以下は、20世紀のオランダ改革派教会の牧師・神学者、アーノルト・A. ファン・ルーラー[1908-1970]の言葉です。
(原文)
Zij is theologie en geen theosofie. Dit 'logische' is wel te onderscheiden van het 'sofische'. Het 'logische' is nuchter en diep. Het 'sofische' is wel diepzinnig, maar altijd ook enigermate zwoel.
(A. A. van Ruler, Theologisch werk deel 1, p. 40.)
(試訳)
「それは神学(テオロヒー)であって、神智学(テオソフィー)ではない。“ロゴス的なもの”(論理性)は“ソフィア的なもの”(知性)から区別される。“論理性”は非陶酔的であり、かつ深い。“知性”もまた深遠ではある。しかしそれは、いつもどこかしら鬱陶しいものである。」
(ファン・ルーラー『神学著作集』第一巻、40ページ)
わたしがとくに度肝を抜かれたのは、最後の言葉です。'sofische' is...altijd ook enigermate zwoel.「ソフィア的なものは、どこかしらウザい」(!)。
けだし名言、と思いました。
ファン・ルーラーがいかに「神学的ソフィスト(詭弁家)たち」の存在を唾棄すべきものと考えていたかを垣間見る思いです。
われわれは、ソフィストの集まりにならないよう、お互いに自戒したいものです。
神学は「教会の学」であり、われわれが仕えるべきは「教会」です。この点でファン・ルーラーは、カール・バルトと完全に一致しています。
上記の名言が記されているのと同じ論文の中で、ファン・ルーラーは次のように書いています。
(原文)
Het (=presbyteriaal-synodale systeem) verhindert de vakmatige theologie, te overheersen in de regering en zo in het leven van de kerk. De theologie van de dienaren van het Woord wordt in evenwicht gehouden en binnen haar grenzen gewezen door de (pneumatische) menselijkheid van de ouderlingen en de diakenen. Dit evenwicht van theologische reflectie en praktijk van de vroomheid is een typisch moment in het werk van de Heilige Geest.
(A. A. van Ruler, ibid., p. 10.)
(試訳)
「長老主義は、“専門家の神学”(vakmatige theologie)というものが教会政治を支配し、それゆえまた、そういうものが教会生活〔または「教会の生命」〕を支配してしまうことを阻止するのである。“御言葉に仕える者たちの神学”(theologie van de dienaren van het Woord)は、長老と執事の(霊的)人間性によってバランスが保たれ、節度を守るのである。神学的考察と信仰的実践〔または「敬虔の修練」〕とのこのバランスこそが、聖霊のみわざの特徴なのである。」
(同上書、10ページ)
わたしは、つい最近まで、「教会の牧師の仕事」と「研究や翻訳などの仕事」は両立できない(時間的にも、肉体的にも、技術的にも)と感じていました。
そして、だからこそ、「神学の専門家」は必要であるし、われわれ牧師たちと彼らは分業すべきであると考えていました。
しかし、わたしは、上記のファン・ルーラーの言葉に接して、考えを変えることにしました。そして、今では以下のように確信しています。
(Q1)「神学の専門家」は、教会に仕えなくてよいか。
答えはノーです。
(Q2)(少なくとも毎日曜日に)教会に通わない「神学の専門家」などが、存在しえてよいか。
答えはノーです。
(Q3)教会の何らかの役職(教師、長老、執事、神学教師など)に就いていないため、教会の仕事において“忙しくない”ような「神学の専門家」などは、ありうるか。
答えはノーです。
(Q4)「教会的実践(イザコザ含む)に煩わされることなく、神学研究だけに没頭していてもよい人」は、存在しうるか。
答えはノーです。
(Q5)「教会的職務遂行」と「神学研究」の分業は可能か。
答えはノーです!