2007年8月26日日曜日

「あなたと家族を救う言葉」

使徒言行録11・1~18



「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。『わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。」』」



使徒言行録10・1から始まる、異邦人コルネリウスの話は、今日の個所で終わりとなります。「異邦人コルネリウスの話」とは、次のようなものでした。コルネリウスがキリスト教の洗礼を受けたいと願ったとき、当時の教会は、異邦人に対しては“開かれて”いませんでした。



ところが、コルネリウスがそのような強い願いを持って教会に近づいて来たこと、また神御自身の導きと配慮を得たこと(「天使」の動きに注目!)によって、当時の教会が異邦人コルネリウスを教会の正式なメンバーとして受け入れるという決断を下すことができた、という話です。



つまり、この出来事の中心は、狭く閉ざされていた教会の門が、より広く開かれた、という点にある、と申し上げることができます。



教会が「閉じている」ということのすべてが悪い、と申し上げたいわけではありません。教会は基本的性質として「信者の集まり」です。教会が自らの存在を信仰を持たない人々に対してすっかり明け渡してしまうことはありえません。それは、教会が教会でなくなる時です。この点では、教会は“閉じた”存在でもあります。



しかし、ここですぐに考えなければならないことは、「信者」とは何なのか、ということです。別の問い方をするならば、わたしたちは、いつ・どこで・どのようにして「信者になった」のか、ということを考えてみなければならないと思います。



わたしたちは、いつ「信者になった」のでしょうか。それは、いずれにせよ間違いなく、時間的な過去に属する「あるとき」です。「生まれたとき」ではなく、また「生まれる前」でもありません。信仰は、血や遺伝子によって受け継がれるものではありません。自覚も決断もなしに、自動的に「信者になった」という人は、一人もいないのです。



それでは、わたしたちは、どこで「信者になった」のでしょうか。これは、人によって違うところでしょう。教会の礼拝に出席していたとき、かもしれませんし、職場で仕事をしていたとき、かもしれませんし、人生の大きな苦労や試練を体験したとき、かもしれません。



重要な問題は次です。わたしたちは、どのようにして「信者になった」のでしょうか。この問いに対するわたしたち教会の者たちの答えは、「教会の信仰を告白し、教会の洗礼を受けることによって」というものです。



ただし、ここでどうしても忘れられてはならないのは、幼児洗礼を受けている人々です。この人々は、自分の信仰告白なしに洗礼を受けているわけですから、その人々が「教会の信仰を告白する」までは、言葉の正しい意味での「信者」と呼ぶことは難しいでしょう。



私が申し上げたいことは、幼児洗礼を受けた人々(信仰を告白していない未陪餐会員)のことを考えると、教会は“開かれた”存在であるということが分かる、ということです。なぜなら、「信仰を告白していない未陪餐会員」は、わたしたちの教会の“会員”なのです!教会は「信仰を告白していない」人々のためにも(!)存在するのです。



しかし、教会は、幼児洗礼を受けている人々に対してだけ“開かれている”のではありません。もう一方の大きな存在として、「洗礼を受けていない求道者」の人々のためにも、教会は存在します。教会は「洗礼を受けていない」人々のためにも(!)存在するのです。



教会は、「洗礼を受けていない求道者」を心から歓迎したいという強い意思をもって受け入れています。なぜなら、わたしたちが「信者になる」ためには、教会の信仰を告白し、教会の洗礼を受けなければならないからです。その意味は、わたしたちが「信者になる」という出来事は、教会というこの場所と全く無関係に起こることではありえない、ということです。



だからこそ、です。わたしたちは、「洗礼を受けていない求道者」の人々を心から歓迎し、積極的に受け入れなければなりません。その人々が信仰を告白し、洗礼を受け、神の救いの恵みに豊かに与る人になるために、「教会」が必要だからです。その意味で、その人々に対して、教会は十分に“開かれて”いなければなりません。



