2006年4月2日日曜日

「気を落とさずに祈りなさい」

ルカによる福音書18・1~14



二つの段落を続けて読みましたが、今日お話しできるのは最初の段落だけです。しかし、二つの段落を読んだことには理由があります。共通しているテーマがあることに気づかされたからです。それは「祈り」です。二つの段落の共通のテーマは「祈り」です。



最初の段落に記されているのは、イエスさまが、「気を落とさずに祈らなければならないことを教えるために」、弟子たちに向かって語られた、たとえ話です。「祈らなければならない」と、ここに「祈り」という言葉が、はっきり記されています。



次の段落に記されているのは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、イエスさまが語られたたとえ話ですが、このたとえ話の中に出てくるのが、傲慢な祈りをささげるファリサイ派の人と、謙遜な祈りをささげる徴税人です。ここにもはっきりと「祈り」というテーマがある、ということが分かります。



ただし、違いもあると思います。最初の段落のテーマは、一言でいえば、祈りの姿勢、あるいは、祈りの心構えは何か、ということです。



「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」



じつをいいますと、わたしは「気を落とさずに祈る」というような言い方があまり好きではありません。「気を落とす」は否定的な表現です。それを「ずに」と言って、否定しています。要するに、二重否定の表現です。この二重否定の表現が、わたしは、あまり好きではないのです。



たとえば、わたしが皆さんの前で誰かのことを「あの人は悪い人ではありません」と言うとします。その場合、「悪い」が否定的な表現であり、それを否定して「悪い人ではない」というのですから、これも二重否定の表現です。明らかにどこか引っかかりがあります。もっとストレートに「あの人は良い人です」と語るほうがよいような気がします。



「気を落とさずに祈る」という言い方にも、わたしは、とても引っかかります。これは「あきらめないで祈る」とも訳すことができます。または「つまずかないで」とか「負けないで」とか「放り出さないで」とか「逃げ出さないで」とか「途中でやめないで」など、いろんな訳が考えられます。いずれにせよ、原文が二重否定の表現になっていますから、それが分かるように訳さなければなりません。



しかし、なぜもっとストレートで肯定的な言い方ができないものだろうか、と思われてなりません。「元気に祈るために」とか、「希望をもって祈るために」とか、「勇気をもって祈るために」とか。



わたしの仕事は教会の礼拝で説教をすることです。わたしは説教を準備しているとき、原稿の中から、二重否定の表現をできるだけ減らしたいと願っています。二重否定が多いと、話が回りくどくなるし、皮肉っぽくなるし、嫌みっぽくなります。全体の調子が暗くなります。



しかしまた、わたしは、このようなことを言いながら、実際にはしょっちゅう二重否定の表現を使っていますし、またそのような言葉を使わないかぎり、どうしても、今の自分の気持ちを正しく表現できそうもないと感じる場面があることを、知っているつもりです。ストレートになどどうして語れましょうかと、思わず叫びたくなるような場面が、わたしたちの現実の生活の中には、たくさんある。そのことも事実です。



祈りとは、なるほどたしかに、それをささげるたびに、そのようなことを、どうしても考えてしまうことの一つであると思います。実際には、祈りながら気を落としている、というようなことがありえます。「祈りなど、何度ささげても、いまだかつて、一度として、かなえられたことはない。だから、わたしは、もう二度と、神に祈りなどささげません」。そのように語る人々に、実際に出会います。



「祈ること」と「気を落とすこと」は、じつは、常に隣り合わせ、背中合わせの関係にあるのではないかと感じる場面に、わたしたち自身が、しばしば出会ってきたはずです。その気持ちを表す表現は、もしかしたら、二重否定しかないのかもしれません。



「『ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」』」



「神を畏れず」のほうも困ったことですが、「人を人とも思わない」裁判官とは、じつに厄介な存在です。「人を人とも思わない」とは、「人間に全く関心がない」とか「自分以外の誰かのことを配慮することなどありえない」というような意味です。そういう人に法の番人を任せることは、非常に危険なことであり、社会全体がメチャクチャになります。



