2007年7月8日日曜日

「苦しみの器」

使徒言行録9・10~22



先週の個所で、熱心なキリスト教迫害者であったサウロの身に、突然の出来事が襲いかかりました。サウロに襲いかかって来たのは、光と声でした。その正体は何なのかということはすぐに分かりました。それは、現実に生きておられるイエス・キリストの現実の存在と、現実の声でした。



その光と声に接したサウロは、おそらく震え上がったのです。恐ろしかったし、何より驚いたのです。恐怖と驚きのあまり、目が見えなくなり、食べ物も飲み物も喉を通らなくなってしまったのです。



大きなショックを受けた人は、本当にそのようになります。皆さんはよくご存じのことと思いますが、人間の心というのは、それほど強くありません。大きなショックはできるだけ受けないほうがよいと思います。その反応は、多かれ少なかれ体にも必ず出てくると言ってよいでしょう。



ただし、です。今言ったことをすぐに否定するようなことを言いますが、サウロの場合に限っては、大きなショックを受ける必要があった、と言わなければならないかもしれません。なぜなら、サウロは、繰り返し申し上げておりますとおり、熱心なキリスト教迫害者であったからです。



熱心さというのは、しばしば、くせものです。人が何かに夢中になっているときには、周りの人々の姿が目に入っていません。自分の関心と、自分の確信に、どこまでも忠実であろうとします。まさに猪突猛進の状態。その人の姿は、イノシシに似ています。



過度に夢中な状態になっている人は、やはり危険な存在であると言わねばなりません。熱心にキリスト教を迫害することこそが神の御心にかなって正しいことであると、サウロは確信していました。宗教的な確信を持っていました。この確信、この熱心さが、サウロの心を狂気にかりたてたのです。



イノシシがわたしたちのほうに向かって走ってくる場面を想像してみたらよいのです。怖いです。身の危険を感じます。止めるには、何とかしてひっくり返してしまうしかありません。非常に大きなショックを与えて、打ち倒してしまうしかないのです。



はっきり言わざるをえないことは、サウロはまさにその場で打ち倒される必要があったのだということです。キリスト者たちを迫害することに夢中になっている人がいる。その人に対しては、大きなショックを与えて倒してしまう必要があったのです。そのことを、現実に生きておられるイエスさま御自身がサウロに対して行ってくださったのだ、というふうに、先週の個所を読むことができます。



しかし、です。イエスさまがサウロの前に現れてくださった目的はもっと先にある、ということです。イエスさまの目的は、夢中になってキリスト者を迫害していたサウロを、今度は、夢中になってイエス・キリストの福音を宣べ伝える伝道者にすることです。



そのためにイエスさまはサウロに大きなショックをお与えになったのです。背負い投げ一本をお決めになったのです。サウロは、その場で仰向けに倒れされてしまったのです。



ただし、です。今日の個所を読みますと、イエスさまというお方はなんとお優しい方かということが、よく分かります。イエスさまがなさったことは、いわば御自分でショックを与えて完全に打ち倒してしまわれたサウロを、しかし、そのままに放置されたわけではなく、すぐにも助けおこして、今度は、大きなショックを受けてふさぎこんでいるサウロを慰め、励まし、いたわってくださった。心のケアをしてくださった、ということです。



そのためのサウロの“カウンセラー”として、イエスさまに選ばれたのが、ダマスコの町に住んでいたアナニアという人でした。このアナニアは「弟子」、つまり、キリスト者でした。アナニアがサウロに対して行ったことは、事実上の「キリスト教カウンセリング」であった、ということです。



「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。』しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。』」



このアナニアとイエスさまのやりとりから分かることがあります。それは、アナニアはイエスさまからサウロのところに行くように命ぜられる前から、サウロの存在と彼がこれまでしてきたことを、よく知っていた、ということです。



それは、サウロがエルサレムでどんな悪事を働いたかを「大勢の人から聞きました」と言っているとおりです。あるいはまた、サウロがキリスト者を逮捕してもよいという権限を祭司長たちから受けていたことも、アナニアは知っています。



この点で私が申し上げたいことは、アナニアはいわゆる超能力者だとか占い師のような存在ではない、ということです。サウロの存在は、あらかじめ知っていました。おそらく関心も持っていました。あの人がこの先どうなっていくのかと心配してもいたのではないかと思われます。



サウロのほうは、アナニアのことを知らなかったかもしれません。ここを読むかぎり、そのような気がします。しかし、こういうことがある、ということを、覚えておくほうがよいと思います。それは、わたしのことを、わたしはまだ知らない人が関心を持っていることがありうる、ということです。



