2006年9月3日日曜日

「いつも目を覚まして祈りなさい」

ルカによる福音書21・34~22・6



「『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。』それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群集のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」



三つの段落を読みました。しかし、今日お話ししたいことは、一つのことです。最初の段落に記されているのは、21章の初めから続いてきたイエスさまの説教の、しめくくりの部分です。その中に書かれている次の御言葉に注目したいと思います。このように言われているのを見て、自分に関係があることだと感じて、ドキッとするという方がおられるのかどうかは、わたしには分かりません。



ここには「放縦や深酒や生活の煩いで」と、三つの言葉が並べられています。そして、このまさに三つの言葉で言い表されている三つの事柄によって、「心が鈍くならないように注意しなさい」と言われています。



しかし、どうでしょうか。ここで言われていることの中に気になることが、わたしには二つほどあります。



第一は、この三つの言葉が並べられているのは、興味深いことでもありますが、しかしまた、やや不思議なことでもある、という点です。



「放縦」と「深酒」は、ほとんど同じ内容の言い換えであると思われますので、二つが並べられていてもおかしくありません。ところが、そこにもう一つ、「生活の煩い」ということが並べられている。三つのことがまるで同じようなこととして扱われている。この点が、やや不思議です。



ここで「生活の煩い」とは、明らかに、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(ルカ12・22、マタイ6・25)というあの有名なイエスさま御自身の御言葉において禁じられている事柄のことを指しています。



ですから、この「生活の煩い」という問題点に注意すること自体は、重要なことです。しかし、です。気になるのは、「生活の煩い」という問題と、「放縦と深酒」という問題が並行的に扱われていることです。このことに対して、やや不思議であるという感想を持つ人が出てきてもおかしくないだろう、と思うわけです。



気になることの第二は、「心が鈍くならないように注意しなさい」という言葉の意味が、なんとなくぼんやりしている、ということです。



おそらくこれは翻訳の問題という面が大きいように思います。「心が鈍くなる」というのは原文の直訳です。鈍感になるということでしょう。この訳自体が間違っているとはいえません。お酒を飲みすぎると周囲の物事に対して鈍感になる。そういう話でしたら、わりとよく分かる話です。



しかし、ここにもう一つ、先ほど触れました「生活の煩い」という要素が加えられます。「生活の煩い」によって「心が鈍くなる」。このつながりが、分かったようで分かりません。



わたしの語感からすればという面もありますが、自分の生活について思い煩うことは、心が鈍くなっているどころか、むしろ、かえって非常にピリピリとした、心が鋭くなっている状態なのではないか、と考えることもできるような気がします。



まとめますと、「放縦や深酒」によって鈍感になるということなら、まだ分かる。しかし、「生活の煩い」によって「心が鈍くなる」と言われると、わたしにはあまりぴんと来ない感じがする。これが、わたしが感じた疑問点です。



「放縦や深酒」と訳されている二つの言葉の原語的な意味を調べてみますと、たいへん面白いことが分かります。



「放縦」と訳されている言葉は、さらに二つの要素に分析できるようです。



酒を飲んで酔っ払って気持ちよくなるという要素と、翌日に味わう“二日酔い”の気持ち悪い要素の二つである、と言われています。



飲んでいるときの気持ちが高揚している状態と、翌日の気持ちが落ち込んでいる状態との両方の意味がある、ということです。



「深酒」と訳されている言葉は、意味自体はこのとおりでよいと思います。要するに、お酒を深く飲みすぎて、酩酊することです。



面白いのは、このギリシア語は「メテー」と言う、という点です。メテーとは酩酊(めーてー)である、ということです。



ですから、「放縦」と「深酒」は、原語では一応区別されていますが、ほとんど同じ意味です。お酒を飲むことに関係している言葉です。



これによって周囲の物事がよく見えなくなる、心が鈍感になるというのは、経験したことがある人なら、だれでも分かる話であると思います。



しかし、繰り返しますが、「生活の煩い」が「心が鈍くなること」の原因になると言われると、わたしには、ちょっと分かりにくさがあるように思われるのです。



こういうときは、やはり、辞書や注解書を丁寧に調べることが重要です。実際に調べてみました。それで、「なるほど」と理解しえたところをお話ししたいと思います。



分かったことは、ここで「放縦」と「深酒」と「生活の煩い」が並べられていることには意味がある、ということです。つまり、三つの事柄には、共通している要素がある、ということです。



どこが共通しているのでしょうか。これは非常に微妙な面があり、慎重にお話ししなければ誤解されるように思われますので、注解書の言葉をそのまま引用します。



この三つの事柄に共通していることについては、次のように書かれていました。



「それによって、人間が、現実をもはや見なくなり、幻想(イリュージョン)や作り話(フィクション)に拠り頼むようになる〔という点で、三つの事柄は共通している〕」(*)。



冗談じゃないと、お感じになる方がおられるかもしれません。「生活の煩い」は、現実を直視した結果ではないかと思われるかもしれません。しかし、ここでわたしたちは、少し冷静になって、よく考えてみる必要があります。



はっきり言いますと、イエスさまは、「放縦や深酒」と「生活の煩い」を同列のものとして扱われました。この点は非常に重要なことであると思われます。



そして、そのことを逆のほうから考えてみますと、イエスさまが禁じておられる「生活の煩い」の意味は、「放縦や深酒」と同じような意味、つまり現実から逃避するという意味合いを持ちはじめるかぎりにおいて禁じられているものである、ということにもなる、ということです。



つまり、別の言い方をしますと、イエスさまが禁じておられるのは、現実を直視した結果としての「生活の煩い」ではない、ということにもなります。その面の煩いは許されることであり、必要なことであると思われます。



しかし、ここでイエスさまがお伝えになろうとしていることは、「生活の煩い」の中には、現実を直視しない、むしろ現実から逃避することを目的としているような種類の「生活の煩い」もある、ということに気づかなければならない、ということです。



ここで、話をぐっと卑近な例に移します。わたしはそれが好きなほうなのですが、思い起こしていただきたいのは、あのカタログショッピングです。最近は紙のカタログだけではなく、テレビやインターネットでのカタログショッピングというのもあります。



あれには、非常に便利な面もありますが、同時にそこで陥る罠もあると思います。それは、言うまでもなく、カタログに見とれてしまう、あるいは魅入られてしまうということです。



それによって、それを見なければ感じなかったような新たな欲求を感じはじめてしまい、その結果として今の現実の生活に不満を感じるようになる、ということです。



カタログを見るまでは感じたことがなかったような不満が、それを見ることによって生じる。高額なものであろうと、どんどん新しいものが欲しくなる。



それが「生活の煩い」の原因になる、ということです。



「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い煩うことのすべてが悪いと言われると、わたしたちは困ります。しかし、まさにカタログに見とれてしまうような仕方で、意識が現実を超えて高まってしまうところに至りますと、酒を飲んで酩酊状態であるのと変わりません。度が過ぎると、生活が破綻してしまうのです。



イエスさまの時代にカタログがあったとは思えません。しかしたとえば、ひとが持っているものを見てうらやましいと思い、それを手に入れたくなり、実際に手に入れてしまうというようなことは、当時でも間違いなくありえたことです。



飲酒による酩酊にたとえられるほどの現実逃避的な「生活の煩い」は、むさぼりの罪(第十戒!)へと限りなく接近している、ということです。



そして、まさにその結果として「心が鈍くなる」と、言われているわけです。ここまで来て、「生活の煩い」と「鈍感になること」との関係をどのように理解すべきかという点につながるわけです。



「心が鈍くなる」というこの新共同訳聖書の翻訳は、間違いとは言えませんが、かなりぼんやりしているものです。むしろ、文脈から読み取れる意図は、「心に負担がかかる」ということです。あるいは、「心に重圧がかかる」ということです。そのほうが、イエスさまの意図が、より明確になると思われます。



なぜなら、ここで言われている「放縦」と「深酒」と「生活の煩い」という三つの事柄の共通点である現実逃避という要素は、わたしたち人間が、その道を先へと進んでいけばいくほど、かえって、現実はわたしたちを追いかけ、さいなむものになる、つまり、心に負担ないし重圧がかかる、ということは、わたしたちすべてが体験済みのことだからです。



現実は、逃げれば逃げるほど、追いかけてきます。しかしまた、だからこそ、ますます深酒になる、ということが起こるのでしょう。現実を消し去るまで飲み続ける。しかし、現実は消えません。逃げることはできません。残るのは、二日酔いだけです。



また、「生活の煩い」には、現実逃避という面と同時に、自分の殻に引きこもるという面があることも否定できません。わたしが生活上感じている苦しみや煩いは、だれにも理解できないほどに大きいと、それぞれ皆が感じているのです。



「それならば、どうすればよいのか」という問いに対する答えは、ものすごく単純なものです。



第一は、逃げるのをやめる、ということです。逃げるから追いかけてくるのです。立ち止まって、振り返って、現実に向き合い、それを直視し、現実に対して誠実に取り組む、ということです。こつこつと、地道に、今日なすべきことを今日取り組む、という仕方で、そうすることが大切です。



第二は、苦しいのは自分だけではないということに気づくことです。わたしと同じ悩みを持っている人は他にもいる、ということを知るだけで、けっこう気持ちが落ち着くものです。



そして第三に、です。この問題の真の解決のためにイエスさま御自身が教えておられるのが、「いつも目を覚まして祈りなさい」ということである、と気づくことです。



ここで語られている、不意の罠のように襲いかかってくる「その日」とは、終末論的な概念です。今日は、その意味を詳しく説明する時間がもうありません。



ただ一言だけ申し上げておきたいことは、終末について考えることは現実逃避ではなく、むしろ逆であるということです。世界の終わりを考え抜くことは、世界の現実と向き合うことと同義語である、ということです。



終末を教える宗教はとかく現実逃避的である、と論評されることがありますが、わたしたちの場合は逆です。わたしたち(改革派教会)の終末論は、きわめて現実的なものです。



もちろん、終末について考えることは恐ろしいことでもあります。しかし、だからこそ、わたしたちには、宗教が必要なのです。宗教なしには、恐ろしすぎて、とても耐えられるものではないのです。世界の終末的現実に向き合うことができるようになるためにこそ、「神に祈る」という要素が必要なのです。



「目を覚まして」というのは酩酊状態の反対です。毎日徹夜でとか、不眠不休で、という意味ではありません。酒を一滴も口にしてはならない、という話でもありません。



イエスさまが教えておられるのは、“非陶酔的に祈ること”の大切さです。すなわちそれは、冷静で落ち着いた判断のもとに生きていくこと、そしてその中で「神に祈る」という生活を続けることにおいて現実に向き合うこと、そのことが大切であるということです。



そしてもう一つの点、第四の点に少しだけ触れておきます。それは今日お読みしました最後の(第三の)段落の記述に関係することです。それは、イスカリオテのユダの裏切りの場面です。



このことから学びうることは、世の中には、このような裏話、裏取引はいくらでもある、ということです。こういうことが実際になされていることに驚くべきではありません。



だからこそ、というべきです。わたしたちが考えなければならないことは、「放縦や深酒や生活の煩い」によってわたしたち自身が現実から逃避している間に、この種の裏取引がどんどん先に進んでしまっているかもしれない。事態は急速に悪化しているかもしれない、ということに敏感でなければならない、ということです。



冷静であること、非陶酔的な狂いのない目で、現実を見抜くこと。そして、祈ること。イエスさまは、その道をお選びになりました。また、その道こそが、イエス・キリストの背負われた十字架の道です。



ゴルゴタの丘の上で、両手両足に釘をさされることもいとわなかった。あのわたしたちの救い主イエス・キリストの十字架の道は「現実から逃げない」道です。少しも酩酊していない、きわめて冷静で、非陶酔的な御判断の中で、イエスさまは、御自身の道を進んでいかれました。



わたしたちも、(大変とは思いますが!)、イエスさまがお選びになったのと同じ道を、選ぶべきです。



(2006年9月3日、松戸小金原教会主日礼拝)



*’waardoor mensen de werkelijkheid niet meer kunnen zien en zich optrekken aan illuisies of ficties.’(J. T. Nielsen, Het evangelie naar lucas II, PNT, 1983, p. 177)





2006年8月25日金曜日

ファン・ルーラーのソフィスト批判

以下は、20世紀のオランダ改革派教会の牧師・神学者、アーノルト・A. ファン・ルーラー[1908-1970]の言葉です。



(原文)
Zij is theologie en geen theosofie. Dit 'logische' is wel te onderscheiden van het 'sofische'. Het 'logische' is nuchter en diep. Het 'sofische' is wel diepzinnig, maar altijd ook enigermate zwoel.
(A. A. van Ruler, Theologisch werk deel 1, p. 40.)



