2007年9月2日日曜日

「キリスト者と呼ばれて」

使徒言行録11・19~30



今日の個所あたりから、話の内容が、前向きなものへと展開していきます。



それまでは、ほとんどユダヤ人のほうばかりを向いていたキリスト教会の人々の目が、あるときを境に異邦人のほうを向くようになりました。異邦人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることは、父なる神の御心であり、かつ、それこそがイエス・キリストの弟子としてふさわしい道であると教会が確信し、実際に異邦人に対する伝道を開始したのです。



しかし、ここで一つ重要なことを申し上げておきたいと思います。それは、二千年前の教会がユダヤ人以外の人々、つまり異邦人を教会の仲間に加える決心ができたのは、「差別や偏見はいけない。教会はどんな人でも受け入れなければならない」というようなスローガンのようなものがあって、それに基づいて門を開いた、というような順序ではなかったということです。それは事実に反します。最初にスローガンありきで始まった話ではない。最初にあったのは、むしろ“ニード”です。



「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」



今日の個所の最初に書かれていることは、使徒言行録8・1~3の記事を思い起こさせるものです。あのステファノの殉教がきっかけでエルサレム教会に対する大迫害が起こったのです。エルサレム教会の人々は、ステファノに続けとばかりに皆が迫害者に立ち向かい、抵抗運動を始めたのかといいますと、そうではありませんでした。



使徒たち以外は皆、つまり全員、ユダヤとサマリアの地方に散っていきました。つまり、迫害の手から逃げたのです。逃げてもよいのです!逃げるべきなのです!とどまって戦うこと、戦って死ぬことだけがキリスト者の道ではないのです。



ただし、です。彼らは、迫害の手、殺害の恐怖からは逃げましたが、神とイエス・キリストと教会の前から逃げたわけではありませんでした。散らされていった先で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。一生懸命に伝道したのです。



しかし、最初はユダヤ人だけに伝道していました。こういう言い方ができるかもしれません。エルサレムから散らされていった人々は、ユダヤ人の言葉(当時はアラム語)しか語ることができなかった。だから、ユダヤ人を相手に語る他に為すすべがなかったのではないか、ということです。私も今のところ、日本語以外に喋れる言葉がありませんので、私が外国に行ったとしても、当分の間は、そこにいる日本人にしか話すことができそうもない、という点で、彼らの立場、あるいは“限界”が、よく分かるような気がします。



「しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」



ところが、新しい展開が起こりました。エルサレムから散らされていったユダヤ人たちのたどり着いた先に、外国生まれ・外国育ちのユダヤ人、あるいは外国生活を体験したことのあるユダヤ人がいました。その人々はギリシア語を喋ることができました。その人々と、エルサレムから散らされてきた人々が、いわば手を組んだ。それによって外国にいるユダヤ人以外の人々、つまり、異邦人に伝道することができるようになったのです。



外国語が使えるということは、やはりすごいことであると、私は思います。そこにある壁をまさにぶち破ることができます。大きく深い谷にそれを渡っていくための橋をかけることができます。その意味で私は、外国語を学ぶことや、翻訳の仕事をすることは、「横のものを縦にする」というような簡単なことでも単純なことでもない、と信じています。



むしろそれは、命がけでトンネルを掘ることです。新しい状況に足を踏み入れ、新しい出会いの中で、神と共に生きる新しい仲間を得ることです。それが簡単なことでしょうか。単純なことでしょうか。私には、そのように考えることはできません。



そのようにして、外国語を用いて語ることができるユダヤ人たちの伝道によって、異邦人たちの中からイエス・キリストの福音を信じて救われる人々が生み出されはじめました。教会の歴史の新しいページに、新しい文字が書き始められたのです。



「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。」



外国にある教会に新しい動きがあることを知ったエルサレム教会は、態度を変えざるをえませんでした。聖書の伝統的な解釈を捨て、新しい解釈の立場を正式に採用せざるをえませんでした。異邦人もまた、何の差別もなく、教会の正式なメンバーとして受け入れることができる、ということを公に認めざるをえませんでした。



そして、エルサレム教会は、異邦人が多く集まっている教会としては最も重要な拠点と思われたアンティオキアの教会に伝道者バルナバを派遣し、また、バルナバはタルソスにいたサウロ(パウロ)のところに行き、(おそらく)「一緒に伝道しよう!」と呼びかけて連れ出し、バルナバとサウロの二人がチームを組んで、アンティオキア教会を拠点にして異邦人伝道を始めることになったのです。



これでお分かりいただけるであろうことは、二千年前の教会においても、現実の場面では、生きた事実のほうが先行し、教会の決め事や方針は、事実の後から追いかけていくことになった、ということです。



ここで皆さんに覚えておいていただきたいことは、教会も“既成事実”には弱いということです。原理・原則ももちろん重要です。「聖書にはこう書いてある。だから、われわれはこうすべきである」と主張することは、重要です。しかし、ある意味で、もっと重要なことがあります。それは目の前の現実、現在進行中の事実です。



さらに言えば、われわれの目の前でまさに生きている人間が重要であり、現実に立っている「このわたし」と「わたしたち」が重要です。なぜなら、今ある現実と今生きている人間の存在は、いかなる原理・原則によっても、消し去られたり・踏みにじられたりしてよいものではないからです。



原理・原則を振りかざし、振り回して、自分の周りにいる人々を斬って捨てていくことは、いとも簡単なことです。あの人はこの規格に合わない、あの基準に合わないと言って、刀をぶんぶん振り回して、周りにいる人々をどんどん斬り捨てていくことで、気持ちよいかもしれないのは、その刀を持っている本人だけです。その人の周りには、累々と死骸が転がっているのです。



人を生かすことが神の御言葉を語る者たちの使命であり、責任なのではないでしょうか。人を傷つけ、叩きのめし、立ちあがる力さえ奪ってしまうような説教がある、ということを、私は知らないでいるわけではありません。しかし、それは単純に、間違いです。横暴です。



原理・原則が先にあるのではなく、目の前の現実が先にあります。今まさに生きている「あなたとわたし」が、先にあるのです。このわたしたちの現実が「神の御言葉によって改革されていくこと」が重要なのです。



「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」



バルナバとサウロのチーム伝道は、功を奏し、大成功をおさめたようです。彼らはそこに、たった一年間しかいなかったようですが、彼らの伝道の成果として、アンティオキア教会の会員たち(これが「弟子たち」の意味です)が、人類の歴史上初めて「キリスト者」(クリスティアヌース)と呼ばれるようになった、というのです。



これは、おそらく彼らにつけられたあだ名です。あるいはニックネームです。「キリストさん」とか「キリストくん」というくらいの意味です。



それが良い意味で言われたことなのか、悪い意味だったのか、それとも両方だったのか、そのへんははっきりとは分かりません。しかし、おそらく一つだけはっきり言えることがある。それは、アンティオキア教会の人々は、「キリストさん」・「キリストくん」と、自分たちのことがイエス・キリストのお名前と一緒くたに呼ばれてしまう、それほどに、このわたしとキリストとは切っても切れない関係にあるのだということを、このわたし自身も認め、周りの人々も認めてくれ、そのことを本当に心から喜び、誇りに感じることができた、そのような人々であったに違いない、ということです。



そのような、生き生きとした信仰の持ち主たちを生み出すことができた、という点に、バルナバとパウロの伝道の成果を見ることができると思います。



キリストとこのわたしが、切っても切れない関係である、という様子は、何に例えればよいでしょうか。もし私が佐々木冬彦さんのことを「ハープくん」と呼んでも、みんなが納得すると思います。わたしはできれば「説教くん」と呼ばれたいのですが、まだ皆さんに納得していただけるほどには至っていない、まだまだ修行が足りないかもしれません。



アンティオキア教会の人々の姿は、そう、こんなところに引き合いに出されるのは少し可哀想ではありますが、イエスさまが最高法院で裁判を受けておられる真っ最中に、三度もイエスさまのことを「知らない」と言って、関係を否定したあのペトロの姿とは決定的に違います。



アンティオキア教会の人々は、イエスさまのことを「知らない」とは絶対に言わなかったでしょう。知らないどころか、まさに切っても切り離せない。存在そのものにおいて、まさに「キリストさん」・「キリストくん」になりきることができました。そのことを、彼らは、心から喜ぶことができたのです。



皆さんは、松戸小金原教会の会員であることが、恥ずかしいでしょうか。



クリスチャンであることが、恥ずかしいでしょうか。



何か隠しておきたいようなところがあるでしょうか。



そうではない、と言ってほしい。そうではない、と言えるようになりたい。



そう願います。



(2007年9月2日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年8月26日日曜日

「あなたと家族を救う言葉」

使徒言行録11・1~18



「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。『わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。」』」



使徒言行録10・1から始まる、異邦人コルネリウスの話は、今日の個所で終わりとなります。「異邦人コルネリウスの話」とは、次のようなものでした。コルネリウスがキリスト教の洗礼を受けたいと願ったとき、当時の教会は、異邦人に対しては“開かれて”いませんでした。



ところが、コルネリウスがそのような強い願いを持って教会に近づいて来たこと、また神御自身の導きと配慮を得たこと(「天使」の動きに注目!)によって、当時の教会が異邦人コルネリウスを教会の正式なメンバーとして受け入れるという決断を下すことができた、という話です。



つまり、この出来事の中心は、狭く閉ざされていた教会の門が、より広く開かれた、という点にある、と申し上げることができます。



教会が「閉じている」ということのすべてが悪い、と申し上げたいわけではありません。教会は基本的性質として「信者の集まり」です。教会が自らの存在を信仰を持たない人々に対してすっかり明け渡してしまうことはありえません。それは、教会が教会でなくなる時です。この点では、教会は“閉じた”存在でもあります。



しかし、ここですぐに考えなければならないことは、「信者」とは何なのか、ということです。別の問い方をするならば、わたしたちは、いつ・どこで・どのようにして「信者になった」のか、ということを考えてみなければならないと思います。



わたしたちは、いつ「信者になった」のでしょうか。それは、いずれにせよ間違いなく、時間的な過去に属する「あるとき」です。「生まれたとき」ではなく、また「生まれる前」でもありません。信仰は、血や遺伝子によって受け継がれるものではありません。自覚も決断もなしに、自動的に「信者になった」という人は、一人もいないのです。



それでは、わたしたちは、どこで「信者になった」のでしょうか。これは、人によって違うところでしょう。教会の礼拝に出席していたとき、かもしれませんし、職場で仕事をしていたとき、かもしれませんし、人生の大きな苦労や試練を体験したとき、かもしれません。



重要な問題は次です。わたしたちは、どのようにして「信者になった」のでしょうか。この問いに対するわたしたち教会の者たちの答えは、「教会の信仰を告白し、教会の洗礼を受けることによって」というものです。



ただし、ここでどうしても忘れられてはならないのは、幼児洗礼を受けている人々です。この人々は、自分の信仰告白なしに洗礼を受けているわけですから、その人々が「教会の信仰を告白する」までは、言葉の正しい意味での「信者」と呼ぶことは難しいでしょう。



私が申し上げたいことは、幼児洗礼を受けた人々(信仰を告白していない未陪餐会員)のことを考えると、教会は“開かれた”存在であるということが分かる、ということです。なぜなら、「信仰を告白していない未陪餐会員」は、わたしたちの教会の“会員”なのです!教会は「信仰を告白していない」人々のためにも(!)存在するのです。



