



静かなる、僅かなる前進

今日は、私が最も尊敬している日本の若き教義学者に宛てて、非常に長いメールを書きました。ありとあらゆることを思いめぐらしながら一生懸命に書いたので、ちょっとくたびれました。今日も部屋の中に響いている音は、私の打つキーボードの音だけです。まさに近づきつつある新しい時代の足音がズシンズシン鳴り響いているのは、私の心の中だけです。道は開けるでしょうか。このところ、カントを読むことができません。伊東美咲さんも米倉涼子さんも見ることができません。テレビそのものを見ていないわけでもなく、昨日と今日と続けて見たのは「恋ノチカラ」(主演 深津絵里さん)の再放送だったりする。数年前、夢中になって見たドラマです。今年もこんな感じで、集中力のない、ありとあらゆる方向へ意識が拡散していく生活を送ることになるのでしょう。ある先生から「牧師をするか勉強するかは、あれかこれかだよ」と教えられたことがあります。「牧師をしたことがない神学者」も「神学を学ぼうとしない牧師」も私にとっては全く受け入れることができない存在ですが、「意識の無際限の拡散」と「意識を集中して書物を書くこと(論文執筆や翻訳などを含む)」はたぶん決して両立しえない二極であることも体験的かつ実証的な事実ではあります。私の性格の問題もあるでしょう。毎年一冊ずつといったペースで次々と著書や訳書を物していく「神学的牧師」の存在は、私の目から見ると、奇跡以外の何ものにも見えません。



2008年1月22日火曜日

日記を書かないほうが良さそうな日

日曜日はやはり日記を書くことができませんでした。書けない理由にも気づきました。礼拝説教と結婚準備会と受洗準備会を行いました。結婚準備会は、結婚式そのものの準備もさることながら、若い二人の一生の問題を聖書の教えに照らして考えることの大切さをしっかり語っていますので、まさに求道者会さながらです。ご本人たちもそのような学びのときを喜んでおられます。受洗準備会は、これをしているとき「牧師をしていてよかった」と最も実感できる喜びの瞬間です。私にとってその実感は、礼拝説教のときに感じるもの以上です。イースター礼拝での洗礼式をめざしています。礼拝説教は、毎週5500~6000字程度の原稿を書きおろし、すべてをブログにアップし、希望者にメールマガジンで配信しています。どのみち、二度と同じ原稿を同じ講壇の上で読み上げることは、私の場合はありません。そういうことはしない主義です。どれほど時間をかけて書いてもわずか30分足らずで読み終わる、一生に一度かぎり用いるだけの原稿です。そういうものは、牧師室の書棚にファイルして眠らせておくよりも、いつでもだれかに読んでいただけるようにウェブ上にさらしておくほうが意味があるのではないかと考えた末の公開です。そもそも説教とは公開されるべきものです。説教とは「パブリック・スピーキング」なのです(石丸新先生の『パブリック・スピーキングとしての説教』(聖恵授産所出版部、1990年)は優れた書物です)。「公開できない説教」は言葉の矛盾です。しかも説教は本来「無料で」提供されるべきものです。説教者がいただく謝儀は「講演料」ではありません。有料で書店に並べられている「説教集」には、言葉の矛盾があるような気がしてなりません。いつでもだれでも無料で読むことができる「インターネット説教集」は現時点においては最良の提示方法ではないかと思っています。しかし、です。結婚準備会と受洗準備会は「公開できないもの」あるいは「公開してはならないもの」です。それは個人情報であり、守秘事項です。日曜日の仕事において牧師たちが扱っているものは、「地の果てまで公開されるべき事柄」(説教)だけではありません。ちょうど正反対の「決して公開されてはならない事柄」(牧会)をも扱っているのです。日曜日に日記を書くことができない理由は、私の場合、どうやらこのあたりにありそうだと気づきました。三日以上続けるために、その時その時の関心を率直に書くことにした日記です。「公開すべき事柄」と「公開してはならない事柄」が私の頭と心の中いっぱいに詰まっている日曜日には、この日記を書くべきではない。うっかりポロリしてしまうかもしれません。



2008年1月20日日曜日

「宣教と家庭」

http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-01-20.pdf (印刷用PDF)