(試訳)
「それは神学(テオロヒー)であって、神智学(テオソフィー)ではない。“ロゴス的なもの”(論理性)は“ソフィア的なもの”(知性)から区別される。“論理性”は非陶酔的であり、かつ深い。“知性”もまた深遠ではある。しかしそれは、いつもどこかしら鬱陶しいものである。」
(ファン・ルーラー『神学著作集』第一巻、40ページ)



わたしがとくに度肝を抜かれたのは、最後の言葉です。'sofische' is...altijd ook enigermate zwoel.「ソフィア的なものは、どこかしらウザい」(!)。



けだし名言、と思いました。



ファン・ルーラーがいかに「神学的ソフィスト(詭弁家)たち」の存在を唾棄すべきものと考えていたかを垣間見る思いです。



われわれは、ソフィストの集まりにならないよう、お互いに自戒したいものです。



神学は「教会の学」であり、われわれが仕えるべきは「教会」です。この点でファン・ルーラーは、カール・バルトと完全に一致しています。



上記の名言が記されているのと同じ論文の中で、ファン・ルーラーは次のように書いています。



(原文)
Het (=presbyteriaal-synodale systeem) verhindert de vakmatige theologie, te overheersen in de regering en zo in het leven van de kerk. De theologie van de dienaren van het Woord wordt in evenwicht gehouden en binnen haar grenzen gewezen door de (pneumatische) menselijkheid van de ouderlingen en de diakenen. Dit evenwicht van theologische reflectie en praktijk van de vroomheid is een typisch moment in het werk van de Heilige Geest.
(A. A. van Ruler, ibid., p. 10.)



(試訳)
「長老主義は、“専門家の神学”(vakmatige theologie)というものが教会政治を支配し、それゆえまた、そういうものが教会生活〔または「教会の生命」〕を支配してしまうことを阻止するのである。“御言葉に仕える者たちの神学”(theologie van de dienaren van het Woord)は、長老と執事の(霊的)人間性によってバランスが保たれ、節度を守るのである。神学的考察と信仰的実践〔または「敬虔の修練」〕とのこのバランスこそが、聖霊のみわざの特徴なのである。」
(同上書、10ページ)



わたしは、つい最近まで、「教会の牧師の仕事」と「研究や翻訳などの仕事」は両立できない(時間的にも、肉体的にも、技術的にも)と感じていました。



そして、だからこそ、「神学の専門家」は必要であるし、われわれ牧師たちと彼らは分業すべきであると考えていました。



しかし、わたしは、上記のファン・ルーラーの言葉に接して、考えを変えることにしました。そして、今では以下のように確信しています。



(Q1)「神学の専門家」は、教会に仕えなくてよいか。



答えはノーです。



(Q2)(少なくとも毎日曜日に)教会に通わない「神学の専門家」などが、存在しえてよいか。



答えはノーです。



(Q3)教会の何らかの役職(教師、長老、執事、神学教師など)に就いていないため、教会の仕事において“忙しくない”ような「神学の専門家」などは、ありうるか。



答えはノーです。



(Q4)「教会的実践(イザコザ含む)に煩わされることなく、神学研究だけに没頭していてもよい人」は、存在しうるか。



答えはノーです。



(Q5)「教会的職務遂行」と「神学研究」の分業は可能か。



答えはノーです!



2006年8月20日日曜日

「わたしの言葉は滅びない」

ルカによる福音書21・20~33



「『エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。』」



ここでイエスさまは、とても恐ろしいことをお話しになっています。エルサレムの滅亡が起こる、という話です。



そこには、もちろん、エルサレム神殿の崩壊という点も含まれます。軍隊が押し寄せてくる。そしてエルサレムの町が全滅する。神殿も全滅する。そのようなことが現実となる。まさに大きな戦争が始まる、ということです。



実際にそれは起こりました。イエスさまの話は、空想の話でも仮定の話でもありません。西暦70年、ユダヤの国とローマ帝国との間に大きな戦争が起こり、エルサレムの町は全滅し、神殿も破壊され、ユダヤ人たちは国土を失い、世界の各地に散らされることになりました。



これに対し、今日の個所に記されているイエスさまの御言葉が語られたのは西暦30年代であると考えられます。約40年間の隔たりがあります。つまり、イエスさまは約40年前に大きな戦争の始まりを予言しておられた、と理解することができます。



しかも、重要なことは、イエスさまが予言しておられるのがこのユダヤの国は負けるという点である、ということです。



このときイエスさまは、目の前にいるユダヤ人の姿をご覧になり、また目の前のエルサレム神殿の様子をご覧になって、この国の政治と宗教は甚だしく弱体化している、ということを見抜いておられたに違いありません。この国は戦争に負ける、と見ておられるのです。



だからこそ、と言ってよいでしょう、たいへん興味深いことでもあるのは、イエスさまがここで最も強調されているのが「逃げなさい」という点であるということです。



イエスさまは、少なくともこの個所では「逃げずに闘いなさい。戦闘に参加しなさい。徹底的に抵抗しなさい」というふうには、お語りになりませんでした。むしろ逃げることをお勧めになりました。



はたしてわたしたちは、この個所をイエスさまの非暴力主義の根拠にできるでしょうか。できるかもしれません。しかし、もう一つ考えられることは、ユダヤ人に対して「それは勝ち目のない闘いである」ということを教えようとされているという意味で、負けを認めなさい、と勧めておられるようにも読めるように思われてなりません。



「書かれていることがことごとく実現する報復の日」という言葉の意味を説明するのは難しいことです。それは、これから起こる戦争は聖書の中で昔から予言されてきたことであるということでしょう。その予言が成就するという仕方で戦争が起こるというわけです。



ただし、戦争の責任を神に押しつけることはできません。人類が神の戒めに背き、罪を犯すことによって、自分の身に裁きを招いたのです。それが戦争です。自分勝手に生き、自分を傷つけ、人を怒らせ、社会を混乱させ、滅びを招くのは、すべて人間の責任です。



しかしまた、同時に考えなければならないことは、戦争には相手がある、という点です。自分のほうから仕掛けなくても、相手のほうから仕掛けられることがある、という点です。その場合は、戦争の責任はすべてこのわたしにあると、言うべきではありません。



しかし、です。問題は、戦争全体の中で、とくに戦うすべを持たない一般市民はどうすればよいか、です。なるほど、逃げるほかはないのです。



先週わたしは、イエスさまが戦争について「こういうことがまず起こるに決まっている」(21・9)とお語りになることにおいて、やや傍観者然として立っておられるように見える、と申し上げました。



しかし、そのことをわたしは、悪い意味ではなく良い意味でとらえたいと願いました。イエスさまは、戦争を始めるかどうかを決める国家元首のような立場にではなく、その人々によって始められた戦争に巻き込まれることにおいて実際の苦しみを体験するところの、無力な一般市民の立場に立っておられる、と理解してよい、と申し上げたつもりです。



この点から考えていくならば、今日の個所でイエスさまが「逃げなさい」というまさにこの点を強調しておられる意味が、よく分かるのではないでしょうか。



実際に一般市民にできることは、ただ逃げることだけです。それでよいのです。



「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」という点も、ここにかかわると思われます。戦火の中で逃げてよいし、逃げなければならない、そのような場面にあって、最もつらい立場にあるのが、妊婦や赤ちゃん連れのお母さんです。



「不幸だ」というのは冷たい言葉のように響いてしまうかもしれませんが、イエスさまの意図は逆であると思います。可哀想であるということです。イエスさまは、真の弱者の立場に立っておられます。小さな子どもとお母さん(お父さん)のことを、本当に心から心配し、同情し、理解してくださっているのです。



「『それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。』」



イエスさまは、終末的な天変地異についても、語っておられます。太陽、月、星、海、そして天体が、どうにかなるというわけです。



それらのものは、人間の手でどうこうすることができるものではありません。人間の手で荒れ狂わしたり揺り動かしたりすることができるわけではなく、また実際に荒れ狂ったもの、揺れ動いているものを穏やかにし、静かにさせることが、人間の手ではできないものです。だからこそ、そこには人間を超えた力、神の力が働いていると信じられてきたし、わたしたちもそのように信じてよいのです。



しかしまた、だからこそ、人々はおびえもするというわけです。実際、わたしたちは、人間の手でコントロールできないものに、恐怖を感じます。「気を失う」とさえ語られています。恐怖のあまり失神する、ということです。



しかし、イエスさまが勧めておられるのは、「おびえてはならない」(21・9)ということでした。「世の終わりはすぐには来ない」(同)と言われていました。



ここで考えてみたいのは、イエスさまは、なぜ「おびえてはならない」とおっしゃっているのか、また「世の終わりはすぐには来ない」と断言しておられるのか、という点です。



その理由について、先週の個所には何も書かれていません。今日の個所にもはっきりとは書かれていません。しかし思い当たることがないわけではありません。それは、イエスさまが「世」と言われ、また「太陽、月、星、海、天体」と言われているものは、いずれにせよ、イエスさまにとっては間違いなく、父なる神の“被造物”である、という点です。



被造物の意味は「神が造られたもの」です。それは、神の作品です。しかも、きわめて傑作品です。主なる神は、この世界をお造りになったとき、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1・31)とお語りになったのです!



