2006年7月30日日曜日

値千金のささげもの

ルカによる福音書21・1~6

今日お読みしましたところには、きわめて深刻な問題が扱われています。その深刻さの程度はどれほどかと言いますと、この問題でつまずくとわたしたちが実際に信仰を失ってしまう可能性がある、と言わねばならないほどです。

それは献金の問題です。このような聖書の個所を開き、この種の問題を扱うときにわれわれに求められることは、デリカシーです。

この場合のデリカシーとは、微妙で複雑な問題を乱暴に単純化したり切り捨てたりせず、どこまでも丁寧かつ慎重に扱うことができる心配りのことであると理解していただきたく願います。

「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。」

イエスさまは、まだエルサレム神殿の境内におられます。

イエスさまは20章の最初から説教を続けてこられました。説教、と言いましても、実際の内容は、かなりの部分が論争です。それは律法学者、祭司長、長老たちとの論争であり、ファリサイ派やサドカイ派との論争でした。

しかし、その一連の説教は、だいたい一段落ついたところと見てよいようです。そして、あたりをきょろきょろ見回しておられたのでしょうか、イエスさまは、ある一つのことに目をおとめになります。それは、神殿の境内に置かれている賽銭箱に献金を入れる人々の姿です。

最初に目をおとめになるのは、金持ちの人々が献金をしている姿です。ただし、ここで一点、注意すべきことがあります。それは、この個所には「金持ちたちは、賽銭箱にたくさん献金を入れた」とは書かれていない、ということです。

実際「たくさん」ではなかったのかもしれません。お金持ちの人だからといって、必ずたくさん献金しなければならないというわけではありません。自分の財産を豊かに蓄えることと、自分の財産を神と教会のために積極的にささげようとする熱心を持つこととは、必ずしも一致しません。

イエスさまは、そういう点も含めて、金持ちの人々の行動をじっと見つめておられたのかもしれません。

今日の個所で大切なことは、これは献金である、という点です。献金はだれから強いられてするものでもなく、あくまでも自発的な意志と信仰によって行うものです。

「あの人はお金持ちだから、当然これくらいの献金はすべきである」というような無言の強制や圧力は、厳に慎むべきです。それぞれの家庭には、それぞれに複雑な事情があるものです。勝手な詮索は、やめなければなりません。

そして、次にイエスさまが目におとめになるのは、一人の貧しい女の人が、献金をしている姿でした。この女性は「やもめ」と呼ばれています。年齢や家族構成などは分かりませんが、何らかの理由で御主人を失った女性であることは、間違いないようです。

「そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」

「レプトン銅貨」が、非常に小額のコインであることは否定できません。われわれの10円玉よりは少し価値があるが、50円玉には届かない、というくらいです。二枚ならば百円足らずということです。

それだけが、その女性がそのとき持っていた「生活費すべて」であったというのです。一日百円生活です。つまり、それを失ったら、少なくともその日の生活に支障をきたすということです。はっきり言えば、それがないと食べるにも飲むにも困るであろう、ということです。パン一個、牛乳一本も買えません。

ところが、その「生活費全部」をこの女性は献金してしまった。「してしまった」わけではなく「した」。

「全部である」ということは、部分ではなく全体である。学校の試験でも100点をとれば1番です。100%は1番です。

そうであるならば、彼女がささげた献金は“小額”ではあるが“少額”ではない。つまり額面は“高額”ではなく“小額”ではあるが、この人にとっては“多額”である。客観的には小さいが、主観的・主体的には多い。

このように、イエスさまが、この女性の行為を解釈してくださったのです。

“小額”の献金しかささげることができないからといって、引け目を感じたり卑屈になったりする必要はない、ということです。あなたは堂々と神の前に立つことができる、ということです。それが、今日の個所に記されている重要な点です。

今、わたしは「解釈」という言葉をあえて用いました。違和感を覚える向きがあるかもしれません。しかし、「解釈」はじつに重要です。解釈次第によって実際にその人の生きるか死ぬかが決まる場面がある、と言ってよいほどです。

この女性の場合も、そうだったかもしれません。ひとが生活費すべてを神にささげようと決心するとき、その人の心の中にあるものは、しばしば、何か非常に重大な決意です。問題はお金そのものではなく、その気持ちです。そこにあるのは、決死の覚悟です。背水の陣が敷かれているのです。

また、生活費全部を差し出すこと、そこには「自分の命をささげる」という意味が込められている可能性があります。ひょっとしたら、ヤケクソの要素もいくらか含まれているかもしれません。一つの賭けがあります。しかし、賭けには失敗の可能性もあるのです。

しかし、だからこそ、です。この女性が「レプトン銅貨」二枚をささげているときに、いちばん願っていることは、少し奇妙な言い方かもしれませんが、このわたしの思いや今の生活のありのままの現実を、理解してもらいたい、ということではないかと思われます。

理解してもらいたいというと、誤解を招くかもしれません。多くの人に自分の置かれた境遇を知らしめたい、というような意味ではありません。その点では「知られたくない」と考えることのほうが自然でしょう。また、「かわいそうだ」と他の人から思われたいわけでもありません。それは逆でしょう。

それでは、何なのか。わたしはそれをうまく表現できないのですが、強いて言うならば、「正当に解釈してもらいたい」ということです。あるいは、「まっすぐな目で見てほしい」ということです。穿った見方ではなく、曲がった見方でもなく、です。

