2006年4月23日日曜日
今持っているものを固く守れ
ヨハネの黙示録2・18~29
ティアティラ教会に書き送られたイエス・キリストの手紙にも、他の教会と同じように、ほめられるべき点と、責められるべき点との両方が、書かれています。
「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。」
これは、ほめられるべき点です。とくに注目したいのは、後半部分に書かれていることです。
「行い」とは、聖書の御言葉とキリスト教信仰とに基づく、キリスト教的な行いです。これが、最初のころよりも、近ごろのほうがまさっている、と言われているのですから、時間の流れの中で、変化があり、進歩があり、成長がある、ということです。
そういうことがある、ということを、わたしたちは否定すべきではありません。教会に何十年通いました。信仰生活を何十年続けてきました。そういう場合に、わたしたちは、行いの面でも、なんらかの変化があり、進歩があり、成長もあると、信じることができるのです。
とはいえ、しかし、そのことがわたしたちに起こるのは、自動的なことであるのか、というと、そういうふうには言えません。教会に何十年も通い、信仰生活を何十年も続ける、ということの中で、わたしたちが体験することは、教会の中には必ずある「訓練」という要素です。
礼拝に出席するということだけでも、そこには必ず、訓練という要素があります。洗礼を受けたばかり、まだ数年しか経っていないという人にとって、礼拝は、一回一回が新鮮な感動に満ちあふれているものかもしれません。
ところが、それがだんだんマンネリ化してくる。退屈に思えてくる。だからこそ、マンネリ化との戦いというテーマが、わたしたちの信仰生活にとっての重要な課題にもなってくるわけです。
40年、50年の信仰生活を送ってきた人は、一体、何回の礼拝、何回の説教を聴いてきたのでしょうか。1年に52回の日曜日があるとして、それをたとえば50年間続けるとどうなるか。52回×50年=2600回の礼拝が行われ、その回数だけの説教を、聴いてきたことになるでしょう。
また、教会の中には、牧師・説教者がしょっちゅう替わる教会もあれば、40年とか50年間という長さで、たった一人の牧師が、そこで説教をしてきたという教会もあります。みなさんは、一人の牧師の説教を2600回聴くことができますでしょうか。とても耐えられないと思う方も多いのではないでしょうか。もしかしたら、そのようなひどい目に遭うのは、その牧師のおくさんかもしれません。
そう考えますと、いわばただ礼拝に出席するだけで、他の特別な奉仕は何もしていない、という人であっても、50年くらい礼拝生活を続けてくること自体において、十分な訓練を受けてきたことになるし、うんざりするほどの過酷な修行を積んできたことになるのです。
説教を聴くことを軽んじるなかれ。人の話を聴く訓練は、実際に体験したことがある人なら誰でも、それがとても大変なものであるということを理解していただけるでしょう。
そしてそのような教会的な訓練の中で、わたしたちの行いが変化し、進歩し、成長するということが、必ず起こる、と信じてよいのです。しかしまた、そのわたしたちの変化が起こるのは、いわば教会で「訓練」を受けたからである、ということも事実として認めるべきでしょう。
「わたしは、教会で洗礼を受けました。しかし、それ以降はほとんど教会には通っていませんし、礼拝にも出席していません。説教も聴いていないし、聖書も学んだことがありません」という人であっても、「洗礼を受けている」だけで、行いの変化が起こるだろうか。そのような「自動的な変化」が起こるかどうか。全くありえないとは言えないかもしれませんが、非常に難しいことであると語ることは許されるだろうと思います。
わたしが強調したいことは、わたしたちが信仰的に成長していくためには、教会の活動に参加することが必要である、ということだけです。場合によっては、長老や執事、日曜学校の教師といった責任ある立場に就くことも、わたしたちが信仰的に飛躍的に成長していくために、必要な道であるとも言えるでしょう。
ティアティラ教会に所属している人々にも、行いの成長ということが、実際に起こった。このことは、ほめられるべき点です。
ところが、です。ティアティラ教会には、責められるべき点もあった、ということが、次に記されています。
「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。」
このイゼベルという女性が何者なのか、ということについては、ここに書かれていることしか分かりません。自称「預言者」であり、みだらな行いや偶像礼拝を自ら行い、また教会員たちにも勧める。教会員を惑わし、ごまかし、ペテンにかける。
そういう人の存在を、ティアティラ教会の人々は「大目に見ている」。これが、責められるべき点です。
「大目に見る」とは、見て見ぬ振りをすること、あるいは、それが発覚しても、お咎めなしとする、ということでしょう。
もちろん、そんなことが頻繁にあってはならないことですが、わたしたち日本キリスト改革派教会の場合は、たとえば、教師や長老、あるいは教会員の中に、みだらな行いをしているということが明確になった場合には「戒規」という訓練を受けていただくことになります。そのことを皆さんは、よくご存じです。
とはいえ、もちろん、そこに「大目に見る」ということが全くないかというと、そんなことはありえません。わたしたちは、可能な限り大目に見るのです。こんなに許してよいのかと思うくらいに、あほじゃないのかと批判されるくらいに、どこまでも許し続けるのです。
しかし、です。そこには限度があることも知るべきです。ただし、それはわたしたちの堪忍袋の緒が切れる、ということではありません。戒規の目的は、その人が不適切な行為、みだらな行いを続けるのをやめさせること、そして自分の罪を認めさせ、悔い改めさせることにあるのです。
大目に見ることに限度がある、というのは、わたしたちの忍耐と寛容に限度がある、という意味ではありません。その人が自ら行うみだらな行いによって、自分自身の身に裁きと滅びを招いている、ということを知らしめることが、わたしたちの責任であるゆえに、いつか必ずその人に向かって、主の御言葉に基づく罪の宣告を語らざるをえない、という意味です。
「見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい目に遭わせよう。」
ここで、わたしたちがつい、裁きの内容の激しさに目を奪われて、読み落としてしまいがちなのは、「その行いを悔い改めないなら」という条件です。これは執行猶予つきの裁きです。
神は、とことんまで、忍耐と寛容を示してくださいます。わたしたち人間が悔い改めるのを待っていてくださいます。罪を犯したものを打ち殺すという、ただこの面だけを見てはならないのです。
そしてまた、わたしたちにとって大切なことは、そのような、みだらな行いを勧めたり、偶像礼拝のようなことを教えたりする偽預言者、偽教師のような人の後について行ってはならない、ということです。
同じ罪と言っても、「教師」を名乗る人が犯す罪と、そうでない人が犯す罪とでは、重さが違います。教師の犯す罪のほうが重いのです。
それはまた、「教師」を自称しているだけで中身は偽物である、という人であっても、その人の語る言葉や行いが持っている影響力は、大きいのです。だからこそ、その人の言葉や行いが犯す罪は、大きいのです。
もちろん実際には、「教師」を名乗る人の語る言葉や行いに、教師でない人々が逆らうことには、勇気が必要ですし、困難が伴います。
しかし、もしそれが必要なときには、わたしたちは、その勇気を持たなければならないのです。
「ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」
この「今持っているもの」とは、正しいキリスト教信仰のことであり、また正しい信仰に基づく正しい行いのことです。
それを守ることが大切です。保守的であることのすべてが、恥ずかしいことではありません。
信仰生活のマンネリ化は、改善されていくべきですが、目新しいが間違っているというような教えに走ってよいわけではありません。目新しさや斬新さには、同時に危険が伴うことも事実です。
わたしたちは、惑わされてはならないのです。
(2006年4月23日、松戸小金原教会主日夕拝)
2006年4月16日日曜日
信仰は試練によって本物と証明される
ペトロの手紙一1・3~9
イースターおめでとうございます。今日は、わたしたちの救い主、イエス・キリストが死者の中から復活されたことを記念する、復活日の礼拝です。
わたしたちキリスト教の教会、全世界の教会は、二千年の間、イエス・キリストの復活を信じてきました。これがわたしたちの信仰であり、希望です。
使徒パウロは、もしキリストが復活しなかったのだとしたら、わたしたちキリスト教の教会が宣べ伝えていることは無駄であるし、キリスト教の信仰も無駄であると、はっきり言っています(一コリント15・14)。
要するに、教会などやめちゃったほうがいいし、毎週日曜日の礼拝に通う必要はない。牧師や教会役員(長老・執事)の存在も、教会の建物も無意味である。パウロの言おうとしていることは、これくらい激しいことです。
もちろん、それは、もしイエスさまが、キリストが復活しなかったとしたら、という話です。しかし、パウロが本当に言いたいのは、正反対のことです。
イエス・キリストは復活されたのです。これは本当のことなのです。そのことを、声を大にして言いたい。命をかけて言いたい。実際にパウロは、このイエス・キリストの復活を宣べ伝えることのために命をかけ、まさにそのために命を捨てた人です。
先ほどお読みしましたのは、使徒ペトロの手紙です。ペトロもまた、イエス・キリストの復活を、心から信じ、声を大にして宣べ伝えた人の一人です。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」
ここでペトロは、わたしたちの主イエス・キリストの父である神」が「死者の中からのイエス・キリストの復活」によって、わたしたちに、「生き生きとした希望」を与えてくださった、と書いています。
もう少し短く言えば、神がイエス・キリストの復活によってわたしたちに希望を与えてくださった、ということです。つまり、イエス・キリストの復活は、わたしたちの希望である、ということです。キリストの復活は希望である、ということです。
なぜ、キリストの復活が希望なのでしょうか。少し説明が必要かもしれません。イエスさまというお方は、イエスさまに反対する人々の手によって殺されたのです。そのあたりから話を始めなくてはなりません。
今でもそういう人はたくさんいますが、イエスさまの時代にも、自分に都合の悪いことを言ったりしたりする相手がいると、簡単に殺す人がいます。「死人に口なし」と言います。要するに、自分にとって都合が悪いことを言う人を殺して口封じをするのです。「臭いものに蓋」は、少し意味が違うかもしれません。しかし、ひとの口に蓋をしようとする人が、世の中には、たくさんいるのです。
しかし、これは他人事でしょうか。わたしたちも、同じようなことを考えることはないでしょうか。わたしの心の中には罪があります。また、人の目に見えないところで、実際に悪いことをしてしまうことがあるのです。
しかしまた、少し言い訳がましい言葉になるかもしれませんが、わたしたちが心の中で他人に対して悪意や殺意を抱くことと、たとえば、影響力の大きな人々、たとえば一国の王とか大統領とか総理大臣とかその他の政治家とか、学校の教師とか、大きな会社の社長とか、あるいは大きな宗教団体の宗教家とかが考えるのとで、全く同じとは言えないのではないか、という点は、考慮しなければならないはずです。
自分の都合の悪いことを言ったりしたりする人を、殺したいとか死んでほしいと願う。このことを、たとえば、一国の王が願い、自由自在に実際にその相手を殺すことができる時代。格好をつけるつもりはありませんが、わたし自身は、その種の権力を手に入れたいと願う人の気持ちが、全く理解できません。
権力を持っている人、そのような立場に就いている人には、他の人々よりも大きな責任があるのです。その人々の抱く悪意や殺意は、その国全体、ひいてはその時代全体を暗くします。イエスさまが十字架に架けられて殺された時代とは、まさにそのような暗い時代、悪い時代だったのです。
