2006年7月9日日曜日

「教会と社会の関係」

ルカによる福音書20・20~26



今日の個所にも、イエスさまの命をつけ狙う者たちが登場いたします。そういう文脈を全く無視して、今日の個所を理解することはできません。



「そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」



最初に問題すべきことは、「正しい人を装う回し者」とある「正しい人」(ディカイオス)とはどういう意味かという点です。



それは、一言でいいますと、「神の律法に忠実な人」という意味です。それは、当時の文脈では「熱心かつ敬虔なユダヤ教徒」という意味になります。



ここでまず、やや余談として申し上げておきたいことは、わたしたちが気をつけたいことです。それは、「正しい人を装う回し者」とは、少なくとも外見上は「正しい人」そのものである、ということです。



いかにも怪しげであり、その正体をすぐに見破られてしまうような“脇の甘い人”は、「回し者」(スパイ)にはなれません。これ以上申し上げることは控えます。



回し者たちが「イエスさまの言葉じりをとらえ」ようとしました。そして「総督の支配と権力にイエスを渡そうと」しました。



彼らがこのような謀略を企てた理由として考えられることは、当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤの国の中で、逮捕権を持っていたのはローマ軍であった、ということです。



彼らが考えたのは単純なことです。イエスさまの口からローマ帝国に逆らうような言質(げんち)をとることです。その言質をとることができさえすれば、ただちに、彼らからローマ軍の総督に訴え、あのイエスを逮捕してもらうことができる、と考えたのです。



「回し者らはイエスに尋ねた。『先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』」



彼らが言っていることの前半は、読まなくてよい、または聞かなくてよいような話です。ただのおべっかであり、続く話の枕詞(まくらことば)にすぎません。早く終わらせてほしいものです。



きちんと対応すべき内容があるのは後半です。「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」



ここで「わたしたちが」とあるのは、文脈上、「わたしたちユダヤ人が」と読んで間違いありません。ローマ帝国に支配されているこのわたしたちユダヤ人が、です。



ただし、少なくとも当時の文脈において「ユダヤ人」とは「真の神を信じる人々」のことを指すことになります。単なる民族的な意味だけに押し込んでしまうと、かえって理解が難しくなるでしょう。ここでは、むしろ「わたしたち、真の神を信じる者たちが」とか、「わたしたち信仰者が」と言い換えておくほうがよいと思われます。



「皇帝に」とありますが、これはもちろん“ローマ皇帝に”、です。しかしまた、この点も、字義的には今申し上げたとおりではありますが、重要なことは、ローマ帝国がユダヤの国を支配していたという点です。



当時のユダヤの国はローマ帝国の属国です。そしてここで最も大きな問題は、とくに「正しい人」と呼ばれる正統的ユダヤ教徒にとってローマ帝国は、根本的に“異教社会”であった、ということです。



しかも当時のローマ皇帝は、非常に強大な権力をもち、傍若無人にふるまう人でした。ですから、当時の文脈において、「ユダヤ人がローマ皇帝に税金を納めること」の意味は、正しい神信仰をもっている人々が異教社会の権力者に対し、その権力者が傍若無人にふるまうための活動資金を提供してよいか、ということになります。



そして「律法に適っているかどうか」とは、当時の文脈から言っても、またわたしたちの信仰的立場から言っても、「聖書の教え全体に適っているか」ということであり、そしてまた「神の御心に適っているか」という意味です。



したがって、この文全体を噛み砕いてもう一度言い直しますと、「わたしたち神を信じる者たちが、異教社会の権力者に対し、その権力者がその国と世界を支配するために用いる税金を納めることは、神の御心であるか」というふうになると思われます。



おそらく、皆さんの中には、わたしがわざわざこのように言い換えてみなくても、この文章の意味などは、すぐに理解できる、という方も多いだろうと思います。



しかし、このように言い換えてみて、改めて、はっと気づかされることが、わたしにはありました。それは、彼らが発した問いには、深刻な内容がある、ということです。



といいますのは、「わたしたち神を信じる者たち」という点を、わたしたちの場合ならば、たとえば、「わたしたち教会の者たち」と言い換えても構わないはずです。



そして「異教社会の権力者」という部分は、たとえば「わたしたち日本の社会の権力者」と言い換えてもよいでしょう。



とはいえ、もちろん、今の税金制度と二千年前のユダヤの税金制度とを一緒くたにして考えたり語ったりすることはできませんし、それはメチャクチャです。わたしは、そういうことを申し上げたいわけではありません。



しかし、このことを、いわばもっと根本的で原理的な問題として考えてみる。そのとき、たとえば、わたしたちキリスト者が、日常生活の中で、ふと次のような願望を持つことがありうるのではないか。