それの“終わり”は「すぐには来ない」というイエスさまの御言葉の意図はどこにあるのでしょうか。その意図の一つとして思い当たることは、「神が造られたものは、そんなに簡単に壊れたり“終わったり”はしないので、信頼しなさい」ということに他なりません。この世界は神さまがお造りになったものであるゆえに、信頼してよい、ということです。



この点は、わたしたち改革派教会が長年強調してきた、“創造論”の主張でもあります。わたしたちが生きているこの世界は、神の作品であるがゆえに信頼してよいものである、ということです。



また、同じことを別の角度から言えば、この世界を終わらせるのは、自然の力でも悪魔の力でもなく、これをお造りになった神御自身の力による、ということです。神がお造りになったものだから、神が終わらせる。この世界を支配しているのは、神の力なのです。



それは、神以外の何ものかによってこの世界が無理やり終わらされることはありえない、ということでもあります。そのため、神を信じることにおいて、神がお造りになったこの世界をも信頼してよいのです。「世の終わりはすぐには来ない」。これこそが、イエスさま御自身の御言葉の前提であり、またわたしたち自身の信仰です。



現代社会に生きるわたしたちは、どうしても科学的な考え方をしてしまいます。まさにあの相対性理論に基づいて、この地球も宇宙も、すべては相対的な存在であるがゆえに、そこには必ず限界というものがあって、いつか破壊される、消滅する、というようなことを、わりと簡単に受け入れてしまうところがあります。



戦争が起こる。天変地異が起こる。ああ何もかも終わりだ。「日本は沈没する」と考えてしまう。しかも、こういう絶望感と聖書的終末論とを一緒くたにされてしまうとき、事態は非常に厄介なものになります。



わたしたちが信じていることは、その終わりは神がもたらすものである、という点です。この点が、他の人々とはおそらく決定的に異なるところです。



そしてまた同時に、わたしたちは、この世界に終わりをもたらす神御自身は、愛と憐れみに満ちた方である、と信じるのです。イエスさまが「そのとき人の子が・・・雲に乗って来る」と言われ、また「あなたがたの解放の時が近い」と言われているのは、まさにこの点にかかわります。終末とは、破壊と滅亡のときではなく、真の救い主イエス・キリストがこの地上に再び来てくださるときであり、この世界とこの人類のまさに解放(救い!)のときである、ということです。



「『それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」』」



このたとえにおいてイエスさまが触れておられるのは、「終末の到来」を認識するための徴(しるし)の問題です。



しかし、注目していただきたいのは、この徴は「神の国が近づいている」ということを知るための徴である、ということです。つまり、「終末の到来」とはすなわち、まさにそのまま「神の国の到来」を意味している、ということに他なりません。



神の国とはわたしたちの救いの現実です。わたしたちが救われて生きるところが神の国です。その神の国が終末において、究極的に実現し、具現化される。それが終末の意味であり、神の国の意味である。それがイエスさまの教えであり、わたしたちの信仰なのです。



「『はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』」



たしかにイエスさまは「天地は滅びる」ということを認めておられます。しかしそれは相対性理論ではありません。神の御心と人間の罪が、天地に終わりをもたらすのです。



そして、その只中で、救いの出来事が起こるのです。



イエス・キリストの御言葉は、決して滅びません。



その御言葉が、この世界全体に響きわたる。



それを聞いて信じるものたちは、すべて救われるのです!



(2006年8月20日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年8月13日日曜日

「命をかち取りなさい」

ルカによる福音書21・7~19



「そこで、彼らはイエスに尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。』イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。そして更に、言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。』」



前回の個所でイエスさまがおっしゃられたことを、思い起こしましょう。



イエスさまは、エルサレム神殿という巨大で壮麗な建物を前に見とれていた人々に「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」とおっしゃいました。要するに、この建物はいつか必ず壊れますと語られたのです。



自然的な風化の話ではありません。人間の罪と愚かさがそれを破壊するという話です。つまり戦争が起こるということです。戦争によってエルサレム神殿が破壊される。神を礼拝するための建物が無くなる、ということです。



しかし、そのような話をいきなり聞かされた人々は、びっくりしたに違いありません。



そして、当然の関心として、そのような戦争はいつ起こるのか、また、それが起こるときには何かの前触れ、ないし徴候があるのか、とイエスさまに問うていることは、無理もないことです。素朴な疑問であると言えるでしょう。



イエスさまのお答えは、人々の素朴な疑問に対してダイレクトに、あるいはストレートにお答えになっているものであるとは必ずしも言えません。はぐらかしておられるわけではありません。しかし、「いつ起こるか」という問いに対しても、「その徴は何か」という問いに対しても、直接対応する答えは語られていません。



直接お答えにならないかわりに、イエスさまが強調しておられるのは、「ついて行ってはならない」「おびえてはならない」「惑わされてはならない」という点です。



戦争と聞くと、もうこれで終わりだ、お先真っ暗だと、全く絶望してしまう人々が必ず出てくるわけです。



あるいは、おびえる。善良な顔やかたちをもって、人々に近づいてくる。そこで宗教を持ち出す人々によって事態がますます混乱する。



そのような状況の中でイエスさまが人々に勧めるのは、動じない態度をとることです。



さて、ここには、わたしにとって、ちょっと気になる言葉が書かれています。その点に触れておきたいと思います。それは、イエスさまが戦争のようなことについて「起こるに決まっている」という言い方をされている点です。



わたしが感じている疑問は、なんとなく表現しづらいことなのですが、要するに、「起こるに決まっている」という言葉には、やや傍観者的な響きがある、ということです。



他人事のようだと言いたいわけではありません。危機意識は明白です。しかし、なんとなく成り行き任せ的というか、たとえば、それを止めようとする意思のようなものが表明されていないと感じます。「そういうことは起こるに決まっている」というのは、だれにも止められない、わたしにも止められない、と言っておられるかのようです。



わたしがイエスさまのこのお言葉の中に感じるのは、一種の無力感です。それは起こる。だれにも、どうすることも、できない。何かそのような響きを感じるのです。



しかし、わたしはそのようなイエスさまのお言葉が持つ響きに対して、残念だと思っているわけではありません。



むしろ、こういうことを感じます。イエスさまは、このわたしといわば同じ立場におられるということです。



昔から、戦争を始めるかどうかを決めるのは、その国の元首のような存在です。しかし、イエスさまは、その立場にはおられない、ということです。



イエスさまが立っておられるのは、国家元首の決断、あるいは独断によって開始されてしまった戦争の最中に引きずり込まれ、苦労し、傷つく国民の側です。



イエスさまは、国家の権力者がおっぱじめてしまった戦争状態の中で悲惨な目に会う人々の側に全く立ってくださるお方なのです。



他方、イエスさまは、「その徴は何か」という問いのほうには比較的きちんと答えておられます。



地震、飢饉、疫病、恐ろしい現象、そして「著しい徴」とあります。ここで数え上げられているさまざまな天変地異自体が「徴」であると考えてよいでしょう。



「徴」は、神のみわざとして理解されます。しかしまた、それらの中には、人間の側に責任がないとは言いきれないものもあるという点については、いくらか考えておく必要があるかもしれません。



たとえば、地震について人間の責任を問われても困る、と言われるかもしれませんが、常軌を逸した掘削や自然破壊が地震の原因になる場合もあるでしょう。



飢饉はどうか。これも自然災害であるといえば全くそのとおりです。しかし、旧約聖書の例(創世記のヨセフ物語)にあるように、飢饉が起こる可能性をあらかじめ見越して、豊作のときに備蓄しておくなどの政策があるかないかで大違い、という面もあります。



疫病はどうか。人間の責任は病気と戦うことです。人間の責任が全くないとは言えないでしょう。



ここでイエスさまが語っておられるのは、戦争状態の中で起こる、わたしたちキリスト者たちへの迫害についてです。



キリスト者は、戦争の時代には、迫害される。そのように語られている、と読むことが許されるでしょう。



しかし、なぜ、わたしたちが迫害されなければならないのでしょうか。理由や原因は、ここには語られておりません。



とはいえ、もちろん分かることはあります。それは、わたしたちキリスト者が戦争状態を根本的に忌み嫌い、憎む者である、という点です。イエス・キリストから示されている「愛」の教えと戦争との間には、どのように考えても、矛盾や対立がある、といわざるを得ないからです。



皆さんに対しては失礼な問いかけであると思いますが、あえて問います。戦争が大好きである、三度の飯よりも好きである、という方がおられますか。おられないと思います。わたしは教会の中で(改革派教会の中で!)そういう人に出会ったことがありません。



わたしたちは何が嫌いかといえば、戦争が何よりも嫌いです。殺し合いが嫌です。憎んだり、さげすんだりする、あの状況が嫌です。



戦争が嫌だ、ということに理由は要りません。代案も要りません。嫌なものは嫌だ、と言ってよいのです。それは無責任であると責められなければならないような言葉や態度ではありません。嫌なものは嫌です。それ以上に何を語る必要がありましょうか。



しかし、です。そういう言葉をひどく嫌がる人々がいます。一国民を兵隊にして戦地に送り出し、国のために命を捨てろと命じる人々です。そのような人々は、戦争を嫌がる人の存在を、嫌がるのです。



キリスト者は戦地に行かないとか、軍人にならないというわけではありません。行かされるし、ならされます。どんなに反対の意思を持っているとしても、その状況に引きずり込まれることがありえます。



しかし、戦争が好き、人を殺すのが好き、というキリスト者は、通常いません。



だから、迫害される。われわれを戦地に行かせ、戦いの中に巻き込みたい人々から迫害される。



そういうことが起こると、イエスさまは語っておられるのです。



ごく一般論としても、「ピンチはチャンスである」と言われます。イエスさまは、わたしたちが迫害されるときは、証しの機会になると教えておられます。



「迫害」にもいろいろあると思いますが、イエスさまが描いておられるのは、会堂や牢に引き渡された後、「王や総督の前に引っ張られていく」ということです。



引っ張っていく人々の側からすれば、キリスト者はいかにひどい考え方や生き方をしているか、ということを公衆の面前でさらしものにし、笑いものにすることが、目的なのでしょう。



しかし、そのようなことが実際になされた場合にどうなるか。ここには、やや、わたし自身の希望的観測が混じっていますが、わたしたちが信じてよいことがあります。それは次のように表現できるでしょう。



わたしたちキリスト者が公衆の面前でさらしものにされ、笑いものにされているとき、それを見ている公衆の中に、わたしたちキリスト者たちの言葉や行いは間違っていない、ということを感じとる人々が、必ずいる、ということです。



たとえば、あの殉教者ステファノが多くの人々が投げる石つぶてによって殺されたとき、その殺害現場の傍らで、人々の脱いだ服の番をしていたサウロは、その後、使徒パウロとなりました。パウロの回心とステファノの殉教との間には深く関連がある、ということを多くの人々が認めています。神の御言葉に忠実に生きた人の死は、どんな人の死より影響力が強いのです。



殉教は証しであり、殉教者は証し人です。死して多くを語る。生きている人よりも能弁に語るのです。



キリスト者は強情であるとか、頭が固いとか、協調性がないと言われることがあります。



しかし、わたしたちに言わせていただくと、いうならば、嫌なことを嫌だ、と言っているだけです。へんなものに束縛されていて自由ではない。そのような状態が嫌なのです。



しかし、キリスト者であることは親・兄弟・親族・友人から裏切られるとか、殺される場合もあるとか、すべての人から憎まれるとまで言われてしまいますと、ぞっとしますし、できればそうでありたくないと思いますし、また、とくに、まだ信仰を持っていない人にとっては、大いに躊躇する理由にもなるでしょう。



