2006年7月2日日曜日

「ぶどう園と農夫のたとえ」

ルカによる福音書20・9~19



今日の個所に記されているのも、イエス・キリストのたとえ話です。このたとえ話は、先週の個所(20・1~8)との関連で読んでいくと、よりよく理解できます。



「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。」



この中で注目すべき表現は「民衆に」です。今日の個所と同じ話は、マタイ福音書(21・33~46)にもマルコ福音書(12・1~12)にも、記されています。しかし、マタイとマルコには、イエスさまが「だれに向かって」この話をなさったかという点は、記されていません。



ところが、ルカ福音書には、イエスさまがお語りになった相手は「民衆」(ラオス)である、ということが記されています。この点は注目に値します。



そして、ここで気づくべきことは、この「民衆」とは、先週の個所に登場する「イエスが神殿の境内で…教えておられた」“民衆”である(20・1)、ということです。



ここでわたしたちは、もう一歩踏み込んで考えてみるべきです。「民衆」と呼ばれている人々は、だれのことでしょうか。



ほとんど明らかなことは、この「民衆」は、「祭司長、律法学者、長老」など“特殊な”人々から区別されている、その意味での“一般的な”人々のことである、ということです。



そして、思い起こしていただきたいのは、先週学んだことです。イエスさまがエルサレム神殿で福音を告げ知らせておられるとき、「祭司長、律法学者、長老」など“特殊な”人々が邪魔しに来た、という話です。



この人々は、イエスさまのお話に聞く耳を持っていません。それどころか、邪魔し、かつイエスさまを殺したいと考えているのです。



それに対して、一般的な人々(民衆)は、どうであったか。イエスさまのお話を喜んで聞いたのです。この人々は、聞く耳を持っていたのです。



考えてみていただきたいことは、皆さんならばどうでしょうか、という点です。



たとえば、誰かに向かって話をする。そのとき、聞く耳を持っている相手と、聞く耳を持っていない相手との両方がいる。



その場合、皆さんならば、どちらのほうに、“一生懸命に語ろうとする”でしょうか。あるいは、どちらのほうに、“語りたい”と感じるでしょうか。



人によって異なることかもしれません。わたしは、やはり、聞く耳を持っている相手に向かって、一生懸命に語ろうとするし、語りたいと感じます。これは当たり前のことではないでしょうか。



この点ではイエスさまも同じだったのではないでしょうか。そのように思われてなりません。イエスさまは“聞く耳を持たない”「祭司長、律法学者、長老」に対してではなく、“聞く耳を持っている”「民衆」に対して、御自身の御言葉をお語りになっているからです。



そして、じつは、この点こそが、今日の個所のたとえ話全体のテーマでもある。そのように理解することができると思います。



「『ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、財産相続は我々のものになる。」そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。』」



結論のほうから先に言わせていただけば、このたとえ話の内容は、19節に記されているとおり、まさに「律法学者たちや祭司長たち」にとって「イエスが自分たちに当てつけて」話したものであると、気づくようなものである、ということです。



これはたとえ話ですから、一つ一つの言葉が何を指しているのかを、考えてみる必要があります。考えられることを申し上げておきます。



「ぶどう園」とは、神の民イスラエルです。「主人」は神さまです。そして、「農夫たち」とは、神の民イスラエルの霊的・宗教的な指導者たちのことです。ここまでは、はっきりしていると思います。



解釈が難しいのは、主人がぶどう園に遣わした「僕」とは、だれのことか、です。



途中のややこしい議論をすべて省いて結論だけ申し上げるならば、この「僕」とは、イスラエルの預言者たちのことであると思われます。



あのイザヤであり、エレミヤであり、また多くの預言者であり、また最後の預言者であるバプテスマのヨハネである。そのように考えることができるでしょう。



預言者たちは、神の御言葉を携えて、神殿や民衆の間で語りました。しかし、彼らの言葉は、イスラエルの民にも、また神殿で働く者たちにも、必ずしも喜んで受け入れられたわけではありませんでした。むしろ、反発され、嫌われ、責められ、疎外されました。袋叩きにされたり、傷を負わされたりする「僕」の姿は、まさにイスラエルの預言者の姿そのものです。



そして、最後に出てくる「愛する息子」とは、誰のことでしょうか。農夫たちは、この息子を殺してしまいます。農夫たちに殺されるのは、イエスさま御自身です!そのことを、イエスさまは、はっきりと自覚なさっているのです。



農夫たちが主人の息子を殺した動機は「財産相続は我々のものになる」という点です。



それは、あらゆる意味での「財産相続」です。知的・霊的な財産だけではなく、そこには量的・物理的な財産も含まれます。すなわち、エルサレム神殿の財産、神の民イスラエルの財産、ユダヤの国の財産です。



それら一切を、彼らが独占する。そのために邪魔になるすべての存在を抹殺してきたのです。イエスさまはその人々の狡猾さと謀略を熟知しておられたのです。



もちろん、はたして本当に、彼らが感じたとおり、イエスさま御自身がこのたとえ話を意図的ないし計画的に“当てこすり”のためにお語りになったのか、という点については、必ずしもそうではないと考えてみる余地があるように思われます。なぜなら、“当てこすり”うんぬんという点は、彼らがそのように感じたというだけであって、イエスさま御自身の意図かどうかが明記されているわけではないからです。



ただし、今日の個所に紹介されている場面でのイエスさま御自身が置かれている状況を考えると、そのような語り方をせざるをえなかった面があることを、否定できません。



忘れてはならないことは、その場所はエルサレム神殿の境内である、ということです。イエスさまの説教を聞いている人々の中に祭司長、律法学者、長老たちがいました。その人々は、最高法院の議員でした。最高法院の議員とは、まさにまもなくそのことが実際に起こるように、人を死刑にさえ定める“権威”を持っていた、そういう人々であった、ということです。



