日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
1、主題の背景
「教会の生命としての礼拝」という表現は、日本キリスト改革派教会の創立二〇周年記念宣言(1966年)に由来するものです。
「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう」。
二〇周年宣言が書かれた当時のわが教派の精神状況としてしばしば語られてきたことは、創立期の熱心や力の衰退ないし低迷ムード、ということです。
二〇周年宣言は、創立宣言(1946年)において明示されたわが教派の二つの主張と称される「有神論的人生観・世界観の確立」と「信仰告白・教会政治・善き生活を具備する教会の形成」の中の前者、すなわち、広く政治・社会・文化等の“一般的”な領域においてキリスト者としての判断や行動をサポートすることを旨とする「有神論的人生観・世界観の確立」の点に関する行き詰まり感を打開するために書かれました。とりわけ、創立期のわたしたちと深い関係にあったキリスト教主義学校・双恵学園の廃校が及ぼした影響は大きかったと言われます。
そのため、二〇周年宣言の眼目は、日本キリスト改革派教会の“再建”というべき事柄にあったと言えます。そしてその課題に仕えるためにこの宣言が最も強調した点が「教会の生命としての礼拝」ということでした。
つまり、その意味は教会(・教派)再建の鍵は礼拝の(再)活性化にこそある、ということです。それがわれわれの先輩たちの共通認識だったのです。
2、礼拝改革か、説教改革か
しかし、です。「教会の生命としての礼拝」ということは、わたしたちにとって自明のことであるのか、と言いますと、必ずしもそうは言えないという現実があるかもしれないことを、わたしは危惧しております。
といいますのは、わたしたちがこれまでに出会い、立ち会って来たいくつかの教会の中には、まるでわたしたちから力を奪うために存在しているのではないかと感じて絶句せざるをえなかった「礼拝」もありました、という感想をしばしば耳にするからです。
その種の批判は、牧師である者にとっては決して他人事ではなく、聞くたびに胸をえぐられるような痛みを覚えるものですが、真摯に耳を傾けなければならないものだと、強く自分に言い聞かせています。
もちろん、その種の批判にもいろいろな面があると思います。最も多く聞こえて来、かつ最も衝撃的要素が強い(要するに耳が痛い)のは、「牧師の説教が聞くに堪えない」という声です。
改革派教会の礼拝の特色は、よくも悪しくも「説教礼拝」です。「聖書講義」であるとさえ言われます。わたし自身はこの特色をわたしたちがすっかり捨て去ってしまうならば、それと同時に、改革派教会らしさを失うに等しいと考えております。
しかし、ここでこそ確認しておきたいことは、説教だけが礼拝のすべてであるわけではない、ということです。
その日の説教で慰めを得られなかった人が、オルガンの音色や聖書朗読や讃美歌を歌うことや長老の祈りで、あるいは聖餐式や最後の祝祷で(辛うじて)慰めを得たという話を聞くことがあります。それはそれで説教を担当する者としては身も細る思いで聞く他はありませんが、他方では、そのような観点もありうるのだ、と自分自身に言い聞かせるべきなのでしょう。なぜなら、礼拝は説教だけで成り立っているものではないからです。また教会は牧師と礼拝だけで成り立っているわけではないからです。
しかしまた、今申し上げたことと同時に、紛れもない事実として、教会の中心は礼拝にあり、礼拝の中心は説教にある、ということも認めざるをえません。説教の中心はもちろん三位一体の神にあるわけですが、同時に、その神を啓示し、証しする聖書が説教における中心的な場を占めるわけですから、聖書の解釈を行う牧師もまた、ある意味で教会全体において中心的な位置づけを持ちうるということは、否定できないことです。
ですから、その点から言うなら、わたしたちの人生に真の活力と勇気とをもたらすために教会の礼拝を改革する、ということのために、最も手っ取り早い方法は、説教者である牧師自身の不断の自己改革である、という面を否定できません。現実の教会と礼拝の中で牧師の存在が占める割合は相当大きいものです。牧師がよく準備した説教(その準備には、教会員の状況をよく知る、ということが含まれます)を語りはじめるとき、礼拝改革の九割は完了している、と言い切ってもよいのではないかと思うほどなのです。
説教はとにかく簡潔なものにする(どんなに長くても30分以内)とか、「初めての来会者が耳で聞くだけで理解できる」平易な内容にするとか、難解で専門的な用語は控えるとか、親と共に出席している子どもたちにも配慮する、などなど。
「礼拝改革などは全く必要ない。牧師が自分の説教を改革しさえすれば、教会内部にうずまく問題や不満のほとんどは、解決するに違いない」という声を、わたし自身、知らずにいるわけではありません。
しかし、「どうぞ、牧師が自分で反省してください」、「はい反省します」と言えば、この発題は終わるでしょうか。繰り返しになりますが、教会は礼拝だけで立っているわけでなく、礼拝は牧師だけで立っているわけではないのです。無牧の期間のほうが、牧師がいるときよりも、はるかに成長する教会があるという(ぞっとする)話もあるくらいです。教会員あっての教会であり、出席者あっての礼拝である、という面が、今さらながら強調されて然るべきでしょう。
3、礼拝の構成要素の改革
ところで今日、皆さんにぜひお伺いしたいことは、皆さんは今の礼拝のあり方に満足しておられますでしょうか、ということです。改革すべき点は、ないでしょうか。
ただし、先ほどから申し上げていることの趣旨は、牧師と説教の問題はとりあえず外して考えていただきたいということです。今日お考えいただきたいのは、礼拝を構成する「説教」以外の要素に関することです。