使徒言行録16・25~40(連続講解第42回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





今日の個所のパウロとシラスがいる場所は、フィリピの町の牢の中です。その中に閉じ込められています。彼らはなぜ、このような場所にいるのでしょうか。経緯は先週学んだとおりです。占いの霊(ピュトンの霊)に取りつかれていた女性がパウロたちとの出会いによって占いの仕事をやめるという出来事が起こりました。すると彼女の占いによる収入の道が途絶えたため、それを当てにして生活してきた主人たちが、パウロたちを逆恨みしました。パウロたちは捕まえられ、役人たちのところに連れて行かれ、牢の中に閉じ込められてしまったのです。



ところが、です。今日の個所に描かれているパウロとシラスの姿はあまり苦しんでいるようには見えません。うれしそうとか楽しそうというのは、当たらないかもしれません。しかし、彼らは牢の中で賛美歌をうたい、また神に祈っていたというのです!



「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。『自害してはならない。わたしたちは皆ここにいる。』」



パウロたちはなぜ、牢に閉じ込められてもそういうことができたのでしょうか。やはり普通の人とはちょっと違う感覚や能力を持っていたからでしょうか。そうだと認めざるをえない面があると思います。それではそれは何なのでしょうか。この謎を解くヒントは、使徒言行録の次の言葉にあります。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5・41)。そうです、キリストの弟子たちは、キリストの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを「喜ぶ」人々だったのです。



そういうのはどうかしている。おかしな人々だ。そのように見る人々もいると思います。しかし、イエス・キリストの弟子たちにとっては、それはどうもしていないし、おかしなことでもありませんでした。理由ははっきりしています。イエス・キリストというこの方こそが御自身の弟子たちのために辱めを受けることを喜んでくださった方であったということです。イエスさまは弟子たちに裏切られても、イエスさまのほうが弟子たちを裏切られることは一度もありませんでした。そのことを弟子たちは、イエス・キリストの十字架上の苦しみと復活の出来事の後に深く知ったのです。



もう二度とイエスさまを裏切るまい。そのように彼らは決心し、約束し、新しい歩みを始めたのです。パウロとシラスも、まさにキリストの弟子です。彼らはイエス・キリストを信じる「信仰者」であることを、またイエス・キリストの名を宣べ伝える「伝道者」であることを、やめることができませんでした。それをやめることは、イエス・キリストに対する裏切り行為である。イエスさまを裏切るくらいならば、イエスさまのために苦しむ者になる道を選ぶ。それが彼らの信仰告白だったのです。



そしてパウロたちは、牢の中で賛美歌をうたいました。「うるさい」だの「黙れ」だのと罵る人は、そこにはいませんでした。むしろ「聞き入っていた」。賛美歌には、人の心の中の凍りついた部分を溶かす力がある。そのように信じてよいのです。



しかし、そのとき、大きな、また不思議な出来事が起こりました。大地震が起こって、牢の戸がみな開いたにもかかわらず、パウロたちと共に牢に入れられていた囚人たちが、誰一人逃げようとしなかったという出来事です。なぜ囚人たちは逃げなかったのでしょうか。明らかに関連付けられていることは、彼らがパウロたちの賛美歌だけではなく、祈りの言葉をも聞いていたということです。そこでパウロたちが何を祈っていたかは記されていません。しかし、当然考えてよいことは、神に助けを求める祈りであっただろうということです。その祈りの言葉が、すなわち、神に対する信頼と確信に満ちた祈りの言葉が、囚人たちの心に届いた。だから、誰も逃げなかったのです。



ところが、です。それら一連の出来事の中で、激しく動揺した人がいました。牢の番をしていた看守です。



「看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。」



看守は自害しようとしました。しかし、囚人たちは誰も逃げなかった。おそらく看守の耳にもパウロたちの祈りと賛美の声が聞こえていました。囚人たちが逃げなかった理由がそれであると、看守には分かったのです。そして、看守に分かったもう一つのことがありました。それは、まさにそのパウロたちの祈りと賛美が、自害しようとした自分自身の命を救ったのだということでした。そうであるという事情をはっきり理解できたのです。



だから看守は激しく動揺しました。そしてその動揺がまもなく求道心へと変わりました。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。それに対する答えが「主イエスを信じなさい」ということであり、「そうすれば、あなたも家族も救われます」ということだったのです。



