ルカによる福音書21・34~22・6
「『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。』それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群集のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
三つの段落を読みました。しかし、今日お話ししたいことは、一つのことです。最初の段落に記されているのは、21章の初めから続いてきたイエスさまの説教の、しめくくりの部分です。その中に書かれている次の御言葉に注目したいと思います。このように言われているのを見て、自分に関係があることだと感じて、ドキッとするという方がおられるのかどうかは、わたしには分かりません。
ここには「放縦や深酒や生活の煩いで」と、三つの言葉が並べられています。そして、このまさに三つの言葉で言い表されている三つの事柄によって、「心が鈍くならないように注意しなさい」と言われています。
しかし、どうでしょうか。ここで言われていることの中に気になることが、わたしには二つほどあります。
第一は、この三つの言葉が並べられているのは、興味深いことでもありますが、しかしまた、やや不思議なことでもある、という点です。
「放縦」と「深酒」は、ほとんど同じ内容の言い換えであると思われますので、二つが並べられていてもおかしくありません。ところが、そこにもう一つ、「生活の煩い」ということが並べられている。三つのことがまるで同じようなこととして扱われている。この点が、やや不思議です。
ここで「生活の煩い」とは、明らかに、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(ルカ12・22、マタイ6・25)というあの有名なイエスさま御自身の御言葉において禁じられている事柄のことを指しています。
ですから、この「生活の煩い」という問題点に注意すること自体は、重要なことです。しかし、です。気になるのは、「生活の煩い」という問題と、「放縦と深酒」という問題が並行的に扱われていることです。このことに対して、やや不思議であるという感想を持つ人が出てきてもおかしくないだろう、と思うわけです。
気になることの第二は、「心が鈍くならないように注意しなさい」という言葉の意味が、なんとなくぼんやりしている、ということです。
おそらくこれは翻訳の問題という面が大きいように思います。「心が鈍くなる」というのは原文の直訳です。鈍感になるということでしょう。この訳自体が間違っているとはいえません。お酒を飲みすぎると周囲の物事に対して鈍感になる。そういう話でしたら、わりとよく分かる話です。
しかし、ここにもう一つ、先ほど触れました「生活の煩い」という要素が加えられます。「生活の煩い」によって「心が鈍くなる」。このつながりが、分かったようで分かりません。
わたしの語感からすればという面もありますが、自分の生活について思い煩うことは、心が鈍くなっているどころか、むしろ、かえって非常にピリピリとした、心が鋭くなっている状態なのではないか、と考えることもできるような気がします。
まとめますと、「放縦や深酒」によって鈍感になるということなら、まだ分かる。しかし、「生活の煩い」によって「心が鈍くなる」と言われると、わたしにはあまりぴんと来ない感じがする。これが、わたしが感じた疑問点です。
「放縦や深酒」と訳されている二つの言葉の原語的な意味を調べてみますと、たいへん面白いことが分かります。
「放縦」と訳されている言葉は、さらに二つの要素に分析できるようです。
酒を飲んで酔っ払って気持ちよくなるという要素と、翌日に味わう“二日酔い”の気持ち悪い要素の二つである、と言われています。
飲んでいるときの気持ちが高揚している状態と、翌日の気持ちが落ち込んでいる状態との両方の意味がある、ということです。
「深酒」と訳されている言葉は、意味自体はこのとおりでよいと思います。要するに、お酒を深く飲みすぎて、酩酊することです。
面白いのは、このギリシア語は「メテー」と言う、という点です。メテーとは酩酊(めーてー)である、ということです。
ですから、「放縦」と「深酒」は、原語では一応区別されていますが、ほとんど同じ意味です。お酒を飲むことに関係している言葉です。
これによって周囲の物事がよく見えなくなる、心が鈍感になるというのは、経験したことがある人なら、だれでも分かる話であると思います。
しかし、繰り返しますが、「生活の煩い」が「心が鈍くなること」の原因になると言われると、わたしには、ちょっと分かりにくさがあるように思われるのです。
