2006年4月9日日曜日

「十字架の上で救われた人―受難週―」

ルカによる福音書23・39~43



今日開いていただきました個所の登場人物は、三人です。まんなかにイエスさま、その右側と左側に一人ずついます。三人とも十字架の上です。絶望的な状況であると言うべきでしょう。



ところが、です。やや不謹慎であるとは思いますが、わたしは、この個所を読むたびに、面白いと感じます。三人が十字架の上で大いに語り合っています。もちろん状況は、ものすごく深刻なものですので、面白がっている場合ではないかもしれません。



しかし、どういうことでしょうか、おだやかで、なごやかな雰囲気に満ちている会話が交わされています。



たとえどんなに絶望的な状況であっても、イエスさまが共におられる時と場所においては、このような穏やかさ、和やかさが生まれるのです。そのように信じてよいのです。



イエスさまの隣の十字架にかけられていた二人のうちの一人が、イエスさまをあざ笑いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。



この言葉は、もちろん、この人自身が本当にそう考えたので、自分の考えどおりのことを言ったのであると理解することも可能でしょう。しかし、もう一つ考えられることは、この人が語っている言葉は、はじめから自分ひとりで考えた末に至った結論、というようなものではないかもしれない、ということです。



そのように考えることができる一つの根拠があります。それは、この人が言っているのとほとんど同じ言葉を、この直前に二回、しかも、それぞれ別の人々が言っていたということが、はっきりと記されているからです。



まず、ユダヤの最高法院の議員たちがイエスさまをあざ笑いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23・35)。



次に、ユダヤに駐留していたローマ帝国の兵隊もイエスさまをあざ笑いました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23・36)。



この文脈から明らかなことは、議員も言う、兵隊も言う、その言葉をおそらく他の多くの人々が聞いているわけですが、十字架にかけられたこの犯罪人も聞いていたに違いない、ということです。



そして、その言葉に、この犯罪人もまた深く共感している、という第一の可能性がある。あるいは、第二の可能性として、あの議員たちや兵隊たちが言っていることを、おうむがえし、受け売りしているようでもある、ということです。



他の人が言っているから、わたしも言いたくなった。他の人が言っているから、わたしも言ってもよい。この人はそのように考えた可能性があります。うんと批判的な言い方を許していただけば、この人には主体性がありません。自分の頭で深く物を考えていません。他人の意見や周りの雰囲気に流されやすい傾向がある、と言えるでしょう。



みんなと一緒になって、同じ言葉を、イエスさまに向かって吐き出す。



「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」



あなたって「救い主」なんでしょ。自分を救うこともできないのに、なんでそんなエラそうなことを言えるのですか。そのように、言いたいわけです。



ですから、この人がイエスさまに言いたいことは、本当に自分を救ってもらいたい、という意味ではおそらくなく、できないことを「できない」と認めなさい、と言いたいだけです。そのようにして、イエスさまの心に、なんとかしてダメージを与えたいだけです。



この人は、どうして、イエスさまに、できないことを「できない」と認めさせたいのでしょうか。それは、おそらく、彼自身がいろんなことに敗北してきた人だったからです。自分に負け、人生に負け、世間に負けたのです。



ところが、です。このわたしの目の前に、自分はすでに十字架の上に張りつけにされているにもかかわらず、この期に及んでも、何一つあきらめてないように見える人がいる。そのことが、許せなかったのです。



議員たちについても、兵士たちについても、同じことが言えるように思います。彼らは、イエスさまを「自分を救ってみろ」という言葉であざ笑いました。もちろん、自分を救うことはお前にはできないだろう、という意味です。十字架上のイエスさまの無力さを笑うためです。そして彼らも、イエスさまの口から一種の敗北宣言を聞きたかったのです。



彼らはなぜ、そのような言葉を聞きたいのか。彼らもまた、いろんなことに敗れてきた人々だったからでしょう。プライドだけは高いのですが、彼らには、人を助けることも、救うこともできなかったのです。



ところが、彼らの前に、十字架の上にあっても、何一つあきらめていないように見える存在が現われた。この人は敗れていない。そのことが許せなかったのです。



ところが、です。イエスさまの隣に十字架につけられていた二人の人の内のもう一方の人は明らかに違いました。この人も、犯罪人として十字架に架けられた人ではあります。しかし、この人は、十字架の上で自分の犯した罪を思い起こし、深く悔い改め、反省し、そしてその上でイエスさまを信じる信仰へと導かれ、自分が救われることを心から願ったのです。



もう一人の人との決定的な違いがある、と言えるでしょう。



「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」



ここに書いていることで明らかなことは、この人は今、自分が十字架にかけられていることは、「自分のやったことの当然の報い」であるという自覚があった、ということです。死罪に当たる罪を犯した、という自覚が、この人にはありました。



