2007年8月12日日曜日

「神は人を分け隔てなさらない」

使徒言行録10・34~48



今日の個所は先週学んだ個所の続きです。しかし、今日お話ししますのは一つの点です。 「神は人を分け隔てなさらない」という点です。



先週の個所から登場しているのはコルネリウスという人です。コルネリウスは異邦人の軍人でした。この人が、要するに「教会に通いたい」という願いを持っていたと考えられます。この個所に、そのようにはっきりと書かれているわけではありませんが、だいたいそのようなことであると考えてよいでしょう。教会に通いたい理由は聖書を正しく学び、正しい信仰を身に付けたいというようなことだったのではないかと思われます。



ところが、です。当時のキリスト教会は、なんと残念なことに、「異邦人お断り」という姿勢をとっていたのです。異邦人であるコルネリウスにとって、当時の教会に立ち入ることは、非常に難しいことでした。歓迎されないのですから!嫌がられているのですから!



しかも、困ったことに、当時の教会は、異邦人を事実上締め出す態度をとっていたことを“聖書に基づいて正しい”と確信していました。わたしたちにとって聖書に基づく確信は、まさに絶対的な性格を持ちます。「聖書にこう書いてある」と言われると、ぐうの音も出ません。これが人を黙らせる手段として持ち出されるときには、凶器にもなります。



わたしたちは、聖書に基づいてキリスト教信仰の揺るぎない確信を得ることもできますが、同時に聖書に基づいて大きな罪を犯すことがありうるのです。聖書に基づいて、人の心を最も深く傷つけることがありうるのです。



しかし、当時の教会が持っていた確信を、聖書の御言葉の究極的な意味での“著者”であられる主なる神御自身が打ち破られる、という出来事が起こったのです。それは、神がペトロに「夢」をお見せになる、という出来事でした。夢の内容は、10・9~16に記されているとおりです。



ただし、今日の個所に記されているのは教会全体の方針転換に至るよりも前のことです。ペトロという一個人の見解が変わる、という段階であると見ることができます。



しかしまた、そのペトロは、やがて、この自分の見解の変更を当時の教会の会議の席上で発表し、そこでの議論を待って、それを教会全体の見解にしていくという段階を踏んでいきました。



まさにこの点に教会会議の存在理由がある、と言ってよいでしょう。「聖書にこう書いてある」という仕方でわたしたちがまさに絶対的な確信を持っていることの中には間違って確信してしまっていることもある、ということに気づいたときに、深く反省し、根本的に方向を転換していくために、教会会議と、そこでの徹底的な議論とが、必要なのです。



そのようにして、西暦一世紀の教会は異邦人を拒むことをやめました。そして、可能なかぎり積極的に、異邦人に伝道するようになっていったのです。



「そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』」



ペトロは、自分自身で夢を見たことと、また異邦人コルネリウスとの出会いと話し合いの中で自らの信仰的確信の内容を変更しました。ユダヤ人は異邦人と交際してはならないという“聖書に基づく”確信を、自ら放棄しました。放棄することができた、という言い方をしておきます。自分の信仰的確信ないし宗教的確信の内容を、たとえ一部分でも放棄することは、実際には非常に難しいことであり、また、しばしば、とても耐え難い苦痛を伴うものだからです。



しかし、変更が必要ならば、変更すべきです。自分の確信する内容を変更することには苦痛を伴うので、「変更したくない」という気持ちが起こることは理解できます。しかし、間違った確信を持ち続けることや、間違っていることを「間違っていない」と言い張ることは、もっと大きな間違いなのです。



ペトロが新たに得た確信は、「神は人を分け隔てなさらない」ということでした。日本聖書協会の口語訳(1954年版)では「神は人をかたよりみない」と訳されていました。この訳も素晴らしいと思います。



ペトロが口にしている言葉の趣旨は、神は特定の人々をえこひいきなさらない、ということです。人種や民族、男か女か、あるいは経済的に豊かであるかそうではないかというようなこと、その時点で職業を持っているかどうか、学歴その他、などなど。そのようなことで、神は人を差別なさらない、ということです。



しかも、ここで直接的に問題になっていることは、教会の入会資格の問題です。この人は教会に入会する資格があるとかないとかを決めるのは、神御自身です。神が入会を許可しておられるのに、人間が入会を拒んではなりません。神が「受け入れます」と言われるなら、人間はそれを拒んではならないのです。



ちょっとだけ、私が気になっていることに触れておきます。それは、たとえば、中会や大会などでしばしば耳にする「教会の高齢化問題」というような言い方です。



「教会に若い人がいない。このままでは教会は滅びてしまう。若い人にぜひ来てほしい」。理屈としてはごもっともと思う面もありますが、いずれにせよひどく語弊がある物の言い方でもあることは事実です。