ここで少し立ちどまりたいと思います。今日の個所を読みながら考えさせられた一つの点についてお話しします。それは、パウロたちがこのフィリピで苦しみに会い、牢にまで閉じ込められたことの意味です。苦しみそのものに意味などあるわけがないと考えるべきかもしれません。しかし、です。パウロたちが、まさにキリストの弟子として、「イエス・キリストの名のゆえに辱めを受けるほどの者になったこと」から逃げることなく、むしろそれを「喜び」として引き受けた結果として実際に起こったことは、分析すると少なくとも五つあると、私には思われます。



第一は、パウロたちが牢の中にとにかく“入ることができた”ということです。これがどういう意味かは、後ほど説明いたします。



第二は、パウロたちが牢の中に入ることができたことによって、そこに閉じ込められていた人々に、正しい祈りと賛美の声を届けることができたということです。



第三は、パウロたちが牢の中に入り、囚人たちに祈りと賛美を届けることができたことによって、看守の命が守られたということです。



第四は、そのようにして看守の命が守られたことによって、看守のうちに救いを求める心が与えられ、洗礼を受ける決心にまで至ったということです。



第五は、この一人の看守の救いは、その人一人に終わるものではなく、この人の家族や友人たちの救いにつながるものになったということです。



これら少なくとも五つの出来事が、ひとつながりの出来事、一筆書きの出来事のように起こったと見ることができます。しかし、この中で、第一に挙げました「牢に入ることができた」という点は、とても奇妙な言い方であると思われるのは当然のことです。しかし、私が申し上げたいことは、はっきりしています。そのような場所は、普通の人にとっては滅多なことでは入ることさえできないところであるという意味です。



以前もお話ししたことがあると思います。実を言いますと、私も刑務所に入ったことがあります。このように言いますとびっくりなさる方が必ずおられるのですが、私の場合は刑務所教誨師をしておられた先輩牧師の補佐役を務めたことがあるという意味です。妻も当時は牧師でした。生まれたばかりの長男も連れて行ったことがありました。一家揃って刑務所に出入りしました(こう言うとまた誤解されそうです)。クリスマス集会のお手伝いなどをさせていただきました。



普通の人は入ることができない場所です。願って入れてもらうようなところではないかもしれません。しかし、です。もし我々がその中にあえて入っていこうとしないならば、イエス・キリストの救いを知ることも信じることもなく、自分の犯した罪を悔い改めることもないままに一生を終えなければならない人々がいるということについて、教会が何の手立ても祈りも持たないことになってしまうのです。その最初の一歩をパウロたちは踏み出すことができたのだということです。それは、祈っても願っても得ることができない、その意味で貴重な機会でもあるのだということです。



そして、いずれにせよはっきり語りうることは、パウロたちにとってこれらの出来事は全く意図も計画もしていなかったことであるということです。それだけは間違いなく言えます。そもそも、第二回伝道旅行の目的は、第一回伝道旅行のときに洗礼を受けた人々が、その後どのような信仰生活を送っているかを見届けることだけでした(15・36以下参照)。牢に入ることも、看守と家族を救うことも、あらかじめの計画がパウロたちの側にあって起こったことであると語ることは絶対に不可能です。パウロの側から言えば、文字どおりズルズルと巻き込まれるような仕方で牢の中まで引きずり込まれたのです。行きたくないところに連れて行かれたのです。



しかし、ここで考えておくべきことがあります。それは、それではすべては“偶然”に起こったことなのだろうかということです。パウロたちは“運が悪かった”のでしょうか。そういう面もあることは認めなければならないかもしれません。しかしまた、わたしたちの人生には“偶然に起こった”とか“運が悪かった”ということだけでは納得できない面のほうが多いのではないだろうかと私には思われます。



何がどうなっているのかさっぱり分からないようなゴタゴタの連続の中で、パウロたちの側から言えばただのいい迷惑だけだったような出来事の中で、しかし、とにかく一人の命が守られた。この人がとにかく死なずに済んだ。生きる望みが残されたのです。