しかし、使徒ペトロは、イエス・キリストの復活はわたしたちの希望である、と語っています。ペトロの時代は、イエスさまと同じ時代です。暗い時代であり、悪い時代です。その中でペトロは、「生き生きとした希望」を語ります。希望など、どこにもない。ただ絶望するほかないような時代の只中で、イエス・キリストの復活を信じる信仰に基づく希望を語っているのです。
なぜキリストの復活が希望なのか、という問いに対する答えは、まだ申し上げておりません。答えはこれからです。考えていただきたい問題は、死人に口なし、臭いものには蓋、面倒な奴は殺してしまえ、このようなことが横行していた時代に、イエスさまが死者の中から復活された、ということは、何を意味するのか、ということです。
ごく分かりやすく言います。イエスさまの復活によって明らかになったことは、イエスさまの父なる神さまというお方は、だれか人間が口封じしようとした相手の口をお開きになるお方であり、「臭いものが入っているから」という理由で、だれかがふさいだ蓋を取り去られるお方である、ということです。
別の言い方をすれば、権力や暴力によってイエス・キリストの口を封じること、イエス・キリストがお語りになる神の御言葉を封じることはだれにもできなかったということです。
これは、わたしたちにとって喜ぶべきことであると、思っていただきたいところです。ごく一般的なところから言えば、言論の自由、表現の自由、結社の自由、そして信教の自由などに通じる事柄でもあります。
もちろん、イエス・キリストの復活によって明らかになったことは、そのような、いわゆる基本的人権の問題だけに限られるものではありません。いわばもっと広いこと、もっと大きなことです。
何を信じてもよいという自由が保障されているということも大事です。しかし、もっと大事なことは、真実とは何かという問いを抱くこと、そしてその問いに答えが与えられることです。イエス・キリストがお語りになったのは、父なる神の御心であり、まさに真実の言葉です。
その言葉をイエスさまがお語りになることを、だれにも止めることができませんでした。口封じなどできませんでした。十字架に架けて殺しても、三日目に蘇って、御言葉を語り続ける、それがイエス・キリストというお方なのです。
イエス・キリストは復活して、今は天の父なる神さまのもとにおられ、二千年前の人々に神の御言葉をお語りになったように、今のわたしたちに対しても、聖霊なる神の働きを通して、聖書と教会を通して、生きた御言葉を、語り続けておられます。
わたしたちは、教会で、聖書を通して、過去の歴史の記録を勉強しているだけではありません。教会の礼拝は、世界史の授業ではありません。
わたしたちがしていることは、今生きておられるイエス・キリストの御言葉を、聖書を通して、わたしたち一人一人の心の中で聴きとることです。イエスさまの御心を悟り、わたしたちが今の時代を、現実の世界を、日常の生活を、どのように生きるべきかを考え、決定することです。
ですから、逆に言えば、使徒パウロが語った、もしキリストが復活しなかったとしたら、教会の宣教も信仰も無駄です、という言葉は、とても乱暴ではあると思いますが、しかし、なるほど正しいと言いうるものであることが分かります。
イエスさまが二千年前に復活され、今も生きておられるからこそ、わたしたちは、教会や礼拝には意味があると信じることができるし、また、わたしたちが信じているこの信仰には意味がある、と確信することができるのです。
わたしたちにとって「生き生きとした希望」とは、まさに、イエス・キリストが今、生きた言葉をわたしたちに語ってくださるという信仰から生まれるものなのです。
「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
今日の説教の題名は、今お読みしました個所の中の「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明される」という御言葉から、採らせていただきました。
「試練」とは、日本語としても、宗教的な意味合いが強いようです。広辞苑には「信仰または決心のかたさをこころみためすこと。また、そのための苦難」と定義されています。
ですから、試練を受けるとは、信仰が試されることです。このわたしの信仰は、本物であるかどうかが、そこでまさに試されるのです。試験を受けるわけです。そしてその試験の結果として、このわたしの信仰の確かさ、正しさが、まさに証明される。「あなたの信仰は本物です」という保証書、神さまからのお墨付きをいただくことができるのです。
苦しみや悩みがあると信じることをやめる。その信仰は本物でしょうか。それは本物ではない、偽物であると、すぐに言い切ってしまうことは、やめましょう。
苦しみや悩みがあるとき、つらいときは、本当につらいのです。今、現実の苦しみに押しつぶされそうになり、信仰を失いかけている人に向かって、「あなたには信仰が足りない」とか「あなたの信仰は偽物だ」と言い放つことによって、つらい人の心をさらに傷つけ、追い討ちをかけるようなことは、やめましょう。
しかし、です。全くの愚問かもしれませんが、どうか腹を立てずに聴いていただきたいと願うことがあります。
それは、わたしたちに現実の苦しみや悩みがあるときに、同時に信じることもやめてしまうならば、果たして、その先、わたしたちは、みなさんは、どうやって生きていくのでしょうか、という問いです。
だれかが助けてくれるでしょうか。神さまとか宗教は信じない。わたしは人間を信じる。お母さんやお父さんを信じる。隣のおばちゃんを信じる。テレビの司会者を信じる。有名な人が書いた本を信じる。それで十分に間に合っていますというのでしたら、それはそれで、わたしは尊重します。
しかし、その上であえて問いたいことは、その人々は本当にわたしたちを最後まで助けてくれるでしょうか、ということです。
わたしたちの救い主なる神イエス・キリストを信じることは、少なくともわたし自身にとっては、苦しみや悩みがあるから信じない、ということとは、逆の道筋、正反対の方向性においてしか、とらえることができないものです。
苦しいから信じるのです。もちろん、苦しくなくたって信じてよいわけですが。しかし、わたしたちは、悩みがあるから信じるのです。苦しいときの神頼みで、大いに結構です。
これで神さまが助けてくださらなかったら本当の絶望です。イエス・キリストが復活されなかったとしたら、絶望です。
これは、格好をつけているのでも何でもない、わたしたちにとって、本当の真実の言葉です。
(2006年4月16日、松戸小金原教会主日礼拝)
2006年4月9日日曜日
「十字架の上で救われた人―受難週―」
ルカによる福音書23・39~43
今日開いていただきました個所の登場人物は、三人です。まんなかにイエスさま、その右側と左側に一人ずついます。三人とも十字架の上です。絶望的な状況であると言うべきでしょう。
ところが、です。やや不謹慎であるとは思いますが、わたしは、この個所を読むたびに、面白いと感じます。三人が十字架の上で大いに語り合っています。もちろん状況は、ものすごく深刻なものですので、面白がっている場合ではないかもしれません。
しかし、どういうことでしょうか、おだやかで、なごやかな雰囲気に満ちている会話が交わされています。
たとえどんなに絶望的な状況であっても、イエスさまが共におられる時と場所においては、このような穏やかさ、和やかさが生まれるのです。そのように信じてよいのです。
イエスさまの隣の十字架にかけられていた二人のうちの一人が、イエスさまをあざ笑いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。
この言葉は、もちろん、この人自身が本当にそう考えたので、自分の考えどおりのことを言ったのであると理解することも可能でしょう。しかし、もう一つ考えられることは、この人が語っている言葉は、はじめから自分ひとりで考えた末に至った結論、というようなものではないかもしれない、ということです。
そのように考えることができる一つの根拠があります。それは、この人が言っているのとほとんど同じ言葉を、この直前に二回、しかも、それぞれ別の人々が言っていたということが、はっきりと記されているからです。
まず、ユダヤの最高法院の議員たちがイエスさまをあざ笑いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23・35)。
次に、ユダヤに駐留していたローマ帝国の兵隊もイエスさまをあざ笑いました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23・36)。
この文脈から明らかなことは、議員も言う、兵隊も言う、その言葉をおそらく他の多くの人々が聞いているわけですが、十字架にかけられたこの犯罪人も聞いていたに違いない、ということです。
そして、その言葉に、この犯罪人もまた深く共感している、という第一の可能性がある。あるいは、第二の可能性として、あの議員たちや兵隊たちが言っていることを、おうむがえし、受け売りしているようでもある、ということです。
他の人が言っているから、わたしも言いたくなった。他の人が言っているから、わたしも言ってもよい。この人はそのように考えた可能性があります。うんと批判的な言い方を許していただけば、この人には主体性がありません。自分の頭で深く物を考えていません。他人の意見や周りの雰囲気に流されやすい傾向がある、と言えるでしょう。
みんなと一緒になって、同じ言葉を、イエスさまに向かって吐き出す。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
あなたって「救い主」なんでしょ。自分を救うこともできないのに、なんでそんなエラそうなことを言えるのですか。そのように、言いたいわけです。
ですから、この人がイエスさまに言いたいことは、本当に自分を救ってもらいたい、という意味ではおそらくなく、できないことを「できない」と認めなさい、と言いたいだけです。そのようにして、イエスさまの心に、なんとかしてダメージを与えたいだけです。
この人は、どうして、イエスさまに、できないことを「できない」と認めさせたいのでしょうか。それは、おそらく、彼自身がいろんなことに敗北してきた人だったからです。自分に負け、人生に負け、世間に負けたのです。
ところが、です。このわたしの目の前に、自分はすでに十字架の上に張りつけにされているにもかかわらず、この期に及んでも、何一つあきらめてないように見える人がいる。そのことが、許せなかったのです。
議員たちについても、兵士たちについても、同じことが言えるように思います。彼らは、イエスさまを「自分を救ってみろ」という言葉であざ笑いました。もちろん、自分を救うことはお前にはできないだろう、という意味です。十字架上のイエスさまの無力さを笑うためです。そして彼らも、イエスさまの口から一種の敗北宣言を聞きたかったのです。
彼らはなぜ、そのような言葉を聞きたいのか。彼らもまた、いろんなことに敗れてきた人々だったからでしょう。プライドだけは高いのですが、彼らには、人を助けることも、救うこともできなかったのです。
ところが、彼らの前に、十字架の上にあっても、何一つあきらめていないように見える存在が現われた。この人は敗れていない。そのことが許せなかったのです。
ところが、です。イエスさまの隣に十字架につけられていた二人の人の内のもう一方の人は明らかに違いました。この人も、犯罪人として十字架に架けられた人ではあります。しかし、この人は、十字架の上で自分の犯した罪を思い起こし、深く悔い改め、反省し、そしてその上でイエスさまを信じる信仰へと導かれ、自分が救われることを心から願ったのです。
もう一人の人との決定的な違いがある、と言えるでしょう。
「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」
ここに書いていることで明らかなことは、この人は今、自分が十字架にかけられていることは、「自分のやったことの当然の報い」であるという自覚があった、ということです。死罪に当たる罪を犯した、という自覚が、この人にはありました。
自分の罪を認め、反省すれば、その人の罪は、すっかり無くなってしまうのかというと、おそらくそうではありません。被害を受けた人の心や体の傷、あるいは生活上の損害は、永久に残り続けるものです。