でも、どうか考えてみていただきたいのです。わたしたちは、嫌なものは嫌だと、ただ単純に言いたいだけです。自由でありたいだけです。ただそれだけなのです。



そして、わたしたちは、その自由を手にするために、命をかける価値がある、と信じているのです。



「忍耐によって命をかち取りなさい」とイエスさまがお語りになりました。これは驚くべき言葉であると、感じます。なぜ驚くべきかといいますと、イエスさまは、この文脈では明らかに、忍耐によってかち取るものは、命ではなく、むしろ死ではないか、と考えさせるようなことを語っておられるように読めるからです。



ここでイエスさまが「かち取りなさい」と命じておられる「命」は、いわゆる今わたしたちが持っている“この地上の命”とは違うものであることは、明らかです。なぜなら、それは、いわば“死を覚悟している命”ですから。



ならば、それは何か。永遠の命とか、天国で生きるための命、と言ってもよいでしょう。が、そう言うだけなら、誤解も生じるでしょう。



わたしは、この「命」の意味は“信仰”であると考えています。それはまさに信仰の命であり、信仰生活です。わたしたちは、命をかけて信仰の自由を、そして自由なる信仰をかち取るのです。



戦争はそれを奪います。戦争は、わたしたちから信仰の自由、自由なる信仰を奪います。そこに宗教家が加担することもある。そのことをイエスさまは、強く警告されています。



しかし、わたしたちは、勇気を持とうではありませんか。そして忍耐しましょう。



イエスさまが語られたのは、「忍耐によって命をかち取りなさい」ということであって、「殺し合いによって」ではありません。



(2006年8月13日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年7月30日日曜日

値千金のささげもの

ルカによる福音書21・1~6

今日お読みしましたところには、きわめて深刻な問題が扱われています。その深刻さの程度はどれほどかと言いますと、この問題でつまずくとわたしたちが実際に信仰を失ってしまう可能性がある、と言わねばならないほどです。

それは献金の問題です。このような聖書の個所を開き、この種の問題を扱うときにわれわれに求められることは、デリカシーです。

この場合のデリカシーとは、微妙で複雑な問題を乱暴に単純化したり切り捨てたりせず、どこまでも丁寧かつ慎重に扱うことができる心配りのことであると理解していただきたく願います。

「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。」

イエスさまは、まだエルサレム神殿の境内におられます。

イエスさまは20章の最初から説教を続けてこられました。説教、と言いましても、実際の内容は、かなりの部分が論争です。それは律法学者、祭司長、長老たちとの論争であり、ファリサイ派やサドカイ派との論争でした。

しかし、その一連の説教は、だいたい一段落ついたところと見てよいようです。そして、あたりをきょろきょろ見回しておられたのでしょうか、イエスさまは、ある一つのことに目をおとめになります。それは、神殿の境内に置かれている賽銭箱に献金を入れる人々の姿です。

最初に目をおとめになるのは、金持ちの人々が献金をしている姿です。ただし、ここで一点、注意すべきことがあります。それは、この個所には「金持ちたちは、賽銭箱にたくさん献金を入れた」とは書かれていない、ということです。

実際「たくさん」ではなかったのかもしれません。お金持ちの人だからといって、必ずたくさん献金しなければならないというわけではありません。自分の財産を豊かに蓄えることと、自分の財産を神と教会のために積極的にささげようとする熱心を持つこととは、必ずしも一致しません。

イエスさまは、そういう点も含めて、金持ちの人々の行動をじっと見つめておられたのかもしれません。

今日の個所で大切なことは、これは献金である、という点です。献金はだれから強いられてするものでもなく、あくまでも自発的な意志と信仰によって行うものです。

「あの人はお金持ちだから、当然これくらいの献金はすべきである」というような無言の強制や圧力は、厳に慎むべきです。それぞれの家庭には、それぞれに複雑な事情があるものです。勝手な詮索は、やめなければなりません。

そして、次にイエスさまが目におとめになるのは、一人の貧しい女の人が、献金をしている姿でした。この女性は「やもめ」と呼ばれています。年齢や家族構成などは分かりませんが、何らかの理由で御主人を失った女性であることは、間違いないようです。

「そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」

「レプトン銅貨」が、非常に小額のコインであることは否定できません。われわれの10円玉よりは少し価値があるが、50円玉には届かない、というくらいです。二枚ならば百円足らずということです。

それだけが、その女性がそのとき持っていた「生活費すべて」であったというのです。一日百円生活です。つまり、それを失ったら、少なくともその日の生活に支障をきたすということです。はっきり言えば、それがないと食べるにも飲むにも困るであろう、ということです。パン一個、牛乳一本も買えません。

ところが、その「生活費全部」をこの女性は献金してしまった。「してしまった」わけではなく「した」。

「全部である」ということは、部分ではなく全体である。学校の試験でも100点をとれば1番です。100%は1番です。

そうであるならば、彼女がささげた献金は“小額”ではあるが“少額”ではない。つまり額面は“高額”ではなく“小額”ではあるが、この人にとっては“多額”である。客観的には小さいが、主観的・主体的には多い。

このように、イエスさまが、この女性の行為を解釈してくださったのです。

“小額”の献金しかささげることができないからといって、引け目を感じたり卑屈になったりする必要はない、ということです。あなたは堂々と神の前に立つことができる、ということです。それが、今日の個所に記されている重要な点です。

今、わたしは「解釈」という言葉をあえて用いました。違和感を覚える向きがあるかもしれません。しかし、「解釈」はじつに重要です。解釈次第によって実際にその人の生きるか死ぬかが決まる場面がある、と言ってよいほどです。

この女性の場合も、そうだったかもしれません。ひとが生活費すべてを神にささげようと決心するとき、その人の心の中にあるものは、しばしば、何か非常に重大な決意です。問題はお金そのものではなく、その気持ちです。そこにあるのは、決死の覚悟です。背水の陣が敷かれているのです。

また、生活費全部を差し出すこと、そこには「自分の命をささげる」という意味が込められている可能性があります。ひょっとしたら、ヤケクソの要素もいくらか含まれているかもしれません。一つの賭けがあります。しかし、賭けには失敗の可能性もあるのです。

しかし、だからこそ、です。この女性が「レプトン銅貨」二枚をささげているときに、いちばん願っていることは、少し奇妙な言い方かもしれませんが、このわたしの思いや今の生活のありのままの現実を、理解してもらいたい、ということではないかと思われます。

理解してもらいたいというと、誤解を招くかもしれません。多くの人に自分の置かれた境遇を知らしめたい、というような意味ではありません。その点では「知られたくない」と考えることのほうが自然でしょう。また、「かわいそうだ」と他の人から思われたいわけでもありません。それは逆でしょう。

それでは、何なのか。わたしはそれをうまく表現できないのですが、強いて言うならば、「正当に解釈してもらいたい」ということです。あるいは、「まっすぐな目で見てほしい」ということです。穿った見方ではなく、曲がった見方でもなく、です。

よく分からない話になってしまったかもしれません。しかし、これがいわばデリカシーです。献金のこと、お金のこと、このような微妙な話をするときは、少し口ごもっているくらいで、ちょうどよいのです。理路整然と白黒はっきりつけるような話は、できないのです。

しかし、少なくともここではっきりと語ることができるのは、このイエスさまの「解釈」によって、この女性は、ものすごく大きな慰めを得ることができたであろう、ということです。

そして、もう一つ言えることがあるとすれば、それは、わたしたち自身がしていることも、まさにこのイエスさまがしてくださったように「解釈」してもらえるならば、きっと、とても大きな慰めを得るであろう、ということです

ところで、「貧しいやもめ」と呼ばれているこの女性は、御主人を何らかの理由で失ったと考えられますが、その後の人生をどのように過ごして来たかは、想像するほかはありません。

彼女自身にできる仕事は、あったでしょうか。御主人の実家との関係は切れてしまったのでしょうか。子どもはいたのでしょうか。もしいたとして、子どもたちは今どこで何をしているのでしょうか。経済的に助けてくれる人は、いないのでしょうか。いろいろ考えさせられます。

加えて、大いに気になるのは、先週学んだ個所に書かれていることです。律法学者たちが「やもめ」の家を食い物にしているとイエスさまが指摘しておられたところです。先週の個所と今週の個所は、「やもめ」というキーワードを介して連結している、と理解することができます。

しかも、わたしは、先週、ルカ20・47において指摘されている律法学者の悪行は、二つではなく一つであるという解釈もある、ということをご紹介しました。つまり、律法学者たちは、見せかけの長い祈りをするたびに高額の料金(ご祈祷料)を取ることによって、やもめの家を食い物にしている、と理解することもできる、ということです。

先週の時点でわたしは、この解釈を無理に採用する必要はありませんと申し上げました。今も、その考えは基本的には変わっておりません。

しかし、ぐらつく思いもあります。なぜなら、律法学者がやもめの家を食い物にしたと言われる場合、彼らは具体的には何をしたのかという問題をいろいろと考えてみたとき、それは「見せかけの長い祈り」である、ということくらいしか、思い当たることがないからです。

最近しばしば指摘されるようになったことは、当時のユダヤ教団の指導者たちがもし今の時代にいるとしたら、この人々は、かつてそのように考えられていたように「とんでもなく悪いヤツ」というような人々では全くなく、むしろ非常に真面目であり、敬虔であり、尊敬すべき人々であると考えるべきである、ということです。

その点から考えても、彼らがやもめの家を食い物にしていた、というのは、たとえば、彼らは、表の顔と裏の顔を使い分け、陰でコソコソと悪さをしていたのだ、というふうに理解することは難しいのではないかと思われます。

むしろ、われわれが真剣に考えなければならないことは、彼らの宗教的な活動そのもの(見せかけの長い祈り!)のために支払うべき“料金”が、人々の生活を圧迫するものになっていたのではないかという、この点ではないのか、ということです。

つまり、それが意味することは、教会の存在そのものが信徒の家庭生活に負担を強いているという問題を、ここでわたしたちは考えざるをえない、ということです。

しかし、これは、本当にわたしたちにとっては、悩み多き問題であることは、事実です。教会は通常“料金”をとりません。

しかし、だからこそ「献金」で成り立っている団体である、ということです。もっとはっきり言えば、教会は、多くの人々の祈りとささげものによって成り立っているのであり、その意味で、教会のみんなに負担を強いる存在でもある、ということです。

それは、今日お話しすることができない次の段落の問題にも若干触れてくる点です。

「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』」

エルサレム神殿の建物の見事さをほめたたえる人々の言葉をお聞きになったイエスさまが指摘されているのは、この神殿はいつか壊れるということです。どんなに堅い石で作られていても、地上のものは必ず壊れるということです。自然の風化の問題ではありません。人間の心が世界を壊し、あらゆるものを壊す。戦争が起きる、ということです。

しかし、いつか壊れるものであっても、それを維持することが、教会には求められます。「教会の建物など要らない。わたしたちの国籍は天にある!地上では、聖書一冊あれば、机も椅子もないところでも、礼拝はできる」と言われることがありますが、わたしたちは、そのように語らないできました。実際には、礼拝堂は必要なのです。

また、教会の中で最もお金がかかるのは、人件費でしょう。「牧師なんか要らない。万人祭司なのだから。自分一人で本を読んでいるほうが、説教を聴くよりもよっぽど養われる」と言われることがありますが、これもわたしたち自身は言わないできました。実際には、牧師は必要なのです。