そして、ここでこそ重んじられるべきだと私が考えるのは、要するに、この看守の視点です。つまり、「わたしは救われた」とはっきり自覚することができた人自身の視点です。一連の出来事は、少し後ろに引いたところで傍観者的に見ている他の人々の目から見ると、「すべては偶然であり、パウロたちは運が悪かったのである」ということになるかもしれません。しかし、自分の命が救われたと自覚できたこの看守の目から見ると、自分と家族の救いが起こるまでのすべての出来事のことを「偶然」の一言で片づけることはできないことではないだろうかと思われるのです。



この看守の目から見ると、このわたしの救いのためにすべてを神が計画してくださったのだと分かる。もちろん、パウロたちと女奴隷との出会いのところから神のご計画です。そして彼らが牢に入れられたことさえも、看守とその家族を救うというその目的のために、主なる神御自身が計画してくださったことである。そのように見ることが、この看守には、そしてわたしたちには、許されると思うのです。



皆さんに、ぜひ信じていただきたいことがあります。「このわたしが神のご計画によって救われたのだから、わたしの家族も神のご計画によって救われるのだ」と信じていただきたいのです。それは迷信でもきれいごとでもありません。申し上げていることの意味は、このわたしの存在が神のご計画のために「用いられるのだ」ということです。わたしたちは、「どうか神よ、このわたしを主の御用のために用いてください。このわたしを通して、わたしの家族に救いを与えてください」と祈らなければならないのです。



(2008年1月20日、松戸小金原教会主日礼拝)



2008年1月19日土曜日

「蕾」と「桜」

昨日の日中は葬儀、夜はある地域ボランティア団体の新年研修と新年会でした。ハードでしたが、心は平安で満たされています。地域ボランティアの活動には約四年前から加わっています。委嘱された経緯などから、正体を特に明かさないで来ました。しかし、昨夜は司会者から「若い世代を代表してスピーチを」と指名されましたので(最年少だったようです)、これも好い機会かと初めて「牧師」であることを明かしました。案の定驚かれ、私のテーブルが宗教の話題で持ちきりになってしまいました。「私も子供の頃、日曜学校に通ってたことがあるのよ。まあ三年くらいでやめちゃったけどね。でも主の祈りとかは覚えてるし〔その場で主の祈りを諳んじてくださいました〕、日曜学校で教えられた奉仕の精神は、今でも自分の中に生きていると思っているわよ」とか、「実家は仏教だけど、私は無宗教だね」とか、「宗教なんて、まああれだ、要するに集団の規律を守るために作られたものだと思っているよ。そういう意味では大切なものだと認めてはいるけどね」とか、「日本人は、葬式は仏教でやるけど結婚式はキリスト教でやったりして、いいかげんなもんだ。でも、そういうのがいかにも日本人らしくていいんじゃないかね」など。だいたい予想通りの反応をいただきました。席を白けさせてしまったかなと反省もあり、カラオケに参加することにしました(そういう席で歌うのは十数年ぶりのことです)。歌ったのは、いつも車の中で聞いているコブクロの「蕾」(つぼみ)と「桜」(さくら)でした。「蕾」は昨年の日本レコード大賞曲、「桜」はコブクロ結成のきっかけとなった名曲です。牧師が当代の流行曲を(意外に上手に?)熱唱している姿に再び驚かれ、またけっこう喜んでもらえました。とりあえず顔と名前だけはお歴々に覚えてもらえたのではないかと。その意味では収穫あったよねと、自分に(都合よく)言い聞かせています。帰り際、イケメンの男性店員が「蕾、いい歌ですよね」と、耳元でささやいてくださいました。そんなこんなで、せっかく再開を決意したウォーキングに行く時間と気力がありません。カントの『純粋理性批判』の読書も中断したままです。人間関係を広げていくことと物事に集中することは、反比例の関係にあるようです。ただの言い訳ですが。



