2006年8月13日日曜日

「命をかち取りなさい」

ルカによる福音書21・7~19



「そこで、彼らはイエスに尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。』イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。そして更に、言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。』」



前回の個所でイエスさまがおっしゃられたことを、思い起こしましょう。



イエスさまは、エルサレム神殿という巨大で壮麗な建物を前に見とれていた人々に「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」とおっしゃいました。要するに、この建物はいつか必ず壊れますと語られたのです。



自然的な風化の話ではありません。人間の罪と愚かさがそれを破壊するという話です。つまり戦争が起こるということです。戦争によってエルサレム神殿が破壊される。神を礼拝するための建物が無くなる、ということです。



しかし、そのような話をいきなり聞かされた人々は、びっくりしたに違いありません。



そして、当然の関心として、そのような戦争はいつ起こるのか、また、それが起こるときには何かの前触れ、ないし徴候があるのか、とイエスさまに問うていることは、無理もないことです。素朴な疑問であると言えるでしょう。



イエスさまのお答えは、人々の素朴な疑問に対してダイレクトに、あるいはストレートにお答えになっているものであるとは必ずしも言えません。はぐらかしておられるわけではありません。しかし、「いつ起こるか」という問いに対しても、「その徴は何か」という問いに対しても、直接対応する答えは語られていません。



直接お答えにならないかわりに、イエスさまが強調しておられるのは、「ついて行ってはならない」「おびえてはならない」「惑わされてはならない」という点です。



戦争と聞くと、もうこれで終わりだ、お先真っ暗だと、全く絶望してしまう人々が必ず出てくるわけです。



あるいは、おびえる。善良な顔やかたちをもって、人々に近づいてくる。そこで宗教を持ち出す人々によって事態がますます混乱する。



そのような状況の中でイエスさまが人々に勧めるのは、動じない態度をとることです。



さて、ここには、わたしにとって、ちょっと気になる言葉が書かれています。その点に触れておきたいと思います。それは、イエスさまが戦争のようなことについて「起こるに決まっている」という言い方をされている点です。



わたしが感じている疑問は、なんとなく表現しづらいことなのですが、要するに、「起こるに決まっている」という言葉には、やや傍観者的な響きがある、ということです。



他人事のようだと言いたいわけではありません。危機意識は明白です。しかし、なんとなく成り行き任せ的というか、たとえば、それを止めようとする意思のようなものが表明されていないと感じます。「そういうことは起こるに決まっている」というのは、だれにも止められない、わたしにも止められない、と言っておられるかのようです。



わたしがイエスさまのこのお言葉の中に感じるのは、一種の無力感です。それは起こる。だれにも、どうすることも、できない。何かそのような響きを感じるのです。



しかし、わたしはそのようなイエスさまのお言葉が持つ響きに対して、残念だと思っているわけではありません。



むしろ、こういうことを感じます。イエスさまは、このわたしといわば同じ立場におられるということです。



昔から、戦争を始めるかどうかを決めるのは、その国の元首のような存在です。しかし、イエスさまは、その立場にはおられない、ということです。



イエスさまが立っておられるのは、国家元首の決断、あるいは独断によって開始されてしまった戦争の最中に引きずり込まれ、苦労し、傷つく国民の側です。



イエスさまは、国家の権力者がおっぱじめてしまった戦争状態の中で悲惨な目に会う人々の側に全く立ってくださるお方なのです。



他方、イエスさまは、「その徴は何か」という問いのほうには比較的きちんと答えておられます。



地震、飢饉、疫病、恐ろしい現象、そして「著しい徴」とあります。ここで数え上げられているさまざまな天変地異自体が「徴」であると考えてよいでしょう。



「徴」は、神のみわざとして理解されます。しかしまた、それらの中には、人間の側に責任がないとは言いきれないものもあるという点については、いくらか考えておく必要があるかもしれません。



たとえば、地震について人間の責任を問われても困る、と言われるかもしれませんが、常軌を逸した掘削や自然破壊が地震の原因になる場合もあるでしょう。



飢饉はどうか。これも自然災害であるといえば全くそのとおりです。しかし、旧約聖書の例(創世記のヨセフ物語)にあるように、飢饉が起こる可能性をあらかじめ見越して、豊作のときに備蓄しておくなどの政策があるかないかで大違い、という面もあります。



疫病はどうか。人間の責任は病気と戦うことです。人間の責任が全くないとは言えないでしょう。



ここでイエスさまが語っておられるのは、戦争状態の中で起こる、わたしたちキリスト者たちへの迫害についてです。



キリスト者は、戦争の時代には、迫害される。そのように語られている、と読むことが許されるでしょう。



しかし、なぜ、わたしたちが迫害されなければならないのでしょうか。理由や原因は、ここには語られておりません。



とはいえ、もちろん分かることはあります。それは、わたしたちキリスト者が戦争状態を根本的に忌み嫌い、憎む者である、という点です。イエス・キリストから示されている「愛」の教えと戦争との間には、どのように考えても、矛盾や対立がある、といわざるを得ないからです。



