2006年4月16日日曜日

信仰は試練によって本物と証明される


ペトロの手紙一1・3~9

イースターおめでとうございます。今日は、わたしたちの救い主、イエス・キリストが死者の中から復活されたことを記念する、復活日の礼拝です。

わたしたちキリスト教の教会、全世界の教会は、二千年の間、イエス・キリストの復活を信じてきました。これがわたしたちの信仰であり、希望です。

使徒パウロは、もしキリストが復活しなかったのだとしたら、わたしたちキリスト教の教会が宣べ伝えていることは無駄であるし、キリスト教の信仰も無駄であると、はっきり言っています(一コリント15・14)。

要するに、教会などやめちゃったほうがいいし、毎週日曜日の礼拝に通う必要はない。牧師や教会役員(長老・執事)の存在も、教会の建物も無意味である。パウロの言おうとしていることは、これくらい激しいことです。

もちろん、それは、もしイエスさまが、キリストが復活しなかったとしたら、という話です。しかし、パウロが本当に言いたいのは、正反対のことです。

イエス・キリストは復活されたのです。これは本当のことなのです。そのことを、声を大にして言いたい。命をかけて言いたい。実際にパウロは、このイエス・キリストの復活を宣べ伝えることのために命をかけ、まさにそのために命を捨てた人です。

先ほどお読みしましたのは、使徒ペトロの手紙です。ペトロもまた、イエス・キリストの復活を、心から信じ、声を大にして宣べ伝えた人の一人です。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」

ここでペトロは、わたしたちの主イエス・キリストの父である神」が「死者の中からのイエス・キリストの復活」によって、わたしたちに、「生き生きとした希望」を与えてくださった、と書いています。

もう少し短く言えば、神がイエス・キリストの復活によってわたしたちに希望を与えてくださった、ということです。つまり、イエス・キリストの復活は、わたしたちの希望である、ということです。キリストの復活は希望である、ということです。

なぜ、キリストの復活が希望なのでしょうか。少し説明が必要かもしれません。イエスさまというお方は、イエスさまに反対する人々の手によって殺されたのです。そのあたりから話を始めなくてはなりません。

今でもそういう人はたくさんいますが、イエスさまの時代にも、自分に都合の悪いことを言ったりしたりする相手がいると、簡単に殺す人がいます。「死人に口なし」と言います。要するに、自分にとって都合が悪いことを言う人を殺して口封じをするのです。「臭いものに蓋」は、少し意味が違うかもしれません。しかし、ひとの口に蓋をしようとする人が、世の中には、たくさんいるのです。

しかし、これは他人事でしょうか。わたしたちも、同じようなことを考えることはないでしょうか。わたしの心の中には罪があります。また、人の目に見えないところで、実際に悪いことをしてしまうことがあるのです。

しかしまた、少し言い訳がましい言葉になるかもしれませんが、わたしたちが心の中で他人に対して悪意や殺意を抱くことと、たとえば、影響力の大きな人々、たとえば一国の王とか大統領とか総理大臣とかその他の政治家とか、学校の教師とか、大きな会社の社長とか、あるいは大きな宗教団体の宗教家とかが考えるのとで、全く同じとは言えないのではないか、という点は、考慮しなければならないはずです。

自分の都合の悪いことを言ったりしたりする人を、殺したいとか死んでほしいと願う。このことを、たとえば、一国の王が願い、自由自在に実際にその相手を殺すことができる時代。格好をつけるつもりはありませんが、わたし自身は、その種の権力を手に入れたいと願う人の気持ちが、全く理解できません。

権力を持っている人、そのような立場に就いている人には、他の人々よりも大きな責任があるのです。その人々の抱く悪意や殺意は、その国全体、ひいてはその時代全体を暗くします。イエスさまが十字架に架けられて殺された時代とは、まさにそのような暗い時代、悪い時代だったのです。

しかし、使徒ペトロは、イエス・キリストの復活はわたしたちの希望である、と語っています。ペトロの時代は、イエスさまと同じ時代です。暗い時代であり、悪い時代です。その中でペトロは、「生き生きとした希望」を語ります。希望など、どこにもない。ただ絶望するほかないような時代の只中で、イエス・キリストの復活を信じる信仰に基づく希望を語っているのです。

なぜキリストの復活が希望なのか、という問いに対する答えは、まだ申し上げておりません。答えはこれからです。考えていただきたい問題は、死人に口なし、臭いものには蓋、面倒な奴は殺してしまえ、このようなことが横行していた時代に、イエスさまが死者の中から復活された、ということは、何を意味するのか、ということです。

ごく分かりやすく言います。イエスさまの復活によって明らかになったことは、イエスさまの父なる神さまというお方は、だれか人間が口封じしようとした相手の口をお開きになるお方であり、「臭いものが入っているから」という理由で、だれかがふさいだ蓋を取り去られるお方である、ということです。

別の言い方をすれば、権力や暴力によってイエス・キリストの口を封じること、イエス・キリストがお語りになる神の御言葉を封じることはだれにもできなかったということです。