しかし、です。現実の教会はそのような締め出しをしてしまうのだということを知る、まことにショッキングな出来事が、11・1~2に記されています。



ここで「異邦人」とはコルネリウスのことです。コルネリウスは、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けました。そのことをエルサレム教会の人々が知ったときに、二つの反応が起きたと考えてよいでしょう。



第一は、一人の救いを求める魂が救われたことを率直かつ無邪気に喜ぶ、という反応でしょう。そういう反応もあった、と考えてよいと思います。



しかし、第二の反応として、強い危機感ないし危惧のようなものを抱いた人々もまた、少なからずいた、ということも明らかです。実際、ペトロが異邦人コルネリウスと一緒に食事をしたというだけで、かんかんに怒っているような、こっぴどく責め立てるようなことを言い出す人々がいたのです。コルネリウスがイエス・キリストへの信仰を告白したこと、洗礼を受けたこと、救われたことが、悪いことだったかのようです!



それは悪いことなのでしょうか。現実的に言えば、「洗礼を受けていない求道者」が洗礼を受けて教会のメンバーとなるとき、教会は“リセット”される必要があるのではないかと思うほどです。



それはどういうことか。聖書についても・信仰についても・教会についても、まだ何もご存じでないような人々を教会が受け入れるという場合、「このくらいのことは、いちいち言わなくても分かるでしょ」とか「分からないことがあれば、何でも質問してちょうだい」と言うだけで済ませることはできません。それは、ぶっきらぼうな態度です。そういう人々の多くは、何を・どのように質問してよいのかさえ分からないのです。



しかしまた、そのときは、長い教会生活を送って来た人々にとって、大きなチャンスでもあると思うべきです。教会生活が長ければ長いほど「今さら聞けない」と感じていることが増えているのではないでしょうか。実際のわたしたちは、知らないことだらけです。だからこそ、わたしたちは、与えられたチャンスを生かすべきです。



求道者が洗礼を受ける、あるいは未陪餐会員が信仰を告白する。そのことが起こるとき、教会全体が、いわば初めから学びなおすべきなのです。そして、そのことを、わたしたちは喜ぶべきであり、感謝すべきなのです。



ペトロは、エルサレム教会を、一生懸命に説得しました。異邦人コルネリウスを教会のメンバーとして受け入れたことは神の御心であり、神御自身が心から喜んでくださることである、ということを、言葉を尽くして語り、教会を説得したのです。



ペトロがエルサレム教会を説得するために発している言葉のなかで最も興味深いのは、この話のきわめて重要なポイントのところで「天使」が登場することです。



「天使」がコルネリウスに向かって、このような素晴らしい言葉を語ってくれたというのです。天使は神の代理者です。天使の言葉は神の言葉なのです。



「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」の中の「あなた」とは、コルネリウスのことです。信仰を告白して洗礼を受けることを、決心し約束する気持ちを固めているコルネリウスです。しかし、「家族」は、どうでしょうか。コルネリウス自身はともかく、「家族」は、信仰を告白したり、洗礼を受けたりするというようなことについて、積極的な気持ちを持っていなかったかもしれません。しかし、「家族」も救われる!



「使徒ペトロが語る言葉」とは、教会の礼拝説教のことであり、また、教会において・教会を通して・教会を用いて語られる牧会的な対話のことです。総じて、「使徒の言葉」とは、すなわち、“教会の言葉”であると呼んでもよいでしょう。



“教会の言葉”が、あなたと家族の者すべてを救う。「救う」とは解放すること、自由にすることです。罪と悪と死の束縛する力からの解放、これが救いです。



教会の語る言葉にはそのような力がある、ということについて、皆様には、「そのとおり!」と言って同意していただけるでしょうか、それとも、同意していただけないでしょうか。このあたりに、わたしたちの信仰生活のバロメーターがあると思われてなりません。



「教会に来て良かった!」と、(家族揃って!)感謝できる日が来ること。



「わたしの教会」、すなわち、安心と納得をもって参加できる教会が見つかること。



これこそが、わたしたちの人生のなかで、非常に大きな目標でありうるのです。



(2007年8月26日、松戸小金原教会主日礼拝)