礼拝の構成要素や並び順などを総称して、リタージと呼びます。儀式を意味するセレモニーと内容的に重なりますが、一応区別されます。わたしが問うているのは、松戸小金原教会のリタージは、満足できるものでしょうか、ということです。
現在のリタージは、以下のとおりです。
前奏
招きの言葉
◇罪と信仰の告白をしよう
讃詠
罪の告白と赦しの宣言
賛美
信仰告白 ハイデルベルク信仰問答
◇感謝と導きのための祈り
牧会祈祷
賛美
(洗礼式、転入式、加入式などはここに入る)
◇みことばの礼拝
聖書朗読
説教
賛美
(聖餐式はここに入る)
◇主の恵みに感謝しよう
献金
主の祈り
◇派遣します
頌栄
祝祷
報告
礼拝を改革する、ということがありうるとすれば、リタージの内容を変更する、ということに尽きると言ってよいでしょう。リタージの内容変更とは要するに、新しい要素を加えること、今あるいくつかの要素を取り除くこと、式文の言葉を変更すること、並び順を変えること、などです。
(1)新しい要素を加えること
松戸小金原教会の礼拝委員会において(現在の礼拝には無いもののうち)新しい要素として加えるべきではないだろうかと、しばしば話題に上るものとしては、「十戒」と「使徒信条」、またリタージの最後に位置する「派遣奏」と「整列退場」があります。さらに、これは礼拝全体の構造改革が必要になるものですが、短い「子ども向け説教」を通常の説教の前に置くということなども提案されつつあります。
「十戒」は、もし加えるとすれば、罪の告白と赦しの宣言よりも“前”に置かれるべきです。このわたしは十戒に示された神の戒めに背くばかりの罪深い者であることを告白しつつ、それに対する赦しの宣言を受けとるところから、礼拝が始まるべきだからです。
「使徒信条」は、もし加えるとすれば、現在のハイデルベルク信仰問答の代わりに置かれるべきです。しかしハイデルベルク信仰問答ないしウェストミンスター小教理問答などを礼拝の中で告白することは、他の教団・教派において類例があまり見られないという意味でわが教派の特色になっています。そのこともあって、わたし個人は現在の方式を変えたくはありません。
「派遣奏」は、もし加えるならば、現在礼拝の最後に行っている「報告」の位置づけや時間の長さに深く関係しはじめます。できれば、報告を祝祷の前に置き、できるだけ簡潔に終わらせる必要があるでしょう。そして祝祷の後、派遣奏に合わせて出席者全員が整列して会堂を“立ち去る”のです。礼拝後の交わりは一階の集会室で行います。
「子ども向け説教」は、果たして本当にそのようなものが必要かどうかは、議論の余地があります。通常の(大人向けの?)説教自体を、子どもたちにも分かるくらいに平易に語るほうがよいのではないか、という考えもありうるからです。
子どもたちは、わたしたちの礼拝の重要な出席者です。「あの子らに説教など分からなくていい」とか「聞かなくてもいい」という扱いをすべきではありません。しかしまた、ここには微妙な要素もあるでしょう。子どもたちに礼拝出席と説教を聴くことを義務づけるならば、日曜学校の礼拝の存在意義は何かという問いも生まれるでしょう。
ところが、現在生じている問題は、日曜学校に出席した子どもが(大人の)礼拝にも出席し、結局朝9時から12時まで、場合によっては夕方まで、今どきの多忙で多感な子どもたちの時間を教会が完全に拘束してしまっている、ということです。“文武両道”ならぬ“信仰と学問の両立”を子どもたちに求めるならば、日曜学校の礼拝か(大人の)礼拝かのどちらかで、解放してあげるべきです。
(2)いくつかの要素を取り除くこと
わたし自身は、現在の松戸小金原教会のリタージから取り除くほうがよいと感じている要素は、現時点では、ありません。
(3)式文の言葉を変更すること
式文の言葉を変更することについては、今すぐできそうなことと、教派全体の動きと合わせるべきこととがあります。現在、日本キリスト改革派教会の中で礼拝の式文や賛美歌に関する事柄を扱っているのは、大会憲法委員会第三分科会です。新しい式文やわたしたちの教派独自の賛美歌を作るために、日夜努力している委員会です。
現在の式文で少し気になっているのは「罪の告白と赦しの宣言」です。書かれていることは間違っていないと思いますし、「赦しの宣言」には、重厚な権威を感じるばかりです。しかしまた、あの文章には、どこかしら「わたし牧師が、みなさんの罪を赦してあげます」というように響いてしまう要素があるような気がしてなりません。
大会憲法委員会第三分科会は、現時点ではまだ、これと言った決定的な文案を提出するまでには至っていませんが、その前段階として、新しい式文の試案をいくつか作成しています。その中に「罪の告白と赦しの宣言」についての新しい文章もあります。全体の調子はやわらかくなっており、また「わたし牧師が」ではなく「イエス・キリストにおいて神が」わたしたちの罪を赦してくださるという点が、明確になってきています。そういうものを試用してみることも今後検討していきたいと願っております。
(4)並び順を変えること
リタージの並び順を変えることについては、慎重であるべきです。本質的な問題である場合は少なく、単に目先を変えることに過ぎない場合が多く、それでいて、結構大きな問題に発展しかねません。
日本のある教会で、献金を説教よりも前に行うように変更したところがあります。その理由は、献金の金額が説教の“評価”になってはならないということだそうです。しかし、この理由は、わたしたちにとって納得行くものでしょうか。
礼拝改革の方向は、あくまでも「教会の生命」の(再)活性化に益するかどうか、ということに集中すべきです。
目先を変えれば何とかなる、という甘い考えは持つべきでなく、必要な場合は根本的な治療を施すべきであり、そうでなければ様子を見るという姿勢も必要でしょう。
(2006年3月19日、2006年度第1回教会勉強会発題、『まきば』第310号掲載)