しかし、教会は、幼児洗礼を受けている人々に対してだけ“開かれている”のではありません。もう一方の大きな存在として、「洗礼を受けていない求道者」の人々のためにも、教会は存在します。教会は「洗礼を受けていない」人々のためにも(!)存在するのです。



教会は、「洗礼を受けていない求道者」を心から歓迎したいという強い意思をもって受け入れています。なぜなら、わたしたちが「信者になる」ためには、教会の信仰を告白し、教会の洗礼を受けなければならないからです。その意味は、わたしたちが「信者になる」という出来事は、教会というこの場所と全く無関係に起こることではありえない、ということです。



だからこそ、です。わたしたちは、「洗礼を受けていない求道者」の人々を心から歓迎し、積極的に受け入れなければなりません。その人々が信仰を告白し、洗礼を受け、神の救いの恵みに豊かに与る人になるために、「教会」が必要だからです。その意味で、その人々に対して、教会は十分に“開かれて”いなければなりません。



しかし、です。現実の教会はそのような締め出しをしてしまうのだということを知る、まことにショッキングな出来事が、11・1~2に記されています。



ここで「異邦人」とはコルネリウスのことです。コルネリウスは、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けました。そのことをエルサレム教会の人々が知ったときに、二つの反応が起きたと考えてよいでしょう。



第一は、一人の救いを求める魂が救われたことを率直かつ無邪気に喜ぶ、という反応でしょう。そういう反応もあった、と考えてよいと思います。



しかし、第二の反応として、強い危機感ないし危惧のようなものを抱いた人々もまた、少なからずいた、ということも明らかです。実際、ペトロが異邦人コルネリウスと一緒に食事をしたというだけで、かんかんに怒っているような、こっぴどく責め立てるようなことを言い出す人々がいたのです。コルネリウスがイエス・キリストへの信仰を告白したこと、洗礼を受けたこと、救われたことが、悪いことだったかのようです!



それは悪いことなのでしょうか。現実的に言えば、「洗礼を受けていない求道者」が洗礼を受けて教会のメンバーとなるとき、教会は“リセット”される必要があるのではないかと思うほどです。



それはどういうことか。聖書についても・信仰についても・教会についても、まだ何もご存じでないような人々を教会が受け入れるという場合、「このくらいのことは、いちいち言わなくても分かるでしょ」とか「分からないことがあれば、何でも質問してちょうだい」と言うだけで済ませることはできません。それは、ぶっきらぼうな態度です。そういう人々の多くは、何を・どのように質問してよいのかさえ分からないのです。



しかしまた、そのときは、長い教会生活を送って来た人々にとって、大きなチャンスでもあると思うべきです。教会生活が長ければ長いほど「今さら聞けない」と感じていることが増えているのではないでしょうか。実際のわたしたちは、知らないことだらけです。だからこそ、わたしたちは、与えられたチャンスを生かすべきです。



求道者が洗礼を受ける、あるいは未陪餐会員が信仰を告白する。そのことが起こるとき、教会全体が、いわば初めから学びなおすべきなのです。そして、そのことを、わたしたちは喜ぶべきであり、感謝すべきなのです。



ペトロは、エルサレム教会を、一生懸命に説得しました。異邦人コルネリウスを教会のメンバーとして受け入れたことは神の御心であり、神御自身が心から喜んでくださることである、ということを、言葉を尽くして語り、教会を説得したのです。



ペトロがエルサレム教会を説得するために発している言葉のなかで最も興味深いのは、この話のきわめて重要なポイントのところで「天使」が登場することです。



「天使」がコルネリウスに向かって、このような素晴らしい言葉を語ってくれたというのです。天使は神の代理者です。天使の言葉は神の言葉なのです。



「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」の中の「あなた」とは、コルネリウスのことです。信仰を告白して洗礼を受けることを、決心し約束する気持ちを固めているコルネリウスです。しかし、「家族」は、どうでしょうか。コルネリウス自身はともかく、「家族」は、信仰を告白したり、洗礼を受けたりするというようなことについて、積極的な気持ちを持っていなかったかもしれません。しかし、「家族」も救われる!



「使徒ペトロが語る言葉」とは、教会の礼拝説教のことであり、また、教会において・教会を通して・教会を用いて語られる牧会的な対話のことです。総じて、「使徒の言葉」とは、すなわち、“教会の言葉”であると呼んでもよいでしょう。



“教会の言葉”が、あなたと家族の者すべてを救う。「救う」とは解放すること、自由にすることです。罪と悪と死の束縛する力からの解放、これが救いです。



教会の語る言葉にはそのような力がある、ということについて、皆様には、「そのとおり!」と言って同意していただけるでしょうか、それとも、同意していただけないでしょうか。このあたりに、わたしたちの信仰生活のバロメーターがあると思われてなりません。



「教会に来て良かった!」と、(家族揃って!)感謝できる日が来ること。



「わたしの教会」、すなわち、安心と納得をもって参加できる教会が見つかること。



これこそが、わたしたちの人生のなかで、非常に大きな目標でありうるのです。



(2007年8月26日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年8月12日日曜日

「神は人を分け隔てなさらない」

使徒言行録10・34~48



今日の個所は先週学んだ個所の続きです。しかし、今日お話ししますのは一つの点です。 「神は人を分け隔てなさらない」という点です。



先週の個所から登場しているのはコルネリウスという人です。コルネリウスは異邦人の軍人でした。この人が、要するに「教会に通いたい」という願いを持っていたと考えられます。この個所に、そのようにはっきりと書かれているわけではありませんが、だいたいそのようなことであると考えてよいでしょう。教会に通いたい理由は聖書を正しく学び、正しい信仰を身に付けたいというようなことだったのではないかと思われます。



ところが、です。当時のキリスト教会は、なんと残念なことに、「異邦人お断り」という姿勢をとっていたのです。異邦人であるコルネリウスにとって、当時の教会に立ち入ることは、非常に難しいことでした。歓迎されないのですから!嫌がられているのですから!



しかも、困ったことに、当時の教会は、異邦人を事実上締め出す態度をとっていたことを“聖書に基づいて正しい”と確信していました。わたしたちにとって聖書に基づく確信は、まさに絶対的な性格を持ちます。「聖書にこう書いてある」と言われると、ぐうの音も出ません。これが人を黙らせる手段として持ち出されるときには、凶器にもなります。



わたしたちは、聖書に基づいてキリスト教信仰の揺るぎない確信を得ることもできますが、同時に聖書に基づいて大きな罪を犯すことがありうるのです。聖書に基づいて、人の心を最も深く傷つけることがありうるのです。



しかし、当時の教会が持っていた確信を、聖書の御言葉の究極的な意味での“著者”であられる主なる神御自身が打ち破られる、という出来事が起こったのです。それは、神がペトロに「夢」をお見せになる、という出来事でした。夢の内容は、10・9~16に記されているとおりです。



ただし、今日の個所に記されているのは教会全体の方針転換に至るよりも前のことです。ペトロという一個人の見解が変わる、という段階であると見ることができます。



しかしまた、そのペトロは、やがて、この自分の見解の変更を当時の教会の会議の席上で発表し、そこでの議論を待って、それを教会全体の見解にしていくという段階を踏んでいきました。



まさにこの点に教会会議の存在理由がある、と言ってよいでしょう。「聖書にこう書いてある」という仕方でわたしたちがまさに絶対的な確信を持っていることの中には間違って確信してしまっていることもある、ということに気づいたときに、深く反省し、根本的に方向を転換していくために、教会会議と、そこでの徹底的な議論とが、必要なのです。



そのようにして、西暦一世紀の教会は異邦人を拒むことをやめました。そして、可能なかぎり積極的に、異邦人に伝道するようになっていったのです。



「そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』」



ペトロは、自分自身で夢を見たことと、また異邦人コルネリウスとの出会いと話し合いの中で自らの信仰的確信の内容を変更しました。ユダヤ人は異邦人と交際してはならないという“聖書に基づく”確信を、自ら放棄しました。放棄することができた、という言い方をしておきます。自分の信仰的確信ないし宗教的確信の内容を、たとえ一部分でも放棄することは、実際には非常に難しいことであり、また、しばしば、とても耐え難い苦痛を伴うものだからです。



しかし、変更が必要ならば、変更すべきです。自分の確信する内容を変更することには苦痛を伴うので、「変更したくない」という気持ちが起こることは理解できます。しかし、間違った確信を持ち続けることや、間違っていることを「間違っていない」と言い張ることは、もっと大きな間違いなのです。



ペトロが新たに得た確信は、「神は人を分け隔てなさらない」ということでした。日本聖書協会の口語訳(1954年版)では「神は人をかたよりみない」と訳されていました。この訳も素晴らしいと思います。



ペトロが口にしている言葉の趣旨は、神は特定の人々をえこひいきなさらない、ということです。人種や民族、男か女か、あるいは経済的に豊かであるかそうではないかというようなこと、その時点で職業を持っているかどうか、学歴その他、などなど。そのようなことで、神は人を差別なさらない、ということです。



しかも、ここで直接的に問題になっていることは、教会の入会資格の問題です。この人は教会に入会する資格があるとかないとかを決めるのは、神御自身です。神が入会を許可しておられるのに、人間が入会を拒んではなりません。神が「受け入れます」と言われるなら、人間はそれを拒んではならないのです。



ちょっとだけ、私が気になっていることに触れておきます。それは、たとえば、中会や大会などでしばしば耳にする「教会の高齢化問題」というような言い方です。



「教会に若い人がいない。このままでは教会は滅びてしまう。若い人にぜひ来てほしい」。理屈としてはごもっともと思う面もありますが、いずれにせよひどく語弊がある物の言い方でもあることは事実です。



教会は、いつから「高齢者お断り」の看板を挙げるようになったのでしょうか。「神は人を分け隔てなさらない」のです。「私は高齢者だから、教会にとっては不要な存在なのだ」というようなことを少しでも考えさせてしまうような言葉遣いを、教会は用いるべきではありません。そういうことを自分が言われたらどんな気持ちがするだろうかと考えていただきたいのです。



高齢者だけではありません。教会は「こういう人に来てほしい」という言い方をすべきではありません。人の心は非常に複雑でデリケートなものです。「こういう人に来てほしい」という言葉を聞くと、「“こういう人”に当てはまらない人間は不要な存在なのだ。この私も不要な存在なのだ」と考え始めてしまうのです。



「神は人を分け隔てなさらない」のです。そのことをペトロははっきりと確信しました。そしてそのペトロのいわばこの時点ではまだ個人的な性格をもっていた確信が、やがて、教会の根本的な方針変換へとつながっていくことになりました。



当時ユダヤ人が大多数を占めていた教会が「ユダヤ人は異邦人と交際してはならない」という点にこだわり続けるなら、異邦人たちがイエス・キリストへの信仰によって救われ、教会で洗礼を受けてキリスト者になることは、絶対に起こりえないことになってしまうのです。



この点はいろんな面に応用できます。昨年の東関東中会設立記念信徒大会の実行委員会が神経を用いて考えたことは、体の不自由な方々への配慮という点でした。中会の諸教会にアンケートをとった結果、信徒大会に参加を予定している人々の中には、特別な介助を必要としているほどの障がいを持っておられる方はいない、ということが分かりました。



