2006年8月20日日曜日

「わたしの言葉は滅びない」

ルカによる福音書21・20~33



「『エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。』」



ここでイエスさまは、とても恐ろしいことをお話しになっています。エルサレムの滅亡が起こる、という話です。



そこには、もちろん、エルサレム神殿の崩壊という点も含まれます。軍隊が押し寄せてくる。そしてエルサレムの町が全滅する。神殿も全滅する。そのようなことが現実となる。まさに大きな戦争が始まる、ということです。



実際にそれは起こりました。イエスさまの話は、空想の話でも仮定の話でもありません。西暦70年、ユダヤの国とローマ帝国との間に大きな戦争が起こり、エルサレムの町は全滅し、神殿も破壊され、ユダヤ人たちは国土を失い、世界の各地に散らされることになりました。



これに対し、今日の個所に記されているイエスさまの御言葉が語られたのは西暦30年代であると考えられます。約40年間の隔たりがあります。つまり、イエスさまは約40年前に大きな戦争の始まりを予言しておられた、と理解することができます。



しかも、重要なことは、イエスさまが予言しておられるのがこのユダヤの国は負けるという点である、ということです。



このときイエスさまは、目の前にいるユダヤ人の姿をご覧になり、また目の前のエルサレム神殿の様子をご覧になって、この国の政治と宗教は甚だしく弱体化している、ということを見抜いておられたに違いありません。この国は戦争に負ける、と見ておられるのです。



だからこそ、と言ってよいでしょう、たいへん興味深いことでもあるのは、イエスさまがここで最も強調されているのが「逃げなさい」という点であるということです。



イエスさまは、少なくともこの個所では「逃げずに闘いなさい。戦闘に参加しなさい。徹底的に抵抗しなさい」というふうには、お語りになりませんでした。むしろ逃げることをお勧めになりました。



はたしてわたしたちは、この個所をイエスさまの非暴力主義の根拠にできるでしょうか。できるかもしれません。しかし、もう一つ考えられることは、ユダヤ人に対して「それは勝ち目のない闘いである」ということを教えようとされているという意味で、負けを認めなさい、と勧めておられるようにも読めるように思われてなりません。



「書かれていることがことごとく実現する報復の日」という言葉の意味を説明するのは難しいことです。それは、これから起こる戦争は聖書の中で昔から予言されてきたことであるということでしょう。その予言が成就するという仕方で戦争が起こるというわけです。



ただし、戦争の責任を神に押しつけることはできません。人類が神の戒めに背き、罪を犯すことによって、自分の身に裁きを招いたのです。それが戦争です。自分勝手に生き、自分を傷つけ、人を怒らせ、社会を混乱させ、滅びを招くのは、すべて人間の責任です。



しかしまた、同時に考えなければならないことは、戦争には相手がある、という点です。自分のほうから仕掛けなくても、相手のほうから仕掛けられることがある、という点です。その場合は、戦争の責任はすべてこのわたしにあると、言うべきではありません。



しかし、です。問題は、戦争全体の中で、とくに戦うすべを持たない一般市民はどうすればよいか、です。なるほど、逃げるほかはないのです。



先週わたしは、イエスさまが戦争について「こういうことがまず起こるに決まっている」(21・9)とお語りになることにおいて、やや傍観者然として立っておられるように見える、と申し上げました。



しかし、そのことをわたしは、悪い意味ではなく良い意味でとらえたいと願いました。イエスさまは、戦争を始めるかどうかを決める国家元首のような立場にではなく、その人々によって始められた戦争に巻き込まれることにおいて実際の苦しみを体験するところの、無力な一般市民の立場に立っておられる、と理解してよい、と申し上げたつもりです。



この点から考えていくならば、今日の個所でイエスさまが「逃げなさい」というまさにこの点を強調しておられる意味が、よく分かるのではないでしょうか。



実際に一般市民にできることは、ただ逃げることだけです。それでよいのです。



「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」という点も、ここにかかわると思われます。戦火の中で逃げてよいし、逃げなければならない、そのような場面にあって、最もつらい立場にあるのが、妊婦や赤ちゃん連れのお母さんです。



「不幸だ」というのは冷たい言葉のように響いてしまうかもしれませんが、イエスさまの意図は逆であると思います。可哀想であるということです。イエスさまは、真の弱者の立場に立っておられます。小さな子どもとお母さん(お父さん)のことを、本当に心から心配し、同情し、理解してくださっているのです。



「『それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。』」



イエスさまは、終末的な天変地異についても、語っておられます。太陽、月、星、海、そして天体が、どうにかなるというわけです。



それらのものは、人間の手でどうこうすることができるものではありません。人間の手で荒れ狂わしたり揺り動かしたりすることができるわけではなく、また実際に荒れ狂ったもの、揺れ動いているものを穏やかにし、静かにさせることが、人間の手ではできないものです。だからこそ、そこには人間を超えた力、神の力が働いていると信じられてきたし、わたしたちもそのように信じてよいのです。



