2006年3月12日日曜日

「赦し、信仰、奉仕」

ルカによる福音書17・1~10



今日の聖書の個所に記されている事柄の要点は、三つあると言えます。第一に「罪の赦し」、第二に「信仰」、そして第三に「奉仕」です。



「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。』」



「つまずき」とは、要するに、わたしたちが罪を犯す場合、おそらくその前に、必ずといってよいほどに受ける誘惑のことです。



比較的よく知られている事実は、「つまずき」を意味するギリシア語スカンダロンが醜聞を意味するスキャンダルの語源であるということです。ですから、このイエスさまの御言葉を現代風に「スキャンダルは避けられない」と訳すことも全く不可能とは言えません。



スキャンダルが一つもないような生涯を送ることは不可能である。このわたしがいつかどこかで騒ぎの元になる。そのようなことが、わたしたちの人生にも避けがたく起こる。このようなことを、イエスさまはここで語っておられます。



しかし、ふと気付かされることがあります。このイエスさまの御言葉には、悪い意味での潔癖主義はないように感じるということです。



悪い意味での潔癖主義とは、「つまずきに満ちたこの世界の中には、わたしたちは一日も長くとどまり続けるべきではない」と考えてしまうことです。



あるいは、反対に「わたしたちをつまずかせるこの世界よ、無くなってしまえ」と願い、この世界を一刻も早く破壊すべきである、と考えてしまうことです。



どちらにしても、非常に危険な思想です。



イエスさまの場合は、そうではありません。つまずきは避けられません。罪への誘惑はこの世界の至るところに、まるで地雷のように散りばめられています。しかし、だからと言ってわたしたちはこの世界の中から飛び出すことはできませんし、してはなりません。あるいは、“この邪悪な世界”を破壊することもできませんし、してはなりません。



それでは、イエスさまは、どのように教えておられるのでしょうか。語弊や誤解をやや恐れつつ言わせていただけば、わたしたちが罪への誘惑といわば“うまく付き合いながら”、とにかく生きていくこと、この地上の人生を大胆かつ自由に生き抜いていくことを教えておられるのです。



「避けられない」とは“衝突を回避できない”ということですので、逆に言えばそこには“逃避しないで生きる”という意味が必ず含まれているはずです。そうであればこそ、イエスさまは、悔い改めた人の罪は赦されるべきである、と教えておられるのです。



この世界から逃避することもできない、しかし罪を赦してもらえないという人は、この世の中でただ絶望するしかありません。罪を赦してもらえない人生は、この世の地獄です。



自分の罪を認めて悔い改めるとは、「わたしは、誘惑に負けました。そのような弱い人間であり、愚かで惨めな存在です。そして、だからこそ、わたしには、神が必要であり、神の救いが必要であり、教会が必要であり、多くの人の助けが必要です」と認めることです。



そのように認め、悔い改めた人には「あなたの罪は赦された」と、何度でも(一日七回でも)神と教会の前で、公に宣言されるべきなのです。



罪への誘惑とうまく付き合う方法とは何でしょうか。うまく付き合うという意味は、誘惑に負けることではなく、むしろ勝つことです。誘惑との戦いは、相撲のようなものです。人生の土俵の上で罪に対してわたしたちがなすべきことは、かわし、いなし、あしらい、うっちゃり、相手を土俵の外に追い払うことです。



そのとき大切なことは、相手をよく見ることです。敵の正体を知ることです。あるいは、その罪に誘惑された結果、わたしたちはどうなっていくのかということを、うんと想像力を働かせて考え抜くことです。



「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がまし」という御言葉は、大変ショッキングなものです。しかし、いわばこれこそがわたしたちに求められる想像力です。



罪の始まりは、しばしばほんのささいなことです。一回の電話、たった一通のメールから何かが始まる。しかし、その後はまるで坂道を転げ落ちるように落ちていき、あっという間に最後のところまで行き着く。わたしたちは完全に破滅してしまうことがありえます。



そのようなことがありうる、ということを自覚していることが大切です。その自覚、自制、自省、自重、自戒が必要です。それらが無いところでは、わたしたちは際限なき罪の泥沼に陥り、最悪の結果にたどり着くことになるのです。



だからこそ、わたしたちに必要なことは、罪を犯したままで悔い改めない人の行き着く先はどこなのかということを、しっかりと目を開いて見、かつ想像力を働かせておくことです。そして、わたしたちは、そのような裁きを必ずなさる神を恐れるべきです。



今日の個所の第二段落のテーマは「信仰」です。



「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」



信仰は増えたり減ったりするものでしょうか。そのような描き方は、信仰というものをあまりにも物質的な、あるいは液体的な(?)何かでもあるような印象を与えかねません。おそらくそれは誤解です。信仰そのものは、物質でも液体でもありません。



もしかしたらの話ですが、使徒たちの願いないし問いかけに対してイエスさまが、必ずしもストレートに答えておられないように読めることの理由がそこにある、と考えることができるかもしれません。