2008年1月18日金曜日

長寿者を賞した短命首相

詳しい事情を書くのは控えますが、昨日、私は生まれて初めて、「百歳」の方のもとに総理大臣から届く賞状というものをこの目で見させていただきました。金色の額縁が輝いていました。それを今、教会でお預かりし、飾ってあります。美しい花も会堂内にたくさん飾られています。総理大臣は、安倍晋三氏の名前です。この賞状は将来希少価値が出るかもねと、何人かと顔を見合わせて笑いました。百年もの命を生き抜いてこられた立派な方々に「賞」を授与するエライ立場の人が、あれほど短命では。ここは笑ってよい場面か、怒るべきかはよく分かりません。話はうんと飛びますが、希少価値とかタイミングという点で書いておきたいことは、現在の参議院議長の江田五月氏は私の卒業した高校の大先輩であるということです。「私は今の参議院議長と同じ学校の卒業生である」と胸を張って(そんな胸は張らんでよい)言えるようになりました。中学校の割と近い(が三学年上であるようで重なっていない)先輩としては、水道橋博士氏と甲本ヒロト氏と中川智正氏がおられる(先輩ですので敬語表現)ようです。どの方も国民的有名人ですが、どの方とも面識は全くありません。私にはどんなに間違っても「国民的有名人になりたい」というような願いなどはありませんし、そのような願いは持つべきではないと考えておりますが、自分の取り組んでいることや、その内容については、広く知られてほしいなあと願っております。私は伝道者なのですから。「道を伝える者」なのですから。国民的に有名な「参議院議長」と「お笑い芸人」と「パンクロッカー」と「受刑者」とを先輩に持つ者としては、この方々とは表現形態は全く異なりますが、「道を伝える者」自身ではなく、その者が伝える「道」そのものが国民的に有名になっていくことを願っております(もしこの願いをもたないような伝道者がいるとしたら、その人の存在意義は何なのでしょうか)。しかし、そのためにはどうしたらよいのでしょうか。何もできないまま短命に終わるのか。頭を抱えるばかりです。



2008年1月17日木曜日

ある書簡

このたびの会堂移転(というよりも新会堂建築)は、はっきり言えば50年に一度のチャンスであると思われます。50年後の教会を見通しながら、会堂を建てねばなりません。そのために必要であると確信する会堂の大きさは、余裕で150人、詰めて200人は入ることができる大きさです。建材はハリボテでもいいので、できるだけ大きなもの。願わくば天井が高いもの。そういう会堂がよいと私は考えています。

今の人数に見合った規模のものを建てると、どうなるか。伝道者が替わり、ぐんぐん成長し始めたときに、「人間が入るところがない」ということで困り果ててしまうのです。実際、ある先生は「あまりの会堂の小ささ」に絶望的な苦しみを味わっておられます。伝道者は必ず替わるのです。今は伸びていなくても伝道者が替われば飛躍的に伸びる教会もあるのです。そのことを私はいつも自分に言い聞かせています。

私が願っているのは○○地区です。できれば病院の窓から見える高い十字架の塔が欲しいところです。「病院伝道」などと銘打つ必要は全くありませんが、「あの地域に行くとなんだか救われた気がする」と感じてもらえるような建て方が、新しい町の雰囲気作りに永続的に貢献できるように思います。

ただし教会が「葬儀会場」の機能ばかり果たしているような印象を、とくに病院に入院しておられる方々に対して与えるようでは困ります(象徴的な意味で申しております)。説教においては、人生の喜び、生きる希望、そして感謝の生活(ハイデルベルク信仰問答の第三部!)を熱心に語り、また(付近が静かな時間帯には)入院している方や家族の方々の心に届くような賛美の声を鳴り響かせたいところです(機械的な鐘の音ではなく、人間の心から発せられた賛美の歌声をです)。

ある先生が危惧されていた「農村的特徴を持つ地域住民との関係」という点は、私にとってはあまり問題ではないと感じられます。あのような大きな病院があると、教会の姿を目にする人々の範囲が非常に広くなります。悪い意味で「ごく限られた近隣地域の人々とのお付き合い」だけに縛られないで済むのではないかと思います。また今は何と言ってもインターネットの時代です。農村の人々もネットをふんだんに活用し、あらゆる情報を入手しています。「農村的うんぬん」という判断は、いつまでも変わりえない要素ではありません。

病院との関係はもちろん間接的な事柄です。シンボリカルな要素であり、雰囲気や印象のたぐいです。しかし、そういう空気のような要素が教会の伝道にとっては非常に重要です。「聖霊」はロジカルなもの(「屁理屈」と翻訳しておきます)だけでは捉えきれません。風のような、空気のような要素が必ず伴うものです。駅前などの人通りが多いところがよいというだけならば、典型的な商業主義の発想です。しかし、教会はコンビニエンスストアではありません。商業主義は、流行ると栄えるかもしれませんが、廃れるときもあるものです。

