2007年6月17日日曜日

「神の賜物の価値」

使徒言行録8・4~25



今日の個所に出てくるフィリポは、殉教者となったステファノと同時に新しい教会役員(執事)に選ばれた人物です。つまり、このフィリポも教会役員であり、かつ有能な伝道者でした。



今日の個所のもう一人の主たる登場人物はシモンです。シモンと言っても、キリストの弟子シモン・ペトロとは別人物です。このシモンは魔術師です。シモンは、洗礼を受けてキリスト者になりました。この点が重要です。その前に魔術師の仕事をしていたのです。



私は今、「その前に」と言いました。しかし、この点はちょっと微妙です。シモンは洗礼を受けてキリスト者になってからは、魔術師の仕事をスパッとやめたのでしょうか。そのようには、どこにも書かれていません。話の流れや展開の方向から考えれば魔術師という仕事自体は、たぶんスパッとやめたのではないかと推測できます。しかし、今日の個所にその点がはっきり書かれていませんので、私もはっきりしたことを申し上げることはできません。



シモンについて今日の個所からはっきり分かることは、むしろ次のことです。それは、要するに、シモンの考え方や態度や行動の面を見るかぎり、彼はちっともスパッとしていなかったという事実です。シモンは、洗礼を受けた後になっても、おそらく魔術師時代に覚えたのではないかと思われる、一つの処世術を、ずっと引きずっていました。



「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群集は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」



話の流れは、だいたい次のようなことです。



第一のポイントは、ステファノの殉教の後、ユダヤ教団当局のキリスト教会への弾圧が激化したのに対して、教会側がとった態度は、使徒たちだけをエルサレムに残して、ほかのみんなは、ユダヤとサマリアの地方に散って行くというものだった、ということです。



このような態度をとった意味としては、いくつかの可能性を考えることができるように思います。



第一の可能性は、使徒たちは勇敢な人々であり、他の人々は臆病だったということです。使徒たちだけが殉教の覚悟をもってエルサレムに残った。しかし他の人々は恐れをなして逃げていったのだ、という可能性です。



第二の可能性は、使徒たち以外の全員に対してエルサレムから逃れるように命じたのは、ほかならぬ使徒たち自身であった、ということです。迫害によってキリスト者が全滅してしまわないように、信仰の炎を消さないように、教会員の命を守ることを先決にし、使徒たちだけの命を差し出すという判断を、使徒たち自身が下した結果としての、キリスト者たちの離散行動であった、という可能性です。



私自身は、今申し上げた二番目の可能性を支持したいと考えております。どうせなら、使徒たちも一緒に逃げたらよかったのではないかと感じなくもありません。その選択肢も十分ありうるものです。恥ずかしいことではないし、みじめなことでもありません。



武士道とキリスト教の共通点を強調する人々がいますが、私は両者の違いのほうを強調したいと願っています。武士道の心は死ぬこと、キリスト教信仰の心は生きることです。しかし、使徒たちの場合は、彼ら自身が「エルサレムに残る」という道のほうを選択し、そのように決断したのですから、それはそれで尊重しなければなりません。



いずれにせよ、使徒たちの覚悟はただ一つであったことは、間違いありません。それは、救い主イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストと共に死ぬこと、そしてイエス・キリストと共に復活することでした。そのためにキリストが十字架につけられて殺されたエルサレムの地で、彼ら自身も死ぬことを望んだのです。そのように考えざるをえません。



さて今日の個所の第二のポイントは、そのようなきっかけで地方に離散していった人々の中にフィリポもいたということです。フィリポはサマリア地方に向かいましたが、重要なことは、行く先々でフィリポは、イエス・キリストの福音を伝道した、ということです。



エルサレムに残らなかった人々は、みんな臆病だった、という解釈の間違いは、この点からも明らかになると信じます。フィリポを含む離散したキリスト者たちは臆病で逃げたのではなく、どこまでも生き延びてこの真の信仰を一人でも多くの人々に宣べ伝え、地上に一つでも多くの教会が生み出されることを願ったのです。このわたしが生きていることによって、一人でも多くの人に福音を宣べ伝え、正しい信仰を教え、洗礼を授けることができる。彼らは、その可能性に賭けたのです。



