ルカによる福音書20・41~47
今日は、二つの段落を読みました。どちらもイエスさま御自身の説教です。二つの話を無理やり関連づける必要はありませんが、両者は一続きの説教の中で語られたものとして理解することは可能であると思われます。
「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで』と。」このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」
ここでイエスさまが扱っておられるのは、「なぜ人々は『メシアはダビデの子である』と言うのか」という問題です。
「メシア」とは、神の民イスラエルを救う者のことです。救い主のことです。ユダヤ人たちは、メシアが自分たちを助けに来てくださることを待ち望んでいました。
しかも、彼らは、メシアが「ダビデの子」、すなわち、いにしえのイスラエルの偉大なる王ダビデの子孫として生まれる、ということを信じていました。
彼らのこの確信の根拠は聖書そのものでした。「メシアがダビデの子である」ことを論証するための旧約聖書の記事はたくさんあります(サムエル記下7・8~29、詩編89・20~38、イザヤ書9・1~6、イザヤ書11・1~10、エレミヤ書23・5~8、エレミヤ書33・14~18、エゼキエル書34・23、アモス書9・11、ゼカリヤ書12・7~13など)。
しかも、イエスさまの口ぶりから分かることは、「メシアがダビデの子である」と信じているのは一人や二人ではなく、非常に大勢の人々であるということです。要するに、この教えは、当時の世間の常識のようなものであった、と考えられるのです。
ところが、です。イエスさまは、このことを事実上、否定しておられます。イエスさまは、事実上、「メシアはダビデの子ではない」と語っておられるのです。
そのためにイエスさまが引き合いに出しておられるのが、詩編110・1です。イエスさまがおっしゃりたいことは、こうではないでしょうか。
詩編110・1には、「主は、わたしの主にお告げになった」と書かれている。この詩は、ダビデ自身がメシアについてうたったものである。
この詩の中で、ダビデ自身がメシアのことを「主」と呼んでいる。自分の子どもや子孫のことを「主」と呼ぶ人は、通常いない。「主」は神のことだからである。
ダビデがメシアを「主」と呼んでいるとしたら、自分の子どもないし子孫は神であると考えていることになる。神の親は神だからである。つまり、自分の子どもを「主」と呼ぶダビデは、自分のことを神であると考えていることになる。
しかし、そんなことはありえない。ダビデが自分を神であると考えた形跡は、どこにもない。従って、メシアは「ダビデの子」ではない。
これは三段論法です。しかし、わたしたちの関心はここで終わらないと思います。次の関心は、なぜイエスさまは、当時の常識であった「メシアはダビデの子である」という点を公然と否定なさったのか、みんなの前ではっきりと「メシアはダビデの子ではない」とお語りにならねばならなかった理由は何なのか、ということでしょう。
第一に、わたしにとって最も気になることは、「メシアはダビデの子である」と語る人々は、だれに教えられてそのように信じているのか、という点です。
当時の状況と今の状況はかなり違います。最も大きな違いは、当時の一般市民は自分で聖書を読むことができなかった点です。聖書の大きな巻物を個人で持っている人は極めて稀で、持っている人でさえ簡単に手に入るものではありませんでした。
これだけで事情は明白になりました。「メシアはダビデの子である」と語る人々の多く、いやほとんどは自分で聖書を研究してその結論に至ったわけではなく、ある極めて特殊な立場にいる人々による聖書解釈の結果として、そのように教えられ、信じていたのです。
その、ある極めて特殊な立場にいる人々の正体は、はっきりしています。その人々の名は「律法学者」である、ということです。
ですから、ここで申し上げておきたい一つの点は、この場面でイエスさまが言っておられることは、これ自体がすでに「律法学者」に対する批判である、ということです。
つまり、「メシアはダビデの子である」と聖書を解釈し、ユダヤ人一般に教えていた責任は、律法学者たちにあるということです。イエスさまは、律法学者たちの聖書解釈は根本的に間違っている、ということを、はっきりと指摘しておられるのです。
第二に、気になることは、しかし、それでは、先ほどわたしがご紹介しました旧約聖書の個所に書いてあることを、わたしたちはどのように理解すべきなのか、という点です。
単純に読めば、それらの個所にはメシアがダビデの子孫として生まれることが預言されている、という解釈は、それほど無理なもの、強引なものでもないように思われるのです。
問題解決の道は、先ほどすでに示しておきました。それは、ダビデがメシアをそのように呼んでおられる「主」とは、すなわち“神”のことである、という点です。
イエスさまが「メシアはダビデの子である」という教えを否定なさる意図は、メシアはダビデ以外の他の人の子孫であるということではありません。イエスさまの意図は、メシアは「ダビデの子」ではなく、「ダビデの主」、つまり「ダビデの神」である、ということです。
つまり、イエスさまが問題にしておられることは、メシアは誰の子孫かと問われる限りにおいては、どこまで行ってもメシアは誰か人間の子孫である、つまり、メシアは人間である、ということを意味し続けるわけですが、実際はそうではない、ということです。
イエスさまは、メシアは、人間ではなく、神である、と語っておられるのです。
まことのメシアであられるイエス・キリスト御自身が、「わたしはまことの神である」ということを、ここではっきりとお示しになっておられるのです。
「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』」