これはぜひ悪い意味で受けとらないでいただきたいところです。わたしはまだ知らない人からわたしのことが知られている、と言いますと、気持ち悪い話のようでもあります。そういう気持ち悪いケースも、実際にはあるでしょう。しかしたとえば、わたしたちが、少し責任ある立場に立つとか、人前に出ざるをえない仕事に就く、というような場合に、わたしの知らない人たちから知られているし、関心を持たれている、ということは十分に起こりうることになるでしょう。



牧師だっていわばそのケースに当てはまります。わたしはまだ一度も話したこともない人が、わたしのことをよく知っていたりすることがあります。それを気持ち悪いと考えるべきではないでしょう。知っていただけるのは、ありがたいことです。



たとえば、一昨年の夏休みにある教会の礼拝に出席しましたところ、まだ教会から距離があるところで、「関口先生、おはようございます!」と、まだ名前もお顔も存じない方々から、声をかけられました。悪いことはできないな、と思いました。



サウロも、キリスト者たちの中では、すでにいわば有名人でした。われわれを迫害する、あの凶暴な人間。そのことを知らないキリスト者は当時いなかったのではないでしょうか。そして、実際、そのことがアナニアにとって大きな問題となりました。アナニアとイエスさまのやりとりから分かるもう一つのことは、アナニアは明らかにサウロのところに行くのを嫌がった、ということです。



アナニアとしては、あの人がエルサレムでどんな悪事を働いたのか、イエスさま、あなたはよくご存じでしょう、と言いたかったのです。サウロが暴力を働いた人々の中には、アナニアのよく知っている人、たとえば、家族や友人たちさえいたかもしれません。



サウロ自身がキリスト者を殺したかどうかについては、聖書の中にはっきりと書かれてはいませんので、はっきりしたことは言えません。しかし、殺さなかったとしても、少なくとも間違いなく、暴力は働きました。本当にひどい目に合わせました。



あのような暴力団、あのようなテロリスト、あのような極悪人。あんな人のところに、イエスさま、わたしがどうして行かなければならないのですか、冗談じゃありません、とアナニアが言っているように読めるのです。



教会の伝道には、このような次元があることを、わたしたちは知っています。それは、行きたくないところに行く、という次元です。会いたくない人のところに会いに行く、という次元です。最初から話が通じる、和気藹々と歓談できて、意思疎通がうまく行くような相手ならば、伝道する必要はないかもしれません。



話が通じそうにない、面倒くさい、嫌な思いを味わうことがほとんど初めから分かっているような人々のところにこそ行く。想像するだけでうんざりしますが、それが伝道なのだと、牧師になりたての頃に先輩から教え込まれました。まだ体はなかなか動きませんが。



しかしまた、アナニアの場合、サウロのところに行って、サウロに直接会い、話をすることは、ただ会いたくないとか、面倒くさいというだけでは済まされない、いわばもっと深い次元の問題があったと思われます。それは、迫害者の罪を赦せるか、という問題です。教会を侮辱し、破壊しようとした、あの人の罪を赦せるかという問題です。



「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人たちや王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」



アナニアは、イエスさまのご命令どおり、サウロのもとに行きました。行くことだけで、会うことだけで苦痛であった相手のところに、しかし、主のご命令ゆえに、行きました。



しかし、だからこそ言いうることは、キリスト者であるアナニアがサウロのもとに行くこと、会うこと、それ自体が、サウロの罪を赦す行為そのものであった、ということです。「兄弟サウル」と、アナニアは、はっきり言いました。「主イエスが、〔あなたのもとに〕わたしをお遣わしになった」とも言いました。



「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」とおっしゃったイエスさま御自身が、アナニアのカウンセリングを通して、サウロを「兄弟」として受け入れてくださり、またサウロの罪を赦してくださったのです!



イエスさまがおっしゃっている、サウロが味わうべき「わたし(イエス・キリスト)の名のために苦しむこと」の内容は何でしょうか。少なくともその一つのことだけは明らかです。それは、サウロにとってのキリスト教は、かつては迫害し、毛嫌いしたものだった、ということです。それをこれからは宣べ伝えていく。宣べ伝える相手の中には、サウロがかつてキリスト教に対してどのような態度をとっていたかをよく知っている人々もいます。



あの男は、前に言っていたことと今言っていることとがまるで違う。信用できない人間である。そのようなそしりを受けることを避けがたい、ということです。



言葉を用いて仕事をする者たちにとって最もつらいことは、自分の語る言葉を信用してもらえないことなのです。



(2007年7月8日、松戸小金原教会主日礼拝)