2006年4月6日木曜日

ユダは自分の福音書の中では「裏切り者」ではない

以下は、本日わたしのもとにオランダから配信されたメールニュース(2006年4月6日付)の記事の拙訳です。「ユダによる福音書」公開のニュースです。



情報源はオランダでは伝統ある改革派系のキリスト教新聞Trouwのメールニュースです。Trouwは、かつてはG. C. ベルカウワーなどの連載記事を売りにしていたこともあります。以下の記事は、ウェブ上でも公開されています。
http://www.trouw.nl/deverdieping/religie_filosofie/article273317.ece/



2006年4月6日(木) Trouw掲載記事



ユダは自分の福音書の中では「裏切り者」ではない



ローデヴェイク・ドロス 文/関口 康 訳



太古に書かれた『ユダによる福音書』は、聖書に記されているような裏切り者とは異なるユダの姿を描いている。さらにこの文書は、最初期のキリスト教会の様子を紹介している。



本日(2006年4月6日)、米国ワシントンにて『ユダによる福音書』が初公開される。研究者ハンス・ファン・オールト(Hans van Oort)氏は、この発見の偉大な意義について、本紙インタビューの中で初めて口を開いた。ファン・オールト氏は、ネイメーヘン〔カトリック〕大学の教父ならびにグノーシス主義研究室の教授である。同氏は、このテキストを研究してきた少数者の中の一人である。



ファン・オールト氏によると、新約聖書では「イエスを裏切った人物」であるこの弟子は、ユダによる福音書では「イエスを最もよく理解していた人物」として登場する。ユダは、自分の福音書の中では、他の使徒たちよりも優れた者であり、まさに「スター」として登場する。



コプト語写本は1700年前に書かれたものであるが、それはさらに紀元180年以前に書かれたに違いないギリシア語原典にさかのぼる。当時 『ユダによる福音書』は教父エイレナイオスによって論駁された。その文書が1970年代に発見され、中央エジプトに譲渡されたが、長い間、非公開とされてきた。昨年、この文書を復元し、翻訳するためにスイス人が立ち上げた財団法人〔マエケナス財団〕が、この文書を購入した。その成果が、本日発表される運びになった。



ファン・オールト氏によると、『ユダによる福音書』はグノーシス主義のテキストである。グノーシス主義とは正統派のキリスト教会との戦いに敗北した古代キリスト教の一潮流である。グノーシスとは「直観的認識」のことであり、それによって信者を救う洞察を得ることである。この文書は、グノーシス主義についての知識を(ニューエイジの思想家たちに)提供するだけではなく、最初期のキリスト教会の様子を物語るものである。原始キリスト教会は、改宗したユダヤ人たちによって構成されていた。



「ユダ写本(Judas-codex)の発見の歴史はダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』よりも素晴らしい。なぜなら、これは正真正銘の事実(echt gebeurd)だからである」と教授は語る。ファン・オールト氏によると、この写本の発見から30年が経過し、公開を妨害してきた人々のおそらく半分は、いなくなった。公開を妨害してきた人々とは、「〔公開するならば〕殺すぞと脅迫する者、密輸業者、写本のすべてあるいは一部を強奪しようとする者、パピルスを単に倉庫にしまっているだけの売買業者」などのことである。ファン・オールト氏は、失われたテキストが将来、さらに発見されることを期待している。



(拙訳者コメント)



当然のことながら、わたしたちは聖書学や教父学、さらにグノーシス主義研究にも関心を持つべきです。それらの研究に関心を持つからと言って、教義学を捨てることや、グノーシス主義者になることを、ただちに意味するわけではありません。



ファン・ルーラーは、第一義的には「改革派教義学者」でしたが、ユトレヒト大学では旧約聖書学の講義を担当したこともあり、その成果である『キリスト教会と旧約聖書』は、自らドイツ語で執筆したものですが、国際的に非常に高い評価を得ることができ、英語版まで出版されました。ファン・ルーラーのヘブライ語やギリシア語の知識は抜群でした。教義学を志す人々に聖書学を避けて通る道はありません。



また、ファン・ルーラーの「グノーシス主義批判」はわれわれの中では周知の事柄ですが、逆に言えば、「グノーシス主義」とは何かを徹底的に知らなければ、ファン・ルーラーが何を批判しようとしていたかが分からないということにもなります。その意味で「グノーシス主義研究」は、わたしたちファン・ルーラー研究者にとっての不可避的課題と言えるかもしれません。



それに何よりも、原始キリスト教会には新約聖書に収められている四つの福音書以外にもたくさんの「福音書」が存在したというのは今や常識であり、別にどうってこともない話です。『トマスによる福音書』であれ、『ユダによる福音書』であれ、『ダ・ヴィンチ・コード』であれ、笑いながら読めばいいし、読まなくてもよい。ただそれだけのことです。ミイラ取りがミイラには、なりません。



なお、本日の『ユダによる福音書』の公開に関しては、以下の記事があるようです。
http://cjcskj.exblog.jp/3073105/