しかし実行委員会は、アンケートの結果はそうであっても体の不自由な方々への配慮は行うことに決めました。重度の聴覚障がい者はおられなくても手話通訳をお願いしましたし、車椅子の参加者はおられなくても介助スタッフをお願いしました。「いないからしない」というのは、事実上の締め出しを意味するのです。たとえそれが故意や意地悪でしていることではなくても(故意や意地悪でしているなら、それはそれで大問題ですが)、事実上の結果として「そういう人々は来てはならない」と、態度で示してしまっていることがありうるのだ、ということに気づく必要があるのです。



松戸小金原教会の今の会堂が建てられたときに、私は立ち会っておりませんでしたので、皆さんがどのような議論をなさったのかは、全く知りません。知らないほうがよいこともあると思っています。しかし、この会堂で素晴らしいと感じる点の一つは、エレベーターがあることです。礼拝堂が二階にあるからです。二階に礼拝堂があるのにエレベーターがないという教会は、階段を登ることができない足の不自由な人々を、事実上締め出してしまっているのです。今では、皆さんにとって本当に重宝している部分ではないでしょうか。



しかも、ここで重要なことは、教会は何のためにあるのか、という問いを持つことだと思います。コルネリウスに対するペトロの答えの中にも、この点に触れている言葉があります。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と書かれている、これがそれです。



このペトロの言葉は、功績主義的に解釈されてはなりません。功績主義的な解釈とは、どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行いさえすれば、神に受け入れてもらえます、というような読み方です。神に受け入れてもらうためには、神を畏れて正しいことを行うという功績的条件を満たす必要がある、という読み方です。



しかしペトロが言おうとしていることは、そういうことではありません。ペトロの言葉の趣旨は、教会とは何のためにあるのか、ということにかかわるものだ、と考えることができるでしょう。つまり、教会とは「神を畏れる」場である、ということです。



また「正しいことを行う」のここでの意味は、一般的・人間的・道徳的な意味での正しさを満たす、ということではなく、神の御心に従う、ということです。神の御心は正しいものですので、その神の御心の正しさに従うことによって、その結果、正しいことを行うことになる、ということです。また、神の御心の正しさには、一般的・人間的・道徳的な正しさを満たす要素も多く含んでいますので、神の御心に従うことによって、その結果、それらの一般的な意味での正しい行いをすることにもなる、ということです。



ですから、このように考えますと、ペトロの言わんとしていることは、「神を畏れること」と「神の御心の正しさに従って生きること」が教会の存在理由なのであって、その教会に入会することにおいては、いかなる差別もあってはならない、ということである、ということがお分かりいただけるであろうと思います。



念押しのために、繰り返して申し上げておきます。教会は「“こういう人”に来てもらいたい」というような願いを持つべきではありません。そのように願うときの“こういう人”とは、しばしば、ある人々にとって都合が良いだけの存在です。



神の御目には、“こういう人”と“ああいう人”の差別はないのです。「あなたは福音を信じて救われることなど、なくてもよい」というようなことを言われなくてはならない人は、この世界に一人もいません。



今日の個所の出来事は、「ペトロの“回心”」と呼んでもよいくらいです。ペトロが方針を変えることができたので、異邦人コルネリウスはやっと教会に受け入れられたのです。



一人の新しいキリスト者が誕生したのです!



(2007年8月12日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年8月5日日曜日

「すべてのものは清い」

使徒言行録10・1~33



今日の個所に記されていますのは、教会の長い歴史の中で最も大きな意義を持つ出来事の一つであると考えることができます。少なくとも使徒言行録に記されている出来事の中では最大級の意義を持っていると言ってよいでしょう。実際この出来事のために割かれているページの数を見ていただくだけでも、この問題の取り扱われ方が非常に丁寧かつ慎重であることが分かるでしょう。



それは何か。教会がこの日このときまで目を向けようとしていた方向が事実上逆転したということです。逆転は言いすぎかもしれません。百八十度の方向転換とまでは言えないかもしれません。しかし、少なくとも相当の変化であり、根本的な方向転換がありましたということは、間違いなく言ってよいと思います。



この日このときまで、教会の目は、もっぱらユダヤ人たちに向けられていました。教会の使命は、ユダヤ人に伝道することでした。しかし、まさにこの日このときから、教会の視線が逆転しました。根本的な方向転換を遂げました。ユダヤ人以外の人々、すなわち、異邦人に目を向けるようになったのです。これがこの出来事の具体的な内容です。



当時の教会が使命としてきたことは、ユダヤ教を信じている人々に対して、あるいは、ユダヤ教団の事実上の支配下にいる人々に対して、イエス・キリストへの信仰を宣べ伝え、ユダヤ人たちをキリスト教会へと招き入れることでした。



それは同時に、ユダヤ人たちがイエス・キリストを十字架につけて殺した、ということについての厳しい裁きと断罪、そしてそのことを率直に認めて悔い改めるように、という強い勧めが含まれていました。



しかも、それは、当時の教会の人々にとってはユダヤ人に対する愛を意味していました。キリストの弟子たちのほとんどもユダヤ人でした。イエス・キリストを殺した人々は彼らの同胞でした。愛すべき家族でした。キリストの弟子たちは、ユダヤ人を愛するがゆえに、ユダヤ人に福音を宣べ伝え、自分の罪を認めて、神に立ち返るように勧めたのです。



しかし、問題もありました。それは、皆さんには、すぐにご理解いただけることです。要するに、ユダヤ人たちばかりが集まっている教会には、ユダヤ人以外の人々は来にくい、という問題です。



初代教会の人々がユダヤ人以外の人々(異邦人たち)への伝道を面倒くさがっていたかどうかは、はっきりとは分かりません。しかし、おそらく非常に大変なことであったのではないかということは、想像に難くありません。なぜなら、ユダヤ人たちの多くは、それこそ生まれたときから聖書に基づく宗教教育を受けてきた人々であるのに対して、異邦人たちには、聖書の知識がなかったからです。



聖書のみことばに関しては、一を聞けば十を知るユダヤ人たちに対して、十を聞いても一しか分からない異邦人に伝道することになる。そうであることを教会が面倒くさがっていたということではないと思います。しかし、それは相当大変なことであると当時の教会の人々が感じていたのではないかと想像することは可能でしょう。



もちろん現実には、どちらが面倒で、どちらが簡単かは分かりません。ユダヤ人たちが聖書の知識を豊かに持っていることが、かえってキリスト教信仰を受け入れるための妨げになった面もあるだろうと思われるからです。なぜなら、ユダヤ人たちの聖書の読み方はユダヤ教的な読み方であって、キリスト教的な読み方とは異なるものだからです。聖書についての先入観をほとんど持っていない異邦人のほうが、かえってキリスト教信仰を素直に受け入れることができたのではないだろうかという面もあったはずです。



実際の理由は今日の聖書の個所に記されているとおりです。少なくともルカが説明している理由は、今申し上げたことではありません。その理由とは何か。初代教会を構成していたユダヤ人たちは、異邦人との交わりを“聖書に基づいて”自粛していたのです。そのことが、28節に記されていますので、先に見ておきます。



「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」(10・28)。



「律法」とは聖書のことです。聖書には、ユダヤ人は外国人(異邦人)とは交際してはならない、と書いてある。だから、ユダヤ人たちが集まっている教会の中に異邦人たちを招きいれることは、“聖書において”禁じられていることなのだという理解が、当時の教会の中にあった、ということです。



しかし、そのような聖書理解を、教会自身が根本的に変更することになった。根本的な方針転換を図ることになった。その変更と転換のきっかけとなった出来事が、今日のこの個所に記されているのです。



「さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。『イタリア隊』と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、『主よ、何でしょうか』と言った。すると、天使は言った。『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。』天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。」



1節から8節までに登場するのは、カイサリアに住んでいるコルネリウスという異邦人と、二人の召し使いです。コルネリウスは異邦人でしたけれども、だからといって、差別や偏見をもって見られなければならないような特別な悪人であったわけではありません。熱心で真面目な信仰者でした。



ただし、コルネリウスが信じていたのは厳密な意味でキリスト教の信仰であったのかと問われるならば、おそらく最初の時点ではそうではなかった、と答えるべきです。それではユダヤ教の信仰だったのでしょうか。おそらくそうだったと思いますが、純粋にあるいは厳格にユダヤ教の教えを守っていた人であると断言できるほどかどうかは分かりません。なぜこのような微妙な言い方をしなければならないのかと言いますと、まさにこれが先程触れました、ユダヤ人たちは外国人たちとは“聖書に基づいて”交際していなかった、という事実に関係してくるのです。



コルネリウスはユダヤ教の教会から事実上締め出されていたのです。またキリスト教会の中のユダヤ人たちからも事実上締め出されていたのです。



それならば、いったい、コルネリウスは、どこの教会に通えばよかったのでしょうか。ユダヤ教の教会からも、キリスト教の教会からも締め出されて、果たして、どこで聖書を学べばよいのでしょうか。聖書なんか教会に通わなくても独学で学べるものであるとか、聖書なんか読まなくても、神を信じることはできる、というようなことを、われわれの口から言ってよいのでしょうか。そういうことを、わたしたちの口から、言ってはならないのです!



わたしたちの確信は、聖書を学ぶためには、教会に通うべきである、ということです。正しい信仰を身に着け、正しい生き方を貫いていくためには、教会の中で聖書を学ぶべきである、ということです。



しかし、コルネリウスは、事実上、教会から締め出されていました。当時の教会はもっぱらユダヤ人たちによって成り立っており、かつそのユダヤ人たちが「外国人と交際してはならない」という“聖書の教え”を忠実に守っていたからです。



ところが、コルネリウスは、要するに、教会に行きたかったのです。聖書を正しく学び、正しい信仰を身につけ、正しい生き方を貫いて行きたかったのです。この人が教会に足を踏み入れることができなかった理由は、ただ一つ、ユダヤ人ではなかったからです。



しかし、このコルネリウスに、またとないチャンスが訪れました。コルネリウスのもとに天使が現れ、ヤッファにいるペトロのもとに人を送って、ペトロを招きなさい、というお告げをいただいた、というのです。



「翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、声をかけて、『ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか』と尋ねた。ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。『三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。』ペトロは、その人々のところへ降りて行って、『あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここに来られたのですか』と言った。すると、彼らは言った。『百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。』それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。『お立ちください。わたしもただの人間です。』そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。『あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。』すると、コルネリウスが言った。『四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。」それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。』」



ルカは、ペトロとコルネリウスの出会いまでの経緯について、(ちょっとくどいと感じるほどに)非常に詳しく丁寧に書いています。



興味深いのは、ペトロがコルネリウスに出会う前に、ペトロの側にも、ひとつの幻を、神御自身がお見せになったということです。幻を見た、という、言ってみれば、なんとも不合理的で、不可思議なことがきっかけでした。聖書解釈の間違いを改めるには、理詰めだけでは解決しないものがある、という一つの良い例ではないかと思わされます。