よく分からない話になってしまったかもしれません。しかし、これがいわばデリカシーです。献金のこと、お金のこと、このような微妙な話をするときは、少し口ごもっているくらいで、ちょうどよいのです。理路整然と白黒はっきりつけるような話は、できないのです。

しかし、少なくともここではっきりと語ることができるのは、このイエスさまの「解釈」によって、この女性は、ものすごく大きな慰めを得ることができたであろう、ということです。

そして、もう一つ言えることがあるとすれば、それは、わたしたち自身がしていることも、まさにこのイエスさまがしてくださったように「解釈」してもらえるならば、きっと、とても大きな慰めを得るであろう、ということです

ところで、「貧しいやもめ」と呼ばれているこの女性は、御主人を何らかの理由で失ったと考えられますが、その後の人生をどのように過ごして来たかは、想像するほかはありません。

彼女自身にできる仕事は、あったでしょうか。御主人の実家との関係は切れてしまったのでしょうか。子どもはいたのでしょうか。もしいたとして、子どもたちは今どこで何をしているのでしょうか。経済的に助けてくれる人は、いないのでしょうか。いろいろ考えさせられます。

加えて、大いに気になるのは、先週学んだ個所に書かれていることです。律法学者たちが「やもめ」の家を食い物にしているとイエスさまが指摘しておられたところです。先週の個所と今週の個所は、「やもめ」というキーワードを介して連結している、と理解することができます。

しかも、わたしは、先週、ルカ20・47において指摘されている律法学者の悪行は、二つではなく一つであるという解釈もある、ということをご紹介しました。つまり、律法学者たちは、見せかけの長い祈りをするたびに高額の料金(ご祈祷料)を取ることによって、やもめの家を食い物にしている、と理解することもできる、ということです。

先週の時点でわたしは、この解釈を無理に採用する必要はありませんと申し上げました。今も、その考えは基本的には変わっておりません。

しかし、ぐらつく思いもあります。なぜなら、律法学者がやもめの家を食い物にしたと言われる場合、彼らは具体的には何をしたのかという問題をいろいろと考えてみたとき、それは「見せかけの長い祈り」である、ということくらいしか、思い当たることがないからです。

最近しばしば指摘されるようになったことは、当時のユダヤ教団の指導者たちがもし今の時代にいるとしたら、この人々は、かつてそのように考えられていたように「とんでもなく悪いヤツ」というような人々では全くなく、むしろ非常に真面目であり、敬虔であり、尊敬すべき人々であると考えるべきである、ということです。

その点から考えても、彼らがやもめの家を食い物にしていた、というのは、たとえば、彼らは、表の顔と裏の顔を使い分け、陰でコソコソと悪さをしていたのだ、というふうに理解することは難しいのではないかと思われます。

むしろ、われわれが真剣に考えなければならないことは、彼らの宗教的な活動そのもの(見せかけの長い祈り!)のために支払うべき“料金”が、人々の生活を圧迫するものになっていたのではないかという、この点ではないのか、ということです。

つまり、それが意味することは、教会の存在そのものが信徒の家庭生活に負担を強いているという問題を、ここでわたしたちは考えざるをえない、ということです。

しかし、これは、本当にわたしたちにとっては、悩み多き問題であることは、事実です。教会は通常“料金”をとりません。

しかし、だからこそ「献金」で成り立っている団体である、ということです。もっとはっきり言えば、教会は、多くの人々の祈りとささげものによって成り立っているのであり、その意味で、教会のみんなに負担を強いる存在でもある、ということです。

それは、今日お話しすることができない次の段落の問題にも若干触れてくる点です。

「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』」

エルサレム神殿の建物の見事さをほめたたえる人々の言葉をお聞きになったイエスさまが指摘されているのは、この神殿はいつか壊れるということです。どんなに堅い石で作られていても、地上のものは必ず壊れるということです。自然の風化の問題ではありません。人間の心が世界を壊し、あらゆるものを壊す。戦争が起きる、ということです。

しかし、いつか壊れるものであっても、それを維持することが、教会には求められます。「教会の建物など要らない。わたしたちの国籍は天にある!地上では、聖書一冊あれば、机も椅子もないところでも、礼拝はできる」と言われることがありますが、わたしたちは、そのように語らないできました。実際には、礼拝堂は必要なのです。

また、教会の中で最もお金がかかるのは、人件費でしょう。「牧師なんか要らない。万人祭司なのだから。自分一人で本を読んでいるほうが、説教を聴くよりもよっぽど養われる」と言われることがありますが、これもわたしたち自身は言わないできました。実際には、牧師は必要なのです。

しかし、わたしは、急ブレーキを踏んでおきます。教会が教会らしくあるためには、イエスさまを真にみならうことが重要です。イエスさまがお喜びになるのは、大きな金額の献金や、見せかけの行為ではありません。

教会の活動にはたくさんのお金が必要である、ということは事実です。しかし、だからといって「これが教会の現実です。牧師さん、しっかり稼いできてください」というようなことは言わないほうがよいのです。

教会は、お金集めのためだけに存在するわけではないのです。

イエスさまの前では、どんなに演技をしても無駄です。すべて見抜かれてしまいます。

そこに「信仰」があるか。問われているのは、そのことです。

(2006年7月30日、松戸小金原教会主日礼拝)