2006年4月23日日曜日

今持っているものを固く守れ


ヨハネの黙示録2・18~29

ティアティラ教会に書き送られたイエス・キリストの手紙にも、他の教会と同じように、ほめられるべき点と、責められるべき点との両方が、書かれています。

「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。」

これは、ほめられるべき点です。とくに注目したいのは、後半部分に書かれていることです。

「行い」とは、聖書の御言葉とキリスト教信仰とに基づく、キリスト教的な行いです。これが、最初のころよりも、近ごろのほうがまさっている、と言われているのですから、時間の流れの中で、変化があり、進歩があり、成長がある、ということです。

そういうことがある、ということを、わたしたちは否定すべきではありません。教会に何十年通いました。信仰生活を何十年続けてきました。そういう場合に、わたしたちは、行いの面でも、なんらかの変化があり、進歩があり、成長もあると、信じることができるのです。

とはいえ、しかし、そのことがわたしたちに起こるのは、自動的なことであるのか、というと、そういうふうには言えません。教会に何十年も通い、信仰生活を何十年も続ける、ということの中で、わたしたちが体験することは、教会の中には必ずある「訓練」という要素です。

礼拝に出席するということだけでも、そこには必ず、訓練という要素があります。洗礼を受けたばかり、まだ数年しか経っていないという人にとって、礼拝は、一回一回が新鮮な感動に満ちあふれているものかもしれません。

ところが、それがだんだんマンネリ化してくる。退屈に思えてくる。だからこそ、マンネリ化との戦いというテーマが、わたしたちの信仰生活にとっての重要な課題にもなってくるわけです。

40年、50年の信仰生活を送ってきた人は、一体、何回の礼拝、何回の説教を聴いてきたのでしょうか。1年に52回の日曜日があるとして、それをたとえば50年間続けるとどうなるか。52回×50年=2600回の礼拝が行われ、その回数だけの説教を、聴いてきたことになるでしょう。

また、教会の中には、牧師・説教者がしょっちゅう替わる教会もあれば、40年とか50年間という長さで、たった一人の牧師が、そこで説教をしてきたという教会もあります。みなさんは、一人の牧師の説教を2600回聴くことができますでしょうか。とても耐えられないと思う方も多いのではないでしょうか。もしかしたら、そのようなひどい目に遭うのは、その牧師のおくさんかもしれません。

そう考えますと、いわばただ礼拝に出席するだけで、他の特別な奉仕は何もしていない、という人であっても、50年くらい礼拝生活を続けてくること自体において、十分な訓練を受けてきたことになるし、うんざりするほどの過酷な修行を積んできたことになるのです。

説教を聴くことを軽んじるなかれ。人の話を聴く訓練は、実際に体験したことがある人なら誰でも、それがとても大変なものであるということを理解していただけるでしょう。

そしてそのような教会的な訓練の中で、わたしたちの行いが変化し、進歩し、成長するということが、必ず起こる、と信じてよいのです。しかしまた、そのわたしたちの変化が起こるのは、いわば教会で「訓練」を受けたからである、ということも事実として認めるべきでしょう。

「わたしは、教会で洗礼を受けました。しかし、それ以降はほとんど教会には通っていませんし、礼拝にも出席していません。説教も聴いていないし、聖書も学んだことがありません」という人であっても、「洗礼を受けている」だけで、行いの変化が起こるだろうか。そのような「自動的な変化」が起こるかどうか。全くありえないとは言えないかもしれませんが、非常に難しいことであると語ることは許されるだろうと思います。

わたしが強調したいことは、わたしたちが信仰的に成長していくためには、教会の活動に参加することが必要である、ということだけです。場合によっては、長老や執事、日曜学校の教師といった責任ある立場に就くことも、わたしたちが信仰的に飛躍的に成長していくために、必要な道であるとも言えるでしょう。

ティアティラ教会に所属している人々にも、行いの成長ということが、実際に起こった。このことは、ほめられるべき点です。

ところが、です。ティアティラ教会には、責められるべき点もあった、ということが、次に記されています。

「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。」

このイゼベルという女性が何者なのか、ということについては、ここに書かれていることしか分かりません。自称「預言者」であり、みだらな行いや偶像礼拝を自ら行い、また教会員たちにも勧める。教会員を惑わし、ごまかし、ペテンにかける。

そういう人の存在を、ティアティラ教会の人々は「大目に見ている」。これが、責められるべき点です。

「大目に見る」とは、見て見ぬ振りをすること、あるいは、それが発覚しても、お咎めなしとする、ということでしょう。

もちろん、そんなことが頻繁にあってはならないことですが、わたしたち日本キリスト改革派教会の場合は、たとえば、教師や長老、あるいは教会員の中に、みだらな行いをしているということが明確になった場合には「戒規」という訓練を受けていただくことになります。そのことを皆さんは、よくご存じです。

とはいえ、もちろん、そこに「大目に見る」ということが全くないかというと、そんなことはありえません。わたしたちは、可能な限り大目に見るのです。こんなに許してよいのかと思うくらいに、あほじゃないのかと批判されるくらいに、どこまでも許し続けるのです。

しかし、です。そこには限度があることも知るべきです。ただし、それはわたしたちの堪忍袋の緒が切れる、ということではありません。戒規の目的は、その人が不適切な行為、みだらな行いを続けるのをやめさせること、そして自分の罪を認めさせ、悔い改めさせることにあるのです。

大目に見ることに限度がある、というのは、わたしたちの忍耐と寛容に限度がある、という意味ではありません。その人が自ら行うみだらな行いによって、自分自身の身に裁きと滅びを招いている、ということを知らしめることが、わたしたちの責任であるゆえに、いつか必ずその人に向かって、主の御言葉に基づく罪の宣告を語らざるをえない、という意味です。

「見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい目に遭わせよう。」

ここで、わたしたちがつい、裁きの内容の激しさに目を奪われて、読み落としてしまいがちなのは、「その行いを悔い改めないなら」という条件です。これは執行猶予つきの裁きです。

神は、とことんまで、忍耐と寛容を示してくださいます。わたしたち人間が悔い改めるのを待っていてくださいます。罪を犯したものを打ち殺すという、ただこの面だけを見てはならないのです。

そしてまた、わたしたちにとって大切なことは、そのような、みだらな行いを勧めたり、偶像礼拝のようなことを教えたりする偽預言者、偽教師のような人の後について行ってはならない、ということです。

同じ罪と言っても、「教師」を名乗る人が犯す罪と、そうでない人が犯す罪とでは、重さが違います。教師の犯す罪のほうが重いのです。

それはまた、「教師」を自称しているだけで中身は偽物である、という人であっても、その人の語る言葉や行いが持っている影響力は、大きいのです。だからこそ、その人の言葉や行いが犯す罪は、大きいのです。

もちろん実際には、「教師」を名乗る人の語る言葉や行いに、教師でない人々が逆らうことには、勇気が必要ですし、困難が伴います。

しかし、もしそれが必要なときには、わたしたちは、その勇気を持たなければならないのです。

「ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」

この「今持っているもの」とは、正しいキリスト教信仰のことであり、また正しい信仰に基づく正しい行いのことです。

それを守ることが大切です。保守的であることのすべてが、恥ずかしいことではありません。

信仰生活のマンネリ化は、改善されていくべきですが、目新しいが間違っているというような教えに走ってよいわけではありません。目新しさや斬新さには、同時に危険が伴うことも事実です。

わたしたちは、惑わされてはならないのです。

(2006年4月23日、松戸小金原教会主日夕拝)