しかし、わたしは、急ブレーキを踏んでおきます。教会が教会らしくあるためには、イエスさまを真にみならうことが重要です。イエスさまがお喜びになるのは、大きな金額の献金や、見せかけの行為ではありません。

教会の活動にはたくさんのお金が必要である、ということは事実です。しかし、だからといって「これが教会の現実です。牧師さん、しっかり稼いできてください」というようなことは言わないほうがよいのです。

教会は、お金集めのためだけに存在するわけではないのです。

イエスさまの前では、どんなに演技をしても無駄です。すべて見抜かれてしまいます。

そこに「信仰」があるか。問われているのは、そのことです。

(2006年7月30日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年7月23日日曜日

「律法学者に気をつけよ」

ルカによる福音書20・41~47



今日は、二つの段落を読みました。どちらもイエスさま御自身の説教です。二つの話を無理やり関連づける必要はありませんが、両者は一続きの説教の中で語られたものとして理解することは可能であると思われます。



「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで』と。」このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」



ここでイエスさまが扱っておられるのは、「なぜ人々は『メシアはダビデの子である』と言うのか」という問題です。



「メシア」とは、神の民イスラエルを救う者のことです。救い主のことです。ユダヤ人たちは、メシアが自分たちを助けに来てくださることを待ち望んでいました。



しかも、彼らは、メシアが「ダビデの子」、すなわち、いにしえのイスラエルの偉大なる王ダビデの子孫として生まれる、ということを信じていました。



彼らのこの確信の根拠は聖書そのものでした。「メシアがダビデの子である」ことを論証するための旧約聖書の記事はたくさんあります(サムエル記下7・8~29、詩編89・20~38、イザヤ書9・1~6、イザヤ書11・1~10、エレミヤ書23・5~8、エレミヤ書33・14~18、エゼキエル書34・23、アモス書9・11、ゼカリヤ書12・7~13など)。



しかも、イエスさまの口ぶりから分かることは、「メシアがダビデの子である」と信じているのは一人や二人ではなく、非常に大勢の人々であるということです。要するに、この教えは、当時の世間の常識のようなものであった、と考えられるのです。



ところが、です。イエスさまは、このことを事実上、否定しておられます。イエスさまは、事実上、「メシアはダビデの子ではない」と語っておられるのです。



そのためにイエスさまが引き合いに出しておられるのが、詩編110・1です。イエスさまがおっしゃりたいことは、こうではないでしょうか。



詩編110・1には、「主は、わたしの主にお告げになった」と書かれている。この詩は、ダビデ自身がメシアについてうたったものである。



この詩の中で、ダビデ自身がメシアのことを「主」と呼んでいる。自分の子どもや子孫のことを「主」と呼ぶ人は、通常いない。「主」は神のことだからである。



ダビデがメシアを「主」と呼んでいるとしたら、自分の子どもないし子孫は神であると考えていることになる。神の親は神だからである。つまり、自分の子どもを「主」と呼ぶダビデは、自分のことを神であると考えていることになる。



しかし、そんなことはありえない。ダビデが自分を神であると考えた形跡は、どこにもない。従って、メシアは「ダビデの子」ではない。



これは三段論法です。しかし、わたしたちの関心はここで終わらないと思います。次の関心は、なぜイエスさまは、当時の常識であった「メシアはダビデの子である」という点を公然と否定なさったのか、みんなの前ではっきりと「メシアはダビデの子ではない」とお語りにならねばならなかった理由は何なのか、ということでしょう。



第一に、わたしにとって最も気になることは、「メシアはダビデの子である」と語る人々は、だれに教えられてそのように信じているのか、という点です。



当時の状況と今の状況はかなり違います。最も大きな違いは、当時の一般市民は自分で聖書を読むことができなかった点です。聖書の大きな巻物を個人で持っている人は極めて稀で、持っている人でさえ簡単に手に入るものではありませんでした。



これだけで事情は明白になりました。「メシアはダビデの子である」と語る人々の多く、いやほとんどは自分で聖書を研究してその結論に至ったわけではなく、ある極めて特殊な立場にいる人々による聖書解釈の結果として、そのように教えられ、信じていたのです。



その、ある極めて特殊な立場にいる人々の正体は、はっきりしています。その人々の名は「律法学者」である、ということです。



ですから、ここで申し上げておきたい一つの点は、この場面でイエスさまが言っておられることは、これ自体がすでに「律法学者」に対する批判である、ということです。



つまり、「メシアはダビデの子である」と聖書を解釈し、ユダヤ人一般に教えていた責任は、律法学者たちにあるということです。イエスさまは、律法学者たちの聖書解釈は根本的に間違っている、ということを、はっきりと指摘しておられるのです。



第二に、気になることは、しかし、それでは、先ほどわたしがご紹介しました旧約聖書の個所に書いてあることを、わたしたちはどのように理解すべきなのか、という点です。



単純に読めば、それらの個所にはメシアがダビデの子孫として生まれることが預言されている、という解釈は、それほど無理なもの、強引なものでもないように思われるのです。



問題解決の道は、先ほどすでに示しておきました。それは、ダビデがメシアをそのように呼んでおられる「主」とは、すなわち“神”のことである、という点です。



イエスさまが「メシアはダビデの子である」という教えを否定なさる意図は、メシアはダビデ以外の他の人の子孫であるということではありません。イエスさまの意図は、メシアは「ダビデの子」ではなく、「ダビデの主」、つまり「ダビデの神」である、ということです。



つまり、イエスさまが問題にしておられることは、メシアは誰の子孫かと問われる限りにおいては、どこまで行ってもメシアは誰か人間の子孫である、つまり、メシアは人間である、ということを意味し続けるわけですが、実際はそうではない、ということです。



イエスさまは、メシアは、人間ではなく、神である、と語っておられるのです。



まことのメシアであられるイエス・キリスト御自身が、「わたしはまことの神である」ということを、ここではっきりとお示しになっておられるのです。
 
「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』」



イエスさまは、弟子たちに「律法学者に気をつけなさい」と言われました。律法学者の仕事は、先ほど申し上げましたように、聖書の研究を行い、聖書の中のさまざまな個所を引用しながら、たとえば「メシアはダビデの子である」という結論を出し、それを人々に教えることである、と説明することができるでしょう。



彼らの聖書解釈は間違うこともあります。そのことをイエスさまが指摘されたのです。律法学者たちは神ではなく人間です。だから間違うことがある。この点は語ってよいことでしょう。



しかし、そういうことだけを言っておればよいというわけにも行かない、もっと深刻な事情があることも事実です。なぜなら、当時の律法学者たちは、事実上、聖書を独占していたからです。一般市民は、自分自身の頭と心で聖書の御言葉を味わうことも研究することもできなかったからです。



そのため、もし律法学者たちが聖書の解釈を間違ってしまうならば、聖書を自分の手に取って読むことができず、ただ彼らの聖書解釈の結論を聞いて学ぶことができるだけの人々は、みんな間違ってしまう、ということです。



親亀コケタラ皆コケル。彼らが間違うと、社会全体が間違う。彼らはそれだけの責任と影響力を与えられていたのです。



ですから、こんなふうに表現することができると思います。



彼らはたしかに神ではありません。しかし、神と同じ判断をしなければならない立場にあった。彼らが右と言うと、全体が右を向かねばならない。彼らに与えられていた責任と影響力は、それほどのものであった、という事実を申し上げているのです。



しかし、結果としてそれは良くないことであった、と言わざるをえないようです。彼らに与えられた責任と影響力、あるいは地位やそれに伴う名誉は、彼ら自身にとってなんら良い結果をもたらさなかった。むしろ、彼らをただ傲慢な人間にしてしまっただけである、と言わなければならないようです。



イエスさまによりますと、律法学者たちは、「長い衣をまとって歩き回り」たがったようです。



わたしたち日本キリスト改革派教会の中は、礼拝の中でガウンを着ている牧師たちは、わたしの知るかぎりほとんどいません。ですから、少し安心して大胆に言いますが、宗教服を着たがる教師たちを見かけたら、やや要注意です。服の長さや色によって自分の力や地位を示そうとするのは、イエスさまがお嫌いになった律法学者の道です。



また律法学者たちは「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」ようです。これは、少し言い訳がましいことを申し上げなければなりません。彼らが上席、上座に座っていたのは「座らされる」という面もあるのではないかという点です。どこが上席、上座かというのは、それぞれの社会で異なる面があるとは思いますが。



これは、先ほどの、宗教服を着るかどうかという点にも、当てはまることです。つまり、「着せられる」という面がある、ということです。



たとえば、その教団・教派のルールとして定められている場合は、それを着なければならないのであって、それを着なければ罰せられるのであって、部外者がとやかく言うことは慎まなければなりません。



しかし、です。そこには誘惑があり、落とし穴があります。およそ権力というものを手にすることには、大きな誘惑と、また必ず大きな落とし穴が待ち受けているのです。宗教的権力の場合も、決して例外ではありません。



彼らだって、最初の頃、若い頃は、いくらか純粋な思いを持っていたかもしれません。最初は「着せられている」「座らされている」と感じ、居心地の悪さを覚えながら、そこにいた。



しかし、ひとは、そういうものに、だんだん慣れてくるのです。図々しくなり、要求がましくなる。それを着なければ、そこに座らなければ、落ち着かなくなる。これはじつに深い落とし穴であると思います。



また、イエスさまによりますと、律法学者たちは「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と言います。



これには興味深い解釈があります。「やもめの家を食い物にする」ことと「見せかけの長い祈りをする」こととは、二つのことではなく、一続きのことである、という解釈です。



その解釈によると、「見せかけの長い祈り」は高いお布施を取る。その高額なお布施によって、やもめの家を食い物にする、というのです。



面白い解釈ではあると思いますが、無理に採用する必要はありません。



「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」



イエスさま、おっしゃるとおりです、と申し上げたいところです。イエスさまは、律法学者を毛嫌いされているわけではないし、律法学者は不要であると主張しておられるわけでもありません。イエスさまが求めておられることは、彼らが自分の責任を自覚し、罪を悔い改め、正しい道を歩むことです。



今日では聖書をみんなが持っています。どこでも買うことができます。牧師が間違った聖書解釈などしようものなら、たちまち皆さんから批判を受けます。



それでよいと思いますし、そうでなければ困ります。わたしたちには、自分で聖書を読むことができる特権が与えられているのです。聖書を自分で読まないことは、特権を行使しないこと、損することなのです。



しかしそれは、聖書を解釈する者たちが負うべき責任を免れる理由にはなりません。教師に与えられた責任は重大です。



ひとが牧師・教師になる目的は、まさか、宗教服を着ることではないし、上席・上座に座る特権を得ることでもありません。



神と人に仕えること、教会と社会に仕えること。



それだけが、ただそれだけが、教会と牧師の務めです。



(2006年7月23日、松戸小金原教会主日礼拝)