自分の罪を認め、反省すれば、その人の罪は、すっかり無くなってしまうのかというと、おそらくそうではありません。被害を受けた人の心や体の傷、あるいは生活上の損害は、永久に残り続けるものです。



しかし、です。「牧師さん、それは甘いよ」と言われてしまうかもしれませんが、しかし、です。いろいろなケースを考えてみても、犯罪の被害にあった人々や、その家族の人々にとって、加害者に対して最も強く求めることは、何よりも自分の罪を認めて反省することです。それだけであると言ってもよいほどです。



賠償請求とかなんとかも、お金が欲しいわけではないと考えている人が多いのです。加害者に求めることは、ただひたすら、自分の罪を認め、反省すること、ただそれだけである。そのように、多くの人は、願うのです。



イエスさまの隣にいたもう一人の犯罪人は、「自分の罪を認め、反省していた」という点については、クリアしていた、ということを、わたしたちは、今日の個所から、確認することができるでしょう。



そして、もう一つの点として、この人は「自分の罪を認め、反省した」上で、イエス・キリストを信じる信仰へと導かれたということを、確認することができます。



第一に、この人は、イエス・キリストは「何も悪いことをしていない」ゆえに、十字架にかけられるべきではないお方である、ということを、はっきりと明言しました。



そのことを、この人は、いわば十字架の上に至って、自分の死の直前になって、初めて認識したのです。もちろん、この人を「世界で最初のキリスト者」と呼ぶのは言いすぎだと思います。しかし、この人は、十字架の下にいるだれ一人として認めなかった「イエスさまは無罪である」という事実を、最初に認め、公に告白したのです。



「この方は、何も悪いことをしていない」と、彼は言いました。「悪いこと」とは、もう少し原文に即して言い直しますと、「不適切なこと」とか「見苦しいこと」とか「無作法なこと」というようになります。それは「罪」よりも広い意味です。



「罪」とは、第一義的には、法を破ることです。しかし、法を破るまでには至っていないが、きわめて不適切なこと、というのが存在します。それは罪よりも広い意味です。



ですから、ここで彼が言っていることも、イエスさまは、「罪」を犯されなかったというばかりか、もっと広い意味での「不適切なこと」さえも、なさらなかった、という意味で、理解してよいだろうと思われます。



第二に、この人は、十字架の上で、イエスさまに対し、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。



謙遜な願いである、と言ってよいでしょう。この願いには、少なくとも次の二つの意味が込められていると思います。



一つは、イエスさま、あなたは神の国においでになる、という確信です。



そして、もう一つは、わたし自身はあまりにも罪深いので神の国に入ることはできそうもない。しかし、そんなわたしでも、イエスさまに覚えていただくだけで満足である、ということでしょう。



わたしたちが、自分は間違いなく天国に入ることができます、という確信を持つことが間違っているわけではありません。わたしは、そのことをはっきりと申し上げておきます。わたしたちが、そのことについて、どうして確信を持ってはいけないのでしょうか。



このようにわたしが申し上げることには、一つの理由があります。わたしがこれまでの牧師生活の中で出会ってきた人々の中に、「わたしは天国に入ることができますという確信を持つことは傲慢である」という考えを持っている人々がいたからです。



わたしは、それは間違いであると考えております。天国の確信を持つことは、間違いではありません。わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのですから、信仰を持っているすべての人々には、天国に入れていただけることについての確信を持つことが許されています。



確信を持つことが許されているのに、持たないこと、持とうとしないことのほうが、間違いなのです。



しかし、です。「わたしを思い出してください」としか語ることができなかったこの人の気持ちも、まさに痛いほど分かります。



この人は、イエスさまの前で自分の罪を悔い改め、かつ反省し、自分の犯した罪の重さを知れば知るほど、「イエスさま、わたしを天国に連れて行ってください」と語ることは、できなかったのです。わたしには、その資格がないと、心底感じられたのです。



悔い改めとは、ひょっとしたら、そのようなものかもしれません。つまり、それは、「自分は天国にふさわしくない人間であると自覚すること」です。



これは、先ほど申し上げた「わたしは天国に行くことができると確信すること」とは、矛盾するかもしれません。しかし、この矛盾を同時に語ることが、信仰の奥義というべきものではないかと思います。



「すると、イエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」



このイエスさまの御言葉は、十字架の上で、真の救い主イエス・キリストとの出会いを果たし、自分の罪を悔い改め、反省した人にとって十分な慰めになったに違いありません。



「楽園」とは、天国のことであり、神の国のことです。そこには、イエス・キリストがおられます。イエスさまが共にいてくださる。そこが天国であり、神の国であり、楽園なのです。



十字架の上で悔い改めて救われた人がいる。この事実がわたしたちに教えていることは、わたしたちの信仰と悔い改めに「遅い」ということはない、ということです。



今、ここで、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる人は、救われるのです!



(2006年4月9日、松戸小金原教会主日礼拝)