「信仰」とは流行り廃れを超えたところで成り立つものであると、私は信じています。また、狭い道の脇に立てられた、普通の住宅と見間違えるような建物にも賛成できません。階を増やして人がたくさん入れるようにしても駄目です。そのような建物を、それこそ地方都市の人々は「教会」として認識しません。外には高い塔があり、内側は天井が高い開放的なスペースがある。それが「教会」です。

私は岡山県岡山市の出身者ですが、そちらの雰囲気や状況(東京からの距離感など含む)が岡山市に酷似しているので、だいたい分かります。ちなみに、岡山市は今年中に「政令指定都市」になることを目指しているようです。

また、ある先生がおっしゃったとおり、教会には「サナトリウム」の要素があります。サナトリウムが、人ごみのど真ん中にあるでしょうか。せっかく治りかけの病気がますます悪化しそうです。少し人目を避けて入ることができる、静かで落ち着いた場所に教会は建てられるべきです。

以上の考えを、私は、よほどのことがないかぎり変更しないことにします。「よほどのこと」とは先生御自身が明確に反対なさる場合です。それ以外の場合は変更しませんので、そのようにカウントしていただけますとうれしいです。


2008年1月16日水曜日

SOHOとしての牧師

一時期盛んに語られた「SOHO」(Small Office/ Home Officeの略、「在宅ワーク」と訳されることがある)という言葉を、最近はあまり聞かなくなったような気がします。もう使われていないのでしょうか。要するに、自宅で「仕事」をしている人々の様子を示す言葉です。

「牧師は仕事をしていない」という全く落胆させられる誤解が生じるのは、電車やバスなどに乗って職場通いをするという意味での「通勤」という行為をしていない牧師が多い(なかには「通勤している牧師」もいます)ことにも一因があるのではないかと思われます。

牧師の仕事は、もしそう言ってよいならば、いわば「SOHO」です。たとえば、今日も牧師室で(今ここで)、今かかわっている三つほどの委員会の仕事をしました。非常に多くのメールのやりとりをしました。その中で、委員会会議の日程を調整し、開催通知を発行し、いくつかのクレームを処理し、深々と謝罪もし、そしてまた重要な相談や決定を行いました。電話も数件かかってきました。具体的な内容は書けません。

最近の例でいえば、「神学校を紹介してほしい」、「結婚式の司式をしてほしい」、「現在通っている教会とうまく行っていない」、「教会の建物をお借りしたいのですが」、「疲れた」、「どうすれば死ねるのですか」など。

それらはいずれも教会員からの電話ではありません。ほとんどが予告なく突然、また初めて電話してこられる方々です。「電話帳で」あるいは「ネットで」連絡先を知りました、と言ってかけてこられるケースが多い。

その中には、当然のことながら、二つ返事で了承できない依頼も少なくありません。どうしたら相手を怒らせずに断るかで、神経を使います。

もちろんその中に「電話を光ファイバーに変えませんか」、「畳の張り替えをしませんか」、「屋根の塗り替えをしませんか」、「新しいコピー機に買い替えませんか」などの電話はひっきりなし。「そういうのはもう二度とかけてこないでください」と大きな声で言って、がしゃりと切ってしまったことも何度かあります。

今日一日に限っては、教会のチャイムを鳴らしてドアの中に入ってこられたお客さんは一人もいませんでした。直接顔を合わせたのは妻子だけです。それはそれは静かな一日でした。聞こえるのは(電話以外は)石油ストーブの燃える音と、私が打つキーボードの音くらいです。BGMは気が散るので、ほとんどかけません。牧師室には(まさか)テレビはありません。

電車にもバスにも自動車にも乗っておりません。歩いた距離は牧師館から教会までの10メートルくらいです(この点は反省しなければなりません。後ほどウォーキングに行こうと思います)。

しかし、です。私は今日一日だけでも非常に大勢の人とのコミュニケーションを行いました。昼食は食パン一枚かじっただけです。ゆっくり食べている時間がありませんでした。今の時間はなんだか心も体もぐったりしています。肩こりと偏頭痛と腰痛には最近再び悩まされています。

