使徒言行録9・23~31
今日の聖書の個所には、サウロの回心に関係している記事が、もう少し続いています。ここに書いてあることを短い言葉でまとめて言うとしたら、サウロの回心後にどうしても越えなければならなかった高いハードルを越えることができた、その瞬間の出来事である、と表現できるでしょう。
「高いハードル」とは何か。キリスト教の熱心な迫害者であったサウロが、回心した。今度はキリスト教の熱心な伝道者になった。そのあまりにも大きすぎる、まさに文字通り百八十度の方向転換がサウロの身に起こったのだということを、周りの人々が、とりわけ教会の人々が、なかなか信用してくれなかった。その意味での信用ないし信頼のハードルです。
そのハードルを、サウロは乗り越えることができたのです。それは、ある意味で、回心の出来事そのもの以上に感動的な出来事です。
「かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。」
サウロは回心した後、ダマスコのアナニアのもとで、しばらくの時間を過ごしました。そこで何をしていたのかは詳しく書かれていませんが、当然考えてよいであろうことは、キリスト教信仰の手ほどきを受けたのではないか、ということです。
サウロは律法学者の卵でしたので、(旧約)聖書については、高い学問的レベルの研究をしてきたはずです。しかし、それは、もちろんユダヤ教的な聖書の読み方でした。
わたしたちの時代にも、同じこの聖書を読んでいると言いながら全く異なる立場や異端的な立場から聖書を読んでいる人々がいます。聖書はどういう読み方をしてもよいというものではありません。わたしたちが信頼を置いているのは、聖書のキリスト教的な読み方です。
サウロは、聖書のことならなんでもよく知っているつもりでした。しかし、回心した。そのとき、これまでわたしは聖書の読み方を根本的に間違っていたと感じたに違いありません。サウロは、アナニアのもとで、聖書を最初から全く新しく読み直し、それによってキリスト教信仰を学んだのではないかと、想像できます。
ところが、サウロがアナニアのもとにいるという情報が、どのような経緯でかは分かりませんが、ユダヤ教関係者に漏れてしまいました。そして、裏切り者サウロを殺せという指令まで出ました。
そしてその情報を、今度はサウロの側が知るに至りました。どの人もこの人も口が軽いのか、何なのか、事情はよく分かりませんが、お互いの情報が筒抜け状態であったことが、なんとなく伝わってきます。
そして、サウロ暗殺の実行部隊が、ついに動き出しました。サウロの動きを、夜も昼も見張っていた。しかし、サウロは「弟子たち」の助けを得て、逃走することに成功したのです。
興味を引くのは、サウロに「弟子たち」がいた、という点です。ダマスコのアナニアのもとにサウロと一緒にキリスト教信仰を学んでいた人々であると思われます。新しい信仰を一緒に学んでいるサウロの姿を見て「この人は信頼できる」と感じることができた人々ではないでしょうか。
近くにいると、それが分かる。この人は安心して共に歩むことができる人であるということが分かる。サウロはそのような信頼を得ることができ、新しい信頼関係を築いていくことができる人であった、その証拠がここにある、と言ってよいでしょう。
ところが、そのサウロの前に先ほどの「高いハードル」が現れました。それは、要するに、サウロのことを遠くから見ている人々でした。具体的には、エルサレム教会の人々でした。物理的な距離だけではなく、精神的な距離が、遠い。まだ一度も会ったこともないし、話したこともない。ただ、噂や伝聞で「サウロというあの人は、信用できない人間である」と伝わっている。殺人鬼や悪魔のような姿を想像されている。しかし、それはまた、明らかに“根も葉もある”噂であり、伝聞でもあったわけです。そして、その上で、やや過剰なまでの誤解や偏見が混ざっていた可能性も考えられるわけです。
しかも、サウロにとっての大きな問題は、エルサレム教会の人々が実際に会ってくれるかどうかというものだったことも明らかです。「あのサウロという人は、教会の人々をさんざんひどい目に遭わせ、傷つけた。今さら何を言っても無駄である。そんな人においそれと会うわけには行かない。どうかお引き取り願いたい」と、丁重かつ慇懃に断られる可能性も十分にありました。
そのような人々に会いに行く。きちんと頭を下げて謝ることも必要です。そして、その上で、その人々に受け容れてもらい、教会の新しい仲間に加えてもらわなければならない。それこそが、サウロの越えなければならなかった「高いハードル」でした。
もしわたしたちがサウロの立場だったらどうだろうか、と考えてみることが重要です。その「高いハードル」を越えることができるでしょうか。
「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」
ここに書いてあることから分かることは、さすがのサウロも彼自身の力や技量だけではエルサレム教会のすべての人たちの信頼を勝ち取ることができなかったのだ、ということです。
それでは、このサウロは、どのような方法で「高いハードル」を越えることができたのでしょうか。それは次のような方法でした。すなわち、要するに、サウロを助けてくれる人が現れたのだ、ということです。
それは、バルナバという人でした。本名はヨセフでした、使徒言行録のこれまでの話の中に一回だけ登場しています。「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――『慰めの子』という意味――と呼ばれていた、キプロス島のヨセフ」(4・36)とあるとおりです。
「バルナバ」はニックネームでした。「慰めの子」という意味である、と書かれていることから想像できるのは、この人はとにかく優しくて、温かみがあって、人当たりが良くて、ひょっとしたらちょっと人懐っこいようなところもあって、性格が良い。人格的にも尊敬できる。そんな感じの人ではないでしょうか。
そして実際のバルナバは、そのとおりの人だった、ということが、使徒言行録のこの後の展開の中で次第に明らかにされていきます。このバルナバは、初代教会の中できわめて大きくかつ重要な役割を果たします。それは何か。サウロ(パウロ!)と共に、サウロを助けて、世界宣教旅行に出かける、唯一無二のパートナーになっていくのです!
