ルカによる福音書20・27~40
「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」
ここに登場するのは、ユダヤ教のサドカイ派と呼ばれる人々です。ルカはサドカイ派の人々の思想的特徴が「復活があることを否定する」点にあったことを明らかにしています。
サドカイ派と対照的な存在は、ファリサイ派です。ファリサイ派の人々は、サドカイ派とは反対に、復活を肯定していたのです。
使徒言行録23・6~7には、パウロが最高法院で死者の復活について語ったときサドカイ派とファリサイ派との間に論争が生じ、最高法院が分裂した、という出来事が記されています。
両派間の分裂の原因は、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである」(使徒言行録23・8)とあるとおりです。
しかし、今日はこの問題に深く立ち入っている時間がありません。今日注目していただきたいのは、サドカイ派は「復活も天使も霊もない」と考える人々であったという点です。
復活がない。ということは、われわれの人生は死と共に終わる、ということでしょう。天使も霊もない。ということは、いわば目に見えるものがすべて。そのような価値観なり人生観・世界観なりを持っていたということでしょう。現代人的感覚に近い、と言えるかもしれません。いわば全くの唯物論です。
そのような人々がイエスさまのもとに近寄り、質問して来たというのです。それが何を意味するのかは、明らかです。
はっきりしていることは、イエスさまというお方は、「復活があることを否定する」どころか、むしろ、復活を全く肯定し、さらにそのことを多くの人々の前で宣べ伝えておられた方である、ということです。
そのイエスさまのもとに「復活はない」と考えている人々が近づいてくる。そして質問してくる。
彼らの目的は、明らかに、初めからイエスさまに論争を仕掛けることであった、ということです。もっとはっきり言えば、けんかが目的である、ということです。
ですから、彼らがイエスさまに問いかけていることは、本質的にいえば、何ら質問ではありません。彼らがイエスさまに求めているのは、答えではありません。求めているのは、イエスさまの教えの矛盾を突いてみせること、イエスさまを言い負かすこと、論争に勝つことです。
論争を仕掛けてきた動機は、ひょっとしたら、彼らなりに必死なものだったかもしれません。先ほど触れましたとおり、「復活」に限ってはサドカイ派とファリサイ派が激突する関係にあったわけですから。
サドカイ派としては、早いうちにイエスさまを言い負かしておかないと、ファリサイ派とイエスさまのグループが手を組んで、われわれサドカイ派を滅ぼしに来るとでも考えたのではないでしょうか。“政治的に”発想する人々は、往々そういうことを考えるものです。
「『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』」
サドカイ派が持ち出してきたのは、申命記25・5以下の言葉です。その個所には、新共同訳聖書の小見出しに「家名の存続」とあるとおり、ある家の家名というものを存続させるためにどうするか、という問題が扱われています。
そのために、七人の男性の妻になったが、一人の子どもをもうけることもなかった女性、という話は、旧約聖書続編のトビト記3・8などに出てきますので、ユダヤ教の中ではよく引き合いに出される話だったのかもしれません。
そういうことがかつてなされていたという点は、聖書に記されているとおりですので、否定できません。しかし、わたしたちは、旧約聖書の律法については、すべてをそのまま何もかも字義通りに現代社会に適用しなければならないわけではない、という聖書解釈の原則を信じています。
この原則は、ウェストミンスター信仰告白19・4において、(やや難しい表現ですが)「一政治体としての彼らに対してもまた、神は多くの司法的律法を与えられた。これは、その民の国家と共に終わり、その一般的原則適用が求める以上には、今はどのような事をも義務付けていない」と表現されているものです。今日の個所でサドカイ派が持ち出してきた申命記25・5以下などは、この点が最も当てはまるものの一つです。
ですから、ぜひご理解いただきたいことは、聖書にこう書いてあるのを読んで、「わたしたちもそうしなければならない」というふうに考える必要はない、ということです。
ただし、です。「家名の存続」という問題は、古いといえば古い、しかし、全く死に絶えてしまった問題であるかといえば、決してそうは言い切れない、ある人々にとってはいまだに非常に深刻で、悩み多き問題であり続けているものであることは、明らかです。
わたしのように受け継ぐべき財産など持ち合わせていない部類の者にとっては「家名の存続」などは、ほとんど意味がありませんし、どうでもよいことです。しかし、このような問題が“どうでもよくない”人々がいることは、否定できないし、ある面で尊重しなければならないことでしょう。
ところで、「すると、復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」と、サドカイ派の人々は問いかけてきました。この問いには、じつにいろんなことを考えさせられる内容がある、と感じます。
わたしが感じる第一の点は、この質問は、全く同じではないが、どこかで聞いたことがあるような気がするものではある、ということです。
ただし、わたしたちが聞くとしたら、こういう質問だと思います。「その女の人は、どのご主人のお墓に入れられることになるのでしょうか」。このように問われる場合には、必ずや深刻な面持ちが伴っています。
第二の点は、これはわたしの全くの想像にすぎませんが、この質問をしながらサドカイ派の人々は、ニヤニヤ笑っていたのではないか、ということです。
しかし、そうだとしたら、全く許しがたいことです。家庭の問題、結婚の問題、夫婦の問題、親子の問題などは、実際に体験した人にはすぐに分かっていただけることですが、非常に重く複雑で、頭が痛いことばかりです。