ですから、イエスさまが「当てこすり」をお語りになった理由として考えられることは、その人々に対する積極的な挑発であったというよりも、むしろ、その人々の前で逮捕容疑の言質(げんち)となるような“直接的な”言葉をお語りになることをできるだけお避けになった、ということです。



イエスさまが弟子たち以外の前では「たとえ話」をお用いになったという、あの有名なエピソードも、結局今申し上げた点にかかわっていると説明することができるでしょう。



ただし、どうか誤解がありませぬように。



わたしが申し上げていることは、イエスさまがエルサレム神殿の権威者たちの存在を、そして、彼らに逮捕され、死刑にされることを、“恐れておられた”という意味ではありません。恐れなど全くありません。



しかし、強いて言うならば、イエスさまとしては、無駄な論争などに巻き込まれることについては、それをできるかぎりお避けになった、ということは、事実であると思われます。なぜでしょうか。



わたし自身は、この問いにお答えするために、ごく単純な点に集中してみたいと願っています。それが、今日の最初に申し上げた点です。



すなわち、それは、イエスさまが御自身の御言葉を、聞く耳を持っている人々(民衆!)に向かってこそ、全力を尽くしてお語りになる、という点です。



エルサレム神殿に来られる前、ガリラヤ地方で伝道活動をされていたイエスさまのお姿は、本当に楽しそうです。民衆に近くあり、笑顔で牧会される、生き生きとした、また“若々しい”とさえ言いうるイエスさまのお姿を、容易に想像できます。



ところが、エルサレム神殿に到着されてからのイエスさまはお暗い感じです。なぜなら、イエスさまの周りには、命をつけ狙う多くの人々が、とりまいていたからです。御言葉をお語りになる場合でも、その人々の存在を常に意識しなければなりませんでした。



しかし、どうでしょうか。そんなのは、うんざりです。だって、そうではありませんか。イエスさまの前には、聞く耳を持っている多くの人々がいました。「民衆」(ラオス)がいました。その人々は、イエスさまの存在とお語りになる御言葉に、関心を寄せています。イエスさまに助けを求め、救いを待ち望んでいるのです!



その人々を、イエスさまは、ただ助けたいだけです。ただ、それだけなのです。初めから聞く耳を持っていない人々との、どうでもよい、無意味な論争などに巻き込まれているヒマはないのです。はっきり言って、そんなのは、時間と体力の無駄です。



そんな人々にかかわっているヒマがあったら、一言でも多く、一秒でも長く、御言葉を語っていたい。それがイエスさまのお気持ちではないか。そのように考えられるのです。



「『さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』彼らはこれを聞いて、『そんなことがあってはなりません』と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。』」



この個所で問題になるのは、ぶどう園の主人が農夫たちを殺す、という言葉が、あまりにも衝撃的すぎる、という点です。



主人が神さまのことであり、農夫たちがイスラエルの指導者のことだとすれば、なおさらです。神さまは、彼らを抹殺なさるのでしょうか。神の御子イエスさまは、エルサレム神殿でテロ行為を働くのでしょうか。「そんなことがあってはなりません」と反応した人々がいたことは、無理もありません。



しかし、イエスさまは「彼らを見つめて」言われました。わたしは、ここでイエスさまがニヤッとお笑いになったのではないかと、想像いたします。



そしてイエスさまが引き合いに出されたのは、旧約聖書の御言葉です。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」(詩編118・22、新共同訳)です。



問題は、この御言葉の意味は何かということです。イエスさまはその答えを、はっきりとは語っておられません。しかし、イエスさまの意図は明白です。



「家を建てる者の捨てた(または「退けた」)石」とは、イエス・キリスト御自身のことです。イエスさまは、エルサレム神殿の指導者たちから、嫌われ、捨てられ、退けられる。しかし、そのイエス・キリストが「隅の親石」となる、ということです。



「隅の親石」とは、建物の土台のことです。もちろん、その場合の建物とは比喩的な意味です。救い主イエス・キリストという堅固な土台の上にイエス・キリストの“教会”(建物の意味にあらず!)が建つのだ、ということです。



ですから、主人が農夫たちを殺す、という点の意味は、物理的・身体的に抹殺することではなく、“新しい教会”(キリスト教)が建つことによって“古い教会”(エルサレム神殿の宗教)は克服される、ということであると理解すべきでしょう。



そして、先ほど申し上げました、イエスさまはニヤッとお笑いになったのではないかとわたしが考える理由は、詩編118・22の御言葉は、ある意味での“不屈の闘志”のようなものを物語るものであると言いうるからです。



つまり、この御言葉を引き合いに出されることによって、イエスさまは、神殿の指導者たちから、どんなに退けられても、捨てられても、「負けないよ!」というお気持ちを表われているように思われるからです。



そして、その“新しい教会”とは、とりもなおさず、イエス・キリストのお語りになる御言葉への「聞く耳を持っている人々」の教会である、ということです。



わたしが申し上げたいことは、要するに、こうです。



イエスさまの伝道を、だれも邪魔することができない、ということです。



イエスさまに救いを求めて集まる人々を、だれも邪魔することができない、ということです。



どうでもよい論争など、まっぴらです。(権力闘争なども無意味。)



そんなのは、がっかり、うんざり、げんなり、です。



現実に救いを求めている人々が、現実に救われること!



それだけが、ただそれだけが、イエス・キリストの教会の関心であるべきです。



(2006年7月2日、松戸小金原教会主日礼拝)