ただし、です。ちょっと残念なことに、この二人は、ある一つの出来事がきっかけで、大喧嘩になり、ある時点から別々の道を歩むことになってしまいました。しかしそれまでの二人は、お互いを非常に信頼しあっていました。また、お互いを慕っていたとも思われます。そして、その大喧嘩そのものも、個人的な感情のもつれとか、好きだの嫌いだのという次元に原因があったわけではなく、教会の宣教の使命と方針をめぐっての意見の対立であり、それは仕事や考え方の上での対立なのであって、その意味では、“尊重されるべき喧嘩”(?)でもあった、と言うべきものなのです。
しかし、バルナバのことについて先回りしていろいろお話しするのは、やめておきます。この個所で重要なことは、サウロとバルナバの最初の出会いの場面での出来事です。
エルサレム教会の中のまだ誰もサウロのことを信用してくれなかったときに、誰よりも真っ先に、バルナバが信用してくれた。バルナバがサウロの話を親身になって聞いてくれ、そして使徒たちや教会の他の人々との仲を取り持ってくれた。仲介役を買って出てくれた。そのバルナバのおかげで、サウロは、エルサレム教会の人々から信頼されるようになり、まさに「高いハードル」を越えることができた。それは、おそらくわたしたち一人の人間が一生の間に越えなければならないハードルの中では、最も高いかもしれないものです。それをサウロは、バルナバに手を引かれて(!)、飛び越えることができたのです!
こういう人が教会の中に、あるいは、わたしたちの人生の中に現れてくれるとしたら、なんと得がたい恵みであるかと思わずにはいられません。それは、反対側から考えてみると良く分かることではないでしょうか。もしサウロの前にバルナバが現れてくれなかったとしたら、おそらくサウロは、いまだに(!)エルサレム教会の門の前を行ったり来たり、うろちょろし続けていることでしょう。結局その門をくぐることができない。一人の人間の力の限界がそこにあると言えるのではないでしょうか。
これはおそらく、最近わたしたちの教会の仲間に加わってくださった方々には、記憶に新しいところであると思います。教会の仲間に加わるということは、言うならば、いまだかつて体験したことがないような全く新しい人間関係の中に入っていくことを意味しています。それは、イエス・キリストにおける救いの恵みに基づく罪の赦しに生かされる人間関係です。
そして、おそらくそのような全く新しい人間関係の中に入っていくときに、わたしたちに必要なものは、いささかの勇気です。まさにその勇気をもらう必要がある。そのために、手をつないで一緒に入ってくれ、いろいろと助け舟を出してくれる導き手が必要である、ということです。
それが、わたしたちにとっては、たとえば、両親あるいは片方の親である場合もあるでしょう。あるいは、おじいちゃんやおばあちゃん、親戚、兄弟。友人たち。自分の子どものほうが先に洗礼を受けて、教会の仲間に加わっていた、という方もおられるでしょう。牧師や牧師夫人がバルナバの役目を買って出てくれた、というケースもあるでしょう。
「そういう人が、私には誰もいなかった」と思っている方もおられるかもしれません。しかし、もう少しよくよく思い出してみていただきますと、次のようなことがあったのではないでしょうか。初めて教会の門をくぐったときに受付にいた、あの執事さんから親切な声をかけてもらった。帰りがけに、あの長老さんから優しく声をかけてもらった。隣にいたあの人が親切にしてくれた。
そのようないわばほんの小さなことが、大きな安心感につながり、「よし、これから教会生活を始めてみよう!」と決心するきっかけになった。そういうことは、なかったでしょうか。
教会が何か恩着せがましいことを言いたいわけではありません。私が申し上げたいことは、わたしたちが信仰に導かれ、教会生活を始めるときには、ほとんど間違いなくそこに必ず人間(ひと)が介在しているのだ、ということだけです。人間(ひと)の存在が重要なのだ、ということです。そのことに、ぜひともお気づきいただきたいのです。
そして、もう一つ申し上げておきたいことは、今度は、わたしたち自身が、「サウロ」を教会に導く「バルナバ」の役目を果たす番である、ということです。
「このわたしのことを教会は受け容れてくれるだろうか」と、不安な思いを抱きながら、教会の門の前を行ったり来たりしている「サウロ」を、です。
今度は、わたしたちが「バルナバ」になって、教会に受け容れるのです。
それが、わたしたちの役割なのです。
(2007年7月22日、松戸小金原教会主日礼拝)