それは、次のような願望です。



すなわち、もしわたしたちが生きている家庭や社会や国が、わたしたちと同じ信仰ないし宗教を持つ仲間たちだけで満たされるようになってくれればよいのに、という願望です。



そうなりさえすれば、わたしたちが、日々それを抱えて生きているいくつかの重い悩みが解決するのにと、つい考えてしまうことです。



そのような願望が頭をもたげる理由は、はっきりしています。わたしたちの日常をとりまく問題の多くが、いろんな種類の宗教問題であることは、否定できないことだからです。



その種の宗教問題を政治的に全く解決させてしまう道があるとしたら、それはおそらく「一宗教に基づく一国家を形成する」ということだけです。もしそれが可能であるならば、少なくともその国の中では宗教にまつわる対立や紛争は、起こらなくなるのではないか。



「正しい人」と呼ばれていたユダヤ教の正統派の人々の“国”についての考えは、どうやら、今わたしが申し上げたような道筋で思い描かれるあり方に近かった、と思われます。だからこそ、わたしたちが皇帝に税金を納めることは律法に適っているか、という問いが出てきます。



すなわち、それは、異教社会の親玉に信仰者が税金を納めることは、事実上、その社会や権力者の存在を肯定しているのと同じではないのか。それは、正しい信仰とは言えないのではないか、という問いである、ということです。



しかし、この問いの立て方は、やはり、わたしたちにとっては、非常に危険な「誘惑」であると言わざるをえません。



そもそもこれは、イエスさまの言葉じりをとらえるための罠です。そして、なおかつ、わたしたちのある種の願望、はっきり言いますと、一種の逃避願望をくすぐる内容をもった罠である、と言わざるをえません。



その道を、わたしたちは、選択することができません。教会は社会に対して無批判であってはなりませんが、だからといって、教会は社会から逃避してはならないのです。



税金の不払い運動などには、ある種の英雄的な要素があります。イエスさまの活動を支持していた側のユダヤ人たちの中には、イエスさまに対し、そのような英雄性を期待していた人々もいたと思われます。



考えられることは、ユダヤ人たちの中に、ローマ帝国への税金を払いたくないと思っている人々がいた、ということです。



彼らの究極的な願いは、ユダヤの国のローマ帝国からの独立です。その運動を勝利へと導いてくれるメシアを、彼らは待ち望んでいた。イエスさまに期待していた人々は、この人こそ真のメシアであると信じていた。その期待にあなたは応えるつもりがあるのですかという問いかけが、この問いには含まれています。そのように考えることができるのです。



しかし、です。この問いに対して、もしイエスさまが、「ローマ皇帝にユダヤ人が税金を納めることは神の律法に反することなので、やめるほうがよい」とイエスさまがお答えになったとしたら、はい、そこでただちにローマ軍が攻め寄せて、イエスさまを逮捕してもらうことができる。



これが、回し者たちを送り込んできた人々の真の目的であった、ということです。
 
「イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。」



このイエスさまのお答えには、以下のような代表的な解釈があります。



第一の解釈は、デナリオン銀貨に肖像と銘とが刻まれているローマ皇帝は、国家権力のシンボルではあるが、宗教的シンボルではない。したがって、皇帝に税金を納めることは宗教的礼拝行為には当たらないので何ら構わないと、イエスさまがおっしゃった、という解釈です(E. シュタウファーら)。



第二の解釈は、要するに、ここでイエスさまは、皇帝と神の両方に税金を支払いなさいと言われたのだ、というものです。もっとも、神さまに税金を支払うことはできませんので、神さまから日々いただいている恩義をお返しすること、より具体的には、教会に献金する、というようなことです。



これら二つの解釈に共通していることは、イエスさまはローマ皇帝の存在や権力を肯定し、評価しておられたという結論を必然的に導き出すものである、ということです。



また、この理解に基づいて、イエス・キリストの教会は、教会と国家の分離(この意味での“政教分離”)を肯定し、評価すべきであるという結論を必然的に導き出すものです。



しかし、わたしたちのとるべき解釈は、これらとは違います。イエスさまは、ここで何も、そのようなことをおっしゃっているわけではありません。



そもそも、天地万物の創造者なる神とローマ皇帝とが、肩を並べて登場してよいはずがありません。神さまは神さまです。皇帝は神に創造された一人の人間にすぎません。



ローマ皇帝個人も、またローマ帝国という国家も、絶対視されたり、神格化されたりしてはなりません。イエスさまが神と人間を同格のものとして認めるようなことを、おっしゃるはずがないのです。



わたしたちのとるべき解釈は、このイエスさまのお答えは、あくまでも、回し者たちに対する批判である、ということです。



強調はどこまでも「神のものは神に返しなさい」という点にあります。これは使徒言行録5・29の使徒ペトロの言葉に表わされている確信と共通するものです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5・29)。



イエスさまのメッセージは、こうです。



あなたがた回し者は、巧みな問いかけによって、わたしをはめて、逮捕させようとしている。ローマ皇帝の権威を肯定し、軍隊にわたしを引き渡そうとすることによって神に背いているのは、あなたがたである。



「神のものを神に返さなければならない」のは、あなたがたである!



(2006年7月9日、松戸小金原教会主日礼拝)