ペトロの見た幻は、よく知られているものです。「天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされ、地上に下りてくる」というものであり、その入れ物の中には「あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥」が入っていて、「それを屠って食べなさい」と天から声が聞こえてくる、というものでした。そして、そんなことはとんでもないことです、汚れたものを私はいまだかつて食べたことがありません、とペトロが反論したら、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とお叱りを受けるというものでした。



そして、ペトロは、この幻の意味に気づく。コルネリウスの使いの者たちが来たときに、そのことに気づくのです。ああ、そうか、わたしは大変な過ちを犯していた、ということに気づく。外国人と交際してはならない、という掟に縛られるあまり、教会に来たがっている人々、教会の中で聖書を学び、聖書の教えに基づいて正しく生きて行きたい、という願いを持っている人々を、事実上締め出していた、ということに気づくのです。



わたしたちも、ペトロと同じことに気づく必要があります。わたしたち教会のなすべき「伝道」とは、聖書や教会の事情がよく分かっている人々だけを対象にするものではありません。他の教会に通っていたが躓いた、とか、他の教会で洗礼を受けたがいろんな事情で移ってきた、という人々は、もちろんたくさんいますし、そのような人々を教会が受け入れることも重要です。



しかし、それは、言葉の正しい意味での「伝道」ではありません。伝道は、まだ洗礼を受けていない人々、まだ信仰を持っていない人々を対象にします。日本で言えば、すでにキリスト者になっている1%の人々ではなく、まだキリスト者になっていない99%の人々を対象にするのが「伝道」です。



わたしたち自身が最初に教会に足を踏み入れた日のことを思い出せばよいのです。もう忘れてしまったでしょうか。聖書の内容も、教会生活の仕方も、祈りの言葉も、何ひとつ知らなかったこのわたしを、教会が(少々我慢して)温かく受け入れてくれたのです。



そのことを、忘れるべきではありません。



(2007年8月5日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年7月29日日曜日

イエス・キリストがいやしてくださる

使徒言行録9・32~43

今日の個所に登場する伝道者は、使徒ペトロです。描かれているのは、ペトロが伝道者として働いている具体的な様子です。

ペトロは「方々を巡り歩いて」いました。要するに、歩いていました。しかし、ただ歩いていただけではなく、同時にしていたことがあります。それは「会いに行くこと」と「言葉を語ること」、そして「病気をいやすこと」または「死人をよみがえらせること」でした。それがペトロの仕事でした。

「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、『アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい』と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」

アイネアは男性の名前です。8年前から中風の病気にかかっていました。それが重い病気であったことは間違いありません。

ただ、新共同訳聖書を読むだけではよく分からない点があります。それは、アイネアが、ペトロがリダに来る前からキリスト者だったかどうかという点です。

問題は「そしてそこで」の意味です。この「そこで」がリダという町の名前だけにかかっているのか、それとも「リダに住んでいる聖なる者たちのところ」という部分の全体にかかっているのかです。

「聖なる者たち」の意味は、ここでは間違いなくキリスト者を指しています。同じ意味の「聖なる者たち」という言葉が、ダマスコのアナニアの祈りの言葉の中に出てきます。

「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました」(9・13)。

サウロが悪事を働いた相手とはキリスト者のことです。「聖なる者たち」とはキリスト者のことです。

リダに住んでいた「聖なる者たち」も、キリスト者です。キリスト者の中に特別に聖なる人がいるというような話ではなく、キリスト者すべてが「聖なる者たち」と呼ばれていたのです。

しかし、これだけではよく分からないのは、ペトロが行った「そこ」とは「リダ」のことなのか、それとも「聖なる者たちのところ」なのかという点です。ただし、それが不明なのは、新共同訳聖書のせいではなく、原文のせいです。原文自体がどちらとも取れるように書かれています。

一つの点にこだわりすぎたかもしれません。しかし、これは実際の場面では非常に重要な問題になりえます。どういう問題になるかをよく考えてみていただきたいのです。それは、わたしたちにとって実は非常に身近な問題でもあるはずです。

第一の可能性は、アイネアはすでに「キリスト者」だったということです。彼はペトロに出会う前からすでにキリスト教信仰を告白していたし、教会生活を送っていました。

信仰者であるということは、教会に通っていた人であるという意味にもなります。教会には通っていないが信仰はあるという話は、今日では無視することができませんが、当時はそういう話にはなりません。信仰生活と教会生活はイコールであったと考えるべきです。

だからこそ、ペトロは、キリスト者であるアイネアのもとに行きました。ペトロは信仰によってアイネアをいやすことができましたし、アイネア自身も、彼自身がもともと持っていた信仰のおかげでペトロの言葉を素直に聞くことができたので、病気を克服することができました、というような流れで、この話を理解することができるでしょう。

しかし、第二の可能性もありえます。アイネアはペトロがリダに来る前は「キリスト者」ではなかったという可能性です。

彼はまだキリスト教の信仰を告白していなかったし、教会生活も送っていませんでした。ペトロはまだ信仰を持っていないアイネアのもとに行きました。そして言葉を語ります。「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」。

このペトロの言葉によってアイネアの心の目が初めて開け、信仰が与えられ、またそれと同時に、いやしが起こりました。アイネアにもともと信仰がなかったという場合は、そのように、つまり、信仰といやしは同時に起こったこととして、あるいは同じ事柄の二つの側面であるかのように、理解することができるようになるでしょう。

ここで「どちらでもよいことだ」と言ってしまうとしたらかなり乱暴な感じになります。どちらであるかということが、わたしたちにとっては大きな問題となりうるからです。

事情は次のとおりです。特に問題の影響が大きいと思われるのは第二の可能性を想定する場合です。

ペトロは、まだ信仰を持っていない人のところに行って「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる」と言ったのだとしたら、ペトロがアイネアの病床でしていることは、全く事実上の伝道です。

しかし、第一の可能性である場合は、ペトロが病気のアイネアの前でしていることを伝道と呼ぶことはできません。伝道の第一義は、まだ信じていない人を信仰へ導くことだからです。

ペトロとしては、病床で伝道しているわけではない。それ以前からキリスト教信仰を持っていたアイネアに対し、病気の中でおそらくいろんな意味で気落ちし、不安に思っていたであろうアイネアの心の中にその信仰を呼び起こすために、励ましの言葉をかけている、と理解することができるでしょう。

私にとって気になることは、まだ信仰を持っていない人々にとって病気のときに「枕元で伝道されること」が本当に良いのかどうかです。もっと(ある意味で)分かりやすい言い方をするとしたら、元気のない人を元気づけるために「枕元で宗教の勧誘をすること」が果たして良いことなのかどうか、です。

そういうやり方はちょっと意地悪な人々から「教会が弱い人々の弱みにつけこんでいる」というふうに見られても仕方ないのではないでしょうか。そういうふうに見られるかもしれないということをわたしたちは大いに気にする必要があると、私は考えております。

「そんなのは見る人の勝手である」とか、「そう思いたい人には思わせておけばよい」と乱暴に言って済ますわけにはいかない、深く重大な問題が潜んでいるように思われてなりません。どちらとも取れる書き方をしているのは原文ですから、どちらの読み方が正しいと断言することができないのが残念です。

しかし私は、第一の可能性のほうを選びたいと思います。ペトロは枕元で伝道したわけではありません。相手の弱みにつけこもうとしていたわけではありません。すでに信じている人を、その信仰によって励まそうとしたのです。そして、アイネアは実際に励ましを与えられ、立ち上がる力を得るほどに、全くいやされたのです。

そして、いやされ、立ち上がることができたアイネアの姿が、彼のことを知る多くの人々の前で良き証しになり、あのアイネアが信じている神を、このわたしも信じたいと思う人々が現れました。

つまり、そこで起こったことは、ペトロが病気のアイネアに伝道し、それによって病気のいやしの奇跡が起こった、ということではない。むしろ、信仰者アイネアが、ペトロの励ましの言葉によって力をえ、アイネアを知る多くの人々に対して、アイネア自身が伝道したのです。信仰の証しが、人々の心を揺り動かしたのです。

ペトロの働きは続きます。リダの次はヤッファという町に行きました。そして、その町で「タビタ」とか「ドルカス」と呼ばれていた一人の女性のところに行ったのです。

「ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち『かもしか』――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、『急いでわたしたちのところへ来てください』と頼んだ。ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。」

ここにはっきりと書かれていることは、タビタは「弟子」であった、ということです。つまり、タビタもキリスト者であり、キリストの弟子であった、ということです。

ペトロがヤッファに行ったとき、タビタはすでに死んでいたということですが、だからこそ言えることは、ここに書いてあるタビタが行っていた「たくさんの善い行いや施し」とは、タビタにとっては、 “キリスト教信仰に基づいて” というはっきりとした自覚をもって行っていたことである、ということです。

区別の面をあまり強調しすぎるのは良くないことかもしれません。しかし、どうしても言わざるをえないことは、タビタの善行や慈善は、信仰を抜きにした博愛主義であるとか人道主義ということだけでは説明がつかないものであっただろう、ということです。

ですから、そこからまた考えられることは、ペトロがヤッファに到着したときにペトロの周りに集まってきた「やもめたち」もまた、その多くがタビタと同じヤッファの教会に通っていた信仰者たちだったのではないかということであり、またそこに何人かの求道者(未信者)も含まれていた、というような事情ではなかっただろうか、ということです。

当時の教会は一つの執事的使命として、戦争や病気でご主人を失った女性たちを助ける働きをしていたことが知られています。「やもめたち」は、泣きながらタビタ(ドルカス)が作ってくれた下着や上着をペトロに見せた、とあります。教会の執事的な働きの中で、タビタ(ドルカス)の才能が如何なく発揮され、大いに用いられたのです。

彼女はおそらく、裁縫が上手だったのです。贅沢なものを買ってきたり、それを着たりするのではなく(私は今、そうすることが悪いと言っているのではありません)、ぼろぎれではないと思いますが、布のきれっぱしのようなものを集めてきて、それを服にしたのではないか、というようなことが考えられます。

その手作りの服をみんなが大事にした。「これはドルカスが作ってくれたものなんです!ドルカスが作ってくれたものなんです!」ということを、みんなが覚えていて、感謝していて、大事にしていた様子が伝わってきます。本当に愛された女性だったに違いない。

しかし、その人が死んでしまった。ヤッファ教会は、タビタを失った悲しみの中にいた。教会の中で重要な存在は、男性も、女性も、です。けれどもまた、女性の働きがしばしば非常に重要です。そして、ペトロが訪ねたとき、教会の大きな柱が倒れてしまったのではないかというほどの衝撃を受けていたのではないかと思われるのです。

「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。」

その悲しみと衝撃の中にあったヤッファ教会を、主が憐れんでくださいました。

タビタを復活させてくださったのです!

みんなが大好きな女性タビタを、です!

教会の中で本当に愛された女性を、です!

主は、彼らの手に返してくださったのです!