しかし、です。「牧師さん、それは甘いよ」と言われてしまうかもしれませんが、しかし、です。いろいろなケースを考えてみても、犯罪の被害にあった人々や、その家族の人々にとって、加害者に対して最も強く求めることは、何よりも自分の罪を認めて反省することです。それだけであると言ってもよいほどです。
賠償請求とかなんとかも、お金が欲しいわけではないと考えている人が多いのです。加害者に求めることは、ただひたすら、自分の罪を認め、反省すること、ただそれだけである。そのように、多くの人は、願うのです。
イエスさまの隣にいたもう一人の犯罪人は、「自分の罪を認め、反省していた」という点については、クリアしていた、ということを、わたしたちは、今日の個所から、確認することができるでしょう。
そして、もう一つの点として、この人は「自分の罪を認め、反省した」上で、イエス・キリストを信じる信仰へと導かれたということを、確認することができます。
第一に、この人は、イエス・キリストは「何も悪いことをしていない」ゆえに、十字架にかけられるべきではないお方である、ということを、はっきりと明言しました。
そのことを、この人は、いわば十字架の上に至って、自分の死の直前になって、初めて認識したのです。もちろん、この人を「世界で最初のキリスト者」と呼ぶのは言いすぎだと思います。しかし、この人は、十字架の下にいるだれ一人として認めなかった「イエスさまは無罪である」という事実を、最初に認め、公に告白したのです。
「この方は、何も悪いことをしていない」と、彼は言いました。「悪いこと」とは、もう少し原文に即して言い直しますと、「不適切なこと」とか「見苦しいこと」とか「無作法なこと」というようになります。それは「罪」よりも広い意味です。
「罪」とは、第一義的には、法を破ることです。しかし、法を破るまでには至っていないが、きわめて不適切なこと、というのが存在します。それは罪よりも広い意味です。
ですから、ここで彼が言っていることも、イエスさまは、「罪」を犯されなかったというばかりか、もっと広い意味での「不適切なこと」さえも、なさらなかった、という意味で、理解してよいだろうと思われます。
第二に、この人は、十字架の上で、イエスさまに対し、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。
謙遜な願いである、と言ってよいでしょう。この願いには、少なくとも次の二つの意味が込められていると思います。
一つは、イエスさま、あなたは神の国においでになる、という確信です。
そして、もう一つは、わたし自身はあまりにも罪深いので神の国に入ることはできそうもない。しかし、そんなわたしでも、イエスさまに覚えていただくだけで満足である、ということでしょう。
わたしたちが、自分は間違いなく天国に入ることができます、という確信を持つことが間違っているわけではありません。わたしは、そのことをはっきりと申し上げておきます。わたしたちが、そのことについて、どうして確信を持ってはいけないのでしょうか。
このようにわたしが申し上げることには、一つの理由があります。わたしがこれまでの牧師生活の中で出会ってきた人々の中に、「わたしは天国に入ることができますという確信を持つことは傲慢である」という考えを持っている人々がいたからです。
わたしは、それは間違いであると考えております。天国の確信を持つことは、間違いではありません。わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのですから、信仰を持っているすべての人々には、天国に入れていただけることについての確信を持つことが許されています。
確信を持つことが許されているのに、持たないこと、持とうとしないことのほうが、間違いなのです。
しかし、です。「わたしを思い出してください」としか語ることができなかったこの人の気持ちも、まさに痛いほど分かります。
この人は、イエスさまの前で自分の罪を悔い改め、かつ反省し、自分の犯した罪の重さを知れば知るほど、「イエスさま、わたしを天国に連れて行ってください」と語ることは、できなかったのです。わたしには、その資格がないと、心底感じられたのです。
悔い改めとは、ひょっとしたら、そのようなものかもしれません。つまり、それは、「自分は天国にふさわしくない人間であると自覚すること」です。
これは、先ほど申し上げた「わたしは天国に行くことができると確信すること」とは、矛盾するかもしれません。しかし、この矛盾を同時に語ることが、信仰の奥義というべきものではないかと思います。
「すると、イエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」
このイエスさまの御言葉は、十字架の上で、真の救い主イエス・キリストとの出会いを果たし、自分の罪を悔い改め、反省した人にとって十分な慰めになったに違いありません。
「楽園」とは、天国のことであり、神の国のことです。そこには、イエス・キリストがおられます。イエスさまが共にいてくださる。そこが天国であり、神の国であり、楽園なのです。
十字架の上で悔い改めて救われた人がいる。この事実がわたしたちに教えていることは、わたしたちの信仰と悔い改めに「遅い」ということはない、ということです。
今、ここで、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる人は、救われるのです!
(2006年4月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
2006年4月6日木曜日
ユダは自分の福音書の中では「裏切り者」ではない
以下は、本日わたしのもとにオランダから配信されたメールニュース(2006年4月6日付)の記事の拙訳です。「ユダによる福音書」公開のニュースです。
情報源はオランダでは伝統ある改革派系のキリスト教新聞Trouwのメールニュースです。Trouwは、かつてはG. C. ベルカウワーなどの連載記事を売りにしていたこともあります。以下の記事は、ウェブ上でも公開されています。
http://www.trouw.nl/deverdieping/religie_filosofie/article273317.ece/
2006年4月6日(木) Trouw掲載記事
ユダは自分の福音書の中では「裏切り者」ではない
ローデヴェイク・ドロス 文/関口 康 訳
太古に書かれた『ユダによる福音書』は、聖書に記されているような裏切り者とは異なるユダの姿を描いている。さらにこの文書は、最初期のキリスト教会の様子を紹介している。
本日(2006年4月6日)、米国ワシントンにて『ユダによる福音書』が初公開される。研究者ハンス・ファン・オールト(Hans van Oort)氏は、この発見の偉大な意義について、本紙インタビューの中で初めて口を開いた。ファン・オールト氏は、ネイメーヘン〔カトリック〕大学の教父ならびにグノーシス主義研究室の教授である。同氏は、このテキストを研究してきた少数者の中の一人である。
ファン・オールト氏によると、新約聖書では「イエスを裏切った人物」であるこの弟子は、ユダによる福音書では「イエスを最もよく理解していた人物」として登場する。ユダは、自分の福音書の中では、他の使徒たちよりも優れた者であり、まさに「スター」として登場する。
コプト語写本は1700年前に書かれたものであるが、それはさらに紀元180年以前に書かれたに違いないギリシア語原典にさかのぼる。当時 『ユダによる福音書』は教父エイレナイオスによって論駁された。その文書が1970年代に発見され、中央エジプトに譲渡されたが、長い間、非公開とされてきた。昨年、この文書を復元し、翻訳するためにスイス人が立ち上げた財団法人〔マエケナス財団〕が、この文書を購入した。その成果が、本日発表される運びになった。
ファン・オールト氏によると、『ユダによる福音書』はグノーシス主義のテキストである。グノーシス主義とは正統派のキリスト教会との戦いに敗北した古代キリスト教の一潮流である。グノーシスとは「直観的認識」のことであり、それによって信者を救う洞察を得ることである。この文書は、グノーシス主義についての知識を(ニューエイジの思想家たちに)提供するだけではなく、最初期のキリスト教会の様子を物語るものである。原始キリスト教会は、改宗したユダヤ人たちによって構成されていた。
「ユダ写本(Judas-codex)の発見の歴史はダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』よりも素晴らしい。なぜなら、これは正真正銘の事実(echt gebeurd)だからである」と教授は語る。ファン・オールト氏によると、この写本の発見から30年が経過し、公開を妨害してきた人々のおそらく半分は、いなくなった。公開を妨害してきた人々とは、「〔公開するならば〕殺すぞと脅迫する者、密輸業者、写本のすべてあるいは一部を強奪しようとする者、パピルスを単に倉庫にしまっているだけの売買業者」などのことである。ファン・オールト氏は、失われたテキストが将来、さらに発見されることを期待している。
(拙訳者コメント)
当然のことながら、わたしたちは聖書学や教父学、さらにグノーシス主義研究にも関心を持つべきです。それらの研究に関心を持つからと言って、教義学を捨てることや、グノーシス主義者になることを、ただちに意味するわけではありません。
ファン・ルーラーは、第一義的には「改革派教義学者」でしたが、ユトレヒト大学では旧約聖書学の講義を担当したこともあり、その成果である『キリスト教会と旧約聖書』は、自らドイツ語で執筆したものですが、国際的に非常に高い評価を得ることができ、英語版まで出版されました。ファン・ルーラーのヘブライ語やギリシア語の知識は抜群でした。教義学を志す人々に聖書学を避けて通る道はありません。
また、ファン・ルーラーの「グノーシス主義批判」はわれわれの中では周知の事柄ですが、逆に言えば、「グノーシス主義」とは何かを徹底的に知らなければ、ファン・ルーラーが何を批判しようとしていたかが分からないということにもなります。その意味で「グノーシス主義研究」は、わたしたちファン・ルーラー研究者にとっての不可避的課題と言えるかもしれません。
それに何よりも、原始キリスト教会には新約聖書に収められている四つの福音書以外にもたくさんの「福音書」が存在したというのは今や常識であり、別にどうってこともない話です。『トマスによる福音書』であれ、『ユダによる福音書』であれ、『ダ・ヴィンチ・コード』であれ、笑いながら読めばいいし、読まなくてもよい。ただそれだけのことです。ミイラ取りがミイラには、なりません。
なお、本日の『ユダによる福音書』の公開に関しては、以下の記事があるようです。
http://cjcskj.exblog.jp/3073105/
2006年4月2日日曜日
「気を落とさずに祈りなさい」
ルカによる福音書18・1~14
二つの段落を続けて読みましたが、今日お話しできるのは最初の段落だけです。しかし、二つの段落を読んだことには理由があります。共通しているテーマがあることに気づかされたからです。それは「祈り」です。二つの段落の共通のテーマは「祈り」です。
最初の段落に記されているのは、イエスさまが、「気を落とさずに祈らなければならないことを教えるために」、弟子たちに向かって語られた、たとえ話です。「祈らなければならない」と、ここに「祈り」という言葉が、はっきり記されています。
次の段落に記されているのは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、イエスさまが語られたたとえ話ですが、このたとえ話の中に出てくるのが、傲慢な祈りをささげるファリサイ派の人と、謙遜な祈りをささげる徴税人です。ここにもはっきりと「祈り」というテーマがある、ということが分かります。
ただし、違いもあると思います。最初の段落のテーマは、一言でいえば、祈りの姿勢、あるいは、祈りの心構えは何か、ということです。
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」