教会は、いつから「高齢者お断り」の看板を挙げるようになったのでしょうか。「神は人を分け隔てなさらない」のです。「私は高齢者だから、教会にとっては不要な存在なのだ」というようなことを少しでも考えさせてしまうような言葉遣いを、教会は用いるべきではありません。そういうことを自分が言われたらどんな気持ちがするだろうかと考えていただきたいのです。



高齢者だけではありません。教会は「こういう人に来てほしい」という言い方をすべきではありません。人の心は非常に複雑でデリケートなものです。「こういう人に来てほしい」という言葉を聞くと、「“こういう人”に当てはまらない人間は不要な存在なのだ。この私も不要な存在なのだ」と考え始めてしまうのです。



「神は人を分け隔てなさらない」のです。そのことをペトロははっきりと確信しました。そしてそのペトロのいわばこの時点ではまだ個人的な性格をもっていた確信が、やがて、教会の根本的な方針変換へとつながっていくことになりました。



当時ユダヤ人が大多数を占めていた教会が「ユダヤ人は異邦人と交際してはならない」という点にこだわり続けるなら、異邦人たちがイエス・キリストへの信仰によって救われ、教会で洗礼を受けてキリスト者になることは、絶対に起こりえないことになってしまうのです。



この点はいろんな面に応用できます。昨年の東関東中会設立記念信徒大会の実行委員会が神経を用いて考えたことは、体の不自由な方々への配慮という点でした。中会の諸教会にアンケートをとった結果、信徒大会に参加を予定している人々の中には、特別な介助を必要としているほどの障がいを持っておられる方はいない、ということが分かりました。



しかし実行委員会は、アンケートの結果はそうであっても体の不自由な方々への配慮は行うことに決めました。重度の聴覚障がい者はおられなくても手話通訳をお願いしましたし、車椅子の参加者はおられなくても介助スタッフをお願いしました。「いないからしない」というのは、事実上の締め出しを意味するのです。たとえそれが故意や意地悪でしていることではなくても(故意や意地悪でしているなら、それはそれで大問題ですが)、事実上の結果として「そういう人々は来てはならない」と、態度で示してしまっていることがありうるのだ、ということに気づく必要があるのです。



松戸小金原教会の今の会堂が建てられたときに、私は立ち会っておりませんでしたので、皆さんがどのような議論をなさったのかは、全く知りません。知らないほうがよいこともあると思っています。しかし、この会堂で素晴らしいと感じる点の一つは、エレベーターがあることです。礼拝堂が二階にあるからです。二階に礼拝堂があるのにエレベーターがないという教会は、階段を登ることができない足の不自由な人々を、事実上締め出してしまっているのです。今では、皆さんにとって本当に重宝している部分ではないでしょうか。



しかも、ここで重要なことは、教会は何のためにあるのか、という問いを持つことだと思います。コルネリウスに対するペトロの答えの中にも、この点に触れている言葉があります。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と書かれている、これがそれです。



このペトロの言葉は、功績主義的に解釈されてはなりません。功績主義的な解釈とは、どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行いさえすれば、神に受け入れてもらえます、というような読み方です。神に受け入れてもらうためには、神を畏れて正しいことを行うという功績的条件を満たす必要がある、という読み方です。



しかしペトロが言おうとしていることは、そういうことではありません。ペトロの言葉の趣旨は、教会とは何のためにあるのか、ということにかかわるものだ、と考えることができるでしょう。つまり、教会とは「神を畏れる」場である、ということです。



また「正しいことを行う」のここでの意味は、一般的・人間的・道徳的な意味での正しさを満たす、ということではなく、神の御心に従う、ということです。神の御心は正しいものですので、その神の御心の正しさに従うことによって、その結果、正しいことを行うことになる、ということです。また、神の御心の正しさには、一般的・人間的・道徳的な正しさを満たす要素も多く含んでいますので、神の御心に従うことによって、その結果、それらの一般的な意味での正しい行いをすることにもなる、ということです。



ですから、このように考えますと、ペトロの言わんとしていることは、「神を畏れること」と「神の御心の正しさに従って生きること」が教会の存在理由なのであって、その教会に入会することにおいては、いかなる差別もあってはならない、ということである、ということがお分かりいただけるであろうと思います。



念押しのために、繰り返して申し上げておきます。教会は「“こういう人”に来てもらいたい」というような願いを持つべきではありません。そのように願うときの“こういう人”とは、しばしば、ある人々にとって都合が良いだけの存在です。



神の御目には、“こういう人”と“ああいう人”の差別はないのです。「あなたは福音を信じて救われることなど、なくてもよい」というようなことを言われなくてはならない人は、この世界に一人もいません。



今日の個所の出来事は、「ペトロの“回心”」と呼んでもよいくらいです。ペトロが方針を変えることができたので、異邦人コルネリウスはやっと教会に受け入れられたのです。



一人の新しいキリスト者が誕生したのです!



(2007年8月12日、松戸小金原教会主日礼拝)