がな


2006年7月16日日曜日

「生きている者の神」

ルカによる福音書20・27~40



「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」



ここに登場するのは、ユダヤ教のサドカイ派と呼ばれる人々です。ルカはサドカイ派の人々の思想的特徴が「復活があることを否定する」点にあったことを明らかにしています。



サドカイ派と対照的な存在は、ファリサイ派です。ファリサイ派の人々は、サドカイ派とは反対に、復活を肯定していたのです。



使徒言行録23・6~7には、パウロが最高法院で死者の復活について語ったときサドカイ派とファリサイ派との間に論争が生じ、最高法院が分裂した、という出来事が記されています。



両派間の分裂の原因は、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである」(使徒言行録23・8)とあるとおりです。



しかし、今日はこの問題に深く立ち入っている時間がありません。今日注目していただきたいのは、サドカイ派は「復活も天使も霊もない」と考える人々であったという点です。



復活がない。ということは、われわれの人生は死と共に終わる、ということでしょう。天使も霊もない。ということは、いわば目に見えるものがすべて。そのような価値観なり人生観・世界観なりを持っていたということでしょう。現代人的感覚に近い、と言えるかもしれません。いわば全くの唯物論です。



そのような人々がイエスさまのもとに近寄り、質問して来たというのです。それが何を意味するのかは、明らかです。



はっきりしていることは、イエスさまというお方は、「復活があることを否定する」どころか、むしろ、復活を全く肯定し、さらにそのことを多くの人々の前で宣べ伝えておられた方である、ということです。



そのイエスさまのもとに「復活はない」と考えている人々が近づいてくる。そして質問してくる。



彼らの目的は、明らかに、初めからイエスさまに論争を仕掛けることであった、ということです。もっとはっきり言えば、けんかが目的である、ということです。



ですから、彼らがイエスさまに問いかけていることは、本質的にいえば、何ら質問ではありません。彼らがイエスさまに求めているのは、答えではありません。求めているのは、イエスさまの教えの矛盾を突いてみせること、イエスさまを言い負かすこと、論争に勝つことです。



論争を仕掛けてきた動機は、ひょっとしたら、彼らなりに必死なものだったかもしれません。先ほど触れましたとおり、「復活」に限ってはサドカイ派とファリサイ派が激突する関係にあったわけですから。



サドカイ派としては、早いうちにイエスさまを言い負かしておかないと、ファリサイ派とイエスさまのグループが手を組んで、われわれサドカイ派を滅ぼしに来るとでも考えたのではないでしょうか。“政治的に”発想する人々は、往々そういうことを考えるものです。



「『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』」



サドカイ派が持ち出してきたのは、申命記25・5以下の言葉です。その個所には、新共同訳聖書の小見出しに「家名の存続」とあるとおり、ある家の家名というものを存続させるためにどうするか、という問題が扱われています。



そのために、七人の男性の妻になったが、一人の子どもをもうけることもなかった女性、という話は、旧約聖書続編のトビト記3・8などに出てきますので、ユダヤ教の中ではよく引き合いに出される話だったのかもしれません。



そういうことがかつてなされていたという点は、聖書に記されているとおりですので、否定できません。しかし、わたしたちは、旧約聖書の律法については、すべてをそのまま何もかも字義通りに現代社会に適用しなければならないわけではない、という聖書解釈の原則を信じています。



この原則は、ウェストミンスター信仰告白19・4において、(やや難しい表現ですが)「一政治体としての彼らに対してもまた、神は多くの司法的律法を与えられた。これは、その民の国家と共に終わり、その一般的原則適用が求める以上には、今はどのような事をも義務付けていない」と表現されているものです。今日の個所でサドカイ派が持ち出してきた申命記25・5以下などは、この点が最も当てはまるものの一つです。



ですから、ぜひご理解いただきたいことは、聖書にこう書いてあるのを読んで、「わたしたちもそうしなければならない」というふうに考える必要はない、ということです。



ただし、です。「家名の存続」という問題は、古いといえば古い、しかし、全く死に絶えてしまった問題であるかといえば、決してそうは言い切れない、ある人々にとってはいまだに非常に深刻で、悩み多き問題であり続けているものであることは、明らかです。



わたしのように受け継ぐべき財産など持ち合わせていない部類の者にとっては「家名の存続」などは、ほとんど意味がありませんし、どうでもよいことです。しかし、このような問題が“どうでもよくない”人々がいることは、否定できないし、ある面で尊重しなければならないことでしょう。



ところで、「すると、復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」と、サドカイ派の人々は問いかけてきました。この問いには、じつにいろんなことを考えさせられる内容がある、と感じます。



わたしが感じる第一の点は、この質問は、全く同じではないが、どこかで聞いたことがあるような気がするものではある、ということです。



ただし、わたしたちが聞くとしたら、こういう質問だと思います。「その女の人は、どのご主人のお墓に入れられることになるのでしょうか」。このように問われる場合には、必ずや深刻な面持ちが伴っています。



第二の点は、これはわたしの全くの想像にすぎませんが、この質問をしながらサドカイ派の人々は、ニヤニヤ笑っていたのではないか、ということです。



しかし、そうだとしたら、全く許しがたいことです。家庭の問題、結婚の問題、夫婦の問題、親子の問題などは、実際に体験した人にはすぐに分かっていただけることですが、非常に重く複雑で、頭が痛いことばかりです。



わたしが感じることは、そのような問題に巻き込まれた経験があり、また心や体の痛みを実際に感じたことがある人にとっては、サドカイ派の人々が言っているようなこと、「すると、復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」というようなことは、もし仮にたとえ話としてであれ、あるいは冗談としてであれ、簡単に口にすることができないほどのことである、ということです。



ところが、彼らはそういうことを平気で口にする。そういうことをイエスさまとの論争の材料にする。この無神経さが、わたしには理解できません。



第三の点は、このサドカイ派の質問は、いろんな意味で巧みに人間の心理の落とし穴を突いて来るものではあるということです。



ただし、これは人によって全く違う面があります。わたしが出会って来た人々の中でも、全く正反対の反応がありました。



ある女性は、先立たれた主人に「もう一度会いたい」ということを切望していました。しかし、全く正反対の反応は――これを言うとショックを受ける男性がおられるかもしれませんが――「二度と会いたくない」というものでした。



サドカイ派は、復活などそもそも信じていないわけですから、彼らが発した「復活の時、だれの妻になるか」という問い自体は、彼ら自身にとっては意味がないものです。



ところが、この問いは、むしろ、復活を信じる人々のほうにこそ、落とし穴になるかもしれない。そこが、わたしには、とても気になる点です。



はっきりしたことを言うことは、慎まなければなりません。しかし、たとえば、複数の結婚を経験してきた方々にとっては、「復活の時、だれの妻(または夫)に“なりたい”か」という問いは、ものすごく深刻なものでありうるはずです。



「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも「柴」の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。』」



イエスさまのお答えは、わたしたちにとって必ずしも分かりやすいものではないように思われます。きちんと腹に納まる、というよりは、聞くと余計にあれこれ考えさせられる要素が増える、と言うほうが近い感じがします。



しかし、です。イエスさまのお答えは全体として慰めに満ちている、と申し上げておきます。とくに注目していただきたいのは、復活させていただける者たちは、「めとることも嫁ぐこともない」し、「死ぬことがない」という点です。



ぜひ御理解いただきたいのは、イエスさまが教えてくださっているこれらの点は、わたしが先ほどから持ち出しているいくつかの問題に対して、非常に深い慰めに満ちた答えを与えていただけるものである、ということです。



先ほどからの問題とは、「わたしは、だれの墓に入るのだろうか」とか、「復活の時、わたしは、だれの妻(または夫)になるのだろうか」とか、「女性として生まれてきた意味は子どもを産むことなのか」とか、「家名を受け継ぐことがわたしの人生の目的なのか」というようなことです。



イエスさまは、これらの問いに対して、直接的な答えを教えてくださってはいません。しかし、答えを出すための方向性は、はっきりと見えていると言ってよいのではないでしょうか。



イエスさまが教えてくださっているのは、復活の時、わたしたちは、「めとることも嫁ぐこともない」し、「死ぬこともない」ということです。



つまり、復活の時には、結婚の問題、夫婦の問題、お墓の問題、それらを含む家庭や家督の問題、そのようなものは、もはや全く無いし、すべて解決しているし、悩むことも苦しむこともない、ということです。



そして、わたしたちが復活を信じるとは、すなわち、そのように信じてよいということです。まさに今、わたしたちの頭と心を悩ませている、さまざまな悩みや問題から全く解放される日が来ることを信じてよい。それが復活への信仰である、ということです。



ただし、誤解がありませぬように。これは現実から逃避したいがための理屈ではありません。そんなはずがありません。そうではなく、むしろこれは、さんざん苦労してきた(させられてきた)人々に、安息の日が与えられる、という約束です。



夫婦や親子が必ずいつも憎しみ合っていたり、角を突き合わせていたりするわけではありません。しかし、問題はあります。悩みがあり、苦しみがあります。



そのようなわたしたちが、いつか必ず永遠の安息を味わうことができる、ということです。



苦しみはいつまでも続くわけではない、ということです。



自由の喜びを楽しむことができるのです。



復活の時まで、お子さんやご主人やおくさんの面倒を見る必要はありません。



もう十分なのです!



「『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」



この御言葉の意味を説明するのは、少し難しいと感じます。神が「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であられることとの関連で語られています。



ということは、イエスさまの意図は、われわれの神は、アブラハム、イサク、ヤコブというあの旧約聖書の信仰の偉人たちのように神の前で信仰をもって生きている、そのような人々の神である、ということでしょうか。



たしかにそのように考えるならば、いくらか理解できるようになるところがあります。つまり、「生きている者の神」とは、要するに「信仰者の神」である、ということです。



そもそも、復活ということそれ自体、また復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、死ぬこともないというのは、いずれもわたしたちにとっては「信じるべきこと」であり、信仰の次元の事柄です。



信仰は持ちたくないが、復活だけはしたいというのは、やや虫が良い話です。



神を信じる人だけが、復活を信じることができるのであり、復活の希望に生きることができるのです。



(2006年7月16日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年7月9日日曜日

「教会と社会の関係」

ルカによる福音書20・20~26



今日の個所にも、イエスさまの命をつけ狙う者たちが登場いたします。そういう文脈を全く無視して、今日の個所を理解することはできません。



「そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」



最初に問題すべきことは、「正しい人を装う回し者」とある「正しい人」(ディカイオス)とはどういう意味かという点です。



それは、一言でいいますと、「神の律法に忠実な人」という意味です。それは、当時の文脈では「熱心かつ敬虔なユダヤ教徒」という意味になります。



ここでまず、やや余談として申し上げておきたいことは、わたしたちが気をつけたいことです。それは、「正しい人を装う回し者」とは、少なくとも外見上は「正しい人」そのものである、ということです。



いかにも怪しげであり、その正体をすぐに見破られてしまうような“脇の甘い人”は、「回し者」(スパイ)にはなれません。これ以上申し上げることは控えます。



回し者たちが「イエスさまの言葉じりをとらえ」ようとしました。そして「総督の支配と権力にイエスを渡そうと」しました。



彼らがこのような謀略を企てた理由として考えられることは、当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤの国の中で、逮捕権を持っていたのはローマ軍であった、ということです。



彼らが考えたのは単純なことです。イエスさまの口からローマ帝国に逆らうような言質(げんち)をとることです。その言質をとることができさえすれば、ただちに、彼らからローマ軍の総督に訴え、あのイエスを逮捕してもらうことができる、と考えたのです。