しかしまた、だからこそ、人々はおびえもするというわけです。実際、わたしたちは、人間の手でコントロールできないものに、恐怖を感じます。「気を失う」とさえ語られています。恐怖のあまり失神する、ということです。



しかし、イエスさまが勧めておられるのは、「おびえてはならない」(21・9)ということでした。「世の終わりはすぐには来ない」(同)と言われていました。



ここで考えてみたいのは、イエスさまは、なぜ「おびえてはならない」とおっしゃっているのか、また「世の終わりはすぐには来ない」と断言しておられるのか、という点です。



その理由について、先週の個所には何も書かれていません。今日の個所にもはっきりとは書かれていません。しかし思い当たることがないわけではありません。それは、イエスさまが「世」と言われ、また「太陽、月、星、海、天体」と言われているものは、いずれにせよ、イエスさまにとっては間違いなく、父なる神の“被造物”である、という点です。



被造物の意味は「神が造られたもの」です。それは、神の作品です。しかも、きわめて傑作品です。主なる神は、この世界をお造りになったとき、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1・31)とお語りになったのです!



それの“終わり”は「すぐには来ない」というイエスさまの御言葉の意図はどこにあるのでしょうか。その意図の一つとして思い当たることは、「神が造られたものは、そんなに簡単に壊れたり“終わったり”はしないので、信頼しなさい」ということに他なりません。この世界は神さまがお造りになったものであるゆえに、信頼してよい、ということです。



この点は、わたしたち改革派教会が長年強調してきた、“創造論”の主張でもあります。わたしたちが生きているこの世界は、神の作品であるがゆえに信頼してよいものである、ということです。



また、同じことを別の角度から言えば、この世界を終わらせるのは、自然の力でも悪魔の力でもなく、これをお造りになった神御自身の力による、ということです。神がお造りになったものだから、神が終わらせる。この世界を支配しているのは、神の力なのです。



それは、神以外の何ものかによってこの世界が無理やり終わらされることはありえない、ということでもあります。そのため、神を信じることにおいて、神がお造りになったこの世界をも信頼してよいのです。「世の終わりはすぐには来ない」。これこそが、イエスさま御自身の御言葉の前提であり、またわたしたち自身の信仰です。



現代社会に生きるわたしたちは、どうしても科学的な考え方をしてしまいます。まさにあの相対性理論に基づいて、この地球も宇宙も、すべては相対的な存在であるがゆえに、そこには必ず限界というものがあって、いつか破壊される、消滅する、というようなことを、わりと簡単に受け入れてしまうところがあります。



戦争が起こる。天変地異が起こる。ああ何もかも終わりだ。「日本は沈没する」と考えてしまう。しかも、こういう絶望感と聖書的終末論とを一緒くたにされてしまうとき、事態は非常に厄介なものになります。



わたしたちが信じていることは、その終わりは神がもたらすものである、という点です。この点が、他の人々とはおそらく決定的に異なるところです。



そしてまた同時に、わたしたちは、この世界に終わりをもたらす神御自身は、愛と憐れみに満ちた方である、と信じるのです。イエスさまが「そのとき人の子が・・・雲に乗って来る」と言われ、また「あなたがたの解放の時が近い」と言われているのは、まさにこの点にかかわります。終末とは、破壊と滅亡のときではなく、真の救い主イエス・キリストがこの地上に再び来てくださるときであり、この世界とこの人類のまさに解放(救い!)のときである、ということです。



「『それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」』」



このたとえにおいてイエスさまが触れておられるのは、「終末の到来」を認識するための徴(しるし)の問題です。



しかし、注目していただきたいのは、この徴は「神の国が近づいている」ということを知るための徴である、ということです。つまり、「終末の到来」とはすなわち、まさにそのまま「神の国の到来」を意味している、ということに他なりません。



神の国とはわたしたちの救いの現実です。わたしたちが救われて生きるところが神の国です。その神の国が終末において、究極的に実現し、具現化される。それが終末の意味であり、神の国の意味である。それがイエスさまの教えであり、わたしたちの信仰なのです。



「『はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』」



たしかにイエスさまは「天地は滅びる」ということを認めておられます。しかしそれは相対性理論ではありません。神の御心と人間の罪が、天地に終わりをもたらすのです。



そして、その只中で、救いの出来事が起こるのです。



イエス・キリストの御言葉は、決して滅びません。



その御言葉が、この世界全体に響きわたる。



それを聞いて信じるものたちは、すべて救われるのです!



(2006年8月20日、松戸小金原教会主日礼拝)