じつをいいますと、わたしは「気を落とさずに祈る」というような言い方があまり好きではありません。「気を落とす」は否定的な表現です。それを「ずに」と言って、否定しています。要するに、二重否定の表現です。この二重否定の表現が、わたしは、あまり好きではないのです。
たとえば、わたしが皆さんの前で誰かのことを「あの人は悪い人ではありません」と言うとします。その場合、「悪い」が否定的な表現であり、それを否定して「悪い人ではない」というのですから、これも二重否定の表現です。明らかにどこか引っかかりがあります。もっとストレートに「あの人は良い人です」と語るほうがよいような気がします。
「気を落とさずに祈る」という言い方にも、わたしは、とても引っかかります。これは「あきらめないで祈る」とも訳すことができます。または「つまずかないで」とか「負けないで」とか「放り出さないで」とか「逃げ出さないで」とか「途中でやめないで」など、いろんな訳が考えられます。いずれにせよ、原文が二重否定の表現になっていますから、それが分かるように訳さなければなりません。
しかし、なぜもっとストレートで肯定的な言い方ができないものだろうか、と思われてなりません。「元気に祈るために」とか、「希望をもって祈るために」とか、「勇気をもって祈るために」とか。
わたしの仕事は教会の礼拝で説教をすることです。わたしは説教を準備しているとき、原稿の中から、二重否定の表現をできるだけ減らしたいと願っています。二重否定が多いと、話が回りくどくなるし、皮肉っぽくなるし、嫌みっぽくなります。全体の調子が暗くなります。
しかしまた、わたしは、このようなことを言いながら、実際にはしょっちゅう二重否定の表現を使っていますし、またそのような言葉を使わないかぎり、どうしても、今の自分の気持ちを正しく表現できそうもないと感じる場面があることを、知っているつもりです。ストレートになどどうして語れましょうかと、思わず叫びたくなるような場面が、わたしたちの現実の生活の中には、たくさんある。そのことも事実です。
祈りとは、なるほどたしかに、それをささげるたびに、そのようなことを、どうしても考えてしまうことの一つであると思います。実際には、祈りながら気を落としている、というようなことがありえます。「祈りなど、何度ささげても、いまだかつて、一度として、かなえられたことはない。だから、わたしは、もう二度と、神に祈りなどささげません」。そのように語る人々に、実際に出会います。
「祈ること」と「気を落とすこと」は、じつは、常に隣り合わせ、背中合わせの関係にあるのではないかと感じる場面に、わたしたち自身が、しばしば出会ってきたはずです。その気持ちを表す表現は、もしかしたら、二重否定しかないのかもしれません。
「『ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」』」
「神を畏れず」のほうも困ったことですが、「人を人とも思わない」裁判官とは、じつに厄介な存在です。「人を人とも思わない」とは、「人間に全く関心がない」とか「自分以外の誰かのことを配慮することなどありえない」というような意味です。そういう人に法の番人を任せることは、非常に危険なことであり、社会全体がメチャクチャになります。
しかし、そういう人であっても、やんややんやと、うるさく言えば、「うるさいから」という理由で、重い腰を上げてくれることがありうるでしょう、ということです。
「まして神は」と、イエスさまは、お語りになります。そのような裁判官と神さまとが比較になるのかということについては、若干疑問が残ります。イエスさまとしては、ごく分かりやすく言うと、こうなる、とおっしゃりたいのではないでしょうか。
しかしまた、このことを、少し別の次元から考えてみることもできるように思います。わたしが考えることは、祈りとイエス・キリストとの関係、また、祈りと教会との関係という次元です。
まず最初に、祈りとイエス・キリストとの関係ということで、わたしが考えることは、とくにイエスさまの地上の生涯の中でのことです。
人々の祈りがイエスさまに届き、イエスさまが病気をいやしてくださり、またいろいろと助けてくださる。その場合、考えなければならないことは、イエスさまはお一人である、ということです。
イエスさまは数多くの奇蹟を行われた方ですから、たとえば、緊急の場合には、ガリラヤ地方にいながらにして、サマリヤの人やエルサレムの人の病気をいやす、ということが、おできにならないかというと、そうではなかったかもしれません。しかし、通常の場合には、そのようなことは考えるべきではないと思います。目の前の人を、一人一人いやされる。直接、手を触れていやされる。イエスさまは、そういう方でした。
そのため、そこに発生するのは“順番待ち”という現象である、ということも、同時に御理解いただけると思います。
第二の、祈りと教会との関係という観点からも、同じようなことが言えると思います。別の言い方をすれば、わたしたちが教会で祈りをささげる意味は何か、ということです。わたしが一人で祈って、その祈りが神に聞かれましたということも、もちろんありますし、それも立派な祈りです。しかし、わたしたちは、いわばもう一つの祈り方として、教会の中で、みんなの前で、声を出して祈る、ということをいたします。
その場合、どうなるのでしょうか。一人の人がささげている祈りの声を聞いているのは、教会のみんなです。祈りは、人に聞かせるためではなく、神さまに聞いていただくために、ささげるものではあります。しかし、その祈りを聞いている人々は、自分には関係ないことであると、無視してよいわけではありません。
そして、その祈りをささげる人々のために何かをしてあげなければならないと考えはじめるのも教会のみんなです。わたしたちは、ひとが神に祈っている言葉に常に耳を傾け、その人のために何か役に立つことができますようにと、自分自身でも祈り始めなければならないのです。祈りにはそういう次元があるのです。
たとえば、今、わたしたちは、オルガンと新しい印刷機が欲しいと願い、まもなく注文しようとしているところです。欲しいものは、他にもたくさんあります。しかし、わたしたちの願いがかなっていくのは、一つ一つです。
教会といっても、そこにいるのは、わたしたちです。限られた時間と空間の中に生きている人間です。わたしたちに一度にできることは限られています。体力の限界もあります。
先週の水曜礼拝でお話ししたことです。「神(かみ)を求めて、教会に来ると、もらえるものは紙(かみ)ばかり」。週報ボックスの中身は常に文書の山である。洪水のような紙が押し寄せてくる。これがわたしたちの現実である、と言いましたら、皆さんが笑いました。
神の御言葉を聴こうと思って教会に来ると、聴かされるのは牧師や長老のお話ばかり、というのも、わたしたちの現実です。それでがっかりした、と言われると、わたしたちががっかりします。
わたしたちが考えなければならないこと、取り組まなければならない仕事、解決しなければならない問題、欲しいものは、山ほどあります。全部を一度に考え、取り組み、解決し、手に入れることは、不可能です。
だからこそ、そこで矛盾や葛藤が起こります。みんなが自分の順番を待っています。「わたしの順番はまだか、早くしろ」と、不満がたまってきます。そして、そのような中で、あきらめてしまう人も出てくるのです。
しかし、どうか、そこであきらめないでほしい。「気を落とさずに」祈り続けてほしい。そのように、願います。
イエスさまが「人を人とも思わない裁判官」でもうるさく願えば言い分を聞いてくれるという(変な)たとえ話を持ち出しておられるのは、祈りには今わたしが申し上げたような次元がある、ということを知らせようとしておられるからではないかと思います。
(2006年4月2日、松戸小金原教会主日礼拝)
2006年3月26日日曜日
「神の国はあなたがたの間にある」
ルカによる福音書17・20~37
これは、どういう意味でしょうか。「神の国」とは、わたしたちがよく知っている言葉で言い換えるとすれば、天国のことです。神の国と天国は、同じ意味です。聖書の中にも「天国」という言葉が出てきます。それは、神の国のことです。
それでは、聖書はなぜ同じ意味の事柄について「神の国」と書いたり「天国」と書いたりしているのでしょうか。その理由は要するに昔のユダヤ人の考え方によるということができます。ユダヤ人たちにとって神さまはとても恐ろしくて近づきにくい存在でした。そのため彼らは、わたしたち人間は神の御名を直接口にしてはならないと考えるに至りました。人間が神の御名を直接口にすることはあまりにも恐れ多い行為であると考えたのです。
そのため、ユダヤ人たちは、「神」という言葉を表わすために、「神」というお名前以外の別の表現が必要になりました。その一つが「天」であった、ということです。
ですから、このことが当てはまるのは今日の個所だけではなく、聖書の中に出てくる「天」という言葉のほとんどに、今わたしが言ったことが当てはまるわけです。つまり、聖書の中に「天」という字が出てきたら、その多くの場合に、それは「神さま」という意味ではないかと、疑ってみる必要が、わたしたちにはある、ということです。
そうしますと、わたしたちが次に考えなければならないことが見えてきます。それは、すぐにお分かりいただけると思いますが、イエスさまが「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われているのは、「天国はあなたがたの間にあるのだ」と言われているのと、全く同じである、ということです。
驚いたり、疑問を感じたりする方がおられるかもしれません。「天国」は、わたしたちの世界の外側にある。あるいは、それはわたしたちの人生の向こう側にある、と考えてきた方々にとっては、「天国はあなたがたの間にあるのだ」というこのイエスさまの御言葉は、びっくりする教えであるし、素直に受け容れることはできない教えかもしれません。
しかし、わたしは、このイエスさまの御言葉を、ぜひとも皆さんに信じていただきたいし、受け容れていただきたいと心から願っております。なぜそのように願うのでしょうか。少し理屈っぽいかもしれませんが、わたしは次のように考えているからです。
もしわたしたちが「天国はあなたがたの間にあるのだ」というこのイエスさまの御言葉を信じ、受け容れることができるならば、そのとき、同時に起こることがある。それは、先ほどわたしが触れたことです。天国はこの世界の外側にある。あるいは、天国は人生の向こう側にあるというような考え方です。それがイエスさまの御言葉を受け容れた途端、ガラガラと音を立てて崩れ去る、ということが起こるのです。
天国が、わたしたちの世界の外側や、わたしたちの人生の向こう側にある、という教えは、逆に言えば、この世界にも、わたしの人生にも、天国、あるいは神の国と呼ぶことができる要素は、全くない、ということを意味している、とも言えるわけです。
天国の反対を地獄と呼ぶならば、わたしたちの世界とこの人生の間は「神の国=天国」はない。ということは、逆に言えば、今のすべては地獄である、ということです。
このように考える人々の多くは、自分自身の人生、今、ここに、この世界の中に生きていること自体が、嫌で嫌でたまりません。神さま、わたしは、もうこれ以上生きるのは、たくさんです。どうか神さま、このわたしを、あなたのおられる天国に一刻も早く連れて行ってください。このように願うのです。
イエスさまがこの御言葉を語られた場面をよく読んでみますと、これをイエスさまは、ファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」という質問に対するお答えとして語っておられるということが分かります。はっと気づくことがあります。それは、ファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」という質問も、裏を返せば、神の国はまだ来ていないということが話の大前提にある、ということです。ファリサイ派の質問は、今はまだ来ていない神の国は、いつになったら来るのか、という質問であると考えてよいでしょう。
もちろん、神の国は、まだ完全な仕方では、来ていないかもしれません。イエスさまの時代から、今日に至るまで、その状態は変わっていないというべきかもしれません。しかしまた、それは全く来ていない、神の国はどこにもない、断片すらない、と考えるのか、少しは来ている、わたしたちはこの地上で、神の国をある程度までは見ることができると考えるのかでは、大きな違いである、ということは、分かっていただけることでしょう。