「回し者らはイエスに尋ねた。『先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』」



彼らが言っていることの前半は、読まなくてよい、または聞かなくてよいような話です。ただのおべっかであり、続く話の枕詞(まくらことば)にすぎません。早く終わらせてほしいものです。



きちんと対応すべき内容があるのは後半です。「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」



ここで「わたしたちが」とあるのは、文脈上、「わたしたちユダヤ人が」と読んで間違いありません。ローマ帝国に支配されているこのわたしたちユダヤ人が、です。



ただし、少なくとも当時の文脈において「ユダヤ人」とは「真の神を信じる人々」のことを指すことになります。単なる民族的な意味だけに押し込んでしまうと、かえって理解が難しくなるでしょう。ここでは、むしろ「わたしたち、真の神を信じる者たちが」とか、「わたしたち信仰者が」と言い換えておくほうがよいと思われます。



「皇帝に」とありますが、これはもちろん“ローマ皇帝に”、です。しかしまた、この点も、字義的には今申し上げたとおりではありますが、重要なことは、ローマ帝国がユダヤの国を支配していたという点です。



当時のユダヤの国はローマ帝国の属国です。そしてここで最も大きな問題は、とくに「正しい人」と呼ばれる正統的ユダヤ教徒にとってローマ帝国は、根本的に“異教社会”であった、ということです。



しかも当時のローマ皇帝は、非常に強大な権力をもち、傍若無人にふるまう人でした。ですから、当時の文脈において、「ユダヤ人がローマ皇帝に税金を納めること」の意味は、正しい神信仰をもっている人々が異教社会の権力者に対し、その権力者が傍若無人にふるまうための活動資金を提供してよいか、ということになります。



そして「律法に適っているかどうか」とは、当時の文脈から言っても、またわたしたちの信仰的立場から言っても、「聖書の教え全体に適っているか」ということであり、そしてまた「神の御心に適っているか」という意味です。



したがって、この文全体を噛み砕いてもう一度言い直しますと、「わたしたち神を信じる者たちが、異教社会の権力者に対し、その権力者がその国と世界を支配するために用いる税金を納めることは、神の御心であるか」というふうになると思われます。



おそらく、皆さんの中には、わたしがわざわざこのように言い換えてみなくても、この文章の意味などは、すぐに理解できる、という方も多いだろうと思います。



しかし、このように言い換えてみて、改めて、はっと気づかされることが、わたしにはありました。それは、彼らが発した問いには、深刻な内容がある、ということです。



といいますのは、「わたしたち神を信じる者たち」という点を、わたしたちの場合ならば、たとえば、「わたしたち教会の者たち」と言い換えても構わないはずです。



そして「異教社会の権力者」という部分は、たとえば「わたしたち日本の社会の権力者」と言い換えてもよいでしょう。



とはいえ、もちろん、今の税金制度と二千年前のユダヤの税金制度とを一緒くたにして考えたり語ったりすることはできませんし、それはメチャクチャです。わたしは、そういうことを申し上げたいわけではありません。



しかし、このことを、いわばもっと根本的で原理的な問題として考えてみる。そのとき、たとえば、わたしたちキリスト者が、日常生活の中で、ふと次のような願望を持つことがありうるのではないか。



それは、次のような願望です。



すなわち、もしわたしたちが生きている家庭や社会や国が、わたしたちと同じ信仰ないし宗教を持つ仲間たちだけで満たされるようになってくれればよいのに、という願望です。



そうなりさえすれば、わたしたちが、日々それを抱えて生きているいくつかの重い悩みが解決するのにと、つい考えてしまうことです。



そのような願望が頭をもたげる理由は、はっきりしています。わたしたちの日常をとりまく問題の多くが、いろんな種類の宗教問題であることは、否定できないことだからです。



その種の宗教問題を政治的に全く解決させてしまう道があるとしたら、それはおそらく「一宗教に基づく一国家を形成する」ということだけです。もしそれが可能であるならば、少なくともその国の中では宗教にまつわる対立や紛争は、起こらなくなるのではないか。



「正しい人」と呼ばれていたユダヤ教の正統派の人々の“国”についての考えは、どうやら、今わたしが申し上げたような道筋で思い描かれるあり方に近かった、と思われます。だからこそ、わたしたちが皇帝に税金を納めることは律法に適っているか、という問いが出てきます。



すなわち、それは、異教社会の親玉に信仰者が税金を納めることは、事実上、その社会や権力者の存在を肯定しているのと同じではないのか。それは、正しい信仰とは言えないのではないか、という問いである、ということです。



しかし、この問いの立て方は、やはり、わたしたちにとっては、非常に危険な「誘惑」であると言わざるをえません。



そもそもこれは、イエスさまの言葉じりをとらえるための罠です。そして、なおかつ、わたしたちのある種の願望、はっきり言いますと、一種の逃避願望をくすぐる内容をもった罠である、と言わざるをえません。



その道を、わたしたちは、選択することができません。教会は社会に対して無批判であってはなりませんが、だからといって、教会は社会から逃避してはならないのです。



税金の不払い運動などには、ある種の英雄的な要素があります。イエスさまの活動を支持していた側のユダヤ人たちの中には、イエスさまに対し、そのような英雄性を期待していた人々もいたと思われます。



考えられることは、ユダヤ人たちの中に、ローマ帝国への税金を払いたくないと思っている人々がいた、ということです。



彼らの究極的な願いは、ユダヤの国のローマ帝国からの独立です。その運動を勝利へと導いてくれるメシアを、彼らは待ち望んでいた。イエスさまに期待していた人々は、この人こそ真のメシアであると信じていた。その期待にあなたは応えるつもりがあるのですかという問いかけが、この問いには含まれています。そのように考えることができるのです。



しかし、です。この問いに対して、もしイエスさまが、「ローマ皇帝にユダヤ人が税金を納めることは神の律法に反することなので、やめるほうがよい」とイエスさまがお答えになったとしたら、はい、そこでただちにローマ軍が攻め寄せて、イエスさまを逮捕してもらうことができる。



これが、回し者たちを送り込んできた人々の真の目的であった、ということです。
 
「イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。」



このイエスさまのお答えには、以下のような代表的な解釈があります。



第一の解釈は、デナリオン銀貨に肖像と銘とが刻まれているローマ皇帝は、国家権力のシンボルではあるが、宗教的シンボルではない。したがって、皇帝に税金を納めることは宗教的礼拝行為には当たらないので何ら構わないと、イエスさまがおっしゃった、という解釈です(E. シュタウファーら)。



第二の解釈は、要するに、ここでイエスさまは、皇帝と神の両方に税金を支払いなさいと言われたのだ、というものです。もっとも、神さまに税金を支払うことはできませんので、神さまから日々いただいている恩義をお返しすること、より具体的には、教会に献金する、というようなことです。



これら二つの解釈に共通していることは、イエスさまはローマ皇帝の存在や権力を肯定し、評価しておられたという結論を必然的に導き出すものである、ということです。



また、この理解に基づいて、イエス・キリストの教会は、教会と国家の分離(この意味での“政教分離”)を肯定し、評価すべきであるという結論を必然的に導き出すものです。



しかし、わたしたちのとるべき解釈は、これらとは違います。イエスさまは、ここで何も、そのようなことをおっしゃっているわけではありません。



そもそも、天地万物の創造者なる神とローマ皇帝とが、肩を並べて登場してよいはずがありません。神さまは神さまです。皇帝は神に創造された一人の人間にすぎません。



ローマ皇帝個人も、またローマ帝国という国家も、絶対視されたり、神格化されたりしてはなりません。イエスさまが神と人間を同格のものとして認めるようなことを、おっしゃるはずがないのです。



わたしたちのとるべき解釈は、このイエスさまのお答えは、あくまでも、回し者たちに対する批判である、ということです。



強調はどこまでも「神のものは神に返しなさい」という点にあります。これは使徒言行録5・29の使徒ペトロの言葉に表わされている確信と共通するものです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5・29)。



イエスさまのメッセージは、こうです。



あなたがた回し者は、巧みな問いかけによって、わたしをはめて、逮捕させようとしている。ローマ皇帝の権威を肯定し、軍隊にわたしを引き渡そうとすることによって神に背いているのは、あなたがたである。



「神のものを神に返さなければならない」のは、あなたがたである!



(2006年7月9日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年7月2日日曜日

「ぶどう園と農夫のたとえ」

ルカによる福音書20・9~19



今日の個所に記されているのも、イエス・キリストのたとえ話です。このたとえ話は、先週の個所(20・1~8)との関連で読んでいくと、よりよく理解できます。



「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。」



この中で注目すべき表現は「民衆に」です。今日の個所と同じ話は、マタイ福音書(21・33~46)にもマルコ福音書(12・1~12)にも、記されています。しかし、マタイとマルコには、イエスさまが「だれに向かって」この話をなさったかという点は、記されていません。



ところが、ルカ福音書には、イエスさまがお語りになった相手は「民衆」(ラオス)である、ということが記されています。この点は注目に値します。



そして、ここで気づくべきことは、この「民衆」とは、先週の個所に登場する「イエスが神殿の境内で…教えておられた」“民衆”である(20・1)、ということです。



ここでわたしたちは、もう一歩踏み込んで考えてみるべきです。「民衆」と呼ばれている人々は、だれのことでしょうか。



ほとんど明らかなことは、この「民衆」は、「祭司長、律法学者、長老」など“特殊な”人々から区別されている、その意味での“一般的な”人々のことである、ということです。



そして、思い起こしていただきたいのは、先週学んだことです。イエスさまがエルサレム神殿で福音を告げ知らせておられるとき、「祭司長、律法学者、長老」など“特殊な”人々が邪魔しに来た、という話です。



この人々は、イエスさまのお話に聞く耳を持っていません。それどころか、邪魔し、かつイエスさまを殺したいと考えているのです。



それに対して、一般的な人々(民衆)は、どうであったか。イエスさまのお話を喜んで聞いたのです。この人々は、聞く耳を持っていたのです。



考えてみていただきたいことは、皆さんならばどうでしょうか、という点です。



たとえば、誰かに向かって話をする。そのとき、聞く耳を持っている相手と、聞く耳を持っていない相手との両方がいる。



その場合、皆さんならば、どちらのほうに、“一生懸命に語ろうとする”でしょうか。あるいは、どちらのほうに、“語りたい”と感じるでしょうか。



人によって異なることかもしれません。わたしは、やはり、聞く耳を持っている相手に向かって、一生懸命に語ろうとするし、語りたいと感じます。これは当たり前のことではないでしょうか。



この点ではイエスさまも同じだったのではないでしょうか。そのように思われてなりません。イエスさまは“聞く耳を持たない”「祭司長、律法学者、長老」に対してではなく、“聞く耳を持っている”「民衆」に対して、御自身の御言葉をお語りになっているからです。



そして、じつは、この点こそが、今日の個所のたとえ話全体のテーマでもある。そのように理解することができると思います。



「『ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、財産相続は我々のものになる。」そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。』」



結論のほうから先に言わせていただけば、このたとえ話の内容は、19節に記されているとおり、まさに「律法学者たちや祭司長たち」にとって「イエスが自分たちに当てつけて」話したものであると、気づくようなものである、ということです。



