2007年6月24日日曜日

「手引きしてくれる人がなければ」

使徒言行録8・4~25



「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。」



先週の個所と同じく今日の個所にも、伝道者フィリポの活動の様子が紹介されています。フィリポは、殉教者となったステファノと同じときに、新しく七人の教会役員(執事)の一人に選ばれた人です。



先週の個所には、フィリポがサマリアの町で伝道しているときに出会った魔術師シモンに、フィリポ自身が洗礼を授ける場面が出てきました。そして、じつは今日の個所にも、フィリポが洗礼を授ける場面が出てきます。誰に対してでしょうか。その人物についてのかなり長ったらしい紹介文が出てきます。「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官」(27節)です。



「折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。」



この「エチオピア人の宦官」なる人物が、フィリポから洗礼を受けました。もちろん、これはキリスト教の洗礼です。わたしたちが、このわたしが受けたのと全く同じ洗礼です。そして、今日の個所に記されていますのは、この人が洗礼を受けるに至るまでの経緯です。



皆さんの中には、求道を始めてから洗礼を受けるまでに何年もかかったという方が結構おられます。何年もかかった例に含めてよいと思います方の洗礼式が先週、わたしが松戸小金原教会に赴任する前に働いていた教会で、行われました。わたしがその教会にいた頃から求道を始めた女性の方です。洗礼を受けましたと、ご本人がお知らせくださいました。



その方が初めて教会の礼拝に出席されたのは、たしか6、7年前のことではなかったかと、おぼろげに記憶しています。待つ側(教会と牧師)からすれば、まさしく「やっと!」という思いです。しかしまた、「やっと!」という思いは、そのご本人も同じだったようです。「まさか自分が洗礼を受ける日が来るということなどは、夢にも思っていませんでした」と先週電話でおっしゃいました。神さまが導いてくださった、ということを強く自覚しておられる様子が分かり、うれしく思いました。



これは、先週の日曜日に洗礼を受けてクリスチャンになった方の話です。一方、今日の個所でフィリポが洗礼を授けたこの人は、洗礼を受けるまでに6、7年もかかっていません。ここに記されている内容を読むかぎり、この人が求道者として過ごしたのは、明らかに、わずか数時間です。それはこの人が「エルサレムからガザに向かう道」を通って自分の国エチオピアに帰るまでの間、しかもそのすべての道のりではなく、おそらく途中のわずか数時間です。それは、この人の人生の長さということを考えてみますと、その人生全体の中の“一瞬”であった、と語ることが許されるであろうほどの短さです。ということは、つまり、この「エチオピア人の宦官」は、まさに一瞬のうちに、救い主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた人である、というふうに申し上げることができる人なのです。



今日のこの個所は、昨年10月の特別伝道集会のときに、講師の吉岡繁先生が取り上げてくださった個所です。よく覚えておられる方も多いでしょう。吉岡先生がこの個所を読みながらわたしたちに問いかけてくださったことの一つは、このエチオピア人の宦官がエルサレムの礼拝からの帰りがけに、馬車に乗って旧約聖書のイザヤ書を朗読していた動機は何だったのでしょうか、というあたりのことだったと思います。この人の心には、神さまの救いを求める強い思いがあったのではないでしょうか、それはどのような思いでしょうか、というような問いかけもあったように思います。



「宦官」というのは、去勢した男性である、ということも、吉岡先生は教えてくださいました。女王に仕える仕事、女王の全財産の管理を任せられている重要な仕事ではあるが、どこかしら空しさや寂しさを覚えるような仕事ではなかったか、というようなことも吉岡先生がおっしゃっていたように記憶しております。



まさにそういうことを考える必要があるだろうと、私も思います。エチオピアの高官は、ユダヤ人たちから見ると、明らかに「異邦人」です。外国の人であり、また外国の宗教を信じているか、あるいは、その影響を受けている人です。そういう人が「聖書にも」興味を持った、ということは、ありうることです。



しかし、問題は、この人がなぜ、「聖書にも」興味を持ったのか、です。この人の生きている国やその現実、またそこで信じられている宗教や思想など。そういうものにこの人は、ある限界や行き詰まりのようなものを感じ取っていたのではないか。そのように考えることができると思います。