この点で、イエスさまの教えははっきりしています。イエスさまの答えは、神の国は、すでに来ている、ということです。その意味は、わたしたちの人生、わたしたちの世界に神の国(=天国)と呼んでもよい部分がある、ということです。
難しい顔で「神の国とは何か」と論じることが神の国の実現ではありません。そんなことではなく、わたしたちは、自分の人生を喜び楽しんでよい、ということです。放蕩息子が帰って来たことを喜ぶ父親が開く祝宴でごちそうをたべてよいし、笑って歌って踊ってよいし、遊んでよい。わたしたちは、父なる神によって罪赦された者として、この地上の人生を、喜んで自由に生きてよいのです。まさにそれこそが「神の国はあなたがたの間にあるのだ」というイエスさまの御言葉の意味であると思われるのです。
ここでわたしたちは、このイエスさまの御言葉の意味をできるだけ正確に理解しておく必要があるように思います。とくに注目したいのは、「あなたがたの間」と言われている、この「間」の意味は何か、ということです。なぜなら、ここで「間」という日本語に訳すことが本当に適切かどうかについては、いろいろ考えてみなければならないと思われる面があるからです。別の言い方をすれば、「間」という日本語には独特の曖昧さがあり、なんとなく分かったような気にさせられてしまったり、反対に、よく分からないままごまかされてしまったりするようなところがあるからです。
たとえば、広辞苑で「間」という字の意味を調べてみますと、次のようないろんな意味があることが分かります。
(一)二つのものに挟まれた部分、物と物とにはさまれた空間・部分。
(二)時間のへだたり、絶え間。
(三)ここからあそこまで一続きの空間・時間。
(四)二つ(以上)のもののかかわりあい、結びつき。
(五)空間・時間上の範囲。
(六)・・・ゆえ、・・・から。
わたしは今日の個所のこの「間」という字を見て、最初に思い浮かべた意味は、広辞苑が第一に挙げている「二つのものに挟まれた部分」でした。
つまり、こういうことです。神の国はあなたとわたしに挟まれた部分にある。あるいは、“神の国さん”が、今日初めてわたしたちの教会の礼拝に出席してくださり、皆さんが座っておられるのと同じ椅子に、皆さんの隣の席に、○○さんと□□さんの間に、座っているのです。そして、礼拝の後、皆さんに「こんにちは。わたしは神の国と申します。よろしくお願いいたします」と挨拶をする。そういうイメージが、わたしの心に、最初に浮かびました。
しかし、初めからどうもしっくり来なかったことは事実です。「間」というと、どうしても、間に挟まれるという意味が思い浮かんできます。しかしそうなりますと、“神の国さん”は、わたしたちの仲間に加わり、入り込んできてはいるものの、まだ余所余所しいといいますか、わたしたちの間に挟まれて座っているだけ、ただそこにいる、というだけです。
しかし、イエスさまがおっしゃっていることは、明らかにもっと深い関係です。イエスさまは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と語っておられますが、その意味として考えられることは、まさに今申し上げたことと関係しています。“神の国さん”が、今日は出席したとか、今日は欠席であるというような話ではない、ということです。
もしそのような話であるとすれば、それは、いわばオプションとして付録しているパーツとしての神の国です。それは、わたしたちの人生の付録であり、おまけです。自分が都合の良いときに、いつでも装着したり、取り外したりすることが可能なものです。面倒になったら捨ててしまえばよい。人間で言えば、追い出してしまえばよい。パソコンで言えば、リセットボタンを押してしまえばよい。そういうふうな何かです。
しかし、わたしたちは、神の国というものを、まさか、そんなふうに考えることはできないはずです。「神の国はあなたがたの間にある」。この「間」という字の意味は、まさか、そういう意味ではないでしょう。イエスさまがそんなことをおっしゃるはずがないのです。
ですから、むしろ考えられることは、もっと深い関係です。広辞苑の「間」の定義でいえば四番目あたりに出てくる「二つ(以上)のもののかかわりあい、結びつき」というのに、強いて言えば最も近いものです。
そもそも「神の国」とは、神とわたしたち自身との関係を示す表現です。神御自身が王としてわたしたち自身を保ち、治め、支配してくださるということです。ですから何よりも第一に考えなければならないのは、神とわたしたちの関係です。
しかし、話はそこで終わりません。「神の国」とはすなわち“国”である、ということを忘れることができません。神とわたし一人だけの関係を、通常は“国”とは呼ばないわけです。そこにわたしだけが住んでいる“国”など妄想の世界です。そこには必ず、わたしの隣人の存在がある、ということを抜きにして「神の国」を語ることはできません。「神の国」という言葉には、必ず、わたしたちと神との関係と、わたしたちと隣人との関係が、同時に含まれているのです。
そうだとすれば、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」とい御言葉の意味は、そこからおのずから分かってくるでしょう。「間」とは要するに、切っても切れない関係のことです。神とわたしの間に、またわたしとあなたの間に、もはやどんなことがあっても切れることのない永遠の絆がつくられている。「間」とは、そのようなかかわり合い、結びつきの意味であると考えられるのです。
やってみるとよい、とは申しません。わたしはそのようなことを、皆さんに勧めたりはしません。しかし、わたしたちが、一度でも、神さまとの関係をやめてみるということをしたら、どうなるのかということを、想像してみることくらいはできるかもしれません。
わたし自身は、もはや、取り外し不可能である、と感じています。牧師の仕事のことではありません。牧師の仕事は、わたしたちは、いつか必ずやめなければなりません。70才になったら定年退職しなければなりません。これも一つの仕事ですから、いつでもやめる覚悟がなければ、できません。
そんなことではないです。わたしが申し上げたいことは、神さまとの関係をやめられるか、という問題です。神の国はまだ全く来ていないとか、そんなものはどこにもないとか、地上の世界はすべて地獄であるとか、神さまとの関係は、わたしたちが死んだ後、向こうの世界に行ったときに初めて開始されるものだ、というようなことを、わたしたち自身が考えることができるか、ということです。
わたしには、それはできません。みなさんも同じであると思います。もちろん、神さまとの関係を与えられているわたしたちの人生は、毎日天国であるとか、バラ色の人生とか、そういうことではありません。重荷を負い、負わされ、苦労があり、悩みがあり、痛みがあり、毎日のように涙を流しながら生きています。
しかし、たとえそうであっても、だからといって、ここは地獄であるわけではない、ということです。楽しいことも、よいこともあります。また、神さまの慰めと赦しと情熱的な愛の御言葉が、語られているのも、この地上の世界です。
神さまが、誰の声も届かない独りの世界にこもっているこのわたしの殻を、外側から壊してくださり、「おーい、生きてるか」と声をかけてくださる。その声を聞いた人は、はっと我に返り、「ここで生きてみよう」という勇気が与えられる。心に感謝と喜びがあふれてくる。
そこに神の国があります。わたしたちの人生が、神の国になるのです!
(2006年3月26日、松戸小金原教会主日礼拝)
信仰を捨てなかった ~ペルガモン教会へ~
ヨハネの黙示録2・12~17
天に挙げられたキリストは、ヨハネを通して、ペルガモン教会に対して、今お読みしましたような御言葉をお告げになりました。
ここで興味をそそられますのは、イエス・キリストが「両刃の剣をもつ方」と呼ばれていることです。「両刃の剣」とは、一方ではとても役に立つが、他方では危害を加えるものにもなりうるという意味で、危なかっしいものをたとえる表現です。その危なっかしいものを、イエス・キリストが持っておられる、と言われているのです。
なるほど、そうかもしれません。今日の個所でイエスさまは、ペルガモン教会に対し、まず最初におほめになり、そしてそのあと苦言を述べておられます。
このことは、じつは、これまでのエフェソ教会の場合やスミルナ教会の場合も、同じことが当てはまります。まず最初におほめになり、そしてそのあと苦言を述べておられます。
つまり、イエスさまは、ご自身の教会に対して、なんでもかんでも「いいよ、いいよ」と受け容れてくださるだけのお方ではない、ということです。イエスさまは、強く厳しい言葉で、問題を指摘し、罪を悔い改めることを迫るお方でもあるのです。
上げたり下げたり、という言い方もできるかもしれません。しかし、もう少し真面目に考えてみる必要がありそうです。実際問題として、このことは、じつは対人関係の基本でもあります。また同時に、神さまと人間との関係においても基本的なことです。
対人関係においても、相手を全く否定するとか、ただ一方的に攻撃するというところには、対話の関係は生まれません。話を聞いてくれるということが起こりません。そもそも関係というものが、全く始まりようがありません。あるいは、そこまで行かない場合でも、相手に対する批判や攻撃がやたらと多いとか、一つほめたと思えば百の苦言を述べる、というようなやり方では、始まった関係も終わってしまうことになるでしょう。
わたしがとりあえず申し上げたいことは、バランスの問題です。つまり、「ほめること」と「批判すること」の関係にはバランスが大切である、ということです。批判するだけでは、対話の関係が始まりません。対話の関係が始まらないところでは、相手に悔い改めを迫ることができません。要するに、聞く耳を持たない相手に何を言っても無駄なのです。
イエス・キリストにおける神と人間との関係にも、同じことが当てはまります。神は、イエス・キリストを通してわたしたちの罪を赦してくださり、そのようにして、わたしたちを愛し、わたしたちの存在を受け容れてくださいました。わたしたちの罪を全く赦してくださったのです。
しかし、です。それでは、イエスさまは、今のわたしたちを全く批判されないかと言いますと、そうではありません。わたしたちは、なお罪を犯し、神の栄光を汚し続けている存在です。批判を受けなければならない存在です。それゆえわたしたちは、イエス・キリストの御言葉に静かに耳を傾け、救いの恵みに感謝しつつ、自分の罪を悔い改めなければならないのです。
ところで、両刃の剣を持つイエス・キリストが、ペルガモン教会に対して、まず最初におほめになったことは、あなたがたは厳しい迫害のなかでも、イエス・キリストに対する信仰を捨てなかった、ということです。この点は、評価しうる、ということです。
ところが、あなたがたには問題もある。
「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像を献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。」
聖書の中でバラムとバラクについて言及されているのは、旧約聖書・民数記の22章以下です。しかし、その個所をわたしは何度か開いて読んでみるのですが、ここでイエスさまが「バラムの教え」として語っておられるようなことが、ずばり書かれている個所は見つかりません。
ですから、事情はよく分かりませんが、考えられることは、「バラムの教え」と称される何か特殊な内容の教説を持つ異端的宗教の影響がペルガモン教会に及んでいたのではないかということです。その教えの特徴は、偶像礼拝と性的乱れであった、ということが、ここに書かれています。
「ニコライ派」については、もう少し分かっていることがあります。これは、いわゆるグノーシス主義の一派です。グノーシス主義の思想的特徴は、霊的なものはきよいが、肉体的なものは汚らわしいとする、霊肉二元論です。そして、そこから、「肉体は、どのみち汚らわしいのだから、現世でわたしたちは、どんなに汚らわしいことをしても構わない」と考える人々もいた、といわれます。詭弁以外の何ものでもありません。
あなたがたペルガモン教会の一部の人々が、そのような偶像礼拝や性的な乱れ、そしてグノーシス主義的な霊肉二元論の詭弁の影響を受けている。しかし、それはいけないことであり、悔い改めなければならないことである、ということが、ここに書かれているわけです。
「さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。」
とも言われています。教会の異端化に対して最もお怒りになるのは、教会の頭なるイエス・キリスト御自身なのです。
「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。」
とあります。マンナとは、御承知のとおり、モーセ率いる出エジプトの民が、四十年間の荒れ野の旅の中で、主なる神さまから与えられた恵みの糧の名前です。それがどんなものであったかは、よく分かりません。ふわふわした綿のようなものだったと言われています。
ただし、ここで「隠されたマンナ」とは、もちろん比喩です。それが何かは分かりませんが、大切なことは、神からの贈り物である、ということです。信仰の戦いに勝利した人は、神から大いなる報いをいただくことができる、と言われているのです。
「また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」
とも書かれています。「白い小石」とは何でしょうか。有名な説は、二つくらいあるようです。
第一の説は、白い小石とは「魔よけのお守り」(アミュレット)のことである、というものです。この説を採る人々は、ヨハネ黙示録には異教的影響があると説明します。しかしそれは、あまり説得力がないと、思われます。
第二の説は、古代ギリシアで行われていたスポーツ競技(アゴノテーテス)の勝者への賞品として「花輪」と共に「白い小石」が送られたという故事に基づいているというものです。つまり、戦いの勝者への賞品としての「白い小石」です。
なお、そのスポーツ競技とオリンピックとの関係までは、まだ調べがついていませんが、アテネで4年に一度行われていたこと、出場選手がギリシア全土から選ばれたことなど、共通しているところがあるようです。
わたしたち松戸小金原教会や日本キリスト改革派教会が、現時点で異端的宗教の大きな影響を受けている、という事実はありません。しかし、広い視点から言えば、わが日本国全体が、わたしたちからすれば全くの異教社会であるということが言えるわけですから、その意味での異教的影響は、わたしたちにとっても無関係ではありえません。
しかし、そのなかで、わたしたちは、信仰の戦いを立派に戦い抜くべきです。その戦いに勝利した者たちには、神さまからの豊かな恵みと、勝者への賞品が与えられるのです。
(2006年3月26日、松戸小金原教会主日夕拝)
2006年3月19日日曜日
「あなたの信仰があなたを救った」
ルカによる福音書17・11~19
ルカによる福音書を調べていきますと、イエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」(ヘー・ピスティス・スー・セソーケン・セー)という言葉をお語りになっている個所が、今日開いていただいた個所を含めて、四個所もあることに気づかされます(7・50、8・48、17・19、18・42)。
繰り返されている言葉には強調があるということは、これまでにも何度か申し上げてきたことです。もしその原則がここにも当てはまるとするならば、そこから考えられることがあります。
それは、このルカによる福音書は、この「あなたの信仰があなたを救った」という言葉こそが、わたしたちの救い主イエス・キリストとはどういうお方であるのかということをはっきりと示しうる、「いかにもイエスさまらしい言葉」とでも表現すべき、イエスさまにおけるまさに一つの典型的で特徴的な言葉であるということを読者に教えようとしているのではないか、ということです。
「あなたの信仰があなたを救う」。イエス・キリストの教えの特徴がまさにここにあると、語ることができそうです。これこそが、いわばイエスさまご自身の確信であり、あるいはまたイエスさまご自身の神学である、ということです。それは、どういう信仰であり、神学であるか。それは、言ってみれば、「信仰による救いの神学」であり、もっと端的に言うならば「信仰の神学」である、ということです。
信仰とは、わたしたちにとっては、いつでも、神を信じることです。わたしたちは神を信じることによって、救われるのです。わたしたちが救われるために、わたしたち自身の信仰が、重大な意味を持つのです。
「イエスはエルサレムに上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」
イエスさまの旅の目的地がエルサレムである、ということが、ここにも記されています。ここにも、と言わなければならない理由は、ルカによる福音書の中の他のいくつかの個所にも、類する記述があるからです(9・51、13・22など)。
イエスさまは、なぜエルサレムに行かれなければならなかったのか。イエスさま御自身がはっきりと自覚しておられたことは、イエスさまはエルサレムで死ぬ、ということです。
エルサレムに行けば、律法学者、ファリサイ派、祭司長、長老たちがうじゃうじゃいる。その人々との戦いが必ず起こる。その戦いを経て、イエスさまは、エルサレムで十字架にかけられる。そして、三日目に、エルサレムでよみがえる。そのことをはっきりと自覚しておられました。
そのエルサレムに上る途中、イエスさまは「サマリアとガリラヤの間を通られた」と、記されています。単純に理解しようとすれば、旅のルートを記しているだけ、というふうに読めます。しかし、この個所にはいくつか別の読み方があります。たとえば、「サマリアとガリラヤを横切った」とも読めます。
とくに問題になることは、サマリアとガリラヤという地名の順番です。この順番で実際に進んでいきますと、イエスさまは、エルサレムの方角とは正反対の、北に向かって進んでいることになります。エルサレムに行くためには南下しなければなりません。
ですから、この個所の読み方として、イエスさまは、くねくね蛇行しながらエルサレムまでの旅を続けておられたとするか、あるいは、全く異なる発想を持つか、そのどちらかしかありません。後者の可能性として考えられることは、今日の個所に登場する主人公がサマリア人であるということと、この地名の順序が関係あるのではないか。もしかしたら、この二つの地名には何か象徴的な意味が隠されているのではないか、ということです。
「ガリラヤ」とは、イエスさまの伝道の最初の拠点であり、そこでイエスさまが多くの人を愛し、また多くの人から愛された、まさに最愛の地でした。「サマリア」の説明は、後でします。考えられる意味は、単なる旅行先のスケジュールなどではなく、イエスさまが「サマリアの人々」と「ガリラヤの人々」の両者に対する配慮や友好関係を保ちながら、エルサレムでの対決に臨まれた、というようなことではないか、ということです。
「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。」
「重い皮膚病」という訳語に変更される以前の新共同訳聖書をお持ちの方もおられると思います。わたしがいつも使っている聖書も、以前のものです。「らい病」と訳されていました。しかし、厳密な時代考証の結果、イエスさまの時代の皮膚病と、現代の「らい病」ないしハンセン氏病は異なるものであるという見解で一致しております。「らい病」という訳は、単純に誤訳です。その点をご注意いただきたいと願います。
ですから、この人々の病気の具体的な内容は必ずしも明確ではありません。重い皮膚病を患っている十人の人が「遠くの方に立ち止まったまま」、イエスさまに向かって「先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と大声で訴えたのです。
「遠くの方に立ち止まっていた」理由は、明らかです。要するに、いわゆる隔離扱いにされていたからです。その病気にかかっている人は、治るまで、かかっていない人に近づいてはなりませんでした。
しかもそれは、医学的・衛生学的な観点からの扱いというよりも、むしろ宗教的な観点からの扱いであったというべきです。いわゆる「ケガレ」の問題です。ケガレがウツるというような話です。そういうことを、わたしたちはもはや決して口にすべきではありません。それは差別です。
そして、ここでぜひ注目しておきたいことは、このとき、とにかく十人の人が、イエスさまに向かって「先生、わたしたちを憐れんでください」と大声で訴えたことです。
「先生」とは、ユダヤ教のラビのことです。つまり、宗教家のことです。ですから、ここに書かれていることは、病気の人が、宗教家に向かって「わたしたちを憐れんでください」と訴えた、ということです。なかには、もしかしたら、訴える先が違うのではないかと考える人がいるかもしれません。宗教家に頼ったところで病気は治らない。病気を治すためには病院に行かなくてはならない。
しかし、ここで考えておきたいことは、この人々の病気が「重い皮膚病」と呼ばれるほどのものであった、ということです。つまり、この人々は、もはや医者にも「治せない」とみなされ、見離され、社会的に隔離されることを余儀なくされる、そのように扱われていた人々である、ということです。
その人々が、イエスさまに憐れみを求める。宗教家であれば、だれでもよかったのか、それとも、イエスさまだから、そう言ったのかは分かりませんが、とにかくこの人々が、自分の救いを「宗教家」ないし「宗教」に求めたということは、事実であると思います。
「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』」
イエスさまは、この人々の病気をいやされました。イエスさまがこの人々に「祭司たちのところ」に行くようお命じになったのは、当時の祭司たちには、病気の人々を社会から隔離するか、それとも、社会へと復帰させるかの判断を行うという、とても重大な役割が与えられていたからです。
しかし、そのあとで一つの問題が起こりました。問題と呼ぶのは、やや大げさかもしれません。イエスさまに憐れみを求め、自分の病気をいやしていただいた人は十人いたはずでした。ところが、イエスさまのところに帰ってきて、大声で(神を)賛美して、イエスさまの足もとにひれ伏して、イエスさまに感謝したのは、一人だけだったというのです。
まさに「喉元過ぎれば熱さ忘るる」です。自分が苦しい、つらい、困っている、というときには、「神さま、先生さま、教会さま」と近づいてくる。ところが、その自分の問題が解決したとか、一山越えたとか、少し楽になったときには、「神さま、何それ?」と、言いはじめる。「今は忙しい。教会どころではありません」と言いはじめる。
興味深いことは、ここで紹介されている話は、そのような「喉元過ぎれば」の人が十人中九人もいた、ということです。九〇パーセントの人は、喉元過ぎれば“感謝”を忘れる人々であるということが紹介されているのです。
ですから、「わたしはひょっとしたらこの九人の中の一人ではないか」と考えてみるときに、「寄らば大樹の陰」とか言いながら、すっかり安心してよいのか、それとも、もう少し反省しなければならないのか。このあたりは微妙です。
しかし、問題は、このときイエスさま御自身は、どうだったかです。イエスさまのもとに帰って来て、神さまを賛美し、「イエスさま、ありがとうございました」と感謝を述べたこの一人の人の存在を、イエスさま御自身が心から喜んでくださった、ということだけは事実です。わたしたちが真似をするとしたら、どちらでしょうか。
しかも、その一人の人は「サマリア人」だった、ということが付け加えられています。ほかの九人については書かれていませんが、おそらくユダヤ人だった、ということです。先ほど後で説明しますと申し上げた「サマリア人」のことに触れておきます。サマリア人とユダヤ人は、要するに、とても険悪な関係であったことが知られています。激しい民族間の対立がありました。ユダヤ人からすれば、サマリア人は、全く明らかに差別の対象でした。その原因ないし理由については、詳しく述べる時間はありません。
しかし、ここではっきり言っておくべきことがあります。それは、イエスさまに自分の重い皮膚病をいやしていただいたサマリア人は、その病気そのものと、サマリア人であるという事実によって、ユダヤ人たちからまさに“二重の差別”を受け、“二重の苦しみ”を味わってきた人である、ということです。