そして「タビタ」は、教会の中で永遠に生き続けているのです。

(2007年7月29日、松戸小金原教会主日礼拝)


2007年7月22日日曜日

「信 頼」

使徒言行録9・23~31



今日の聖書の個所には、サウロの回心に関係している記事が、もう少し続いています。ここに書いてあることを短い言葉でまとめて言うとしたら、サウロの回心後にどうしても越えなければならなかった高いハードルを越えることができた、その瞬間の出来事である、と表現できるでしょう。



「高いハードル」とは何か。キリスト教の熱心な迫害者であったサウロが、回心した。今度はキリスト教の熱心な伝道者になった。そのあまりにも大きすぎる、まさに文字通り百八十度の方向転換がサウロの身に起こったのだということを、周りの人々が、とりわけ教会の人々が、なかなか信用してくれなかった。その意味での信用ないし信頼のハードルです。



そのハードルを、サウロは乗り越えることができたのです。それは、ある意味で、回心の出来事そのもの以上に感動的な出来事です。



「かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。」



サウロは回心した後、ダマスコのアナニアのもとで、しばらくの時間を過ごしました。そこで何をしていたのかは詳しく書かれていませんが、当然考えてよいであろうことは、キリスト教信仰の手ほどきを受けたのではないか、ということです。



サウロは律法学者の卵でしたので、(旧約)聖書については、高い学問的レベルの研究をしてきたはずです。しかし、それは、もちろんユダヤ教的な聖書の読み方でした。



わたしたちの時代にも、同じこの聖書を読んでいると言いながら全く異なる立場や異端的な立場から聖書を読んでいる人々がいます。聖書はどういう読み方をしてもよいというものではありません。わたしたちが信頼を置いているのは、聖書のキリスト教的な読み方です。



サウロは、聖書のことならなんでもよく知っているつもりでした。しかし、回心した。そのとき、これまでわたしは聖書の読み方を根本的に間違っていたと感じたに違いありません。サウロは、アナニアのもとで、聖書を最初から全く新しく読み直し、それによってキリスト教信仰を学んだのではないかと、想像できます。



ところが、サウロがアナニアのもとにいるという情報が、どのような経緯でかは分かりませんが、ユダヤ教関係者に漏れてしまいました。そして、裏切り者サウロを殺せという指令まで出ました。



そしてその情報を、今度はサウロの側が知るに至りました。どの人もこの人も口が軽いのか、何なのか、事情はよく分かりませんが、お互いの情報が筒抜け状態であったことが、なんとなく伝わってきます。



そして、サウロ暗殺の実行部隊が、ついに動き出しました。サウロの動きを、夜も昼も見張っていた。しかし、サウロは「弟子たち」の助けを得て、逃走することに成功したのです。



興味を引くのは、サウロに「弟子たち」がいた、という点です。ダマスコのアナニアのもとにサウロと一緒にキリスト教信仰を学んでいた人々であると思われます。新しい信仰を一緒に学んでいるサウロの姿を見て「この人は信頼できる」と感じることができた人々ではないでしょうか。



近くにいると、それが分かる。この人は安心して共に歩むことができる人であるということが分かる。サウロはそのような信頼を得ることができ、新しい信頼関係を築いていくことができる人であった、その証拠がここにある、と言ってよいでしょう。



ところが、そのサウロの前に先ほどの「高いハードル」が現れました。それは、要するに、サウロのことを遠くから見ている人々でした。具体的には、エルサレム教会の人々でした。物理的な距離だけではなく、精神的な距離が、遠い。まだ一度も会ったこともないし、話したこともない。ただ、噂や伝聞で「サウロというあの人は、信用できない人間である」と伝わっている。殺人鬼や悪魔のような姿を想像されている。しかし、それはまた、明らかに“根も葉もある”噂であり、伝聞でもあったわけです。そして、その上で、やや過剰なまでの誤解や偏見が混ざっていた可能性も考えられるわけです。



しかも、サウロにとっての大きな問題は、エルサレム教会の人々が実際に会ってくれるかどうかというものだったことも明らかです。「あのサウロという人は、教会の人々をさんざんひどい目に遭わせ、傷つけた。今さら何を言っても無駄である。そんな人においそれと会うわけには行かない。どうかお引き取り願いたい」と、丁重かつ慇懃に断られる可能性も十分にありました。



そのような人々に会いに行く。きちんと頭を下げて謝ることも必要です。そして、その上で、その人々に受け容れてもらい、教会の新しい仲間に加えてもらわなければならない。それこそが、サウロの越えなければならなかった「高いハードル」でした。



もしわたしたちがサウロの立場だったらどうだろうか、と考えてみることが重要です。その「高いハードル」を越えることができるでしょうか。



「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」



ここに書いてあることから分かることは、さすがのサウロも彼自身の力や技量だけではエルサレム教会のすべての人たちの信頼を勝ち取ることができなかったのだ、ということです。



それでは、このサウロは、どのような方法で「高いハードル」を越えることができたのでしょうか。それは次のような方法でした。すなわち、要するに、サウロを助けてくれる人が現れたのだ、ということです。



それは、バルナバという人でした。本名はヨセフでした、使徒言行録のこれまでの話の中に一回だけ登場しています。「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――『慰めの子』という意味――と呼ばれていた、キプロス島のヨセフ」(4・36)とあるとおりです。



「バルナバ」はニックネームでした。「慰めの子」という意味である、と書かれていることから想像できるのは、この人はとにかく優しくて、温かみがあって、人当たりが良くて、ひょっとしたらちょっと人懐っこいようなところもあって、性格が良い。人格的にも尊敬できる。そんな感じの人ではないでしょうか。



そして実際のバルナバは、そのとおりの人だった、ということが、使徒言行録のこの後の展開の中で次第に明らかにされていきます。このバルナバは、初代教会の中できわめて大きくかつ重要な役割を果たします。それは何か。サウロ(パウロ!)と共に、サウロを助けて、世界宣教旅行に出かける、唯一無二のパートナーになっていくのです!



ただし、です。ちょっと残念なことに、この二人は、ある一つの出来事がきっかけで、大喧嘩になり、ある時点から別々の道を歩むことになってしまいました。しかしそれまでの二人は、お互いを非常に信頼しあっていました。また、お互いを慕っていたとも思われます。そして、その大喧嘩そのものも、個人的な感情のもつれとか、好きだの嫌いだのという次元に原因があったわけではなく、教会の宣教の使命と方針をめぐっての意見の対立であり、それは仕事や考え方の上での対立なのであって、その意味では、“尊重されるべき喧嘩”(?)でもあった、と言うべきものなのです。



しかし、バルナバのことについて先回りしていろいろお話しするのは、やめておきます。この個所で重要なことは、サウロとバルナバの最初の出会いの場面での出来事です。



エルサレム教会の中のまだ誰もサウロのことを信用してくれなかったときに、誰よりも真っ先に、バルナバが信用してくれた。バルナバがサウロの話を親身になって聞いてくれ、そして使徒たちや教会の他の人々との仲を取り持ってくれた。仲介役を買って出てくれた。そのバルナバのおかげで、サウロは、エルサレム教会の人々から信頼されるようになり、まさに「高いハードル」を越えることができた。それは、おそらくわたしたち一人の人間が一生の間に越えなければならないハードルの中では、最も高いかもしれないものです。それをサウロは、バルナバに手を引かれて(!)、飛び越えることができたのです!



こういう人が教会の中に、あるいは、わたしたちの人生の中に現れてくれるとしたら、なんと得がたい恵みであるかと思わずにはいられません。それは、反対側から考えてみると良く分かることではないでしょうか。もしサウロの前にバルナバが現れてくれなかったとしたら、おそらくサウロは、いまだに(!)エルサレム教会の門の前を行ったり来たり、うろちょろし続けていることでしょう。結局その門をくぐることができない。一人の人間の力の限界がそこにあると言えるのではないでしょうか。



これはおそらく、最近わたしたちの教会の仲間に加わってくださった方々には、記憶に新しいところであると思います。教会の仲間に加わるということは、言うならば、いまだかつて体験したことがないような全く新しい人間関係の中に入っていくことを意味しています。それは、イエス・キリストにおける救いの恵みに基づく罪の赦しに生かされる人間関係です。



そして、おそらくそのような全く新しい人間関係の中に入っていくときに、わたしたちに必要なものは、いささかの勇気です。まさにその勇気をもらう必要がある。そのために、手をつないで一緒に入ってくれ、いろいろと助け舟を出してくれる導き手が必要である、ということです。



それが、わたしたちにとっては、たとえば、両親あるいは片方の親である場合もあるでしょう。あるいは、おじいちゃんやおばあちゃん、親戚、兄弟。友人たち。自分の子どものほうが先に洗礼を受けて、教会の仲間に加わっていた、という方もおられるでしょう。牧師や牧師夫人がバルナバの役目を買って出てくれた、というケースもあるでしょう。



「そういう人が、私には誰もいなかった」と思っている方もおられるかもしれません。しかし、もう少しよくよく思い出してみていただきますと、次のようなことがあったのではないでしょうか。初めて教会の門をくぐったときに受付にいた、あの執事さんから親切な声をかけてもらった。帰りがけに、あの長老さんから優しく声をかけてもらった。隣にいたあの人が親切にしてくれた。



そのようないわばほんの小さなことが、大きな安心感につながり、「よし、これから教会生活を始めてみよう!」と決心するきっかけになった。そういうことは、なかったでしょうか。



教会が何か恩着せがましいことを言いたいわけではありません。私が申し上げたいことは、わたしたちが信仰に導かれ、教会生活を始めるときには、ほとんど間違いなくそこに必ず人間(ひと)が介在しているのだ、ということだけです。人間(ひと)の存在が重要なのだ、ということです。そのことに、ぜひともお気づきいただきたいのです。



そして、もう一つ申し上げておきたいことは、今度は、わたしたち自身が、「サウロ」を教会に導く「バルナバ」の役目を果たす番である、ということです。



「このわたしのことを教会は受け容れてくれるだろうか」と、不安な思いを抱きながら、教会の門の前を行ったり来たりしている「サウロ」を、です。



今度は、わたしたちが「バルナバ」になって、教会に受け容れるのです。



それが、わたしたちの役割なのです。



(2007年7月22日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年7月8日日曜日

「苦しみの器」

使徒言行録9・10~22



先週の個所で、熱心なキリスト教迫害者であったサウロの身に、突然の出来事が襲いかかりました。サウロに襲いかかって来たのは、光と声でした。その正体は何なのかということはすぐに分かりました。それは、現実に生きておられるイエス・キリストの現実の存在と、現実の声でした。



その光と声に接したサウロは、おそらく震え上がったのです。恐ろしかったし、何より驚いたのです。恐怖と驚きのあまり、目が見えなくなり、食べ物も飲み物も喉を通らなくなってしまったのです。



大きなショックを受けた人は、本当にそのようになります。皆さんはよくご存じのことと思いますが、人間の心というのは、それほど強くありません。大きなショックはできるだけ受けないほうがよいと思います。その反応は、多かれ少なかれ体にも必ず出てくると言ってよいでしょう。



ただし、です。今言ったことをすぐに否定するようなことを言いますが、サウロの場合に限っては、大きなショックを受ける必要があった、と言わなければならないかもしれません。なぜなら、サウロは、繰り返し申し上げておりますとおり、熱心なキリスト教迫害者であったからです。



熱心さというのは、しばしば、くせものです。人が何かに夢中になっているときには、周りの人々の姿が目に入っていません。自分の関心と、自分の確信に、どこまでも忠実であろうとします。まさに猪突猛進の状態。その人の姿は、イノシシに似ています。