こういうときは、やはり、辞書や注解書を丁寧に調べることが重要です。実際に調べてみました。それで、「なるほど」と理解しえたところをお話ししたいと思います。
分かったことは、ここで「放縦」と「深酒」と「生活の煩い」が並べられていることには意味がある、ということです。つまり、三つの事柄には、共通している要素がある、ということです。
どこが共通しているのでしょうか。これは非常に微妙な面があり、慎重にお話ししなければ誤解されるように思われますので、注解書の言葉をそのまま引用します。
この三つの事柄に共通していることについては、次のように書かれていました。
「それによって、人間が、現実をもはや見なくなり、幻想(イリュージョン)や作り話(フィクション)に拠り頼むようになる〔という点で、三つの事柄は共通している〕」(*)。
冗談じゃないと、お感じになる方がおられるかもしれません。「生活の煩い」は、現実を直視した結果ではないかと思われるかもしれません。しかし、ここでわたしたちは、少し冷静になって、よく考えてみる必要があります。
はっきり言いますと、イエスさまは、「放縦や深酒」と「生活の煩い」を同列のものとして扱われました。この点は非常に重要なことであると思われます。
そして、そのことを逆のほうから考えてみますと、イエスさまが禁じておられる「生活の煩い」の意味は、「放縦や深酒」と同じような意味、つまり現実から逃避するという意味合いを持ちはじめるかぎりにおいて禁じられているものである、ということにもなる、ということです。
つまり、別の言い方をしますと、イエスさまが禁じておられるのは、現実を直視した結果としての「生活の煩い」ではない、ということにもなります。その面の煩いは許されることであり、必要なことであると思われます。
しかし、ここでイエスさまがお伝えになろうとしていることは、「生活の煩い」の中には、現実を直視しない、むしろ現実から逃避することを目的としているような種類の「生活の煩い」もある、ということに気づかなければならない、ということです。
ここで、話をぐっと卑近な例に移します。わたしはそれが好きなほうなのですが、思い起こしていただきたいのは、あのカタログショッピングです。最近は紙のカタログだけではなく、テレビやインターネットでのカタログショッピングというのもあります。
あれには、非常に便利な面もありますが、同時にそこで陥る罠もあると思います。それは、言うまでもなく、カタログに見とれてしまう、あるいは魅入られてしまうということです。
それによって、それを見なければ感じなかったような新たな欲求を感じはじめてしまい、その結果として今の現実の生活に不満を感じるようになる、ということです。
カタログを見るまでは感じたことがなかったような不満が、それを見ることによって生じる。高額なものであろうと、どんどん新しいものが欲しくなる。
それが「生活の煩い」の原因になる、ということです。
「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い煩うことのすべてが悪いと言われると、わたしたちは困ります。しかし、まさにカタログに見とれてしまうような仕方で、意識が現実を超えて高まってしまうところに至りますと、酒を飲んで酩酊状態であるのと変わりません。度が過ぎると、生活が破綻してしまうのです。
イエスさまの時代にカタログがあったとは思えません。しかしたとえば、ひとが持っているものを見てうらやましいと思い、それを手に入れたくなり、実際に手に入れてしまうというようなことは、当時でも間違いなくありえたことです。
飲酒による酩酊にたとえられるほどの現実逃避的な「生活の煩い」は、むさぼりの罪(第十戒!)へと限りなく接近している、ということです。
そして、まさにその結果として「心が鈍くなる」と、言われているわけです。ここまで来て、「生活の煩い」と「鈍感になること」との関係をどのように理解すべきかという点につながるわけです。
「心が鈍くなる」というこの新共同訳聖書の翻訳は、間違いとは言えませんが、かなりぼんやりしているものです。むしろ、文脈から読み取れる意図は、「心に負担がかかる」ということです。あるいは、「心に重圧がかかる」ということです。そのほうが、イエスさまの意図が、より明確になると思われます。
なぜなら、ここで言われている「放縦」と「深酒」と「生活の煩い」という三つの事柄の共通点である現実逃避という要素は、わたしたち人間が、その道を先へと進んでいけばいくほど、かえって、現実はわたしたちを追いかけ、さいなむものになる、つまり、心に負担ないし重圧がかかる、ということは、わたしたちすべてが体験済みのことだからです。
