2006年3月26日日曜日

信仰を捨てなかった ~ペルガモン教会へ~


ヨハネの黙示録2・12~17

天に挙げられたキリストは、ヨハネを通して、ペルガモン教会に対して、今お読みしましたような御言葉をお告げになりました。

ここで興味をそそられますのは、イエス・キリストが「両刃の剣をもつ方」と呼ばれていることです。「両刃の剣」とは、一方ではとても役に立つが、他方では危害を加えるものにもなりうるという意味で、危なかっしいものをたとえる表現です。その危なっかしいものを、イエス・キリストが持っておられる、と言われているのです。

なるほど、そうかもしれません。今日の個所でイエスさまは、ペルガモン教会に対し、まず最初におほめになり、そしてそのあと苦言を述べておられます。

このことは、じつは、これまでのエフェソ教会の場合やスミルナ教会の場合も、同じことが当てはまります。まず最初におほめになり、そしてそのあと苦言を述べておられます。

つまり、イエスさまは、ご自身の教会に対して、なんでもかんでも「いいよ、いいよ」と受け容れてくださるだけのお方ではない、ということです。イエスさまは、強く厳しい言葉で、問題を指摘し、罪を悔い改めることを迫るお方でもあるのです。

上げたり下げたり、という言い方もできるかもしれません。しかし、もう少し真面目に考えてみる必要がありそうです。実際問題として、このことは、じつは対人関係の基本でもあります。また同時に、神さまと人間との関係においても基本的なことです。

対人関係においても、相手を全く否定するとか、ただ一方的に攻撃するというところには、対話の関係は生まれません。話を聞いてくれるということが起こりません。そもそも関係というものが、全く始まりようがありません。あるいは、そこまで行かない場合でも、相手に対する批判や攻撃がやたらと多いとか、一つほめたと思えば百の苦言を述べる、というようなやり方では、始まった関係も終わってしまうことになるでしょう。

わたしがとりあえず申し上げたいことは、バランスの問題です。つまり、「ほめること」と「批判すること」の関係にはバランスが大切である、ということです。批判するだけでは、対話の関係が始まりません。対話の関係が始まらないところでは、相手に悔い改めを迫ることができません。要するに、聞く耳を持たない相手に何を言っても無駄なのです。

イエス・キリストにおける神と人間との関係にも、同じことが当てはまります。神は、イエス・キリストを通してわたしたちの罪を赦してくださり、そのようにして、わたしたちを愛し、わたしたちの存在を受け容れてくださいました。わたしたちの罪を全く赦してくださったのです。

しかし、です。それでは、イエスさまは、今のわたしたちを全く批判されないかと言いますと、そうではありません。わたしたちは、なお罪を犯し、神の栄光を汚し続けている存在です。批判を受けなければならない存在です。それゆえわたしたちは、イエス・キリストの御言葉に静かに耳を傾け、救いの恵みに感謝しつつ、自分の罪を悔い改めなければならないのです。

ところで、両刃の剣を持つイエス・キリストが、ペルガモン教会に対して、まず最初におほめになったことは、あなたがたは厳しい迫害のなかでも、イエス・キリストに対する信仰を捨てなかった、ということです。この点は、評価しうる、ということです。

ところが、あなたがたには問題もある。

「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像を献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。」

聖書の中でバラムとバラクについて言及されているのは、旧約聖書・民数記の22章以下です。しかし、その個所をわたしは何度か開いて読んでみるのですが、ここでイエスさまが「バラムの教え」として語っておられるようなことが、ずばり書かれている個所は見つかりません。

ですから、事情はよく分かりませんが、考えられることは、「バラムの教え」と称される何か特殊な内容の教説を持つ異端的宗教の影響がペルガモン教会に及んでいたのではないかということです。その教えの特徴は、偶像礼拝と性的乱れであった、ということが、ここに書かれています。

「ニコライ派」については、もう少し分かっていることがあります。これは、いわゆるグノーシス主義の一派です。グノーシス主義の思想的特徴は、霊的なものはきよいが、肉体的なものは汚らわしいとする、霊肉二元論です。そして、そこから、「肉体は、どのみち汚らわしいのだから、現世でわたしたちは、どんなに汚らわしいことをしても構わない」と考える人々もいた、といわれます。詭弁以外の何ものでもありません。

あなたがたペルガモン教会の一部の人々が、そのような偶像礼拝や性的な乱れ、そしてグノーシス主義的な霊肉二元論の詭弁の影響を受けている。しかし、それはいけないことであり、悔い改めなければならないことである、ということが、ここに書かれているわけです。

「さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。」

とも言われています。教会の異端化に対して最もお怒りになるのは、教会の頭なるイエス・キリスト御自身なのです。

「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。」

とあります。マンナとは、御承知のとおり、モーセ率いる出エジプトの民が、四十年間の荒れ野の旅の中で、主なる神さまから与えられた恵みの糧の名前です。それがどんなものであったかは、よく分かりません。ふわふわした綿のようなものだったと言われています。

ただし、ここで「隠されたマンナ」とは、もちろん比喩です。それが何かは分かりませんが、大切なことは、神からの贈り物である、ということです。信仰の戦いに勝利した人は、神から大いなる報いをいただくことができる、と言われているのです。

「また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」

とも書かれています。「白い小石」とは何でしょうか。有名な説は、二つくらいあるようです。

第一の説は、白い小石とは「魔よけのお守り」(アミュレット)のことである、というものです。この説を採る人々は、ヨハネ黙示録には異教的影響があると説明します。しかしそれは、あまり説得力がないと、思われます。

第二の説は、古代ギリシアで行われていたスポーツ競技(アゴノテーテス)の勝者への賞品として「花輪」と共に「白い小石」が送られたという故事に基づいているというものです。つまり、戦いの勝者への賞品としての「白い小石」です。

なお、そのスポーツ競技とオリンピックとの関係までは、まだ調べがついていませんが、アテネで4年に一度行われていたこと、出場選手がギリシア全土から選ばれたことなど、共通しているところがあるようです。

わたしたち松戸小金原教会や日本キリスト改革派教会が、現時点で異端的宗教の大きな影響を受けている、という事実はありません。しかし、広い視点から言えば、わが日本国全体が、わたしたちからすれば全くの異教社会であるということが言えるわけですから、その意味での異教的影響は、わたしたちにとっても無関係ではありえません。

しかし、そのなかで、わたしたちは、信仰の戦いを立派に戦い抜くべきです。その戦いに勝利した者たちには、神さまからの豊かな恵みと、勝者への賞品が与えられるのです。

(2006年3月26日、松戸小金原教会主日夕拝)