聖書は、まだ読み始めたばかりで、よく分からない。しかし、自分が生まれ育った国や町や村の宗教のほうは、もっと分からない。さっぱり分からない。あるいは、理屈としては分かっても、全く信頼できない。信じる価値がない。興味がわかない。



しかし、それでも、現実の生活をしていると、いろんな場面で不安が起こり、トラブルが起こり、うんざりする日々が続く。心の底から信頼できる何かが欲しい。人生の支えになるようなものが欲しい。それが宗教なのか何なのかは、この際どうでもよい。とにかく、このわたしを何とかしてほしい。もし聖書というこれが、自分を支えてくれるものになるというなら、それでもいい。そのような動機から聖書を読み始める人は大勢います。今の日本でも、教会には通わないし、洗礼を受ける気もないが、聖書だけは一応買って持っているし、それなりに興味があるし、目を通したことがあるという人は、少なくありません。



しかし、です。目を通したことがある、というのと、「朗読する」というのとでは、事情はかなり変わってくるでしょう。



あまりストレートに言うと、皆さんを嫌な気持ちにさせてしまうかもしれませんので、少し柔らかく言います。もしかして、皆さんの中には、「聖書をまだ声に出して朗読したことがない」という方もおられるのではないかと想像します。いかがでしょうか。



黙読するというのと、朗読するというのとでは、根本的にどこか違うところがあります。黙読までは、だれでもしますし、だれにでもできます。しかし、朗読となると、かなり質が変わってきます。「恥ずかしい」という思いが少しでもあると、できないものです。聖書の朗読を始めることができたら、もう相当なものです。



ちょっと聖書を朗読したくらいで「あなたはもう立派に信じている」などと言われたくないよ、と反発なさる方もおられるかもしれませんので、こういうことは十分気をつけて申し上げなければならないと感じています。しかし、聖書の御言葉を声に出して朗読することができるなら、心のバリアはかなり取り去られていると、私は思います。



しかし、しかし、です。この宦官が感じたことは全く正直な思いです。この人は正直な人だと、私は思います。聖書という書物は、ちょっと朗読してみたくらいでは、さっぱり分からないものである、ということを、この人ははっきりと感じとりました。



だからこそ、フィリポがこの人に近づいて「読んでいることがお分かりになりますか」と質問したときの答えが、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」となったのです。少し乱暴に通訳しますと、「こんなワケの分からん書物、だれか専門家の人にでも解説してもらわないかぎり、分かりっこないじゃありませんか」ということです。



「すると、“霊”がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は、羊のように屠殺場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。』宦官はフィリポに言った。『どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。』そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」



私は、このエチオピア人の宦官の、聖書に対する態度、あるいは、聖書に向き合おうとする際の姿勢は、正しいと思います。彼がしたことは、三つあります。



第一は、先ほど申し上げたとおり、聖書をまだ理解できないうちに、とにかく朗読した、ということです。キーワードは「朗読」です。



第二は、聖書を理解できないことを率直に認めて、この本に書いてあることを解説してくれる教師を求めた、ということです。キーワードは「手引きしてくれる人」、すなわち、「教師」です。



そして第三に(これが最も重要です!)この人は、聖書の中の自分には理解することが不可能であるような言葉や事柄について、せっかくその場にいてくれる「教師」(この場面ではフィリポ)に対して、少しも遠慮することなく、「どうぞ教えてください」と質問した、ということです。キーワードは「質問」です。



今、わたしは、三つのキーワードを言いました。「朗読・教師・質問」です。この三つの点を、きちんと通ることができた。この人は、まさに一瞬のうちに、洗礼を受ける決心へと辿り着いたのです。



「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。』そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。」



残念に思うことがあります。聖書を理解できない。神を信じることができないし、洗礼を受ける気にもなれない、という方々の中に、このエチオピアの宦官の辿った道を、どうも辿っていないのではないかと思われることがあるのです。それが「朗読・教師・質問」です。とにかく声に出して読んでみること。解説してくれる教師を持つこと。そしてその教師に遠慮なく質問すること、です。



最低限この三つの点を通らないで、「聖書は分かりません」と言われても、ちょっと困ります。分かりっこありません。それは学校や塾や習い事と、かなりの部分、同じです。



逆に言えば、それをしてみてほしいのです。



そのために、ここに教会があるのです!



そのために、ここに牧師がいるのです!



(2007年6月24日、松戸小金原教会主日礼拝)