「六本木ヒルズのオフィスから地上を見下ろすと、世界を征服した気分になる」という趣旨の発言をした人がいました。そういう人の目から見ると、牧師は何に見えるでしょう。しかし、この地上の世界には実に様々な形態の「仕事」があるのだということを、多くの人々に知ってもらいたいと願っています。

我々牧師たちも、もしかしたら「宗教家」と呼ばれなければならない存在なのかもしれませんが、まさか「読書と瞑想」だけをしているわけではありません。説教の原稿だけを書いているわけではありません(説教の手を抜いているという意味ではありません)。

大学や神学校のようなところで教鞭をふるっている牧師、ラジオやテレビの番組に出演している牧師、附属の幼稚園や保育園や福祉施設の理事長をしている牧師、政治家になったり各種政治運動に参加していたりしている牧師だけが忙しく立ち働いていて、それ以外の牧師は「遊んでいる」わけではありません。

「何を御冗談を」と言いたくなります。言葉の正しい意味での「労働者」なのだと自覚しています。


2008年1月15日火曜日

家族との時間

今日は休日(成人の日)、家族で「イオン」に行きました。家族で、と言っても息子は友人たちと別行動でした。休日までカントは読みません。聖書も読みません。神学書も読みません。新聞もニュースも見ません。携帯電話は一応持って出かけましたが、自動車の中に置きっぱなしでした。そういう日があってもよいと信じています。しかし、です。私という人間はなんと哀れで面白味のない人間なのでしょう!「イオン」での私の行き先は書店、そして買ったのはカントの『純粋理性批判』(岩波文庫)の下巻でした。学生時代には間違いなく買ったはずなのですが、この一冊だけが見つかりません。学校を卒業して以来とにかく引っ越しばかりしていましたので、どの時点かは分かりませんが、失われてしまったようです。帰宅後は結局、メールが気になってパソコンを開き、ニュースを読み、テレビのスイッチを入れ、いろんなことが気になりだしました。昨日の説教で自分が語ったことが気になり、聞きながら難しそうな顔をしておられた方の姿を思い起こし、それではどう語れば納得していただける言葉になりえたのだろうかと考えはじめる。聖書を開き、昨日の説教原稿を読み直し、教会員一人一人の姿と状況を(祝福と平安を祈る思いの中で)確認する。それと共に、繰り返し読んできた神学書のあの言葉、この言葉を思い起こす。買ってきたばかりのカントの本も開いてみたくなる。「篠田英雄訳」という検索語でネットを調べてみると「誤訳が多い」だの「読みにくい」だのとさんざん叩かれてきたものであることを知る。出版や学者の世界のことは私のような一般人には知る由もありませんが、自分たちの翻訳のほうが優れていると主張したいがために(という動機が見え隠れする)、先人の取り組みをめちゃくちゃに批判し、読者の関心を自派の出版物のほうへと誘導していく(ように感じられる)やり方は、なんとなくえげつないし、いやらしい。加えて、「篠田訳」を叩いている人々が「あちらよりもこちらのほうが正確で読みやすい」と勧めている別の訳本は、価格を調べると、だいたいどれも「篠田訳」よりも割高であるという点も気になります。割安ならば「買ってみようかな」と動く食指もあるのですが、なんとなく言葉巧みに割高なほうへと誘導されているように感じると(現場の事実はそのようなものではないのかもしれませんが、部外者がその文面から率直に感じるところを言えば)急に興ざめするものがあります。「誤訳叩き」など、それこそ誰でも(私でも)できることです。篠田英雄氏に対して何の個人的な恩義も関係もない人間でありながら、自分が金を払って買った本が多くの人々からこっぴどく叩かれていたことを知ると、心底嫌な気分にさせられます。こうして結局、休日もいつもと同じようになっていく自分自身に気づかされます。「もう少し人生を楽しまなければ」と思い、書店で『フランス風家庭料理の作り方』などをパラパラめくってみましたが、「無理!」とすぐ閉じてしまいました。家族との精神的な距離をうまくとれる人が、うらやましいです。今年は「家族との時間」について真剣に考えてみたいです(「考える」だけに終わるかもしれません)。