しかし、そういう人であっても、やんややんやと、うるさく言えば、「うるさいから」という理由で、重い腰を上げてくれることがありうるでしょう、ということです。



「まして神は」と、イエスさまは、お語りになります。そのような裁判官と神さまとが比較になるのかということについては、若干疑問が残ります。イエスさまとしては、ごく分かりやすく言うと、こうなる、とおっしゃりたいのではないでしょうか。



しかしまた、このことを、少し別の次元から考えてみることもできるように思います。わたしが考えることは、祈りとイエス・キリストとの関係、また、祈りと教会との関係という次元です。



まず最初に、祈りとイエス・キリストとの関係ということで、わたしが考えることは、とくにイエスさまの地上の生涯の中でのことです。



人々の祈りがイエスさまに届き、イエスさまが病気をいやしてくださり、またいろいろと助けてくださる。その場合、考えなければならないことは、イエスさまはお一人である、ということです。



イエスさまは数多くの奇蹟を行われた方ですから、たとえば、緊急の場合には、ガリラヤ地方にいながらにして、サマリヤの人やエルサレムの人の病気をいやす、ということが、おできにならないかというと、そうではなかったかもしれません。しかし、通常の場合には、そのようなことは考えるべきではないと思います。目の前の人を、一人一人いやされる。直接、手を触れていやされる。イエスさまは、そういう方でした。



そのため、そこに発生するのは“順番待ち”という現象である、ということも、同時に御理解いただけると思います。



第二の、祈りと教会との関係という観点からも、同じようなことが言えると思います。別の言い方をすれば、わたしたちが教会で祈りをささげる意味は何か、ということです。わたしが一人で祈って、その祈りが神に聞かれましたということも、もちろんありますし、それも立派な祈りです。しかし、わたしたちは、いわばもう一つの祈り方として、教会の中で、みんなの前で、声を出して祈る、ということをいたします。



その場合、どうなるのでしょうか。一人の人がささげている祈りの声を聞いているのは、教会のみんなです。祈りは、人に聞かせるためではなく、神さまに聞いていただくために、ささげるものではあります。しかし、その祈りを聞いている人々は、自分には関係ないことであると、無視してよいわけではありません。



そして、その祈りをささげる人々のために何かをしてあげなければならないと考えはじめるのも教会のみんなです。わたしたちは、ひとが神に祈っている言葉に常に耳を傾け、その人のために何か役に立つことができますようにと、自分自身でも祈り始めなければならないのです。祈りにはそういう次元があるのです。



たとえば、今、わたしたちは、オルガンと新しい印刷機が欲しいと願い、まもなく注文しようとしているところです。欲しいものは、他にもたくさんあります。しかし、わたしたちの願いがかなっていくのは、一つ一つです。



教会といっても、そこにいるのは、わたしたちです。限られた時間と空間の中に生きている人間です。わたしたちに一度にできることは限られています。体力の限界もあります。



先週の水曜礼拝でお話ししたことです。「神(かみ)を求めて、教会に来ると、もらえるものは紙(かみ)ばかり」。週報ボックスの中身は常に文書の山である。洪水のような紙が押し寄せてくる。これがわたしたちの現実である、と言いましたら、皆さんが笑いました。



神の御言葉を聴こうと思って教会に来ると、聴かされるのは牧師や長老のお話ばかり、というのも、わたしたちの現実です。それでがっかりした、と言われると、わたしたちががっかりします。



わたしたちが考えなければならないこと、取り組まなければならない仕事、解決しなければならない問題、欲しいものは、山ほどあります。全部を一度に考え、取り組み、解決し、手に入れることは、不可能です。



だからこそ、そこで矛盾や葛藤が起こります。みんなが自分の順番を待っています。「わたしの順番はまだか、早くしろ」と、不満がたまってきます。そして、そのような中で、あきらめてしまう人も出てくるのです。



しかし、どうか、そこであきらめないでほしい。「気を落とさずに」祈り続けてほしい。そのように、願います。



イエスさまが「人を人とも思わない裁判官」でもうるさく願えば言い分を聞いてくれるという(変な)たとえ話を持ち出しておられるのは、祈りには今わたしが申し上げたような次元がある、ということを知らせようとしておられるからではないかと思います。



(2006年4月2日、松戸小金原教会主日礼拝)