過度に夢中な状態になっている人は、やはり危険な存在であると言わねばなりません。熱心にキリスト教を迫害することこそが神の御心にかなって正しいことであると、サウロは確信していました。宗教的な確信を持っていました。この確信、この熱心さが、サウロの心を狂気にかりたてたのです。



イノシシがわたしたちのほうに向かって走ってくる場面を想像してみたらよいのです。怖いです。身の危険を感じます。止めるには、何とかしてひっくり返してしまうしかありません。非常に大きなショックを与えて、打ち倒してしまうしかないのです。



はっきり言わざるをえないことは、サウロはまさにその場で打ち倒される必要があったのだということです。キリスト者たちを迫害することに夢中になっている人がいる。その人に対しては、大きなショックを与えて倒してしまう必要があったのです。そのことを、現実に生きておられるイエスさま御自身がサウロに対して行ってくださったのだ、というふうに、先週の個所を読むことができます。



しかし、です。イエスさまがサウロの前に現れてくださった目的はもっと先にある、ということです。イエスさまの目的は、夢中になってキリスト者を迫害していたサウロを、今度は、夢中になってイエス・キリストの福音を宣べ伝える伝道者にすることです。



そのためにイエスさまはサウロに大きなショックをお与えになったのです。背負い投げ一本をお決めになったのです。サウロは、その場で仰向けに倒れされてしまったのです。



ただし、です。今日の個所を読みますと、イエスさまというお方はなんとお優しい方かということが、よく分かります。イエスさまがなさったことは、いわば御自分でショックを与えて完全に打ち倒してしまわれたサウロを、しかし、そのままに放置されたわけではなく、すぐにも助けおこして、今度は、大きなショックを受けてふさぎこんでいるサウロを慰め、励まし、いたわってくださった。心のケアをしてくださった、ということです。



そのためのサウロの“カウンセラー”として、イエスさまに選ばれたのが、ダマスコの町に住んでいたアナニアという人でした。このアナニアは「弟子」、つまり、キリスト者でした。アナニアがサウロに対して行ったことは、事実上の「キリスト教カウンセリング」であった、ということです。



「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。』しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。』」



このアナニアとイエスさまのやりとりから分かることがあります。それは、アナニアはイエスさまからサウロのところに行くように命ぜられる前から、サウロの存在と彼がこれまでしてきたことを、よく知っていた、ということです。



それは、サウロがエルサレムでどんな悪事を働いたかを「大勢の人から聞きました」と言っているとおりです。あるいはまた、サウロがキリスト者を逮捕してもよいという権限を祭司長たちから受けていたことも、アナニアは知っています。



この点で私が申し上げたいことは、アナニアはいわゆる超能力者だとか占い師のような存在ではない、ということです。サウロの存在は、あらかじめ知っていました。おそらく関心も持っていました。あの人がこの先どうなっていくのかと心配してもいたのではないかと思われます。



サウロのほうは、アナニアのことを知らなかったかもしれません。ここを読むかぎり、そのような気がします。しかし、こういうことがある、ということを、覚えておくほうがよいと思います。それは、わたしのことを、わたしはまだ知らない人が関心を持っていることがありうる、ということです。



これはぜひ悪い意味で受けとらないでいただきたいところです。わたしはまだ知らない人からわたしのことが知られている、と言いますと、気持ち悪い話のようでもあります。そういう気持ち悪いケースも、実際にはあるでしょう。しかしたとえば、わたしたちが、少し責任ある立場に立つとか、人前に出ざるをえない仕事に就く、というような場合に、わたしの知らない人たちから知られているし、関心を持たれている、ということは十分に起こりうることになるでしょう。



牧師だっていわばそのケースに当てはまります。わたしはまだ一度も話したこともない人が、わたしのことをよく知っていたりすることがあります。それを気持ち悪いと考えるべきではないでしょう。知っていただけるのは、ありがたいことです。



たとえば、一昨年の夏休みにある教会の礼拝に出席しましたところ、まだ教会から距離があるところで、「関口先生、おはようございます!」と、まだ名前もお顔も存じない方々から、声をかけられました。悪いことはできないな、と思いました。



サウロも、キリスト者たちの中では、すでにいわば有名人でした。われわれを迫害する、あの凶暴な人間。そのことを知らないキリスト者は当時いなかったのではないでしょうか。そして、実際、そのことがアナニアにとって大きな問題となりました。アナニアとイエスさまのやりとりから分かるもう一つのことは、アナニアは明らかにサウロのところに行くのを嫌がった、ということです。



アナニアとしては、あの人がエルサレムでどんな悪事を働いたのか、イエスさま、あなたはよくご存じでしょう、と言いたかったのです。サウロが暴力を働いた人々の中には、アナニアのよく知っている人、たとえば、家族や友人たちさえいたかもしれません。



サウロ自身がキリスト者を殺したかどうかについては、聖書の中にはっきりと書かれてはいませんので、はっきりしたことは言えません。しかし、殺さなかったとしても、少なくとも間違いなく、暴力は働きました。本当にひどい目に合わせました。



あのような暴力団、あのようなテロリスト、あのような極悪人。あんな人のところに、イエスさま、わたしがどうして行かなければならないのですか、冗談じゃありません、とアナニアが言っているように読めるのです。



教会の伝道には、このような次元があることを、わたしたちは知っています。それは、行きたくないところに行く、という次元です。会いたくない人のところに会いに行く、という次元です。最初から話が通じる、和気藹々と歓談できて、意思疎通がうまく行くような相手ならば、伝道する必要はないかもしれません。



話が通じそうにない、面倒くさい、嫌な思いを味わうことがほとんど初めから分かっているような人々のところにこそ行く。想像するだけでうんざりしますが、それが伝道なのだと、牧師になりたての頃に先輩から教え込まれました。まだ体はなかなか動きませんが。



しかしまた、アナニアの場合、サウロのところに行って、サウロに直接会い、話をすることは、ただ会いたくないとか、面倒くさいというだけでは済まされない、いわばもっと深い次元の問題があったと思われます。それは、迫害者の罪を赦せるか、という問題です。教会を侮辱し、破壊しようとした、あの人の罪を赦せるかという問題です。



「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人たちや王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」



アナニアは、イエスさまのご命令どおり、サウロのもとに行きました。行くことだけで、会うことだけで苦痛であった相手のところに、しかし、主のご命令ゆえに、行きました。



しかし、だからこそ言いうることは、キリスト者であるアナニアがサウロのもとに行くこと、会うこと、それ自体が、サウロの罪を赦す行為そのものであった、ということです。「兄弟サウル」と、アナニアは、はっきり言いました。「主イエスが、〔あなたのもとに〕わたしをお遣わしになった」とも言いました。



「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」とおっしゃったイエスさま御自身が、アナニアのカウンセリングを通して、サウロを「兄弟」として受け入れてくださり、またサウロの罪を赦してくださったのです!



イエスさまがおっしゃっている、サウロが味わうべき「わたし(イエス・キリスト)の名のために苦しむこと」の内容は何でしょうか。少なくともその一つのことだけは明らかです。それは、サウロにとってのキリスト教は、かつては迫害し、毛嫌いしたものだった、ということです。それをこれからは宣べ伝えていく。宣べ伝える相手の中には、サウロがかつてキリスト教に対してどのような態度をとっていたかをよく知っている人々もいます。



あの男は、前に言っていたことと今言っていることとがまるで違う。信用できない人間である。そのようなそしりを受けることを避けがたい、ということです。



言葉を用いて仕事をする者たちにとって最もつらいことは、自分の語る言葉を信用してもらえないことなのです。



(2007年7月8日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年7月1日日曜日

「迫害者の回心」

使徒言行録9・1~9



使徒言行録は、今日の個所から新しい内容を記していきます。中心的な登場人物の名前は、サウロです。このサウロが後のパウロです。新約聖書に非常に多くの手紙を残した、あの使徒パウロです。



ただし、変わったのは、名前だけではありません。彼の人生が変わりました。サウロは熱心なキリスト教迫害者でした。しかし彼は迫害をやめました。迫害をやめたというだけではありません。キリスト教を、今度は熱心に宣べ伝えるようになりました。熱心な迫害者が熱心な伝道者に変わりました。まさに正反対の方向に進んでいくことになったのです。



「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」



ちょっと気になるのは「なおも」という言葉です。「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」と続きます。サウロは、主の弟子たちを実際に脅迫し、殺したことがあるのでしょうか。それとも、脅迫と殺害を「意気込んだ」だけでしょうか。もしここに「なおも」と書かれていなければ、サウロは「意気込んだ」だけです、まだ殺してはいません、と説明できるかもしれません。しかし、「なおも」と、ここにはっきりと書かれています。おそらく、サウロ自身も、他のユダヤ人たちと同様、エルサレムの教会への大迫害の際に参加して、脅迫行為を行うなど、ひどい目にあわせていたのです。



しかし、それでは、サウロはキリスト者たちを実際に殺したのでしょうか。この点は、やや微妙です。使徒言行録にサウロが登場するのは二回目です。最初に出てくるのはあのステファノの殉教の場面です。ステファノに向かって石を投げつける人々が、自分の着ている服を脱いで、サウロの足もとに置きました。服の番をしていたのです。



「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(8・1)とも書かれています。彼は賛成していたのです!しかし、だからサウロは殺人者である、と語ることができるかどうかというところに、いくらか微妙な要素があるように思われます。



間違いなく言えることは、サウロ自身もステファノの殺害に賛成していたこと、つまり、ステファノを殺した人々の側に加担していたことです。しかし、実際に石を投げたわけではありませんし、服の番をしていたという点が明記されていることによって、サウロ自身は石を投げていないということがむしろ強調されている、と読むこともできると思います。同罪と言えば、同罪かもしれません。「いや、少し違う」と、かばってあげることができるかもしれません。



サウロは服の番をしていました。しかし、これは、いわゆるけんかやリンチ(私刑)のようなことが始まったので、それをサウロが後のほうから見守っていたというようなこととは、かなり違います。むしろ、考えるべきことは、当時の法律に則った公開処刑が実施された、ということです。



サウロは律法学者の卵でした。エルサレム神殿の律法学校の卒業生であり、当時最高の尊敬を勝ちえていたガマリエル教授の薫陶を受けた人でした。そのサウロにとって、実際の裁判の場に立ち会うとか、先輩たちの服の番をするというようなことは、とても光栄なこと、誇らしいこと、喜ぶべきことでさえあった可能性があるのです。



いずれにせよ確認すべきことは、当時のサウロにとって、またユダヤ社会の一般庶民にとって、キリスト者たちを迫害すること、教会を攻撃することは、「悪かった」と罪悪感を抱いたり、「こんなことをすべきでなかった」と後悔したりするようなことではなかったということです。当時はまだ新興の小さな(いかがわしいとも見えたであろう)宗教団体にすぎなかったキリスト教会を懲らしめるということは、多くの人々にとっていわば当然のことを行ったにすぎないというようなものだったに違いない、ということです。



ところが、です。そのサウロの前に突然現れた光が、彼を打ち倒しました。またサウロは、「サウル、サウル」と自分の名を呼び、自分に語りかけてくる声を聞いたのです。



「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」



サウロの前に現れた光と声の正体は、イエス・キリスト御自身でした。これで分かることが三つほどあります。



第一に分かることは、イエス・キリストは生きておられた、ということです。生きておられた、と過去形で言うのは、当時のサウロにとって、です。十字架の上でたしかに死んだはずのあのイエスという人が、です。死んだはずの、殺されたはずの、あの人が生きていた!生きておられたし、今も生きておられる、ということです。