イエスさまは、弟子たちに「律法学者に気をつけなさい」と言われました。律法学者の仕事は、先ほど申し上げましたように、聖書の研究を行い、聖書の中のさまざまな個所を引用しながら、たとえば「メシアはダビデの子である」という結論を出し、それを人々に教えることである、と説明することができるでしょう。
彼らの聖書解釈は間違うこともあります。そのことをイエスさまが指摘されたのです。律法学者たちは神ではなく人間です。だから間違うことがある。この点は語ってよいことでしょう。
しかし、そういうことだけを言っておればよいというわけにも行かない、もっと深刻な事情があることも事実です。なぜなら、当時の律法学者たちは、事実上、聖書を独占していたからです。一般市民は、自分自身の頭と心で聖書の御言葉を味わうことも研究することもできなかったからです。
そのため、もし律法学者たちが聖書の解釈を間違ってしまうならば、聖書を自分の手に取って読むことができず、ただ彼らの聖書解釈の結論を聞いて学ぶことができるだけの人々は、みんな間違ってしまう、ということです。
親亀コケタラ皆コケル。彼らが間違うと、社会全体が間違う。彼らはそれだけの責任と影響力を与えられていたのです。
ですから、こんなふうに表現することができると思います。
彼らはたしかに神ではありません。しかし、神と同じ判断をしなければならない立場にあった。彼らが右と言うと、全体が右を向かねばならない。彼らに与えられていた責任と影響力は、それほどのものであった、という事実を申し上げているのです。
しかし、結果としてそれは良くないことであった、と言わざるをえないようです。彼らに与えられた責任と影響力、あるいは地位やそれに伴う名誉は、彼ら自身にとってなんら良い結果をもたらさなかった。むしろ、彼らをただ傲慢な人間にしてしまっただけである、と言わなければならないようです。
イエスさまによりますと、律法学者たちは、「長い衣をまとって歩き回り」たがったようです。
わたしたち日本キリスト改革派教会の中は、礼拝の中でガウンを着ている牧師たちは、わたしの知るかぎりほとんどいません。ですから、少し安心して大胆に言いますが、宗教服を着たがる教師たちを見かけたら、やや要注意です。服の長さや色によって自分の力や地位を示そうとするのは、イエスさまがお嫌いになった律法学者の道です。
また律法学者たちは「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」ようです。これは、少し言い訳がましいことを申し上げなければなりません。彼らが上席、上座に座っていたのは「座らされる」という面もあるのではないかという点です。どこが上席、上座かというのは、それぞれの社会で異なる面があるとは思いますが。
これは、先ほどの、宗教服を着るかどうかという点にも、当てはまることです。つまり、「着せられる」という面がある、ということです。
たとえば、その教団・教派のルールとして定められている場合は、それを着なければならないのであって、それを着なければ罰せられるのであって、部外者がとやかく言うことは慎まなければなりません。
しかし、です。そこには誘惑があり、落とし穴があります。およそ権力というものを手にすることには、大きな誘惑と、また必ず大きな落とし穴が待ち受けているのです。宗教的権力の場合も、決して例外ではありません。
彼らだって、最初の頃、若い頃は、いくらか純粋な思いを持っていたかもしれません。最初は「着せられている」「座らされている」と感じ、居心地の悪さを覚えながら、そこにいた。
しかし、ひとは、そういうものに、だんだん慣れてくるのです。図々しくなり、要求がましくなる。それを着なければ、そこに座らなければ、落ち着かなくなる。これはじつに深い落とし穴であると思います。
また、イエスさまによりますと、律法学者たちは「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と言います。
これには興味深い解釈があります。「やもめの家を食い物にする」ことと「見せかけの長い祈りをする」こととは、二つのことではなく、一続きのことである、という解釈です。
その解釈によると、「見せかけの長い祈り」は高いお布施を取る。その高額なお布施によって、やもめの家を食い物にする、というのです。
面白い解釈ではあると思いますが、無理に採用する必要はありません。
「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスさま、おっしゃるとおりです、と申し上げたいところです。イエスさまは、律法学者を毛嫌いされているわけではないし、律法学者は不要であると主張しておられるわけでもありません。イエスさまが求めておられることは、彼らが自分の責任を自覚し、罪を悔い改め、正しい道を歩むことです。
今日では聖書をみんなが持っています。どこでも買うことができます。牧師が間違った聖書解釈などしようものなら、たちまち皆さんから批判を受けます。
それでよいと思いますし、そうでなければ困ります。わたしたちには、自分で聖書を読むことができる特権が与えられているのです。聖書を自分で読まないことは、特権を行使しないこと、損することなのです。
しかしそれは、聖書を解釈する者たちが負うべき責任を免れる理由にはなりません。教師に与えられた責任は重大です。
ひとが牧師・教師になる目的は、まさか、宗教服を着ることではないし、上席・上座に座る特権を得ることでもありません。
神と人に仕えること、教会と社会に仕えること。
それだけが、ただそれだけが、教会と牧師の務めです。
(2006年7月23日、松戸小金原教会主日礼拝)
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