現実は、逃げれば逃げるほど、追いかけてきます。しかしまた、だからこそ、ますます深酒になる、ということが起こるのでしょう。現実を消し去るまで飲み続ける。しかし、現実は消えません。逃げることはできません。残るのは、二日酔いだけです。
また、「生活の煩い」には、現実逃避という面と同時に、自分の殻に引きこもるという面があることも否定できません。わたしが生活上感じている苦しみや煩いは、だれにも理解できないほどに大きいと、それぞれ皆が感じているのです。
「それならば、どうすればよいのか」という問いに対する答えは、ものすごく単純なものです。
第一は、逃げるのをやめる、ということです。逃げるから追いかけてくるのです。立ち止まって、振り返って、現実に向き合い、それを直視し、現実に対して誠実に取り組む、ということです。こつこつと、地道に、今日なすべきことを今日取り組む、という仕方で、そうすることが大切です。
第二は、苦しいのは自分だけではないということに気づくことです。わたしと同じ悩みを持っている人は他にもいる、ということを知るだけで、けっこう気持ちが落ち着くものです。
そして第三に、です。この問題の真の解決のためにイエスさま御自身が教えておられるのが、「いつも目を覚まして祈りなさい」ということである、と気づくことです。
ここで語られている、不意の罠のように襲いかかってくる「その日」とは、終末論的な概念です。今日は、その意味を詳しく説明する時間がもうありません。
ただ一言だけ申し上げておきたいことは、終末について考えることは現実逃避ではなく、むしろ逆であるということです。世界の終わりを考え抜くことは、世界の現実と向き合うことと同義語である、ということです。
終末を教える宗教はとかく現実逃避的である、と論評されることがありますが、わたしたちの場合は逆です。わたしたち(改革派教会)の終末論は、きわめて現実的なものです。
もちろん、終末について考えることは恐ろしいことでもあります。しかし、だからこそ、わたしたちには、宗教が必要なのです。宗教なしには、恐ろしすぎて、とても耐えられるものではないのです。世界の終末的現実に向き合うことができるようになるためにこそ、「神に祈る」という要素が必要なのです。
「目を覚まして」というのは酩酊状態の反対です。毎日徹夜でとか、不眠不休で、という意味ではありません。酒を一滴も口にしてはならない、という話でもありません。
イエスさまが教えておられるのは、“非陶酔的に祈ること”の大切さです。すなわちそれは、冷静で落ち着いた判断のもとに生きていくこと、そしてその中で「神に祈る」という生活を続けることにおいて現実に向き合うこと、そのことが大切であるということです。
そしてもう一つの点、第四の点に少しだけ触れておきます。それは今日お読みしました最後の(第三の)段落の記述に関係することです。それは、イスカリオテのユダの裏切りの場面です。
このことから学びうることは、世の中には、このような裏話、裏取引はいくらでもある、ということです。こういうことが実際になされていることに驚くべきではありません。
だからこそ、というべきです。わたしたちが考えなければならないことは、「放縦や深酒や生活の煩い」によってわたしたち自身が現実から逃避している間に、この種の裏取引がどんどん先に進んでしまっているかもしれない。事態は急速に悪化しているかもしれない、ということに敏感でなければならない、ということです。
冷静であること、非陶酔的な狂いのない目で、現実を見抜くこと。そして、祈ること。イエスさまは、その道をお選びになりました。また、その道こそが、イエス・キリストの背負われた十字架の道です。
ゴルゴタの丘の上で、両手両足に釘をさされることもいとわなかった。あのわたしたちの救い主イエス・キリストの十字架の道は「現実から逃げない」道です。少しも酩酊していない、きわめて冷静で、非陶酔的な御判断の中で、イエスさまは、御自身の道を進んでいかれました。
わたしたちも、(大変とは思いますが!)、イエスさまがお選びになったのと同じ道を、選ぶべきです。
(2006年9月3日、松戸小金原教会主日礼拝)
*’waardoor mensen de werkelijkheid niet meer kunnen zien en zich optrekken aan illuisies of ficties.’(J. T. Nielsen, Het evangelie naar lucas II, PNT, 1983, p. 177)