そして、このサマリア人は、まさに二重の苦しみの中で、最後の最後の望みを抱いて、イエスさまに向かって遠くから「このわたしを、どうか憐れんでください」と叫んだわけです。そしてまた、この人は、自分を救ってくださったイエスさまに、感謝を言わずにはおれませんでした。イエスさまに救いを求めること、イエスさまに感謝をささげること、そうすることができた、というところに、彼の“信仰”があった、ということです。
ほかの九人たちも、病気に苦しみ、差別を受けてきたことには変わりなかったはずなのに、病気が治った途端に、イエスさまのことなど、どうでもよくなりました。残念ながら、この人々には、信仰がなかったのです。
「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」
「あなたの信仰があなたを救う」とは、どういうことでしょうか。わたしたちは、この問いと同時に、「信仰に生きる人と、信仰を持たない人は、全く同じでしょうか」と、自ら問うてみると、いくらか答えが見えてくるように思います。
信じる人だけが救われる。これは差別ではありません。わたしが信じるのです。わたしのために、わたしの代わりに誰かが信じてくれるわけではありません。信じるか信じないかは、ある意味で自分の決断次第であり、その意味での自己責任だからです。
困ったときに頼る存在が必要である。そこまでは、かなり多くの人に共通しているはずです。しかし、問題はその先です。問題が解決したあとも、わたしを救ってくださった方を信じ続けるか、それとも、自分の都合のよいときだけ、ひょいと助けを借りるか。
その違いによって、わたしたちの生き方は、大きく変わって来るでしょう。
(2006年3月19日、松戸小金原教会主日礼拝)
教会の生命としての礼拝
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
1、主題の背景
「教会の生命としての礼拝」という表現は、日本キリスト改革派教会の創立二〇周年記念宣言(1966年)に由来するものです。
「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう」。
二〇周年宣言が書かれた当時のわが教派の精神状況としてしばしば語られてきたことは、創立期の熱心や力の衰退ないし低迷ムード、ということです。
二〇周年宣言は、創立宣言(1946年)において明示されたわが教派の二つの主張と称される「有神論的人生観・世界観の確立」と「信仰告白・教会政治・善き生活を具備する教会の形成」の中の前者、すなわち、広く政治・社会・文化等の“一般的”な領域においてキリスト者としての判断や行動をサポートすることを旨とする「有神論的人生観・世界観の確立」の点に関する行き詰まり感を打開するために書かれました。とりわけ、創立期のわたしたちと深い関係にあったキリスト教主義学校・双恵学園の廃校が及ぼした影響は大きかったと言われます。
そのため、二〇周年宣言の眼目は、日本キリスト改革派教会の“再建”というべき事柄にあったと言えます。そしてその課題に仕えるためにこの宣言が最も強調した点が「教会の生命としての礼拝」ということでした。
つまり、その意味は教会(・教派)再建の鍵は礼拝の(再)活性化にこそある、ということです。それがわれわれの先輩たちの共通認識だったのです。
2、礼拝改革か、説教改革か
しかし、です。「教会の生命としての礼拝」ということは、わたしたちにとって自明のことであるのか、と言いますと、必ずしもそうは言えないという現実があるかもしれないことを、わたしは危惧しております。
といいますのは、わたしたちがこれまでに出会い、立ち会って来たいくつかの教会の中には、まるでわたしたちから力を奪うために存在しているのではないかと感じて絶句せざるをえなかった「礼拝」もありました、という感想をしばしば耳にするからです。
その種の批判は、牧師である者にとっては決して他人事ではなく、聞くたびに胸をえぐられるような痛みを覚えるものですが、真摯に耳を傾けなければならないものだと、強く自分に言い聞かせています。
もちろん、その種の批判にもいろいろな面があると思います。最も多く聞こえて来、かつ最も衝撃的要素が強い(要するに耳が痛い)のは、「牧師の説教が聞くに堪えない」という声です。
改革派教会の礼拝の特色は、よくも悪しくも「説教礼拝」です。「聖書講義」であるとさえ言われます。わたし自身はこの特色をわたしたちがすっかり捨て去ってしまうならば、それと同時に、改革派教会らしさを失うに等しいと考えております。
しかし、ここでこそ確認しておきたいことは、説教だけが礼拝のすべてであるわけではない、ということです。
その日の説教で慰めを得られなかった人が、オルガンの音色や聖書朗読や讃美歌を歌うことや長老の祈りで、あるいは聖餐式や最後の祝祷で(辛うじて)慰めを得たという話を聞くことがあります。それはそれで説教を担当する者としては身も細る思いで聞く他はありませんが、他方では、そのような観点もありうるのだ、と自分自身に言い聞かせるべきなのでしょう。なぜなら、礼拝は説教だけで成り立っているものではないからです。また教会は牧師と礼拝だけで成り立っているわけではないからです。
しかしまた、今申し上げたことと同時に、紛れもない事実として、教会の中心は礼拝にあり、礼拝の中心は説教にある、ということも認めざるをえません。説教の中心はもちろん三位一体の神にあるわけですが、同時に、その神を啓示し、証しする聖書が説教における中心的な場を占めるわけですから、聖書の解釈を行う牧師もまた、ある意味で教会全体において中心的な位置づけを持ちうるということは、否定できないことです。
ですから、その点から言うなら、わたしたちの人生に真の活力と勇気とをもたらすために教会の礼拝を改革する、ということのために、最も手っ取り早い方法は、説教者である牧師自身の不断の自己改革である、という面を否定できません。現実の教会と礼拝の中で牧師の存在が占める割合は相当大きいものです。牧師がよく準備した説教(その準備には、教会員の状況をよく知る、ということが含まれます)を語りはじめるとき、礼拝改革の九割は完了している、と言い切ってもよいのではないかと思うほどなのです。
説教はとにかく簡潔なものにする(どんなに長くても30分以内)とか、「初めての来会者が耳で聞くだけで理解できる」平易な内容にするとか、難解で専門的な用語は控えるとか、親と共に出席している子どもたちにも配慮する、などなど。
「礼拝改革などは全く必要ない。牧師が自分の説教を改革しさえすれば、教会内部にうずまく問題や不満のほとんどは、解決するに違いない」という声を、わたし自身、知らずにいるわけではありません。
しかし、「どうぞ、牧師が自分で反省してください」、「はい反省します」と言えば、この発題は終わるでしょうか。繰り返しになりますが、教会は礼拝だけで立っているわけでなく、礼拝は牧師だけで立っているわけではないのです。無牧の期間のほうが、牧師がいるときよりも、はるかに成長する教会があるという(ぞっとする)話もあるくらいです。教会員あっての教会であり、出席者あっての礼拝である、という面が、今さらながら強調されて然るべきでしょう。
3、礼拝の構成要素の改革
ところで今日、皆さんにぜひお伺いしたいことは、皆さんは今の礼拝のあり方に満足しておられますでしょうか、ということです。改革すべき点は、ないでしょうか。
ただし、先ほどから申し上げていることの趣旨は、牧師と説教の問題はとりあえず外して考えていただきたいということです。今日お考えいただきたいのは、礼拝を構成する「説教」以外の要素に関することです。
礼拝の構成要素や並び順などを総称して、リタージと呼びます。儀式を意味するセレモニーと内容的に重なりますが、一応区別されます。わたしが問うているのは、松戸小金原教会のリタージは、満足できるものでしょうか、ということです。
現在のリタージは、以下のとおりです。
前奏
招きの言葉
◇罪と信仰の告白をしよう
讃詠
罪の告白と赦しの宣言
賛美
信仰告白 ハイデルベルク信仰問答
◇感謝と導きのための祈り
牧会祈祷
賛美
(洗礼式、転入式、加入式などはここに入る)
◇みことばの礼拝
聖書朗読
説教
賛美
(聖餐式はここに入る)
◇主の恵みに感謝しよう
献金
主の祈り
◇派遣します
頌栄
祝祷
報告
礼拝を改革する、ということがありうるとすれば、リタージの内容を変更する、ということに尽きると言ってよいでしょう。リタージの内容変更とは要するに、新しい要素を加えること、今あるいくつかの要素を取り除くこと、式文の言葉を変更すること、並び順を変えること、などです。
(1)新しい要素を加えること
松戸小金原教会の礼拝委員会において(現在の礼拝には無いもののうち)新しい要素として加えるべきではないだろうかと、しばしば話題に上るものとしては、「十戒」と「使徒信条」、またリタージの最後に位置する「派遣奏」と「整列退場」があります。さらに、これは礼拝全体の構造改革が必要になるものですが、短い「子ども向け説教」を通常の説教の前に置くということなども提案されつつあります。
「十戒」は、もし加えるとすれば、罪の告白と赦しの宣言よりも“前”に置かれるべきです。このわたしは十戒に示された神の戒めに背くばかりの罪深い者であることを告白しつつ、それに対する赦しの宣言を受けとるところから、礼拝が始まるべきだからです。
「使徒信条」は、もし加えるとすれば、現在のハイデルベルク信仰問答の代わりに置かれるべきです。しかしハイデルベルク信仰問答ないしウェストミンスター小教理問答などを礼拝の中で告白することは、他の教団・教派において類例があまり見られないという意味でわが教派の特色になっています。そのこともあって、わたし個人は現在の方式を変えたくはありません。
「派遣奏」は、もし加えるならば、現在礼拝の最後に行っている「報告」の位置づけや時間の長さに深く関係しはじめます。できれば、報告を祝祷の前に置き、できるだけ簡潔に終わらせる必要があるでしょう。そして祝祷の後、派遣奏に合わせて出席者全員が整列して会堂を“立ち去る”のです。礼拝後の交わりは一階の集会室で行います。
「子ども向け説教」は、果たして本当にそのようなものが必要かどうかは、議論の余地があります。通常の(大人向けの?)説教自体を、子どもたちにも分かるくらいに平易に語るほうがよいのではないか、という考えもありうるからです。
子どもたちは、わたしたちの礼拝の重要な出席者です。「あの子らに説教など分からなくていい」とか「聞かなくてもいい」という扱いをすべきではありません。しかしまた、ここには微妙な要素もあるでしょう。子どもたちに礼拝出席と説教を聴くことを義務づけるならば、日曜学校の礼拝の存在意義は何かという問いも生まれるでしょう。
ところが、現在生じている問題は、日曜学校に出席した子どもが(大人の)礼拝にも出席し、結局朝9時から12時まで、場合によっては夕方まで、今どきの多忙で多感な子どもたちの時間を教会が完全に拘束してしまっている、ということです。“文武両道”ならぬ“信仰と学問の両立”を子どもたちに求めるならば、日曜学校の礼拝か(大人の)礼拝かのどちらかで、解放してあげるべきです。
(2)いくつかの要素を取り除くこと
わたし自身は、現在の松戸小金原教会のリタージから取り除くほうがよいと感じている要素は、現時点では、ありません。
(3)式文の言葉を変更すること
式文の言葉を変更することについては、今すぐできそうなことと、教派全体の動きと合わせるべきこととがあります。現在、日本キリスト改革派教会の中で礼拝の式文や賛美歌に関する事柄を扱っているのは、大会憲法委員会第三分科会です。新しい式文やわたしたちの教派独自の賛美歌を作るために、日夜努力している委員会です。
現在の式文で少し気になっているのは「罪の告白と赦しの宣言」です。書かれていることは間違っていないと思いますし、「赦しの宣言」には、重厚な権威を感じるばかりです。しかしまた、あの文章には、どこかしら「わたし牧師が、みなさんの罪を赦してあげます」というように響いてしまう要素があるような気がしてなりません。
大会憲法委員会第三分科会は、現時点ではまだ、これと言った決定的な文案を提出するまでには至っていませんが、その前段階として、新しい式文の試案をいくつか作成しています。その中に「罪の告白と赦しの宣言」についての新しい文章もあります。全体の調子はやわらかくなっており、また「わたし牧師が」ではなく「イエス・キリストにおいて神が」わたしたちの罪を赦してくださるという点が、明確になってきています。そういうものを試用してみることも今後検討していきたいと願っております。