まるで水をごくごく飲み込んでお腹を膨らませるように、まさに液体的な仕方で「信仰が増える」というようなことが起こるわけではない。「からし種一粒ほどの」とは、要するに「小さい」ということです。こと信仰に関して、物質的・物理的な大きさなどは問題にならない。小さくたって構わないじゃないかというようなことを、何かここでイエスさまがおっしゃろうとしているのではないかというふうに読むことは可能であると思われます。



しかしながら、それにもかかわらず、信仰は、なるほど、まるで液体であるかのように増えたり減ったりするものかもしれないということは、わたしたち自身の実感としては、言いうることのように思います。



なぜなら、わたしたちは、なるほど、「今のわたしは“信仰が減っている状態”である」というようなことを痛感することが、しばしばあるからです。



わたしたちが「信仰」という場合、それはいつでも必ず、神を信じることです。そして、その場合の「信仰」の意味は、おそらく、その多くの部分は「神に期待すること」です。神さまは、わたしの願いをかなえてくださるだろうという期待で、胸がいっぱいになっていることです。



しかしまた、その期待が明らかに減っている、あるいは、すっかり無くなってしまっているという場合がありうるというのが、わたしたちの偽らざるところの実感です。



「神さまになど、何度祈っても、何の応えもなければ、状況の好転も一切ありませんでした。だから、わたしはもう祈ることをやめます。教会も信仰も、そういうのは、まっぴらごめんです」と言いたくなるような心の中身や生活の状態、これこそが“信仰が減っている状態”であると言わなければならないものです。



しかしまた、その状態は、永久に続くものではないと、わたしは信じています。



信仰は減ることもあるが、また増えることもある、ということです。もう一度、いや、何度でも「信じてみよう」と思う気持ちが起こされる。神というお方がおられるならば、そのお方に委ねてみよう。その思いがあるかどうかで、事態が大きく変わってくるでしょう。



ここでイエスさまが語っておられることは、実際には非常に謎めいていますし、あまりにも現実離れしすぎている、というふうに読む人も少なくないでしょう。桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命じたら、実際にそうなるでしょうか。魔法杖をエイッと振ると物が空を飛び回るというのは、ハリーポッターの世界です。びっくり仰天です。



しかし、そのような心配は無用であると教えてくれる書物がありました。イングランド長老教会の神学者T. W. マンソン(1893年〜1958年。オックスフォード大学教授など歴任)が次のように述べました。



「このイエスの言葉は、キリスト者たちが魔法使いや手品師のようになることへと誘うものではない。ヘブライ人への手紙11章においてその栄誉が称えられている〔信仰によって生きた〕多くの英雄たちのようになることへと誘うのである。」
(I. H. Marshall, Luke, Eerdmans, p. 645より拙訳にて再引用。)



大切なことは、このイエスさまの御言葉において強調されているのは「信仰」であるということです。そして「信仰」とは、わたしたちの場合は、いつでも「神を信じること」です。つまり、強調点は「神」にあるのです。わたしたちがなすべきことは、神の全能の力を信じることであって、自分が体得した魔法の力を信じることではありません。教会は魔法学校ではありません。



今日の個所の第三段落のテーマは「奉仕」です。



「『あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、「すぐ来て食事の席に着きなさい」と言う者がいるだろうか。むしろ、「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。』」



最初に確認しておきたいことは、この話も一応、イエスさまが「使徒たち」(17・5)に向かって語られた言葉であると読むことができるという点です。「使徒」とは、教会の一つの職務の名前です。



そして、このことからわたしが申し上げたいことは、「使徒たち」に向かって語られたこの話(17・7〜10)は、“教会内の奉仕”との関連で読まれるべきである、ということだけです。もっと端的にいえば、ここで問題になっているのは“教会”であるということです。



そして、教会の中でわたしたち自身も実際に行なっている、さまざまな奉仕について、イエスさまがおっしゃっていることは、「しなければならないことをしただけです」と言うだけで、それ以上の何かを語らずに済ませるべきわざなのだ、ということです。



こういうふうに、イエスさまからはっきり言われると、なんとなく釈然としないと思われるかもしれません。もう少しくらいは誉めてくれてもいいのではないかとか、ちょっとくらいは威張らせてほしいとか。



しかし、わたしに証言しうることは、そういうふうに考える人は、実際の教会の中にはあまり多くない、ということです。



その理由として考えられる一つのことは、やや次元の違う話かもしれませんが、わたしたちが教会に来るとすぐに気付くことは、あまり口に出しては言いませんが、このわたしなどよりもはるかに大変で立派な働きをしてきたというような方々が、じつは、たくさんいる、ということです。



しかし、このこと自体も、じつはあまり問題ではありません。教会の中で最も大きな問題は、わたしたちは神さまの前にいるのだ、ということです。神さまは、まさにわたしたちなど足元にも及ばないほど偉大なお方なのです。教会の中で奉仕するわたしたちに求められるのは、謙遜な態度です。



イエスさまのお話は、ところどころ、非常に厳しい内容があります。しかしまた、心から納得できるものばかりです。



(2006年3月12日、松戸小金原教会主日礼拝)