第二に分かることは、生きておられたし、生きておられるイエス・キリストが、サウロに対して、またサウロと同行した人に対しても、たしかに聞こえ、理解することができる言葉をお語りになったということです。聖書や他の書物の読書を通して目を開かれたとか、ぴんと来たとか、悟りを開いた、というようなことではありません。サウロに起こった出来事は、そういうことを越えています。現実に生きておられる方の声を、現実に聞いたのです。



第三に分かることは、サウロの身に起こったこの出来事は、いわゆる「信仰的な」事実や出来事とは言いがたい、ということです。なぜなら、ここに書かれているとおりであるならば、サウロは、この出来事が起こったときはまだイエス・キリストへの信仰を持っていなかったのですから!このサウロの出来事に限って言えば、彼は信仰を通してイエス・キリストと出会ったのであるとか、信仰においてイエス・キリストの声を聞いたのである、という説明は成り立ちえない、ということです。



実際、まさにこのようにしてサウロは、彼がまだイエス・キリストへの信仰を持つよりも前に、生きておられるイエス・キリスト御自身が直接語りかけてくださる言葉を聞いたのです。そして、彼は信じた。受け入れた。最初はショックも受けました。目が見えなくなったとか、食べ物も飲み物も口にしなかったとあります。物がのどを通らなくなってしまったのかもしれません。



皆さんの中に、教会に初めて来られ、初めて説教を聞いたときにとか、初めてキリスト教を信じてみようと思われたときに、あまりのショックで目が見えなくなったり、食べることや飲むことができなくなったりしてしまわれたという方がおられるでしょうか。私はこれまで、「そうでした」とおっしゃる方に、あまり出会ったことがありません。もう少しくらいショックを受けてもよいのではないでしょうかと思わなくもありません。食べたり飲んだりできなくなってしまうというのは、困りますが。



少しへんな聞き方をすることをお許しください。ここにお集まりの皆さまにお尋ねしていることではありません。最近私は、毎週の説教の原稿や音声をインターネットで公開しています。インターネットを通して聞いてくださっている方々にお尋ねしたい。そのような思いで申し上げます。



キリスト教は趣味ですか。文化・教養のたぐいですか。



それは、われわれの人生にとってのプラスアルファにすぎないものですか。



なくても済むものですか。プラス・マイナス・ゼロでも構わないほどのものですか。



私はそうは思わないのでお尋ねしたいのです。私にとってのキリスト教はもっと重いものです。「いや、関口さん、それは、あなたが牧師だから言っていることでしょう」と言い返されるかもしれませんが、そんなことではないと思っています。



キリスト教は、私の命です。これによって私の一切が支えられていると信じています。



その私がいまや確信していることがあります。それは、一言で言えば、このわたしにも今、生きておられるキリスト御自身が語りかけてくださっている、という確信です。こういうことを言うと、びっくりされる方がおられるかもしれませんが、びっくりするようなことではありません。わたしたちが信頼を置いているこの改革派信仰においても、生きておられるキリストの声をわたしたち自身もまた聞くことができるというこの点をどのように理解すべきかについての、きちんとした道筋を示していると、私は信じております。



毎週私は説教の準備をしています。ただ、説教の準備の正体は、パソコンを開いて原稿を書くことです。うちの子どもたちが父親のことを唯一尊敬してくれていることは、「お父さんは作文が上手である」ということです。なるほど間違いなく、説教は作文です。だいたい毎週四千字ほどの文章を書いています。四百字詰め原稿ならば約一〇枚です。一年で五百枚、一〇年で五千枚くらい書いている計算になります。以前はもっと長い文章を書き、長い説教をしていましたが、松戸小金原教会に来てからは短くなりました。短いほうが、よく聞いていただけると感じています。



牧師の仕事を続けてきて、今やはっきりと確信できることは次のことです。私は自分の原稿に書いていることに責任を持つことができない、というようなことを言うつもりは、全くありません。しかし、これを毎週のように書き続けることができることそれ自体は、自分の力による、というようなことでは決してありえない、ということです。



私の正直な感覚を申せば、だれかの声が聞こえてくる、というような感じがあるのです。もちろん、それが、イエス・キリスト御自身の声なのか、私の心の叫びなのか、どこかでだれかから聞いた言葉なのか、何かの本で読んだ言葉なのかということを完全に判別することなどはできません。まさに“天声人語”(天に声あり、人をして語らしむ)ということがありうるでしょう。



しかし、です。何はともあれ、私が説教の準備をしているとき、この私自身に向かって語りかけてくる声がたしかにあるということ、そしてその声によって励まされ、導かれ、その声が語るままを書きとるという仕方で説教の文章が生まれ、語り続けることができた、という感じがあることは、私にとっては、はっきりと確信できることなのです。



実際問題として考えてみましても、(こういうことはあまり大きな声で言うべきではないことですが)、私もけっこう疲れていることがあるのです。原稿を書くという仕事は、それをなさったことがある方ならご理解いただけると思いますが、時間があればできるというようなものではなく、心や体や生活のさまざまな条件が整わなければできないものです。



しかし、そういうときにも、日曜日はやってくる!教会の皆さんが集まってくる!



そのような(圧力を感じる)ときに、生きておられるイエス・キリストがこのわたしにも語りかけてくださり、その声を頼りに、原稿を書き、説教の準備をすることができる。これは私にとっては、大きな恵みなのです。



サウロも、その声を聞いたのです。わたしたちも、その声を聞くことができるのです!



(2007年7月1日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年6月24日日曜日

「手引きしてくれる人がなければ」

使徒言行録8・4~25



「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。」



先週の個所と同じく今日の個所にも、伝道者フィリポの活動の様子が紹介されています。フィリポは、殉教者となったステファノと同じときに、新しく七人の教会役員(執事)の一人に選ばれた人です。



先週の個所には、フィリポがサマリアの町で伝道しているときに出会った魔術師シモンに、フィリポ自身が洗礼を授ける場面が出てきました。そして、じつは今日の個所にも、フィリポが洗礼を授ける場面が出てきます。誰に対してでしょうか。その人物についてのかなり長ったらしい紹介文が出てきます。「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官」(27節)です。



「折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。」



この「エチオピア人の宦官」なる人物が、フィリポから洗礼を受けました。もちろん、これはキリスト教の洗礼です。わたしたちが、このわたしが受けたのと全く同じ洗礼です。そして、今日の個所に記されていますのは、この人が洗礼を受けるに至るまでの経緯です。



皆さんの中には、求道を始めてから洗礼を受けるまでに何年もかかったという方が結構おられます。何年もかかった例に含めてよいと思います方の洗礼式が先週、わたしが松戸小金原教会に赴任する前に働いていた教会で、行われました。わたしがその教会にいた頃から求道を始めた女性の方です。洗礼を受けましたと、ご本人がお知らせくださいました。



その方が初めて教会の礼拝に出席されたのは、たしか6、7年前のことではなかったかと、おぼろげに記憶しています。待つ側(教会と牧師)からすれば、まさしく「やっと!」という思いです。しかしまた、「やっと!」という思いは、そのご本人も同じだったようです。「まさか自分が洗礼を受ける日が来るということなどは、夢にも思っていませんでした」と先週電話でおっしゃいました。神さまが導いてくださった、ということを強く自覚しておられる様子が分かり、うれしく思いました。



これは、先週の日曜日に洗礼を受けてクリスチャンになった方の話です。一方、今日の個所でフィリポが洗礼を授けたこの人は、洗礼を受けるまでに6、7年もかかっていません。ここに記されている内容を読むかぎり、この人が求道者として過ごしたのは、明らかに、わずか数時間です。それはこの人が「エルサレムからガザに向かう道」を通って自分の国エチオピアに帰るまでの間、しかもそのすべての道のりではなく、おそらく途中のわずか数時間です。それは、この人の人生の長さということを考えてみますと、その人生全体の中の“一瞬”であった、と語ることが許されるであろうほどの短さです。ということは、つまり、この「エチオピア人の宦官」は、まさに一瞬のうちに、救い主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた人である、というふうに申し上げることができる人なのです。



今日のこの個所は、昨年10月の特別伝道集会のときに、講師の吉岡繁先生が取り上げてくださった個所です。よく覚えておられる方も多いでしょう。吉岡先生がこの個所を読みながらわたしたちに問いかけてくださったことの一つは、このエチオピア人の宦官がエルサレムの礼拝からの帰りがけに、馬車に乗って旧約聖書のイザヤ書を朗読していた動機は何だったのでしょうか、というあたりのことだったと思います。この人の心には、神さまの救いを求める強い思いがあったのではないでしょうか、それはどのような思いでしょうか、というような問いかけもあったように思います。



「宦官」というのは、去勢した男性である、ということも、吉岡先生は教えてくださいました。女王に仕える仕事、女王の全財産の管理を任せられている重要な仕事ではあるが、どこかしら空しさや寂しさを覚えるような仕事ではなかったか、というようなことも吉岡先生がおっしゃっていたように記憶しております。



まさにそういうことを考える必要があるだろうと、私も思います。エチオピアの高官は、ユダヤ人たちから見ると、明らかに「異邦人」です。外国の人であり、また外国の宗教を信じているか、あるいは、その影響を受けている人です。そういう人が「聖書にも」興味を持った、ということは、ありうることです。



しかし、問題は、この人がなぜ、「聖書にも」興味を持ったのか、です。この人の生きている国やその現実、またそこで信じられている宗教や思想など。そういうものにこの人は、ある限界や行き詰まりのようなものを感じ取っていたのではないか。そのように考えることができると思います。



聖書は、まだ読み始めたばかりで、よく分からない。しかし、自分が生まれ育った国や町や村の宗教のほうは、もっと分からない。さっぱり分からない。あるいは、理屈としては分かっても、全く信頼できない。信じる価値がない。興味がわかない。



しかし、それでも、現実の生活をしていると、いろんな場面で不安が起こり、トラブルが起こり、うんざりする日々が続く。心の底から信頼できる何かが欲しい。人生の支えになるようなものが欲しい。それが宗教なのか何なのかは、この際どうでもよい。とにかく、このわたしを何とかしてほしい。もし聖書というこれが、自分を支えてくれるものになるというなら、それでもいい。そのような動機から聖書を読み始める人は大勢います。今の日本でも、教会には通わないし、洗礼を受ける気もないが、聖書だけは一応買って持っているし、それなりに興味があるし、目を通したことがあるという人は、少なくありません。



しかし、です。目を通したことがある、というのと、「朗読する」というのとでは、事情はかなり変わってくるでしょう。



あまりストレートに言うと、皆さんを嫌な気持ちにさせてしまうかもしれませんので、少し柔らかく言います。もしかして、皆さんの中には、「聖書をまだ声に出して朗読したことがない」という方もおられるのではないかと想像します。いかがでしょうか。



黙読するというのと、朗読するというのとでは、根本的にどこか違うところがあります。黙読までは、だれでもしますし、だれにでもできます。しかし、朗読となると、かなり質が変わってきます。「恥ずかしい」という思いが少しでもあると、できないものです。聖書の朗読を始めることができたら、もう相当なものです。