これは、わたしたちにとって喜ぶべきことであると、思っていただきたいところです。ごく一般的なところから言えば、言論の自由、表現の自由、結社の自由、そして信教の自由などに通じる事柄でもあります。

もちろん、イエス・キリストの復活によって明らかになったことは、そのような、いわゆる基本的人権の問題だけに限られるものではありません。いわばもっと広いこと、もっと大きなことです。

何を信じてもよいという自由が保障されているということも大事です。しかし、もっと大事なことは、真実とは何かという問いを抱くこと、そしてその問いに答えが与えられることです。イエス・キリストがお語りになったのは、父なる神の御心であり、まさに真実の言葉です。

その言葉をイエスさまがお語りになることを、だれにも止めることができませんでした。口封じなどできませんでした。十字架に架けて殺しても、三日目に蘇って、御言葉を語り続ける、それがイエス・キリストというお方なのです。

イエス・キリストは復活して、今は天の父なる神さまのもとにおられ、二千年前の人々に神の御言葉をお語りになったように、今のわたしたちに対しても、聖霊なる神の働きを通して、聖書と教会を通して、生きた御言葉を、語り続けておられます。

わたしたちは、教会で、聖書を通して、過去の歴史の記録を勉強しているだけではありません。教会の礼拝は、世界史の授業ではありません。

わたしたちがしていることは、今生きておられるイエス・キリストの御言葉を、聖書を通して、わたしたち一人一人の心の中で聴きとることです。イエスさまの御心を悟り、わたしたちが今の時代を、現実の世界を、日常の生活を、どのように生きるべきかを考え、決定することです。

ですから、逆に言えば、使徒パウロが語った、もしキリストが復活しなかったとしたら、教会の宣教も信仰も無駄です、という言葉は、とても乱暴ではあると思いますが、しかし、なるほど正しいと言いうるものであることが分かります。

イエスさまが二千年前に復活され、今も生きておられるからこそ、わたしたちは、教会や礼拝には意味があると信じることができるし、また、わたしたちが信じているこの信仰には意味がある、と確信することができるのです。

わたしたちにとって「生き生きとした希望」とは、まさに、イエス・キリストが今、生きた言葉をわたしたちに語ってくださるという信仰から生まれるものなのです。

「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

今日の説教の題名は、今お読みしました個所の中の「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明される」という御言葉から、採らせていただきました。

「試練」とは、日本語としても、宗教的な意味合いが強いようです。広辞苑には「信仰または決心のかたさをこころみためすこと。また、そのための苦難」と定義されています。

ですから、試練を受けるとは、信仰が試されることです。このわたしの信仰は、本物であるかどうかが、そこでまさに試されるのです。試験を受けるわけです。そしてその試験の結果として、このわたしの信仰の確かさ、正しさが、まさに証明される。「あなたの信仰は本物です」という保証書、神さまからのお墨付きをいただくことができるのです。

苦しみや悩みがあると信じることをやめる。その信仰は本物でしょうか。それは本物ではない、偽物であると、すぐに言い切ってしまうことは、やめましょう。

苦しみや悩みがあるとき、つらいときは、本当につらいのです。今、現実の苦しみに押しつぶされそうになり、信仰を失いかけている人に向かって、「あなたには信仰が足りない」とか「あなたの信仰は偽物だ」と言い放つことによって、つらい人の心をさらに傷つけ、追い討ちをかけるようなことは、やめましょう。

しかし、です。全くの愚問かもしれませんが、どうか腹を立てずに聴いていただきたいと願うことがあります。

それは、わたしたちに現実の苦しみや悩みがあるときに、同時に信じることもやめてしまうならば、果たして、その先、わたしたちは、みなさんは、どうやって生きていくのでしょうか、という問いです。

だれかが助けてくれるでしょうか。神さまとか宗教は信じない。わたしは人間を信じる。お母さんやお父さんを信じる。隣のおばちゃんを信じる。テレビの司会者を信じる。有名な人が書いた本を信じる。それで十分に間に合っていますというのでしたら、それはそれで、わたしは尊重します。

しかし、その上であえて問いたいことは、その人々は本当にわたしたちを最後まで助けてくれるでしょうか、ということです。

わたしたちの救い主なる神イエス・キリストを信じることは、少なくともわたし自身にとっては、苦しみや悩みがあるから信じない、ということとは、逆の道筋、正反対の方向性においてしか、とらえることができないものです。

苦しいから信じるのです。もちろん、苦しくなくたって信じてよいわけですが。しかし、わたしたちは、悩みがあるから信じるのです。苦しいときの神頼みで、大いに結構です。

これで神さまが助けてくださらなかったら本当の絶望です。イエス・キリストが復活されなかったとしたら、絶望です。

これは、格好をつけているのでも何でもない、わたしたちにとって、本当の真実の言葉です。

(2006年4月16日、松戸小金原教会主日礼拝)