わたしが感じることは、そのような問題に巻き込まれた経験があり、また心や体の痛みを実際に感じたことがある人にとっては、サドカイ派の人々が言っているようなこと、「すると、復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」というようなことは、もし仮にたとえ話としてであれ、あるいは冗談としてであれ、簡単に口にすることができないほどのことである、ということです。
ところが、彼らはそういうことを平気で口にする。そういうことをイエスさまとの論争の材料にする。この無神経さが、わたしには理解できません。
第三の点は、このサドカイ派の質問は、いろんな意味で巧みに人間の心理の落とし穴を突いて来るものではあるということです。
ただし、これは人によって全く違う面があります。わたしが出会って来た人々の中でも、全く正反対の反応がありました。
ある女性は、先立たれた主人に「もう一度会いたい」ということを切望していました。しかし、全く正反対の反応は――これを言うとショックを受ける男性がおられるかもしれませんが――「二度と会いたくない」というものでした。
サドカイ派は、復活などそもそも信じていないわけですから、彼らが発した「復活の時、だれの妻になるか」という問い自体は、彼ら自身にとっては意味がないものです。
ところが、この問いは、むしろ、復活を信じる人々のほうにこそ、落とし穴になるかもしれない。そこが、わたしには、とても気になる点です。
はっきりしたことを言うことは、慎まなければなりません。しかし、たとえば、複数の結婚を経験してきた方々にとっては、「復活の時、だれの妻(または夫)に“なりたい”か」という問いは、ものすごく深刻なものでありうるはずです。
「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも「柴」の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。』」
イエスさまのお答えは、わたしたちにとって必ずしも分かりやすいものではないように思われます。きちんと腹に納まる、というよりは、聞くと余計にあれこれ考えさせられる要素が増える、と言うほうが近い感じがします。
しかし、です。イエスさまのお答えは全体として慰めに満ちている、と申し上げておきます。とくに注目していただきたいのは、復活させていただける者たちは、「めとることも嫁ぐこともない」し、「死ぬことがない」という点です。
ぜひ御理解いただきたいのは、イエスさまが教えてくださっているこれらの点は、わたしが先ほどから持ち出しているいくつかの問題に対して、非常に深い慰めに満ちた答えを与えていただけるものである、ということです。
先ほどからの問題とは、「わたしは、だれの墓に入るのだろうか」とか、「復活の時、わたしは、だれの妻(または夫)になるのだろうか」とか、「女性として生まれてきた意味は子どもを産むことなのか」とか、「家名を受け継ぐことがわたしの人生の目的なのか」というようなことです。
イエスさまは、これらの問いに対して、直接的な答えを教えてくださってはいません。しかし、答えを出すための方向性は、はっきりと見えていると言ってよいのではないでしょうか。
イエスさまが教えてくださっているのは、復活の時、わたしたちは、「めとることも嫁ぐこともない」し、「死ぬこともない」ということです。
つまり、復活の時には、結婚の問題、夫婦の問題、お墓の問題、それらを含む家庭や家督の問題、そのようなものは、もはや全く無いし、すべて解決しているし、悩むことも苦しむこともない、ということです。
そして、わたしたちが復活を信じるとは、すなわち、そのように信じてよいということです。まさに今、わたしたちの頭と心を悩ませている、さまざまな悩みや問題から全く解放される日が来ることを信じてよい。それが復活への信仰である、ということです。
ただし、誤解がありませぬように。これは現実から逃避したいがための理屈ではありません。そんなはずがありません。そうではなく、むしろこれは、さんざん苦労してきた(させられてきた)人々に、安息の日が与えられる、という約束です。
夫婦や親子が必ずいつも憎しみ合っていたり、角を突き合わせていたりするわけではありません。しかし、問題はあります。悩みがあり、苦しみがあります。
そのようなわたしたちが、いつか必ず永遠の安息を味わうことができる、ということです。
苦しみはいつまでも続くわけではない、ということです。
自由の喜びを楽しむことができるのです。
復活の時まで、お子さんやご主人やおくさんの面倒を見る必要はありません。
もう十分なのです!
「『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」
この御言葉の意味を説明するのは、少し難しいと感じます。神が「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であられることとの関連で語られています。
ということは、イエスさまの意図は、われわれの神は、アブラハム、イサク、ヤコブというあの旧約聖書の信仰の偉人たちのように神の前で信仰をもって生きている、そのような人々の神である、ということでしょうか。
たしかにそのように考えるならば、いくらか理解できるようになるところがあります。つまり、「生きている者の神」とは、要するに「信仰者の神」である、ということです。
そもそも、復活ということそれ自体、また復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、死ぬこともないというのは、いずれもわたしたちにとっては「信じるべきこと」であり、信仰の次元の事柄です。
信仰は持ちたくないが、復活だけはしたいというのは、やや虫が良い話です。
神を信じる人だけが、復活を信じることができるのであり、復活の希望に生きることができるのです。
(2006年7月16日、松戸小金原教会主日礼拝)