ちょっと聖書を朗読したくらいで「あなたはもう立派に信じている」などと言われたくないよ、と反発なさる方もおられるかもしれませんので、こういうことは十分気をつけて申し上げなければならないと感じています。しかし、聖書の御言葉を声に出して朗読することができるなら、心のバリアはかなり取り去られていると、私は思います。



しかし、しかし、です。この宦官が感じたことは全く正直な思いです。この人は正直な人だと、私は思います。聖書という書物は、ちょっと朗読してみたくらいでは、さっぱり分からないものである、ということを、この人ははっきりと感じとりました。



だからこそ、フィリポがこの人に近づいて「読んでいることがお分かりになりますか」と質問したときの答えが、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」となったのです。少し乱暴に通訳しますと、「こんなワケの分からん書物、だれか専門家の人にでも解説してもらわないかぎり、分かりっこないじゃありませんか」ということです。



「すると、“霊”がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は、羊のように屠殺場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。』宦官はフィリポに言った。『どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。』そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」



私は、このエチオピア人の宦官の、聖書に対する態度、あるいは、聖書に向き合おうとする際の姿勢は、正しいと思います。彼がしたことは、三つあります。



第一は、先ほど申し上げたとおり、聖書をまだ理解できないうちに、とにかく朗読した、ということです。キーワードは「朗読」です。



第二は、聖書を理解できないことを率直に認めて、この本に書いてあることを解説してくれる教師を求めた、ということです。キーワードは「手引きしてくれる人」、すなわち、「教師」です。



そして第三に(これが最も重要です!)この人は、聖書の中の自分には理解することが不可能であるような言葉や事柄について、せっかくその場にいてくれる「教師」(この場面ではフィリポ)に対して、少しも遠慮することなく、「どうぞ教えてください」と質問した、ということです。キーワードは「質問」です。



今、わたしは、三つのキーワードを言いました。「朗読・教師・質問」です。この三つの点を、きちんと通ることができた。この人は、まさに一瞬のうちに、洗礼を受ける決心へと辿り着いたのです。



「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。』そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。」



残念に思うことがあります。聖書を理解できない。神を信じることができないし、洗礼を受ける気にもなれない、という方々の中に、このエチオピアの宦官の辿った道を、どうも辿っていないのではないかと思われることがあるのです。それが「朗読・教師・質問」です。とにかく声に出して読んでみること。解説してくれる教師を持つこと。そしてその教師に遠慮なく質問すること、です。



最低限この三つの点を通らないで、「聖書は分かりません」と言われても、ちょっと困ります。分かりっこありません。それは学校や塾や習い事と、かなりの部分、同じです。



逆に言えば、それをしてみてほしいのです。



そのために、ここに教会があるのです!



そのために、ここに牧師がいるのです!



(2007年6月24日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年6月17日日曜日

「神の賜物の価値」

使徒言行録8・4~25



今日の個所に出てくるフィリポは、殉教者となったステファノと同時に新しい教会役員(執事)に選ばれた人物です。つまり、このフィリポも教会役員であり、かつ有能な伝道者でした。



今日の個所のもう一人の主たる登場人物はシモンです。シモンと言っても、キリストの弟子シモン・ペトロとは別人物です。このシモンは魔術師です。シモンは、洗礼を受けてキリスト者になりました。この点が重要です。その前に魔術師の仕事をしていたのです。



私は今、「その前に」と言いました。しかし、この点はちょっと微妙です。シモンは洗礼を受けてキリスト者になってからは、魔術師の仕事をスパッとやめたのでしょうか。そのようには、どこにも書かれていません。話の流れや展開の方向から考えれば魔術師という仕事自体は、たぶんスパッとやめたのではないかと推測できます。しかし、今日の個所にその点がはっきり書かれていませんので、私もはっきりしたことを申し上げることはできません。



シモンについて今日の個所からはっきり分かることは、むしろ次のことです。それは、要するに、シモンの考え方や態度や行動の面を見るかぎり、彼はちっともスパッとしていなかったという事実です。シモンは、洗礼を受けた後になっても、おそらく魔術師時代に覚えたのではないかと思われる、一つの処世術を、ずっと引きずっていました。



「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群集は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」



話の流れは、だいたい次のようなことです。



第一のポイントは、ステファノの殉教の後、ユダヤ教団当局のキリスト教会への弾圧が激化したのに対して、教会側がとった態度は、使徒たちだけをエルサレムに残して、ほかのみんなは、ユダヤとサマリアの地方に散って行くというものだった、ということです。



このような態度をとった意味としては、いくつかの可能性を考えることができるように思います。



第一の可能性は、使徒たちは勇敢な人々であり、他の人々は臆病だったということです。使徒たちだけが殉教の覚悟をもってエルサレムに残った。しかし他の人々は恐れをなして逃げていったのだ、という可能性です。



第二の可能性は、使徒たち以外の全員に対してエルサレムから逃れるように命じたのは、ほかならぬ使徒たち自身であった、ということです。迫害によってキリスト者が全滅してしまわないように、信仰の炎を消さないように、教会員の命を守ることを先決にし、使徒たちだけの命を差し出すという判断を、使徒たち自身が下した結果としての、キリスト者たちの離散行動であった、という可能性です。



私自身は、今申し上げた二番目の可能性を支持したいと考えております。どうせなら、使徒たちも一緒に逃げたらよかったのではないかと感じなくもありません。その選択肢も十分ありうるものです。恥ずかしいことではないし、みじめなことでもありません。



武士道とキリスト教の共通点を強調する人々がいますが、私は両者の違いのほうを強調したいと願っています。武士道の心は死ぬこと、キリスト教信仰の心は生きることです。しかし、使徒たちの場合は、彼ら自身が「エルサレムに残る」という道のほうを選択し、そのように決断したのですから、それはそれで尊重しなければなりません。



いずれにせよ、使徒たちの覚悟はただ一つであったことは、間違いありません。それは、救い主イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に死ぬこと、そしてイエス・キリストと共に復活することでした。そのためにキリストが十字架につけられて殺されたエルサレムの地で、彼ら自身も死ぬことを望んだのです。そのように考えざるをえません。



さて今日の個所の第二のポイントは、そのようなきっかけで地方に離散していった人々の中にフィリポもいたということです。フィリポはサマリア地方に向かいましたが、重要なことは、行く先々でフィリポは、イエス・キリストの福音を伝道した、ということです。



エルサレムに残らなかった人々は、みんな臆病だった、という解釈の間違いは、この点からも明らかになると信じます。フィリポを含む離散したキリスト者たちは臆病で逃げたのではなく、どこまでも生き延びてこの真の信仰を一人でも多くの人々に宣べ伝え、地上に一つでも多くの教会が生み出されることを願ったのです。このわたしが生きていることによって、一人でも多くの人に福音を宣べ伝え、正しい信仰を教え、洗礼を授けることができる。彼らは、その可能性に賭けたのです。



そのことがまた、ステファノの殉教を無駄にしない、彼の死を無意味なものにしない、最良の選択肢でもあった、と考えることができるでしょう。



第三のポイントは、そのフィリポの伝道活動の中で、魔術師シモンとの出会いがあり、そのシモンがついに洗礼を受けるに至った、ということです。



そして、第四のポイント。これが今日の個所の内容的な中心部分であると思われます。それは、このシモンが、洗礼を受けた後に、大きな失敗を犯し、使徒ペトロから大目玉を食らった、要するにこっぴどく叱られた、という話です。シモンは、何をしでかしたのでしょうか。書いてあることを読んでみたいと思います。



「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。』すると、ペトロは言った。『この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。』シモンは答えた。『おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。』このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。」



シモンがしようとしたことは、要するに、「聖霊」をお金で買おうとしたということです。それで使徒ペトロからこっぴどく叱られたのです。



しかし、それでは、「聖霊」とは何でしょうか。この点を、だれにでも分かるように説明するというのは非常に難しいことです。われわれ日本キリスト改革派教会の創立者の一人である岡田稔先生は、「聖霊とは、ほとんど信仰という言葉で置き換えることができる」と、何度もおっしゃいました。



聖霊と信仰は全く同一のものと言うことはできません。けれども、説明としてはかなり分かりやすいものになることは間違いありません。岡田先生の聖霊論を元にして言い直すとしたら、シモンがしようとしたことは、要するに「信仰」をお金で買おうとしたということです。このように、説明することができるようになるでしょう。



しかし、「聖霊」は、お金で買うことができません!「信仰」は、お金で買うことができないものです。この世の中には、お金で買えないものがあるのです。そのことをシモンは、洗礼を受けた後までも、全く理解していなかったのです。



なんでもお金で買うことができる。シモンは、この感覚(センス)をどこで身につけたのでしょうか。私はやはり、それは魔術師時代、あるいは魔術師になるまでの下積み時代のような頃ではなかったか、と考えざるをえません。魔術の修行にたくさんのお金が必要だったのではないでしょうか。あるいは、自分の弟子たちからたくさんのお金をとって、魔術の伝授をしたのではないでしょうか。



おそらくシモンは、それと同じようなことが、てっきり、教会の中でも行われているものと思い込んでいたようです。シモンの犯した最大の過ちは、魔術の伝授と、聖霊の受け渡し、信仰の継承を、同一次元で考えてしまったことではないでしょうか。



皆さんの中には、まさか、シモンと同じようなことを考えている方はおられないと思います。「聖霊はお金で買えるものである」と。



わたしたちは、聖霊の働きによって信仰を与えられ、その信仰によって救われるのですから、信仰がお金で買えるのでしたら、救いもお金で買えることになります。わたしたちの救いの完成は天国で起こります。救いがお金で買えるのでしたら、天国もお金で買えることになります。結論は「天国はお金で買えるものである」です。



このように考えることは、全く間違いです。天国はお金で買うことはできません。もしそれが正しいならば、お金持ちはみんな天国に行くことはできるはずですが、事実はそうではありません。いみじくも、わたしたちの救い主イエス・キリスト御自身が、言われたではありませんか。「金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(マタイ19・23~24)と!



この主イエスの教えは、お金を稼ぐことや貯金することが悪いという話ではありません。お金を稼ぐこと、貯金することはよいことです。大いに奨励したいと思います。



ただ、しかし、強いて言うならば、です。イエスさまの教えの中に明らかにあるのは、お金というものがわたしたち人間の心をあまりにも強く束縛するあまり、いろんな判断において間違ってしまうことがある、ということです。



立派なお墓や葬式は、お金で買えるかもしれません。しかし、天国そのものは、お金で買うことができません。あるいはまた、そこまで行かなくても、この地上の人生において真に平安であること、安心した生活を送ること、喜びと感謝と希望に満たされて生きること、つまり、この地上においてあたかも天国にいるかのような幸福を味わうことが、お金で買えるのかといえば、そうではない、といわざるをえません。一時的な快感、快楽は、お金で買えるかもしれません。しかし、それで満足できる人は、実はいないのです。



信仰は、お金で買うものではなく、まさに信じるものです。信じるのは「タダ」です。お金に換えがたい価値があるという意味でのタダです。神の救いの恵み、永遠の喜びは、プライスレスなのです。



(2007年6月17日、松戸小金原教会主日礼拝)