これはたとえ話ですから、一つ一つの言葉が何を指しているのかを、考えてみる必要があります。考えられることを申し上げておきます。



「ぶどう園」とは、神の民イスラエルです。「主人」は神さまです。そして、「農夫たち」とは、神の民イスラエルの霊的・宗教的な指導者たちのことです。ここまでは、はっきりしていると思います。



解釈が難しいのは、主人がぶどう園に遣わした「僕」とは、だれのことか、です。



途中のややこしい議論をすべて省いて結論だけ申し上げるならば、この「僕」とは、イスラエルの預言者たちのことであると思われます。



あのイザヤであり、エレミヤであり、また多くの預言者であり、また最後の預言者であるバプテスマのヨハネである。そのように考えることができるでしょう。



預言者たちは、神の御言葉を携えて、神殿や民衆の間で語りました。しかし、彼らの言葉は、イスラエルの民にも、また神殿で働く者たちにも、必ずしも喜んで受け入れられたわけではありませんでした。むしろ、反発され、嫌われ、責められ、疎外されました。袋叩きにされたり、傷を負わされたりする「僕」の姿は、まさにイスラエルの預言者の姿そのものです。



そして、最後に出てくる「愛する息子」とは、誰のことでしょうか。農夫たちは、この息子を殺してしまいます。農夫たちに殺されるのは、イエスさま御自身です!そのことを、イエスさまは、はっきりと自覚なさっているのです。



農夫たちが主人の息子を殺した動機は「財産相続は我々のものになる」という点です。



それは、あらゆる意味での「財産相続」です。知的・霊的な財産だけではなく、そこには量的・物理的な財産も含まれます。すなわち、エルサレム神殿の財産、神の民イスラエルの財産、ユダヤの国の財産です。



それら一切を、彼らが独占する。そのために邪魔になるすべての存在を抹殺してきたのです。イエスさまはその人々の狡猾さと謀略を熟知しておられたのです。



もちろん、はたして本当に、彼らが感じたとおり、イエスさま御自身がこのたとえ話を意図的ないし計画的に“当てこすり”のためにお語りになったのか、という点については、必ずしもそうではないと考えてみる余地があるように思われます。なぜなら、“当てこすり”うんぬんという点は、彼らがそのように感じたというだけであって、イエスさま御自身の意図かどうかが明記されているわけではないからです。



ただし、今日の個所に紹介されている場面でのイエスさま御自身が置かれている状況を考えると、そのような語り方をせざるをえなかった面があることを、否定できません。



忘れてはならないことは、その場所はエルサレム神殿の境内である、ということです。イエスさまの説教を聞いている人々の中に祭司長、律法学者、長老たちがいました。その人々は、最高法院の議員でした。最高法院の議員とは、まさにまもなくそのことが実際に起こるように、人を死刑にさえ定める“権威”を持っていた、そういう人々であった、ということです。



ですから、イエスさまが「当てこすり」をお語りになった理由として考えられることは、その人々に対する積極的な挑発であったというよりも、むしろ、その人々の前で逮捕容疑の言質(げんち)となるような“直接的な”言葉をお語りになることをできるだけお避けになった、ということです。



イエスさまが弟子たち以外の前では「たとえ話」をお用いになったという、あの有名なエピソードも、結局今申し上げた点にかかわっていると説明することができるでしょう。



ただし、どうか誤解がありませぬように。



わたしが申し上げていることは、イエスさまがエルサレム神殿の権威者たちの存在を、そして、彼らに逮捕され、死刑にされることを、“恐れておられた”という意味ではありません。恐れなど全くありません。



しかし、強いて言うならば、イエスさまとしては、無駄な論争などに巻き込まれることについては、それをできるかぎりお避けになった、ということは、事実であると思われます。なぜでしょうか。



わたし自身は、この問いにお答えするために、ごく単純な点に集中してみたいと願っています。それが、今日の最初に申し上げた点です。



すなわち、それは、イエスさまが御自身の御言葉を、聞く耳を持っている人々(民衆!)に向かってこそ、全力を尽くしてお語りになる、という点です。



エルサレム神殿に来られる前、ガリラヤ地方で伝道活動をされていたイエスさまのお姿は、本当に楽しそうです。民衆に近くあり、笑顔で牧会される、生き生きとした、また“若々しい”とさえ言いうるイエスさまのお姿を、容易に想像できます。



ところが、エルサレム神殿に到着されてからのイエスさまはお暗い感じです。なぜなら、イエスさまの周りには、命をつけ狙う多くの人々が、とりまいていたからです。御言葉をお語りになる場合でも、その人々の存在を常に意識しなければなりませんでした。



しかし、どうでしょうか。そんなのは、うんざりです。だって、そうではありませんか。イエスさまの前には、聞く耳を持っている多くの人々がいました。「民衆」(ラオス)がいました。その人々は、イエスさまの存在とお語りになる御言葉に、関心を寄せています。イエスさまに助けを求め、救いを待ち望んでいるのです!



その人々を、イエスさまは、ただ助けたいだけです。ただ、それだけなのです。初めから聞く耳を持っていない人々との、どうでもよい、無意味な論争などに巻き込まれているヒマはないのです。はっきり言って、そんなのは、時間と体力の無駄です。



そんな人々にかかわっているヒマがあったら、一言でも多く、一秒でも長く、御言葉を語っていたい。それがイエスさまのお気持ちではないか。そのように考えられるのです。



「『さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』彼らはこれを聞いて、『そんなことがあってはなりません』と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。』」



この個所で問題になるのは、ぶどう園の主人が農夫たちを殺す、という言葉が、あまりにも衝撃的すぎる、という点です。



主人が神さまのことであり、農夫たちがイスラエルの指導者のことだとすれば、なおさらです。神さまは、彼らを抹殺なさるのでしょうか。神の御子イエスさまは、エルサレム神殿でテロ行為を働くのでしょうか。「そんなことがあってはなりません」と反応した人々がいたことは、無理もありません。



しかし、イエスさまは「彼らを見つめて」言われました。わたしは、ここでイエスさまがニヤッとお笑いになったのではないかと、想像いたします。



そしてイエスさまが引き合いに出されたのは、旧約聖書の御言葉です。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」(詩編118・22、新共同訳)です。



問題は、この御言葉の意味は何かということです。イエスさまはその答えを、はっきりとは語っておられません。しかし、イエスさまの意図は明白です。



「家を建てる者の捨てた(または「退けた」)石」とは、イエス・キリスト御自身のことです。イエスさまは、エルサレム神殿の指導者たちから、嫌われ、捨てられ、退けられる。しかし、そのイエス・キリストが「隅の親石」となる、ということです。



「隅の親石」とは、建物の土台のことです。もちろん、その場合の建物とは比喩的な意味です。救い主イエス・キリストという堅固な土台の上にイエス・キリストの“教会”(建物の意味にあらず!)が建つのだ、ということです。



ですから、主人が農夫たちを殺す、という点の意味は、物理的・身体的に抹殺することではなく、“新しい教会”(キリスト教)が建つことによって“古い教会”(エルサレム神殿の宗教)は克服される、ということであると理解すべきでしょう。



そして、先ほど申し上げました、イエスさまはニヤッとお笑いになったのではないかとわたしが考える理由は、詩編118・22の御言葉は、ある意味での“不屈の闘志”のようなものを物語るものであると言いうるからです。



つまり、この御言葉を引き合いに出されることによって、イエスさまは、神殿の指導者たちから、どんなに退けられても、捨てられても、「負けないよ!」というお気持ちを表われているように思われるからです。



そして、その“新しい教会”とは、とりもなおさず、イエス・キリストのお語りになる御言葉への「聞く耳を持っている人々」の教会である、ということです。



わたしが申し上げたいことは、要するに、こうです。



イエスさまの伝道を、だれも邪魔することができない、ということです。



イエスさまに救いを求めて集まる人々を、だれも邪魔することができない、ということです。



どうでもよい論争など、まっぴらです。(権力闘争なども無意味。)



そんなのは、がっかり、うんざり、げんなり、です。



現実に救いを求めている人々が、現実に救われること!



それだけが、ただそれだけが、イエス・キリストの教会の関心であるべきです。



(2006年7月2日、松戸小金原教会主日礼拝)



西川重則著『わたしたちの憲法 前文から第103条まで』(いのちのことば社、2005年)

ここに来て、自由民主党が日本国憲法の具体的な「改正」案を提出するなど、憲法改正論議たけなわの中で、本書が出版されたことの意義は大きいと思う。

西川氏は、衆議院及び参議院の憲法調査会と自民党との憲法「改正」の根本的類似点が戦力の保持にあることは疑う余地がないと指摘する。その上で西川氏はチャールズ・オーバービー博士の「第九条の会」創設の意味を考え、元米軍海兵隊員チャルマーズ・ジョンソン氏の「日本人は自国の憲法にもっと誇りを持つべきである」という訴えに耳を傾けるべきであると述べ、そしてまず、日本国憲法をわたしたちの憲法とすることが確かな第一歩であると述べておられる。この点は、わたしも全く異存がない。

そして本書の内容は、現行日本国憲法の前文から第103条までの西川氏独自の視点からの分析と解説である。日本国憲法を学ぶことの必要性を痛感しながらも、日常の多忙やらいろんな理由から、その学びになかなか手をつけられないでいる者(わたしもその一人)にとっては、手頃で平易ゆえに、とてもありがたい一書となっている。

ただし、それは、本書の程度が低いとか内容が稚拙という意味では決してない。わたしが願うことは、多くの人々がとにかく本書を読んでくださること、またできれば買い求めてくださり、さらにいつも手元に置いて日本国憲法の何たるかを日々確認してほしいということである。多くの人々がそういうことをしたくなるであろう非常に優れた一書であることは、間違いない。

ただし、である。以下に書くことは、本書に対する批判ではない。ほんのちょっとだけそう感じた、という程度のことにすぎない。しかし、書かずにはおれない気持ちである。

わたしが何を感じたかというと、本書の中には、あとがきの最後に「平和をつくる者は幸いです」というマタイの福音書5・9(新改訳)の言葉が引用されている以外に、聖書の言葉やキリスト教の信仰の言葉がほとんど全く出てこないのは、やはりちょっとさびしい、ということである。いのちのことば社の出版物の中で、聖書やキリスト教の言葉がこれほどまでに出てこないのはきわめて珍しい例ではないかと愚考する。

おそらくこのことは「私は、憲法の問題は憲法によって解決すべきであるとの思いで多くの事例にかかわってきました」と書いておられる西川氏自身の意図的な表現方法なのだと思う。著者の意図していない点をねだってみてもあまり意味がないので、この点は本書への批判ではない。

しかし、強いて言わせていただけば、本書はたとえば教会の諸会(男子会、婦人会、青年会など)の学びのテキストとしては、やや使いにくい。わたし個人が現在願っていることは、現行の日本国憲法を護持したいという思いを支えうる“神学的根拠”を手にしたいということである。そこが不明瞭であるなら、なかなか元気が出てこないからである。

(『季刊 教会』、日本基督教団改革長老教会協議会、第63号、2006年夏季号、76ページ掲載)