(4)並び順を変えること
リタージの並び順を変えることについては、慎重であるべきです。本質的な問題である場合は少なく、単に目先を変えることに過ぎない場合が多く、それでいて、結構大きな問題に発展しかねません。
日本のある教会で、献金を説教よりも前に行うように変更したところがあります。その理由は、献金の金額が説教の“評価”になってはならないということだそうです。しかし、この理由は、わたしたちにとって納得行くものでしょうか。
礼拝改革の方向は、あくまでも「教会の生命」の(再)活性化に益するかどうか、ということに集中すべきです。
目先を変えれば何とかなる、という甘い考えは持つべきでなく、必要な場合は根本的な治療を施すべきであり、そうでなければ様子を見るという姿勢も必要でしょう。
(2006年3月19日、2006年度第1回教会勉強会発題、『まきば』第310号掲載)
2006年3月12日日曜日
「赦し、信仰、奉仕」
ルカによる福音書17・1~10
今日の聖書の個所に記されている事柄の要点は、三つあると言えます。第一に「罪の赦し」、第二に「信仰」、そして第三に「奉仕」です。
「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。』」
「つまずき」とは、要するに、わたしたちが罪を犯す場合、おそらくその前に、必ずといってよいほどに受ける誘惑のことです。
比較的よく知られている事実は、「つまずき」を意味するギリシア語スカンダロンが醜聞を意味するスキャンダルの語源であるということです。ですから、このイエスさまの御言葉を現代風に「スキャンダルは避けられない」と訳すことも全く不可能とは言えません。
スキャンダルが一つもないような生涯を送ることは不可能である。このわたしがいつかどこかで騒ぎの元になる。そのようなことが、わたしたちの人生にも避けがたく起こる。このようなことを、イエスさまはここで語っておられます。
しかし、ふと気付かされることがあります。このイエスさまの御言葉には、悪い意味での潔癖主義はないように感じるということです。
悪い意味での潔癖主義とは、「つまずきに満ちたこの世界の中には、わたしたちは一日も長くとどまり続けるべきではない」と考えてしまうことです。
あるいは、反対に「わたしたちをつまずかせるこの世界よ、無くなってしまえ」と願い、この世界を一刻も早く破壊すべきである、と考えてしまうことです。
どちらにしても、非常に危険な思想です。
イエスさまの場合は、そうではありません。つまずきは避けられません。罪への誘惑はこの世界の至るところに、まるで地雷のように散りばめられています。しかし、だからと言ってわたしたちはこの世界の中から飛び出すことはできませんし、してはなりません。あるいは、“この邪悪な世界”を破壊することもできませんし、してはなりません。
それでは、イエスさまは、どのように教えておられるのでしょうか。語弊や誤解をやや恐れつつ言わせていただけば、わたしたちが罪への誘惑といわば“うまく付き合いながら”、とにかく生きていくこと、この地上の人生を大胆かつ自由に生き抜いていくことを教えておられるのです。
「避けられない」とは“衝突を回避できない”ということですので、逆に言えばそこには“逃避しないで生きる”という意味が必ず含まれているはずです。そうであればこそ、イエスさまは、悔い改めた人の罪は赦されるべきである、と教えておられるのです。
この世界から逃避することもできない、しかし罪を赦してもらえないという人は、この世の中でただ絶望するしかありません。罪を赦してもらえない人生は、この世の地獄です。
自分の罪を認めて悔い改めるとは、「わたしは、誘惑に負けました。そのような弱い人間であり、愚かで惨めな存在です。そして、だからこそ、わたしには、神が必要であり、神の救いが必要であり、教会が必要であり、多くの人の助けが必要です」と認めることです。
そのように認め、悔い改めた人には「あなたの罪は赦された」と、何度でも(一日七回でも)神と教会の前で、公に宣言されるべきなのです。
罪への誘惑とうまく付き合う方法とは何でしょうか。うまく付き合うという意味は、誘惑に負けることではなく、むしろ勝つことです。誘惑との戦いは、相撲のようなものです。人生の土俵の上で罪に対してわたしたちがなすべきことは、かわし、いなし、あしらい、うっちゃり、相手を土俵の外に追い払うことです。
そのとき大切なことは、相手をよく見ることです。敵の正体を知ることです。あるいは、その罪に誘惑された結果、わたしたちはどうなっていくのかということを、うんと想像力を働かせて考え抜くことです。
「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がまし」という御言葉は、大変ショッキングなものです。しかし、いわばこれこそがわたしたちに求められる想像力です。
罪の始まりは、しばしばほんのささいなことです。一回の電話、たった一通のメールから何かが始まる。しかし、その後はまるで坂道を転げ落ちるように落ちていき、あっという間に最後のところまで行き着く。わたしたちは完全に破滅してしまうことがありえます。
そのようなことがありうる、ということを自覚していることが大切です。その自覚、自制、自省、自重、自戒が必要です。それらが無いところでは、わたしたちは際限なき罪の泥沼に陥り、最悪の結果にたどり着くことになるのです。
だからこそ、わたしたちに必要なことは、罪を犯したままで悔い改めない人の行き着く先はどこなのかということを、しっかりと目を開いて見、かつ想像力を働かせておくことです。そして、わたしたちは、そのような裁きを必ずなさる神を恐れるべきです。
今日の個所の第二段落のテーマは「信仰」です。
「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」
信仰は増えたり減ったりするものでしょうか。そのような描き方は、信仰というものをあまりにも物質的な、あるいは液体的な(?)何かでもあるような印象を与えかねません。おそらくそれは誤解です。信仰そのものは、物質でも液体でもありません。
もしかしたらの話ですが、使徒たちの願いないし問いかけに対してイエスさまが、必ずしもストレートに答えておられないように読めることの理由がそこにある、と考えることができるかもしれません。
まるで水をごくごく飲み込んでお腹を膨らませるように、まさに液体的な仕方で「信仰が増える」というようなことが起こるわけではない。「からし種一粒ほどの」とは、要するに「小さい」ということです。こと信仰に関して、物質的・物理的な大きさなどは問題にならない。小さくたって構わないじゃないかというようなことを、何かここでイエスさまがおっしゃろうとしているのではないかというふうに読むことは可能であると思われます。
しかしながら、それにもかかわらず、信仰は、なるほど、まるで液体であるかのように増えたり減ったりするものかもしれないということは、わたしたち自身の実感としては、言いうることのように思います。
なぜなら、わたしたちは、なるほど、「今のわたしは“信仰が減っている状態”である」というようなことを痛感することが、しばしばあるからです。
わたしたちが「信仰」という場合、それはいつでも必ず、神を信じることです。そして、その場合の「信仰」の意味は、おそらく、その多くの部分は「神に期待すること」です。神さまは、わたしの願いをかなえてくださるだろうという期待で、胸がいっぱいになっていることです。
しかしまた、その期待が明らかに減っている、あるいは、すっかり無くなってしまっているという場合がありうるというのが、わたしたちの偽らざるところの実感です。
「神さまになど、何度祈っても、何の応えもなければ、状況の好転も一切ありませんでした。だから、わたしはもう祈ることをやめます。教会も信仰も、そういうのは、まっぴらごめんです」と言いたくなるような心の中身や生活の状態、これこそが“信仰が減っている状態”であると言わなければならないものです。
しかしまた、その状態は、永久に続くものではないと、わたしは信じています。
信仰は減ることもあるが、また増えることもある、ということです。もう一度、いや、何度でも「信じてみよう」と思う気持ちが起こされる。神というお方がおられるならば、そのお方に委ねてみよう。その思いがあるかどうかで、事態が大きく変わってくるでしょう。
ここでイエスさまが語っておられることは、実際には非常に謎めいていますし、あまりにも現実離れしすぎている、というふうに読む人も少なくないでしょう。桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命じたら、実際にそうなるでしょうか。魔法杖をエイッと振ると物が空を飛び回るというのは、ハリーポッターの世界です。びっくり仰天です。
しかし、そのような心配は無用であると教えてくれる書物がありました。イングランド長老教会の神学者T. W. マンソン(1893年〜1958年。オックスフォード大学教授など歴任)が次のように述べました。
「このイエスの言葉は、キリスト者たちが魔法使いや手品師のようになることへと誘うものではない。ヘブライ人への手紙11章においてその栄誉が称えられている〔信仰によって生きた〕多くの英雄たちのようになることへと誘うのである。」
(I. H. Marshall, Luke, Eerdmans, p. 645より拙訳にて再引用。)
大切なことは、このイエスさまの御言葉において強調されているのは「信仰」であるということです。そして「信仰」とは、わたしたちの場合は、いつでも「神を信じること」です。つまり、強調点は「神」にあるのです。わたしたちがなすべきことは、神の全能の力を信じることであって、自分が体得した魔法の力を信じることではありません。教会は魔法学校ではありません。
今日の個所の第三段落のテーマは「奉仕」です。
「『あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、「すぐ来て食事の席に着きなさい」と言う者がいるだろうか。むしろ、「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。』」
最初に確認しておきたいことは、この話も一応、イエスさまが「使徒たち」(17・5)に向かって語られた言葉であると読むことができるという点です。「使徒」とは、教会の一つの職務の名前です。
そして、このことからわたしが申し上げたいことは、「使徒たち」に向かって語られたこの話(17・7〜10)は、“教会内の奉仕”との関連で読まれるべきである、ということだけです。もっと端的にいえば、ここで問題になっているのは“教会”であるということです。
そして、教会の中でわたしたち自身も実際に行なっている、さまざまな奉仕について、イエスさまがおっしゃっていることは、「しなければならないことをしただけです」と言うだけで、それ以上の何かを語らずに済ませるべきわざなのだ、ということです。
こういうふうに、イエスさまからはっきり言われると、なんとなく釈然としないと思われるかもしれません。もう少しくらいは誉めてくれてもいいのではないかとか、ちょっとくらいは威張らせてほしいとか。
しかし、わたしに証言しうることは、そういうふうに考える人は、実際の教会の中にはあまり多くない、ということです。
その理由として考えられる一つのことは、やや次元の違う話かもしれませんが、わたしたちが教会に来るとすぐに気付くことは、あまり口に出しては言いませんが、このわたしなどよりもはるかに大変で立派な働きをしてきたというような方々が、じつは、たくさんいる、ということです。
しかし、このこと自体も、じつはあまり問題ではありません。教会の中で最も大きな問題は、わたしたちは神さまの前にいるのだ、ということです。神さまは、まさにわたしたちなど足元にも及ばないほど偉大なお方なのです。教会の中で奉仕するわたしたちに求められるのは、謙遜な態度です。
イエスさまのお話は、ところどころ、非常に厳しい内容があります。しかしまた、心から納得できるものばかりです。
(2006年3月12日、松戸小金原教会主日礼拝)