皆さんに対しては失礼な問いかけであると思いますが、あえて問います。戦争が大好きである、三度の飯よりも好きである、という方がおられますか。おられないと思います。わたしは教会の中で(改革派教会の中で!)そういう人に出会ったことがありません。



わたしたちは何が嫌いかといえば、戦争が何よりも嫌いです。殺し合いが嫌です。憎んだり、さげすんだりする、あの状況が嫌です。



戦争が嫌だ、ということに理由は要りません。代案も要りません。嫌なものは嫌だ、と言ってよいのです。それは無責任であると責められなければならないような言葉や態度ではありません。嫌なものは嫌です。それ以上に何を語る必要がありましょうか。



しかし、です。そういう言葉をひどく嫌がる人々がいます。一国民を兵隊にして戦地に送り出し、国のために命を捨てろと命じる人々です。そのような人々は、戦争を嫌がる人の存在を、嫌がるのです。



キリスト者は戦地に行かないとか、軍人にならないというわけではありません。行かされるし、ならされます。どんなに反対の意思を持っているとしても、その状況に引きずり込まれることがありえます。



しかし、戦争が好き、人を殺すのが好き、というキリスト者は、通常いません。



だから、迫害される。われわれを戦地に行かせ、戦いの中に巻き込みたい人々から迫害される。



そういうことが起こると、イエスさまは語っておられるのです。



ごく一般論としても、「ピンチはチャンスである」と言われます。イエスさまは、わたしたちが迫害されるときは、証しの機会になると教えておられます。



「迫害」にもいろいろあると思いますが、イエスさまが描いておられるのは、会堂や牢に引き渡された後、「王や総督の前に引っ張られていく」ということです。



引っ張っていく人々の側からすれば、キリスト者はいかにひどい考え方や生き方をしているか、ということを公衆の面前でさらしものにし、笑いものにすることが、目的なのでしょう。



しかし、そのようなことが実際になされた場合にどうなるか。ここには、やや、わたし自身の希望的観測が混じっていますが、わたしたちが信じてよいことがあります。それは次のように表現できるでしょう。



わたしたちキリスト者が公衆の面前でさらしものにされ、笑いものにされているとき、それを見ている公衆の中に、わたしたちキリスト者たちの言葉や行いは間違っていない、ということを感じとる人々が、必ずいる、ということです。



たとえば、あの殉教者ステファノが多くの人々が投げる石つぶてによって殺されたとき、その殺害現場の傍らで、人々の脱いだ服の番をしていたサウロは、その後、使徒パウロとなりました。パウロの回心とステファノの殉教との間には深く関連がある、ということを多くの人々が認めています。神の御言葉に忠実に生きた人の死は、どんな人の死より影響力が強いのです。



殉教は証しであり、殉教者は証し人です。死して多くを語る。生きている人よりも能弁に語るのです。



キリスト者は強情であるとか、頭が固いとか、協調性がないと言われることがあります。



しかし、わたしたちに言わせていただくと、いうならば、嫌なことを嫌だ、と言っているだけです。へんなものに束縛されていて自由ではない。そのような状態が嫌なのです。



しかし、キリスト者であることは親・兄弟・親族・友人から裏切られるとか、殺される場合もあるとか、すべての人から憎まれるとまで言われてしまいますと、ぞっとしますし、できればそうでありたくないと思いますし、また、とくに、まだ信仰を持っていない人にとっては、大いに躊躇する理由にもなるでしょう。



でも、どうか考えてみていただきたいのです。わたしたちは、嫌なものは嫌だと、ただ単純に言いたいだけです。自由でありたいだけです。ただそれだけなのです。



そして、わたしたちは、その自由を手にするために、命をかける価値がある、と信じているのです。



「忍耐によって命をかち取りなさい」とイエスさまがお語りになりました。これは驚くべき言葉であると、感じます。なぜ驚くべきかといいますと、イエスさまは、この文脈では明らかに、忍耐によってかち取るものは、命ではなく、むしろ死ではないか、と考えさせるようなことを語っておられるように読めるからです。



ここでイエスさまが「かち取りなさい」と命じておられる「命」は、いわゆる今わたしたちが持っている“この地上の命”とは違うものであることは、明らかです。なぜなら、それは、いわば“死を覚悟している命”ですから。



ならば、それは何か。永遠の命とか、天国で生きるための命、と言ってもよいでしょう。が、そう言うだけなら、誤解も生じるでしょう。



わたしは、この「命」の意味は“信仰”であると考えています。それはまさに信仰の命であり、信仰生活です。わたしたちは、命をかけて信仰の自由を、そして自由なる信仰をかち取るのです。



戦争はそれを奪います。戦争は、わたしたちから信仰の自由、自由なる信仰を奪います。そこに宗教家が加担することもある。そのことをイエスさまは、強く警告されています。



しかし、わたしたちは、勇気を持とうではありませんか。そして忍耐しましょう。



イエスさまが語られたのは、「忍耐によって命をかち取りなさい」ということであって、「殺し合いによって」ではありません。



(2006年8月13日、松戸小金原教会主日礼拝)