そのことがまた、ステファノの殉教を無駄にしない、彼の死を無意味なものにしない、最良の選択肢でもあった、と考えることができるでしょう。



第三のポイントは、そのフィリポの伝道活動の中で、魔術師シモンとの出会いがあり、そのシモンがついに洗礼を受けるに至った、ということです。



そして、第四のポイント。これが今日の個所の内容的な中心部分であると思われます。それは、このシモンが、洗礼を受けた後に、大きな失敗を犯し、使徒ペトロから大目玉を食らった、要するにこっぴどく叱られた、という話です。シモンは、何をしでかしたのでしょうか。書いてあることを読んでみたいと思います。



「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。』すると、ペトロは言った。『この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。』シモンは答えた。『おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。』このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。」



シモンがしようとしたことは、要するに、「聖霊」をお金で買おうとしたということです。それで使徒ペトロからこっぴどく叱られたのです。



しかし、それでは、「聖霊」とは何でしょうか。この点を、だれにでも分かるように説明するというのは非常に難しいことです。われわれ日本キリスト改革派教会の創立者の一人である岡田稔先生は、「聖霊とは、ほとんど信仰という言葉で置き換えることができる」と、何度もおっしゃいました。



聖霊と信仰は全く同一のものと言うことはできません。けれども、説明としてはかなり分かりやすいものになることは間違いありません。岡田先生の聖霊論を元にして言い直すとしたら、シモンがしようとしたことは、要するに「信仰」をお金で買おうとしたということです。このように、説明することができるようになるでしょう。



しかし、「聖霊」は、お金で買うことができません!「信仰」は、お金で買うことができないものです。この世の中には、お金で買えないものがあるのです。そのことをシモンは、洗礼を受けた後までも、全く理解していなかったのです。



なんでもお金で買うことができる。シモンは、この感覚(センス)をどこで身につけたのでしょうか。私はやはり、それは魔術師時代、あるいは魔術師になるまでの下積み時代のような頃ではなかったか、と考えざるをえません。魔術の修行にたくさんのお金が必要だったのではないでしょうか。あるいは、自分の弟子たちからたくさんのお金をとって、魔術の伝授をしたのではないでしょうか。



おそらくシモンは、それと同じようなことが、てっきり、教会の中でも行われているものと思い込んでいたようです。シモンの犯した最大の過ちは、魔術の伝授と、聖霊の受け渡し、信仰の継承を、同一次元で考えてしまったことではないでしょうか。



皆さんの中には、まさか、シモンと同じようなことを考えている方はおられないと思います。「聖霊はお金で買えるものである」と。



わたしたちは、聖霊の働きによって信仰を与えられ、その信仰によって救われるのですから、信仰がお金で買えるのでしたら、救いもお金で買えることになります。わたしたちの救いの完成は天国で起こります。救いがお金で買えるのでしたら、天国もお金で買えることになります。結論は「天国はお金で買えるものである」です。



このように考えることは、全く間違いです。天国はお金で買うことはできません。もしそれが正しいならば、お金持ちはみんな天国に行くことはできるはずですが、事実はそうではありません。いみじくも、わたしたちの救い主イエス・キリスト御自身が、言われたではありませんか。「金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(マタイ19・23~24)と!



この主イエスの教えは、お金を稼ぐことや貯金することが悪いという話ではありません。お金を稼ぐこと、貯金することはよいことです。大いに奨励したいと思います。



ただ、しかし、強いて言うならば、です。イエスさまの教えの中に明らかにあるのは、お金というものがわたしたち人間の心をあまりにも強く束縛するあまり、いろんな判断において間違ってしまうことがある、ということです。



立派なお墓や葬式は、お金で買えるかもしれません。しかし、天国そのものは、お金で買うことができません。あるいはまた、そこまで行かなくても、この地上の人生において真に平安であること、安心した生活を送ること、喜びと感謝と希望に満たされて生きること、つまり、この地上においてあたかも天国にいるかのような幸福を味わうことが、お金で買えるのかといえば、そうではない、といわざるをえません。一時的な快感、快楽は、お金で買えるかもしれません。しかし、それで満足できる人は、実はいないのです。



信仰は、お金で買うものではなく、まさに信じるものです。信じるのは「タダ」です。お金に換えがたい価値があるという意味でのタダです。神の救いの恵み、永遠の喜びは、プライスレスなのです。



(2007年6月17日、松戸小金原教会主日礼拝)